ある日、森のなか
六腑
ある日、森のなか
時計を見る。十七時二十分。
森の奥にある教会はまるで夕暮れ色の海に沈んだかのようで、いつ来ても圧倒される。
どうだ、と言いたい気持ちで振り返れば、彼女は惚けたような表情で教会の中を見渡していた。俺もつい、頬がゆるむのを抑えられない。ここはつくづく良い場所だ、我ながら。
「どう?」
「……すごい。素敵」
ささやき声と共に感嘆が返って来た。
「本物の教会でしょ、ここ。何でこんなとこ知ってるの?」
「いくつか土地を持ってるって言ったろ。そのひとつ」
「ずいぶんロマンチックな趣味も持ってたのね」
「ここを知ってるのは、この世で僕と君の二人だけだよ」
今度は、照れたようなあるいは困ったような笑い声が返って来た。少し気障すぎただろうか。けれど彼女の横顔にも満面の笑みが広がっている。そうだろうそうだろう、そんな顔をしてもらえたら俺も嬉しい。ここなら、新しい門出にぴったりだ。
一般的な教会の例に漏れず、赤い絨毯が、扉から十字架の真下まで真っ直ぐに敷かれている。彼女はその絨毯に沿ってゆっくりと視線を送っているようだった。黒いパンプスを履いた足元から、十字架まで。自分の未来を確かめているといった風にもみえる。
やがて視線が止まるのは、当然、儀式が執り行われる特別な場所だ。彼女はもう待ちきれないという表情で絨毯に踏み込み、そのまま駆けて行く――と思いきや、数歩進んだだけで立ち止まってしまった。
「どうした?」
背中に声をかけるが、動かない。これは、躊躇なのだろうか。なにか気に入らないものでもあっただろうか。不安がよぎった。
「……なにか心配?」
隣まで進み、顔を覗き込んだ。
「これ、バージンロードでしょ」
「ん? うん」
「だって私、とっくの昔に……。バージンロードなんて。踏んじゃっていいのかなって」
言い分があまりに意外すぎて、思わず吹き出してしまった。なんだそんなことか。気持ちが揺らいだのかと心配したじゃないか。
とたん、彼女にきっと睨まれた。おっとそうだ、乙女心を笑うなんて俺としたことが。
「ごめんごめん! いやでもさ、今時の日本でそんな。厳格なクリスチャンって訳でもないんだしさ」
「……そっか」
「まあ、ここが嫌ってことなら、別の場所を探すけど?」
「意地悪なこと言わない! もう!」
わざと挑発する物言いをした甲斐あって、彼女は素直にバージンロードを進みはじめた。俺の隣で。
純粋な一面が、変なところで意固地さに変わることもある。そんなところも可愛らしいと思う。
「夢じゃないのよね。こんな綺麗なところで……」
「気に入ってくれた?」
「分かってるんでしょ?」
もちろん、分かってる。
喜んでもらえている満足感に浸りながら、並ぶ長椅子の一番前に腰を下ろした。十字架の真下に立つ彼女の背中をじっと見る。白いコートがよく似合っていて、背中に流れるのはふわふわとした栗色の髪。
天使の汚れなきイメージというのは今の彼女に近いんじゃないかな? なんて、本気で思った。
「……あなたに思いっきり甘えちゃう。ごめんね」
「ごめんねじゃなくて、ありがとうって言って欲しいんだよなぁ。なにも詐欺でやってるんじゃないんだから」
くっ、と可笑しそうに彼女の肩が揺れた。
「分かってる、現実に一銭も取られてないもの」
「君のご両親に脅迫文を送るつもりもないし」
「娘の命が惜しければ金を寄越せ! って?」
「そうそう、新聞とか雑誌の文字切り取って」
「今もあるのかな、そういうの? あはははっ」
今度こそ彼女は、大きく声を上げ喉を反らして笑った。ああ、開けっぴろげに笑ったってこんなにも可愛い。
とはいえ、彼女のこんな表情を見た人はこれまでごく少数だったのだろう。今後も現れない。心の隅にじわりと沸いたこれは、きっと優越感というやつだ。
「あの人達は、そんなことで私を心配して泣き暮らしたりしない。身代金は出しそうだけど、世間体のため」
