変わらぬもの

 何年もの間、この街とはご無沙汰であった。何も変わっていない。それは、私の隣を歩いている彼女も、同じように思っていることであろう。

 路面電車の小さなホームのベンチには、緑色の電車を待つ老夫婦が二人座っていた。こうした風景もやはり、昔と同じである。橙色に滲む西の空に、小さな電車の影が映っている。人々の生活を、静かに運び続けている電車の姿。

 私の左を歩く彼女はというと、アスファルトのひび割れを観察したり、古書店の陳列棚に並んだ週刊誌の表紙に書かれた言葉を呟いてみたりと、特に私のことを気にしていない風であった。

 いきなり、彼女が大きな声を上げながら欠伸をした。そのあまりにも間抜けな姿に、私は吹き出してしまった。すると彼女は、なによ、とでも言いたげな表情で怒ってみせた。そうだ、私はこんな飾り気のない姿に惚れたのだ。こんな彼女を見ていると、このままの彼女でいて欲しいと、愛しく思うのである。

「何も変わってないな。」

 私は独り言をした。

「ねえ、ほんとに。昔からこの景色は変わってないわね。」

まるで他人事のように、彼女は言葉を返した。変わってないのは、君も同じなのだがね。

 暫く歩いていくと、よく見覚えのある、細く曲がりくねった路地を見つけた。その路地の先には、こぢんまりとした純喫茶があった。大学生の頃、彼女とよくその店に出掛けたものである。

「ねえ、あの喫茶店に行ってみる?」

「いいねえ。」

 名前は思い出せないが、その喫茶店の場所は鮮明に覚えていた。迷うことなく、店の前に着いた。看板には、今も変わらず、「オムライス800円」の文字があった。私達は何となく目配せして、少し緊張しながら、店の扉を開いた。

 中に入ると、中年の男が私達を迎えてくれた。私達はお気に入りの窓側のソファ席に座った。店の主人に珈琲を二つ頼んだ。

「あのおばあちゃん、死んじゃったのかな?」

彼女は私の耳元で囁くように尋ねた。昔は、この店の主人は、優しい笑顔の素敵な老婆だった。もう何年も前のことだから、きっと。

「もう結構な歳だったからね。でも、この店はやっぱり、変わってないな。」

「そうねえ。」

 私たちは暫くの間、学生時代の情景に浸っていた。私達はこの席で、様々なことを話し合った。好きな音楽について。好きな作家について。将来の夢について。今後の自分達について。

 主人が銀色の盆に、珈琲を乗せて持ってきた。彼と昔見た老婆の姿が重なる。背格好こそ違えども、男の佇まいには、どことなく老婆の名残を思わせるのである。

 珈琲を受け取った頃合いで、彼女は主人に尋ねた。

「あの、私達、数年前にこちらによく来ていたのですが。その時、こちらの主人だとおもうのですが、おばあさんによく可愛がってくださって。その方は今、どうされているのでしょうか。」

 男は二人が以前の常連客だったことを知って、少し嬉しかったようだ。彼は柔らかい笑顔を浮かべた。

「そうでしたか。御贔屓にしてくださったのですね。前の主人は私の母でして、それこそ一昨年までは、この店で元気に働いていたんですよ。でも、歳と病には敵いませんね。母の肺に影が見つかってからは、私がここの店を継いだんです。」

「それで、お母さまは。」私は尋ねた。

「ええ、去年の夏に亡くなりました。」

「そうでしたか。」

 私は老婆の、皺くちゃの笑顔を思い浮かべた。懐かしい。もう少し早く、この店に来ていれば、また会うことが出来たのだろうか。私はそんな後悔さえした。だが、その後悔は、不思議と、暖かいものであった。

 珈琲のカップを両手で包むように握っている彼女は、じっと、珈琲の焦げ茶色の水面を見つめながら、「素敵なおばあさんだったな」、と懐かしむように呟いた。その呟きには、私の気持ちと同じく、少しの寂しさと、やはり、若干の暖かみを感じるのであった。

