円谷1年目の夏

結局円谷は舌先三寸で教授を煙に巻き、卒業論文と殆ど変らぬ修士論文を提出したにも拘らず卒業の権利を得た。


「コピーアンドペースト機能って便利」


論文を一瞥して水瀬が放った皮肉は円谷に深々と刺さっていたが、博士を目指す彼女と違い、円谷は就職する身である。大学院の側としても中途で出ていく彼に係っている暇はないと見え、発表の場でもさして突っ込まれることはないまま無事に春を迎えることが出来たのである。


加賀見はお祝いと称して再び酒と牛肉を持ち込んだ。テレビで流れる青鞜派党首交代のニュースを見ながら、翌年から円谷も払うことになる独身税を扱き下ろした。二人はひたすらに酔っ払って床に倒れ込むようにして眠った。翌朝円谷が目覚めると加賀見は既におらず、ゴミはきちんと袋詰めされて、円谷が飲み干したビールの缶は跡形もなく消えていた。


4月になり、円谷も晴れて社会人となった。勤め先の文具メーカーは隣の市にあったが6年間も住んでいるアパートを引き払う気にもなれず、多少遠いもののそこから通勤することにした。研修期間を終えてみると大学の研究室にいた頃と然程変わらない生活が待っていた。変わった点と言えば、多少自由になるお金が手に入ったことである。


円谷の趣味らしい趣味と言えば先の懐古趣味位のもので、週末になると町はずれにある骨董屋に足繁く通った。この頃の円谷の流行はテープレコーダーで、特にオープンリールのテープデッキが先の骨董屋に売られているのを発見した円谷は、金を借りてこれを購入するか真剣に悩み抜いた。しかし、貯金なんてないよ、という加賀見の無慈悲な一声によって頓挫した。しばらくしてこのテープデッキには売約済みの札が張られるようになり、円谷は酷くがっかりしたのだった。


円谷は院卒にしては低めの初任給で両親と食事に行き、余ったお金で前から欲しいと思っていた某飲料メーカーのレトロなポスターを購入した。ずいぶんと赤い唇をした女がジョッキを片手に微笑む写真の下に「ルービは夏」と書いてあるが、これがそれ程前の物なのか、復刻版として作成されたものなのかはよく分からなかった。それを部屋の入口に貼ると心なしか部屋が明るくなったような気がした。


会社の研修期間も終わり、夏を迎える頃に加賀見が流しそうめんをやろうと言い出した。せっかくなので夏らしいことをせねばなるまいと考えていた円谷は、珍しく一も二もなく賛成した。竹の用意は任せてくれと言う加賀見に対し、円谷はそうめんと薬味を用意するにとどまった。


いったい加賀見はどこから竹を調達するつもりなのだろうか。円谷は前日に買い出しに行きながらふと思った。然程長い付き合いでもないが、加賀見が妙なものを用意したり妙な人脈を持っていたりすることは幾度となくあったので気になってはいたのだが、聞くこともなくここまできてしまっていた。明日聞いてみようと考え、「揖保の糸」を大量に購入した。


当日の昼下がり、加賀見は竹をはみ出させた軽トラックに乗ってアパートの前に現れた。大家にアパートの庭を借りることは宣言しておいたので問題はないのだが、その助手席から現れたのはあろうことか水瀬であった。狼狽した円谷は荷物の運び出しと称して加賀見を部屋に呼びつけ、水瀬には少しだけ待ってもらうよう声をかけた。軽トラックから降り立った水瀬は、涼しげな白色のショートスリーブのシャツに濃紺の七分丈のデニムを纏い、お茶を口に含んでいた。


「ここまで馬鹿だと思っていなかったぞ、どういうつもりだ。」

「流しそうめんを二人でやるつもりだったとしたら馬鹿ではきかないよ。一人が流して一人が食べるなんて何にも楽しくないじゃない。」


のうのうと言い訳を並べる加賀見は心底楽しそうな顔をしていた。


「そもそもお前は水瀬が嫌いじゃなかったのか、というかどうやって誘った?」

「嫌いだなんていってないじゃないか、お高く留まっていると言っただけでしょ?」


そうだったかな、と一瞬思案に暮れる円谷に対して加賀見は付け加える。


「誘い方は教えられないなぁ、そういうのは自分で見つけるのが楽しいらしいじゃないか。でもそんなこと言っても円谷も不満て訳じゃないだろ?びっくりしただけだ。僕からのささやかなお中元ってことでここは一つ」