「……親御さんのこと、ほんとにいいの?」
「ええー、今更それを聞く?」
「うーん、ごめん。一応確認のつもり」
「もう、殺してやりたいってほどの関心も消えたもの」
気軽な声音でそう言って、直後、彼女の肩からふっと力が抜けた。
「世界が狭いうちは、なにやったって寂しいだけなんだよね。嫌な場所なんて蹴り飛ばしてしまえばいい、誰にでも出来る。教えてくれたの、貴方よ」
「そんな話もしたねぇ」
「好きなようにするの。本当にやりたいことをやる」
くるりと振り返った彼女は生き生きとした表情をしていた。
出会ったばかりの頃の彼女を思い返す。『憑き物が落ちた』という表現は今の彼女にぴったりだ。少し前まで、目には見えない重苦しいなにかを抱え、肩を落とし視線を落とし、夕焼けに感動することなど殆ど知らなかっただろうに、今となってはこんなにも軽々と歩き、歌うように言葉を紡ぐ。
「今ね、ほんとに幸せ。こんなきれいな場所まで、用意してもらえて」
「俺も幸せだよ、そう思ってもらえるなら」
「この感謝をどう伝えたらいいのか……今ここで、あなたと一緒で、ほんとに嬉しいの」
「大丈夫、伝わってるよ。君の顔を見ればちゃんと分かる」
「もっと早くあなたと出逢いたかった。そしたら……」
そしたら、と彼女は目を閉じた。
沈黙に、色々な想いが込められていた。
俺はそれをしっかりと受け取ったつもりだ。きっと彼女も分かっている。
「でも、どうしても分からないのがね」
彼女は言う。
「何?」
俺は答える。
「好きに選べる自由を貴方は誰より知ってるはずなのに。どうして、こっちに来ることを選ばないの?」
「さあ」
それはたまに俺も考えるのだけど、答えはいくらでも出てきて、そのどれを当てはめても正解っぽくはある。だからどれもしっくり来ないのだ。
「生きてる間、生きてる限り、君みたいな人と出会い続ける義務が俺にはあると思う。自分が楽になるよりも先に」
「……そっか」
「しつこいようだけど、親御さんのことは本当にいいんだね? 殺しておくぐらいのことは出来るんだけど」
「んー。それはほんとに、もういい。わざわざ殺したいって気もない。貴方のおかげで楽になったし、もう終わるから」
彼女はつま先立ちになって、天井からぶら下がる環状の縄に手を伸ばそうとした。けれど、床に立った状態では届かない。可愛らしい動作を微笑ましく思った。
「椅子に上ればちゃんと届くよ。高さも太さも強度も精密に計算してある。苦しまないで逝けるように」
彼女に贈るのはプラチナのリングではない。もっと大きな、絹をより合わせた真っ白な縄。そこらに売っているものじゃない、特別製だ。通すのは薬指ではなく、その華奢な首。
彼女は着ていた白いコートを脱ぎ始めた。目配せを受けて傍に行くと、丁寧に畳んだコートを手渡された。脱いだ黒いパンプスもきちんと揃えてあった。所作のひとつひとつに育ちの良さが垣間見える。
さぞ厳しく躾けられたのだろう、良くも悪くも。彼女が壊れた理由はなにもそれだけではないだろうけれど、ひびだらけの危うい土台は、確実に、そこで作られたのだった。
俺はそっと手を差し出した。紳士たるもの淑女をエスコートしなくては。彼女も柔らかな掌を重ねてくれた。生き物を優しく撫でるようなたおやかさ。
自然と、お互いに微笑みあった。
俺の手を支えに片足を椅子に上げ、床に残っていたもう片方の足もスムーズに持ち上げる。躊躇は見られない。
椅子の上に真っ直ぐ立った彼女の目線は、聖母マリアのステンドグラスに注がれていた。
肌色のストッキングに包まれた脚が、いま目の前にある。膝丈のスカートからすらりと伸びて、ステンドグラスの色とりどりの光を受け、なんだろう、艶めかしい。
神が企んだかのようなこの造形物を、一生目に焼き付けておきたいと思った。
