落ちて朽ちる、花

矢口 水晶

落ちて朽ちる、花

 奥の座敷は黒服の弔問客でひしめいていた。薄暗いせいか、誰もが青ざめているように見える。彼らは同じような悔やみの文句を述べ、私はそれにいちいち挨拶を返し、神妙にうなずいていた。

 祭壇には、夫の遺影が飾られている。生前と変わらず機嫌の悪そうな、無愛想な表情。それでいて神経質で、どこか繊細そうだった。鋭く細められた切れ長の目が、さもつまらなそうに弔問客たちを見下ろしている。

 祭壇の傍らで正座し、黒衣の群れをぼんやりと眺めながら、ふと思った。何かが欠けている。この弔いの場には、あるべきものが抜け落ちている。

 母の通夜の時は、もっと冷え冷えとして、重苦しい空気が漂っていた。父や、姉たちのすすり泣く声が聞こえて、私も胸に大きな穴が空いたような気持ちになっていた。しかし、この場には不幸な場所の独特の空気というか、雰囲気が欠けているのだ。

 ここにいる弔問客は、ここが悲しむべき場であるから悲しい顔をしているに過ぎず、本心からそうしているわけではない。通夜に参列しているのは遠い親類か出版社の関係者、あるいは夫の父親の知人だ。夫にはすでに肉親はなく、特別親しくしていた友人もない。本当に夫の死を惜しんでいる人間が、いったいどれほどいるのだろう。まるで、面白くもない芝居を見せられているかのような気分だった。

 そして、私もまた下手な役者の一人なのだろう。別段悲しくもないし、かといって嬉しくもない。私は死んだ男の妻であるから、いかにも悲しそうに俯いている。そういう演技をしている。そう思うと、ひどく馬鹿馬鹿しくなってきた。

 障子一枚隔てた外から、雨粒が庭の地面を叩く音が聞こえる。関東地方は先週に梅雨入りが宣言され、ずっと雨が降り続いていた。線香の匂いに交じって、雨の甘く腐ったような香りが漂ってくる。

 ああ、嫌だ。雨の匂いと音が、ねっとりと首筋を這うのを感じた。私は膝の上で数珠を握りしめる。

 読経が終わり、弔問客は蟻のようにぞろぞろと家から出て行った。私は彼らを見送りながら、明日の葬式の段取りなどを考えていた。

「たった四年で主人に先立たれて。気の毒なことですわ」

「ええ、本当。まだお若いのに」

 そう言ったのは、夫の親戚だという人たちだ。彼は親戚との付き合いが疎ましく、ずっと避けていたので、彼女たちに会うのはこれが初めてだった。

 私は哀れなのだから、哀れな顔をしなければならない。顔を俯けるようにして、彼女らの言葉にうなずいた。




 弔問客が全員引き揚げ、私は台所で水を飲みながら一息吐いていた。疲れたのだろうか、泥が溜まったように身体が重い。家の中は静まり返り、空気がしんと凍り付いていた。この無音は嫌いじゃない。誰もいない時が、一番楽だった。

 台所の蛍光灯が切れかけていて、白々とした明かりが不安定に揺れている。じじじじ、と蛍光灯の発する音は、死にかけた蝿の声に似ていた。

 息を潜めるようにして目をつぶると、梅雨の長雨が屋根を打つ音が聞こえる。筧を通った雨水が、排水溝の中に落ちてばちゃばちゃと激しい音を立てていた。どうして水の弾ける音というのは、こうも人の心を不安にさせるのだろう。

 雨は好きじゃない。梅雨の時期になると、湿気を吸って空気が重くなり、雨の独特の匂いが終始肌にまとわりついてくる。特に、この家は雨の気配が濃かった。家の中なのに、一年中雨が降っている。

 雨の音を聞いていると、夫が息を引き取る前のことを思い出す。

 先週、用があって外出し、家に戻ると書斎から夫が消えていた。彼は滅多に家から出ないし、日中はずっと書斎に籠っている。文机に頬杖をついて、飽きもせず庭を眺めているのだ。どこかで倒れているのかもしれないと思い、家の中を探し回った。