 主人がカウンター席の長椅子に腰掛けて、ブラウン管のテレビを見ている姿は、まさに、あのおばあさんであった。

 少し渋めのアメリカンを飲みながら、再び視線を彼女に戻すと、彼女は先程歩いていたときと同じ、いつもの幼げな表情をしていた。

 変わらぬもの。

 私は、彼女との初めての出会いを思い浮かべた。大学の講義中に、隣で静かに読書をする少女に、教科書を拝借するという体で、彼女への接近を試みた。当初の彼女は、普段から凛としていて、多分、当時の私は、そこに惚れていたようだった。だが、暫く関係を深めていくと、実は彼女はそうした大人の雰囲気よりも、無邪気な幼さの多い人間であったことに気付いたのである。いや、もしかすると、私と交際したことによって、幼く変化したのかもしれないが。どちらにせよ、私の目の前にいる女性は、日々の生活のなかで、確実に、変わっている。

 私を含め、世の人々は、変わらぬものへの憧れを強く抱くことがある。変わらぬ風景、変わらぬ味、変わらぬ香り、変わらぬ音。私の傍にいてくれる彼女だって。彼女が変わらぬことに安堵する瞬間を自覚することさえある。

 今日、この店にやってきた。老婆の主人はいなくなってしまったが、この店の雰囲気は数年前とちっとも変わらない。この店に香っている珈琲豆の香りや、流れているタンゴの音楽、店の中の全てが創り上げている空気に、私達は確かに、安心しているのだ。

 何故、私達は変わらぬものに執着するのか。

 私はそんなことを考えながら、目の前で必死になって熱い珈琲を啜る、猫舌の彼女を眺める。そういえば、初めて二人でこの店に来たときは、彼女はミルクを溢れんばかりに入れていた。この数年間で、いつの間にか、ブラックで飲むようになっていた。

「おい。」

 私の語気に気圧されたのか、彼女は不安そうな顔をした。

「なによ。」

 意地悪なことをしてしまったとは思ったが、彼女の訝しそうな表情を見ると、笑わずにはいられなかった。彼女は余計、腹立たしさを露呈させて、「なによ」と追及してくる。

 そうか、これだ。私が彼女と一緒に居たい理由。

「ねえ、聞いてるの。」

彼女は依然として、私に畏怖の念を抱いている。普段の私は、おい、なんて言ったこともない。流石に、このまま彼女を放っておくのは気の毒に思えた。

「ごめん、ごめん。何でもないんだ。気にせんでくれ。」

「なんなのよ。」

 人は日々、少しずつ変化していく。変化しなければいけないのだ。また、変化したがってもいる。生きる、とは、変化なのかもしれない。表情のような一瞬間の変化も、成長や老化に伴う体格の変化も、環境や経験に伴う心情の変化も、彼女のどの変化一つとっても、私にとっては愛しいものに感じる。

 ならば、この「変わらぬもの」に対する執着は何によるものなのか。それはきっと、私達の変化をじっと見守ってくれている存在だからであろう。この喫茶店に来ると、昔の私達を思い出す。将来に不安を抱き、どうにかしてその気持ち悪さを取り除こうと、お互いに相談し合ったこと。夏休みにどこに旅行に出掛けるか、計画を練ったときのことも。いくつもの小さな場面を切り抜いた思い出が、この変わらぬ場所に訪れることで、もう一度だけ、見ることが出来る気がするのだ。

懐かしさを味わうということは、映画館に映画を見に行くことに似ている。私達は映画を撮り続けているが、その映像を容易に確認することは出来ない。だが、こうした変わらぬものが、私達の活動を一つ一つ記録してくれていて、この変わらぬものに触れている時間だけ、私達はその記録を見ることが出来るのだ。私は変わらぬものの正体を突き止めることが出来たかもしれない。

「映写機かな。」

 彼女は私の顔をじっと見つめながら、不思議そうな顔をしている。

「映写機?なにが。」

 私は小さく深呼吸をした。

「僕は、これからも、君を傍で見ていたい。変わっていく君の姿をね。だから、これからも沢山、変わってくれ。変わっていいんだ。」

 急に恥ずかしさが胸元にこみ上げてきて、私はたまらず、ポケットから煙草を取り出す。

「ほんと、今日、おかしいんじゃない。」

彼女は眼を潤わせながら笑い、しかし、声は優しく、

「うん。これからのお互いの変わっていく姿、ずっと見ていたいね。」

彼女は今までも、これからも、変わり続ける。しかし、私は彼女のどこかに、やはり、変わらぬものがあるのではないかと思った。それは、私の心を確かに掴み続ける、得体の知れない、何かである。

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銀之助恋愛抒情詩集 津軽銀之助 @syoukitiii

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