妄想エレベーター

RAY

妄想エレベーター


「もうこんな時間……」


 書類を引出しに仕舞いながらスマホに目をやると、時刻は午後十一時を回っていた。

 フーッと長い息を吐いた早瀬まどかは、天井を見上げて「やってられない」といった表情を浮かべる。


「正社員ってホントにいい身分。終業のベルが鳴った瞬間、派遣わたしに仕事を丸投げして、とっとと飲みに行っちゃうんだから……。

 そもそも、残業時間って言うのは『残った仕事』を片付ける時間なのに、新しい仕事を言いつけてどうするの? しかも『明日までにやっておいて』じゃないわよ! 一時間やそこらで終わる量じゃないでしょ!? 急ぎの仕事ならあんたたちも手伝いなさいよ!」


 誰もいないオフィスに、怒号混じりのが響き渡る。

 ドアの脇にある照明のボタンを押して消灯を確認すると、まどかはカードキーでドアを施錠する。

 静まり返った廊下に聞こえるのは、コツコツという、ヒールの音だけ。人の気配は全く感じられない。

 六十階のフロアには、まどかの会社以外に三社が入居しているが、どのオフィスも電気は消えている。恐ろしさを感じたこともあったが、今ではもう慣れっ子。


 エレベーターの前で下向きの三角形のボタンを押した。十秒も経たないうちに扉が開く。予想通り、他のフロアにも人はほとんどいない。

 エレベーターに乗り込んだまどかはLBロビーのボタンにタッチした。


「都会のAfter Fiveアフター・ファイブを満喫したいからわざわざ六本木の会社を選んだのに、ふたをあけてみたらAfter Tenアフター・テンElevenイレブンばっかり……いくら派遣だからって、毎日こんな時間までこき使うなんておかしいんじゃない?

 こんなにがんばってるんだから、ドラマみたいな素敵な出会いがあってもいいよね……? 神様、聞いてる?」


 昼間は通勤ラッシュの満員電車のように混み合うエレベーターも、今はまどかの貸切状態。だからと言って、うれしさなど微塵もない。そんなどうでもいいことで、心の底から沸き上がる怒りが収まるわけがない。

 やりきれない思いを聞いてもらいたくて、まどかは親友のレイに電話をかける。しかし、無情にも「圏外」の表示が浮かび上がる。


「もぉ! スマホまでわたしをバカにして!」


 ゆっくりと下降して行くエレベーターの動きとは裏腹に、まどかの怒りのボルテージは上昇の一途を辿る。


 エレベーターが五十五階で止まった。


「あっ……」


 扉が開いた瞬間、真っ赤なルージュで彩られた、まどかの口元から吐息のような声が漏れる。

 乗ってきたのは、ダークブラウンのスーツに身を包んだ細身の男。年恰好はまどかと同じぐらい。りが深く目鼻立ちがはっきりしている。顔が小さいせいか背が高く見える。


『間違いない。お昼に一階のスタバでよく見掛ける人――いつもエスプレッソとベジタブルのフィローネを注文しているあの人だ。こんな偶然あるんだ』


 まどかは大きな目で男の姿を一瞥いちべつして、心の中でそんな言葉を呟く。

 目が合った後、男はクルリと身体を反転させて入り口の方を向くと、CLOSEのボタンに手を触れた。扉が閉まって階層が表示されるボードから「55」の点灯が消える。


 スマホをのぞく振りをしながら、まどかは男の後ろ姿をしげしげと見つめた。身長は百八十センチぐらい。細身だと思った身体からだはガッシリとして肩幅も広い。

 胸の鼓動が速い。息が苦しい。表向きは平静を装っていたが、自分でも動揺しているのがわかった。

 そんな状況に彼が気付いたときのことを考えたら、ますます鼓動が激しくなった。心臓が口から飛び出しそうだった。


『五十五階はNYBニューヨーク・バンクが入っているフロア。あの人、NYBの社員だったんだ……。こんな時間まで残業していて本当に良かった。今日ばかりは、仕事を丸投げした連中に心から感謝しないと。もちろん、神様にも』


 そのときのまどかの気持ちは、ほんの数秒前のそれとは百八十度変わっていた。

 ランチタイムにスタバで見かける、憧れの彼が手を伸ばせば届くところにいる。しかも、エレベーターという密室に二人きりの状態。一生に一度あるかないかのチャンスに感謝の気持ちを表さずにはいられなかった。


★★★


 エレベーターが四十五階に差し掛かると、ビルの外側に面した壁が消え、透明なガラスの向こうに、きらびやかな、夜の六本木の街が姿を現す。


 視線をガラスの外に向けた彼の横顔が街の灯りに照らされて、はっきりと浮かび上がる。

 端正で優しそうな横顔をまどかは夢見心地ゆめみごこちで見つめる――が、次の瞬間、その顔が険しいものへと変わる。


『四十五階ってことは、ロビーに到着するまで四十秒ぐらい……? 何か口実を作って話をしないと』


 まどかは真剣な顔で自分に言い聞かせる。


『あなたは決してブスなんかじゃない。これまで彼氏ができなかったのは単に巡り合わせが悪かっただけ。大丈夫。自信を持って。きっと上手く行く。だって、これは、毎晩遅くまでがんばってきたあなたへの神様のご褒美なんだから』


