由比ガ浜の風 二〇一六年七月二十日

 初夏、半夏生、二年前のこの日、一日だったか二日だったか定かでは御座いませんが、私は貴女を連れて、鎌倉に出掛けました。覚えていらっしゃいますか。夏の暑さに閉口しながらも、木陰を選んで歩いてみたり、お土産屋に入っては、暫く涼んでいたりして、鎌倉の街を散歩したことを、私は今も鮮明に覚えております。

 貴女はふらりと、横道に細く伸びた路地に歩いて行きました。道端にはアバカンサスの花々が、夏の入道雲を押し上げるように、上へ上へと凛々しく立ち上っていました。青色に囲まれた小路を、白のワンピースを着た貴女は、腕を小さく振りながら通ってゆきます。その後ろ姿を見て、正に夏の訪れを実感したのです。

 そうそう、私達は文学館を訪れましたね。文学にあまり興味のなかった貴女は、文学館の中に展示されている、文豪の残した数多くの原稿よりも、庭園の薔薇に惹かれていたように思えます。庭園にはテーブルが敷かれ、アイスティーを飲みながら、木々に囲まれた文学館の庭園に咲く薔薇を眺め、これから行く由比ガ浜への期待を語り合いましたね。


 由比ガ浜までは、歩いて十分程の距離でしたが、私達はすっかり夏の暑さに負けてしまい、顔の筋肉をだらしなく垂らしているような、情けない様子で御座いました。今思い返してみても、あの徒歩での移動は、貴女にとって過酷極まりないものであったと心苦しく思うのと同時に、少し愛くるしいような思い出だと思っております。

 二十分程掛かったと思いますが、ようやくの思いで、由比ガ浜の海水浴場まで辿り着きました。夕方の由比ガ浜には、涼しい浜風が吹いていて、私達の汗を優しく拭ってくれるような心地よさを感じました。

 私達は海水浴をすることはありませんでしたが、夕日に染まった薔薇色の海を眺めながら、裸足になって浜を歩きました。貴女はたまに、打ち寄せる波に足を浸して、冷たいだとか、気持ちいいだとか、喜んでいましたね。私も貴女を真似して、海に足を浸してみました。身体中に溜めこんだ夏の熱が、足元からすうっと引いていくような心地が致しましたので、その気持ちよさに思わず顔をほころばせてしまいました。私は自分の情けない顔に気付いて、咄嗟に表情を固く致しました。貴女は満面の笑みを見せてくれたのに、私は常に恥ずかしがりでしたから、そのような態度を取ってしまったのです。きっと、貴女はそれを察してくれていたのでしょう。


「私、一度来てみたかったんだ。綺麗なところだね。」

私は自分の足元に転がっている、小さな白い貝殻を拾い上げ、手の中で転がしながら観察しておりました。

「その貝殻、小さな穴空いてるね。」

それはツメタガイという、貝を食べる貝の仕業だよ、と教えてあげようとしましたが、私は口籠ってしまい、そうだね、と言うのが精一杯でした。綺麗な夕焼けの浜辺で、こんな雑学を語れる余裕はありませんでしたから。


 何故、こんなことを書いているのかと申しますと、私の家の近くで、アバカンサスと薔薇の花を見つけ、思い出したからで御座います。丁度、夕焼けの頃のことです。

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