深海しか知らなかった人魚が、新しい世界へ踏み出すための脚を手に入れた。なら、俺の役どころは海の魔女だろうか? でも、俺が出しゃばって声を奪うことなんてしない。主役はあくまで彼女であり、幸せになるべきなのだ。
「貴方のその仕事って、名前をつけるとしたら、なに?」
「仕事のつもりはないんだけど……なんだろうねぇ? 特に思いつかない」
「カウンセラーにでもなればいいのよ。それこそ詐欺師でもいい、貴方の言葉はあらゆる人を救うと思う。相当な額を稼げるんじゃない?」
「それだと詐欺師と言うより教祖じゃないか? どのみち、お金を取る気も大々的に集団をつくる気もないよ」
「教祖ね……確かに、私にとって救世主みたいなものだわ。だからこの教会も、私よりも貴方にぴったりなのよ」
「ここは、君みたいな人にこそ似合うんだ。俺だって依頼人の全員をここに案内する訳じゃないよ」
重なっていた手に、ぎゅっと力が込められた。強く握り返す。
「あなたに見つけてもらえて本当に良かった。おかげで、こんなきれいな場所で死ねる」
三日前、自殺の名所と言われる海沿いの崖の上で、彼女を見つけた。
三日間、一緒にいた。
絶望のまま、荒んだ表情で死のうとしていた彼女は、僕と言葉を交わす内、本来の溌剌とした表情を取り戻した。
美しいと思った。
だから、美しいこの場所に連れて来た。
「じゃあ、またね」
「ああ。またいつか」
「ありがとう」
俺が一歩下がると同時に、俺を突き飛ばすかのように彼女の手が離れた。
肌色のつま先が椅子を蹴り飛ばす。躊躇は見られない。椅子が倒れ、転がる音が反響した。
教会とは、効果的に音が響くように設計されている場合が多い。祝福の歌、あるいは鎮魂歌が奏でられる場所でもあるからだ。
彼女が飛び立った瞬間の音も、よく響き、還り、心地良い音となった。夕暮れ色の教会によく似合う、祝いの讃美歌だ。
ゆらゆらと揺れるその体をよく観察した。全身の筋肉が弛緩して行くのが分かる。濃い茶色の目の中では瞳孔が開き、表情はとても安らかなものへ変わって行く。こうなると、通常ならば身体の中に残っていたものが全て出てしまうものだ。が、そういう悲惨なことには殆どならない。事前に排泄行為をきちんと済ませておくよう勧めるのが僕の流儀だ。首吊りを勧めるのも。それが一番楽で確実だと思っている。
頸動脈だけが絞まるように角度を調整しておけば、苦しいのはほんの一瞬。あとは意識が遠のき、眠りに落ちるように死ねる。
リスクがあるとすれば、中途半端な時間が経って救出されたがために生き延びてしまうことだ。ぼろぼろの精神に身体の後遺症まで付随してしまえば、その後の人生、死ぬ自由すら失う羽目になりかねない。
そんな哀しいことにならないように、僕がいる。
十五分ほど、彼女を見つめつづけた。頃合いだろうと判断し、蝋人形のように青白くなった手首を取った。脈はちゃんと消えている。
絶命したからはい終わりと放置などしない。きちんと埋葬まで行う。
俺に依頼をする彼ら彼女らは皆、この世から存在そのものを消したいと願っている。死後、誰に見つかることもなく、死んだことにすら気付かれず、完全に姿を消してしまうことを望む。たった今、あちらの世界に旅立ったばかりの彼女も同じだ。
秘密厳守。金銭も取られない。救出されることもない、確実に終わりを迎えられる。心残りがあるなら請け負う。持ち物の処分でも復讐でも。
それらの説明に納得すれば誰もが、心配事は一切なくなったと、安心して逝く。
彼女は目を閉じ、微かに笑んでいた。
宗教画に登場する女神を思い起こさせる表情だった。もうこちらの世界の住人ではない。全てから解放されたのだ。
「またいつか、そっちでね」
時計を見る。十八時ちょうど。
この場所を知っているのは、この世で僕ひとりだけとなった。
ある日、森のなか 六腑 @108
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