 激しい胸の鼓動が、エレベーター中に響き渡っているような錯覚に陥りながら、まどかは自分に暗示をかける。


『彼とならイクところまでいってもいい……』


 不意にまどかの頭の中に、真夜中の情景が浮かび上がる――まるで昔見た映画のワンシーンのように。


 夜の六本木の街。肩を寄せ合いながら歩く二人。アマンドの交差点で信号待ちをしているとき、不意に彼の左手がまどかの細い腰を探りあてる。

 まどかの身体をぐいっと自分の方へ抱き寄せる彼。驚いた様子で顔を上げるまどか。その瞳にプリズムのような街並みと優しい笑顔が映る。


 それが何かの合図であるかのように、彼の笑顔がまどかに近づいてくる。まどかの大きな瞳がゆっくりと閉じていく。二人のシルエットが一つになったのは信号待ちのほんの少しの時間。短い時間が何時間にも感じられた――「ずっと終わらないで欲しい」。そんな思いが胸の中に渦巻く。


 ただ、それは単なるプロローグ。二人の時間はまだ始まったばかり。 夜の闇が二人を別の世界へといざなう。周りにはたくさんの人がいるのに、自分たちの姿が見えていないような不思議な世界。

 そんな世界で迎えるエピローグは、互いの身体の境界がわからないぐらいにどろどろに溶け合って一つになる瞬間――まどかにとって、これ以上の幸せは想像できない瞬間。



 しかし、そんな世界に身をゆだねるには、まどかにはクリアしなければならない試練があった――「一分足らずの間に彼との距離を縮める」という試練が。


 まどかは必死に妄想をめぐらせる。今までにないぐらい真剣に思考を働かせた。


『お腹が痛くなった振りをするのはどう?』――救急車を呼ばれて終わり。

『「スタバのフィローネ」とつぶやいてみるのは?』――変な女と思われるだけ。

『窓の外の景色を見て「キレイ」なんて言ってみるのは?』――このビルで働くOLの発言としてはわざとらしい。


 効果的な策が浮かばないまま、時間だけが刻々と過ぎて行く。

 まどかの顔に焦りの色が浮かぶ。一筋の汗が頬を流れ落ちる。


 不意にまどかの脳裏に「ある考え」が浮かぶ。


『古い手だけどやってみる価値はあるかも……』


 バッグを開けて、白いレースのハンカチがあるのを確認した。

 目を閉じてこれからの展開をシミュレーションする。


『エレベーターがロビーに到着して彼が降りたら、わたしが彼をすばやく追い抜く。もともとエレベーターの中にいるのは二人だけ。わたしの姿は嫌でも彼の目に入る。視線がわたしに向けられる瞬間を見計らって、このハンカチを落とすの。白という色は昼間はあまり目立たないけれど、夜はその存在が際立つ。彼がそれを見落とすことはまずあり得ない。

 ハンカチを拾った彼がわたしに声をかけた瞬間、作戦は終了――まどか、あなたなら絶対にできる。自信を持つの』


 頭の中でイメージを確認しながら、まどかは改めて自分に暗示をかける。


 エレベーターの階層が表示されるボードに「5」の数字が点灯して消える――それは、エレベーターは五階を通過したことを意味する。あと数秒でエレベーターはロビーに到着する。

 身体のしんが燃えるように熱い。扉が開いたら、そのまま逃げ出したいという気持ちがある。その反面、そんなことをすれば一生後悔するといった思いもある。


 ボードに「LB」という文字が点灯する。

 下降していたエレベーターの動きが止まり静かに扉が開いた。


 ゆっくりとした歩調で、彼がエレベーターを降りていく。その横を「まどか」が早足に通り過ぎて行く。彼の視線が「まどか」の後ろ姿に向けられる――ここまでは、まさに計画通り。

 しかし、いつまで経っても「まどか」がハンカチを落とす気配が感じられない。一瞬振りかえって彼と目が合ったが、歩調は次第に速くなり、その姿は闇の中へと消えていった。


★★★★


 六本木の企業に勤めれば、ドラマのような恋のチャンスが訪れると思っていた。

 派遣先を六本木にしたのもそれが理由――しかし、現実はそんなに甘くはなかった。


「人並に仕事はするが自意識過剰の自惚屋ナルシスト」――それが彼に対する会社の評価。お世辞にも良い印象はなく、いつも周りから浮いていた。


 しかし、彼には誰にも負けない特技があった。


 ランチタイムにスタバで見かける、才色兼備の憧れの彼女。

 そんな彼女と偶然二人きりになった、夜のエレベータ―。

 彼は五秒にも満たない時間で、まるで小説のプロットのような緻密な妄想を巡らせた。


 その夜は、きらびやかな六本木の街を舞台に、ロマンスが繰り広げられる予定だった――「早瀬まどか(仮称)」との夢のようなロマンスが。



 RAY

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