 彼は雨が降る庭に立っていた。傘もささず、私の剪定鋏で庭に咲いている紫陽花の花を切り落としていた。私は慌てて庭に降りた。

 痩せた身体は雨に打たれ、ぐっしょりと濡れそぼっていた。ただでさえ血色の悪い頬がますます青ざめ、見るからに具合が悪そうだった。私は家の中に入るようにと促すのだが、彼は一心不乱に鋏を動かし続ける。ぱちん、ぱちんと花を落とし続ける姿は、まるで何かに憑かれているようだった。綺麗に咲いていた紫陽花の花は、ぬかるんだ地面に埋もれ、打ち捨てられた死体のようだった。

「紫陽花は、醜い花だ」

 だから、早く散らさなければならない、と夫はうわ言のように言った。

 元々神経質な人だったが、一年ほど前からだんだん神経衰弱めいてきていた。それは古いブリキの人形が、少しずつ動かなくなっていく様に似ていた。

 彼はその時ひいた風邪をこじらせ、三日三晩熱にうかされ、肺炎で逝った。どれほど重い病気にかかってもしぶとく生き延びてきたのに、最期はあっけないものだった。

 死の間際、彼が私に何か言い残すことはなかった。普段通り彼は言葉数が少なく、私も何も言わなかった。雨のせいか、それとも高熱で汗をかいている彼のせいか、寝室はひどく湿気がこもっているようだった。そして焚き締められたような、濃い、雨の匂いがしていた。

 雨の匂いは、あの人の匂いだ。今もその匂いが私を包み込んで放さない。ああ、嫌だ。思わず首を振る。

 その時、外で物音がした。不審に思って勝手口の扉を開き、辺りを見回す。

 煮詰めたような濃い暗闇の中、激しく雨が降り続いている。分厚い雨の帳の向こう側、狭い路地に蝙蝠傘を差した男が立っていた。

「こんばんは」

 蝙蝠傘の下から細い男の顔が現われて、にやりと薄い笑みを浮かべた。その微笑を目にした途端、私は思わず眉をしかめた。

「ひどいな、せっかく会いに来たのに。もっと喜んでくれてもいいじゃないですか」

 その男、田嶋修平はにやにやと笑いながら歩いて来た。無遠慮に勝手口をくぐり、三和土にまで入り込む。彼が傘を畳むと、滴が滝のように零れて三和土を濡らした。

 田嶋は私よりも五つ年下で、大人ぶった顔をしているがまだ青年のあどけなさを残していた。大学で院生として研究室にいるそうだが、興味がないので何の研究をしているのかよく分からなかった。

 彼と知り合ったのは、昨年の春の終わり頃だった。確か喫茶店で相席となり、彼に声をかけられたのだったか。    

 私は溜息を吐き、目許にかかった前髪を掻き上げた。

「こんな時間に、何をしに来たの」

「いえ、ご主人が亡くなったと聞いて、あなたがどうしているのかと思って。この度はご愁傷様です」

 田嶋はおざなりに頭を下げた。彼のつむじを見下ろしながら、面倒だ、と思った。通夜を終えたあとなのに、どうしてこの男の相手をしなければならないのだろう。何と言って帰らせようか、と思考を巡らせた。

「聞きましたよ。ご主人、結構溜め込んでたんでしょう? まあ、それなりに本も売れていたようですし。そもそも、親が資産家だったと言うじゃないですか。僕の家は貧乏な百姓ですからね、羨ましいです」

 考え事をしているそばで、田嶋はぺらぺらと一人で喋っている。彼も今の若者らしく軟派で、小娘のようにうるさかった。最初はそういう所が面白いと思っていたが、やはり、お喋りなのは不愉快だ。夫のように寡黙なのも息が詰まるが。