その中元は絶対返してやらん。円谷は固く誓ったが、加賀見の言う通り不満と言う訳でもないので言い返す言葉もなく、仕方がないのでそうめんを作る準備を始めた。といっても湯を沸かして具材を切るだけだ。加賀見は鼻歌を歌いつつ庭に出て行った。しばらくすると、竹がコンクリートの地面を打つ間の抜けた音と水瀬の笑い声が響いた。


固めに茹でたそうめんと具材をボウルに入れて持っていくと、加賀見は構築済みの流しそうめんシステムを庭に据え終え、円谷の部屋にあったゼンマイ駆動のミニカーを竹の上で走らせようと苦心しているところであった。先ほど部屋に呼びつけられたときにくすねていったらしい。円谷がそれをひったくると軽トラックの陰で涼んでいた水瀬が立ちあがり、扇子で日差しを遮りながら二人の方へ歩いてきた。


「今日はお招きいただいて光栄の至りだわ、円谷君。変わりなさそうで安心。」

「水瀬もな、研究は進んだのか?」


当然、と答える水瀬は円谷の持つボウルに浮かぶ物を見ると怪訝な顔をして研究室の元同僚を真っ直ぐに見た。それは彼女が人に疑問をぶつける時の癖でもあった。円谷はその射る様な視線を逃れて行き場を探し、加賀見を見遣ると、にやにや笑うばかりで助け船はまだ出さないぞと言う顔をしていた。


「そのプラスチックケースのようなものはなに?」

「ガチャガチャって知ってるか、お金を通すと景品が当たる抽選器のようなモノなんだけどな。それのケース。」

「見たことあると思ったらそれかぁ、僕はてっきり洒落た氷かと。」


加賀見がやっと口を挟んできたのを好機に、円谷はその方面を向いて説明を継続した。強い日差しの中で水瀬の肌は白く発光しているようであった。円谷の額を汗が伝う。


「薬味を各自で保持しておくのもいいが、せっかくだから流すのもよかろうと思って色んな薬味をケース詰めしたってわけだ。葱や茗荷、錦糸卵のような王道から変わり種まで入れてみた。」


前日にふと思いついたカラクリを、加賀見に披露するのは良かったが3人目の参加者は想定外だったので不安になって水瀬の方を見た。一応煮沸消毒はしてある、と言い訳のように付け足して反応を伺うと、意外にも好評価だったらしく円谷はほっと胸を撫でおろした。


「遊び心があっていいね。」

「おもしろい試みだと思うわ。発想はいつも素晴らしいのにね」

「とった人は必ずそれを食べるルールにしよう。」


気を良くした円谷は早速竹の上流に向かった。二人は組み立て椅子に腰かけて器に氷とつゆを注いだ。ホースに水を通していざ流そうとしたところ、一番に手に取ったカプセルにはとろろとオクラが入っていた。


「準備できたよいつでも来―い!」


加賀見の声に合わせ、こーい、と口の形だけで伝える水瀬の唇は薄く横に広がって笑顔をかたどる格好になった。その蠱惑に抗いながら円谷は言った。


「水瀬、ねばねばしたもの大丈夫か?」


水瀬が答える前に、加賀見がネタバレ禁止!と叫んだ。


水瀬は少し食べてから円谷と供給役を交代した。それまで流れてくるそうめんの8割を上流に構えて乱獲していた加賀見は突然動きを止め、殆どのそうめんを円谷に譲った。準備に対する労いか、なにか含むところがあるのかは分からなかった。もっぱらカプセルを空ける加賀見に対し、円谷は水瀬の流すそうめんをつるつると啜った。


「この竹、結局どうしたんだ。」

「いやーなんか郊外にでっかい竹林持ってる人がいてさ、おーこれ焼豚入ってる!で、1日だけ譲ってもらったの。今日洗って返すからね。」

「その謎人脈はどこから来ているんだいったい。」

「聞きたい?」


空きにくいカプセルと格闘しながら、加賀見は力んだ顔だけこちらに向けてそう聞いた。疑問形で投げかけておきながら、それを話すべきか決めかねている様子に見えた。色のついたそうめんが眼前を流れていくのに気付いて慌てて掬い上げた。水瀬は一度ボウルを置いて休憩、と言う。