「帰って」

 そう言うと、田嶋は驚いたように目を瞬かせた。

「もう帰って。ここはあなたが来ていい所じゃないの」

「え? でも、ご主人は」

「ここは夫の家よ」

 帰って、と私は繰り返す。田嶋は納得しがたいといった顔をして、片眉を吊り上げていた。

「どうしてそんなことを気にするんですか? ご主人のことは愛していなかったのでしょう?」

「さあ」

 分からないわ、と私は答えた。

「分からないって、どうしてです?」

「そうとしか言えないの。そういう、ものよ」

 田嶋は物分かりの悪い子供のように眉根を寄せている。私は何も答えない。

 ぴちゃん、と水の弾ける鋭い音がした。蛇口から零れた滴が、流しに置いたコップの中に落ちたのだ。不安げに揺れる光の中で、小さな波紋が浮き上がっていた。

 そう言えば、と私はぼんやりと流しの中を眺めながら呟く。

「母は夫に尽くしなさいと言ったけれど、愛しなさいとは言わなかったわ」

「は?」

 田嶋は、いよいよ理解できないという風に首を捻った。

 私とあの人は夫婦だ。だから彼は夫だったのだし、私は妻だった。本当に、ただ、それだけ。

 私は四年間、つまらないお芝居を演じ続けてきただけだった。

 それで、と田嶋は私の表情をうかがうように言った。

「あなたは、これからどうするんですか?」

 え? と私は田嶋の顔を見上げた。通夜の弔問客のように、彼の顔も青ざめ、水墨画のように薄ぼんやりと滲んでいた。

「あなたはまだ若いし、ご主人の遺産もある。このまま、この家に一人でいるつもりなんですか? これからは、何でも出来ますよ」

 そう言って、田嶋は大げさに両手を広げて見せた。別に自分のことでもないのに、彼の口調は妙に明るい。まさか、私を通じてその遺産が自分の許に転がり込んでくるとでも思っているのだったら、本当に馬鹿だ。

 私は何も答えられず、俯いた。そんな私を田嶋は不思議そうに一瞥し、また傘を差して帰って行った。おそらく、彼とはもう会わないだろうと思った。

 台所の曇り硝子の向こうでは、未だにばしゃばしゃと水が弾けている。癇癪を起した子供のように、雨はいつまでも泣き止んでくれなかった。




 告別式も恙無く終わり、夫の死から四日が経っていた。私は何もする気になれず、彼が生前そうしていたように、書斎の文机に頬杖をついてぼんやりと虚空を眺めていた。

 あの人の文机に触れたのは、これが初めてだった。夫は文机を身体の延長のように思っていたらしく、自分以外の人間が机の上の物をいじるのをひどく嫌った。几帳面な性質なので机はたいてい綺麗に片付いていたが、今はまっさらな原稿用紙と万年筆、そして丸められた紙屑が残っている。彼が病床にふせった後、看病や葬儀でばたばたしていたため、これらの物に気が付かなかった。

 文机の表面は少しざらざらとしていて、そして濡れたように冷たかった。指先でなでると、死に際に握った、夫の腕を思い出した。青白く、痩せ細った骨のような腕。薄い皮膚の下、血管が弱々しく脈打っていたことも、はっきりと思い出せる。

 あの人はもういないのに、濃い雨の匂いがまだ書斎に残っている。じっとりと水を吸ったように重くて、果実が腐ったような、微かに甘い匂い。べたべたと私の髪や、肌に、まとわりついてくる。まだ夫が寝室の床に伏せっていて、私を呼ぶ声が聞こえてきそうな気がした。

 けれどこの匂いは、梅雨の終わりと共に消えていくのだろう。あの人の手の感触も、忘れていくのかもしれない。もう私が誰かの食事の支度をしたり、看病をしたり、下らない芝居を演じる必要もないのだ。

 ふと、窓の外に目を向けた。空には灰色の雲が広がっているものの、雨は止んでいた。板塀に沿って植わった紫陽花は、艶やかに葉を濡らしている。しかし、そこにあるはずの花がない。花はすべて切り落とされ、泥の下で朽ち果てている。

 私は湿気を吸ったように重い身体を起こし、立ち上がった。濡れ縁に出て庭に降りる。踏みしめた地面は黒々と水を吸って、ぬかるんでいた。

 濡れて土気色になった紫陽花の花を、手に取る。まるでくたびれたぼろ布だ。惨めで、無力な花。醜い花だという、夫の言葉が分かるような気がした。

「ねえ」

 私は、手の中の花に話しかける。子供の頃、人形にそうしていたように。まるで手の平に乗った自分自身に話しかけているような、奇妙な感覚に陥った。

「私、一人よ。自由なの。何でも出来るのよ」

 ねえ、と繰り返し呼びかけるが、花は何も答えない。私は、急に心細くなる。

 母もいない。夫もいない。もう、誰も、私に何かを強いたりしない。

 それならば、私は、これからどうすればいいのだろう。

 私は、死んでしまった花を胸に抱えたまま、動けなくなった。


 どこか遠く、水の泣く音がした。


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