「いや、やめておこう」

「賢明だね。世の中気にしない方がいいこともあるってこと」


今度は僕が流すよ、と言って加賀見は水瀬と席を替わった。円谷は一緒に居る友人について知らないことがあることを悔やんだり悲しんだりするほど幼くはなかったが、それを無視できるほど友情に老獪なわけでもなかった。それらを知りたいと思っているのか決めかねるうちに、斜め前の椅子に水瀬が腰かけた。加賀見はいきます、と叫んでカプセルの周りにそうめんを配備する護送船団方式で第一投を放った。それを掬い上げたのは水瀬であった。


加賀見は、氷が足りない!と叫んでアパートの部屋に戻った。去り際に円谷に向かってウインクして見せたので、円谷は顔をしかめた。


「変わらないわね、加賀見くん。あらさくらんぼなんて入ってる。」

「変わら無さすぎてまだ大学にいるもんだと勘違いしそうだ。」

「前に一緒だったのは3年前、学部の頃の話でしょう。院での2年は一緒に居なかったんだから勘違いしようがないじゃない。」


そういうものではない、と円谷は思った。顔を合わせる回数の多い少ないで深さが決まるのであれば、それは友情と呼ぶに値しない、付き合いと呼ぶべきだと円谷は考えていた。友情と言うのはもっとなにか、治らない傷のようなものだと思う。しかしそれを水瀬にぶつけても仕方がないので曖昧に誤魔化してしまった。そろそろ満腹になりつつあった円谷は、思いきって今日、予てから考えていた疑問をぶつけてみることにした。


「なんで水瀬は今日来てくれたんだ?」

「それは失礼な物言いじゃないかしら、まるで加賀見くんと二人が良かったみたいね。」


いやそういう訳じゃなく、と言いかける円谷を制して水瀬はうっすら笑った。器に残ったそうめんを大胆に一口で啜り、水瀬は答える。


「好奇心、或いは野次馬精神のためじゃない?」

「なんで疑問形なんだ」

「よく分からないけど気になるのよね、あなたたちのこと」

「そりゃ確かに野次馬だな、しかし見ていて面白いのは加賀見だけだ」


こんなことを口走り、円谷はしまったと思った。否定的な意見を投げかけることで相手の肯定を引き出すやり方は嫌いなはずなのに、どうしても言わずにはいられない。なぜ正面から自らの価値を確かめることが出来ないのだろう。正直に答えてくれるはずの彼女を目の前にして、目の前にしたからこそ、円谷はどうしても自分の価値を問うことが出来なかった。水瀬が口を開く前に急いでこう付け足した。


「あいつを見ていると飽きない。俺があいつといる理由だ。」


実際そうなのであった。ともすれば家と骨董屋を往復するのみの円谷の生活に、何か付け加えるのは大抵加賀見なのであって、その点において円谷が受け取る利潤は他の誰がもたらす利潤よりも大きかった。3人が研究室にいた頃から水瀬はそれに気付いているような様子だったが、当の男2人はそれに気付かずにいた。円谷がそれを自覚したのは最近の話であったし、加賀見は自らを過少に評価しているようで、自覚には至っていないようだった。


ずっと一緒に居られるといいのにね、という水瀬の独り言を円谷は聞かなかったことにして、アパートの方から走り寄ってくる加賀見を眺めた。上流についた加賀見はさぁラストスパートだと言い、ボウルからそうめんを掬って流そうとした。円谷はそれをまた強引にひったくって加賀見を下流に配する。ボウルの中を見ると、作った覚えのないカプセルが混ざっていた。中には加賀見が今しがた部屋で拵えたのであろう、納豆が入ったカプセルだった。加賀見の所へ行きますようにと願い、流す。すると思いに反して水瀬が掬い上げ、開けてしまった。独特の匂いに眉を顰め、何食わぬ顔で蓋を閉め直して下流へ流そうとしたが、目ざとい加賀見のことである。それを咎めて水瀬が食べるよう主張した。


どうやら水瀬はねばねばが苦手らしい。この情報を得たことは何かしらの進展と言えるのだろうか、円谷は胸に浮かんだ思いを打消してそうめんを流し続けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る