雨
矢口 水晶
雨
その日、田嶋修平は雨宿りのつもりで喫茶店に入った。雨はにわかに降り出し、修平をあっという間に濡れ鼠にしてしまった。
そこは神保町の一角にある小さな店だった。いつもレコードがかけられていて、珈琲の香りと共に外国の甘い音楽がとろとろと流れている。修平はしばしばここを訪れ、読書や勉強をしていた。店内には修平と同じ学ラン姿の学生が幾人か混じっていた。
店に入ると、女給が相席でよろしいでしょうか、と尋ねてきた。店内は込み合い、人の出ていく様子はない。皆修平と同じように、ここで雨をやり過ごすつもりなのだろう。
案内されたのは窓辺の席だった。着物姿の女が、一人で紅茶を飲んでいる。修平がどうも、と声をかけると、女は黙って会釈した。白粉の香りが、鼻先に降りかかる。
女は二十代後半くらいで、百合のように儚げな雰囲気を纏っていた。黒々と濡れた瞳は、ともすれば泣いているようにも見える。女は、ぼんやりと窓の外を見ていた。
ついている、と修平は思った。急な雨も美女と相席になれれば僥倖だ。しかし声をかける勇気がなく、開いた文庫本越しに女の顔を盗み見るしかなかった。黒い髪の生え際から首元の影まで、丹念に眺めた。
白い肌からは雨を染み込ませたような、どことなく湿っぽい匂いがした。
「あら」
深紅の唇がかすかに動いた。盗み見ているのがばれたと思い一瞬ひやりとした。女が見ているのは文庫本の表紙だった。
「どうかしましたか?」
「いえ。その本は主人の書いたものでしたから、つい」
女の視線につられて、修平は本の表紙を見た。
本の著者は、まだ無名の新人作家だった。著名が本名であるということ以外、一切自身の情報を公開していない。個性的な幻想小説を書くのだが、陰鬱な雰囲気は読む者を選んだ。しかし、修平はそういう作風は嫌いじゃなかった
「へえ、ご主人ですか。へえ」
相席になった女が、読んでいる本の著者の妻。急に雨が降り出したこと、たまたまこの本を持っていたこと。すべてが見えざる何かの采配であるように思えた。
「僕はご主人の、あ、先生の著書が好きなんです」
喋ろうとすると、舌がもつれた。同年代なら平気なのだが、相手が年上だと思うと途端に頭が働かなくなる。必死で著者を褒める言葉を捻りだした。
「独特の不条理感、というのでしょうか、そういうところに惹かれます」
「はあ、そうですか」
主人の本は読みません。女の返答は実に素気ないものだった。何故です、と問うと、
「読まなくたって、どんな人か知っていますから」
と不思議な答えが返ってきた。
本の著者よりも、むしろ女に興味を引かれた。それと同時に、密かに悪事を働くような、心地良い罪悪感を覚えた。
「先生は、どんな人ですか?」
「可哀想な人です」
「カワイソウ?」
「ええ」
可哀想な人、と女はぽつりと呟いた。雨の一滴が落ちるような声だった。
それきり会話は途切れた。修平は息継ぎをするように、女給の届けた珈琲を喉に流し込む。酸味の効いた珈琲は、舌の上に濃い苦味を残して喉に滑り落ちた。
彼女を真似て窓の外に目をやった。町は激しい雨で白く煙っている。窓の外には紫陽花が植わっていて、青々とした葉が濡れていた。まだ花が咲くには早い時期だった。
「雨、早く止むといいですね」
「私は、止んでほしくありません」
ずっと降り続ければいい、と女は呟く。
「家にはあまり帰りたくありませんの。だって、いつも雨なんですもの」
「はあ?」
修平は目を丸くする。
「家の中なのに、雨の匂いがするの。おかしいでしょう?」
女の顔に、初めて表情らしいものが浮かんだ。
白い口許にかすかな影が浮いた、苦笑のようなものだった。蜉蝣の翅のように、ぼんやりとした儚い表情だ。彼女の瞳に、たっぷりと鬱屈が溜まっているのを修平は見た。
ああ、だからこの女からは雨の匂いがするのだ。香を焚き染めるように、雨が肌に染みついているのだろう。そんな、妙な考えが修平の頭に浮かんだ。
「ずっと家に籠っていると身体が腐っていくよう。だから、月曜のお昼はここへ来ることにしていますの。でも、何をしたらいいのか分かりません」
女は、つまらなそうに指先でカップの縁をなぞる。その仕種が、修平にはひどく女性的に映った。
それ以来、修平は月曜の昼に喫茶店へ行くようになった。店には必ず彼女がいて、窓辺の席で珈琲や紅茶を飲んでいる。その光景は、まるで一幅の絵画のようだった。
「でね、友達と一緒に蛙を捕まえて、転校生の机の中に入れておいたんですよ。そしたらそいつ、びっくりして椅子ごとひっくり返ったんです」
「まあ」
修平がひっくり返る真似をして両手を上げると、女は口許に手を当ててくすくすと笑った。女は笑うと、少女のような顔になる。
喫茶店にいる間、修平は女に様々なことを語って聞かせた。大学の様子、浅草で見た芝居、子供の頃の思い出。女は修平の話に耳を傾け、興味深そうに頷いた。ぺちゃぺちゃと喋る若い女と違い、優しく相手の言葉を受け止める彼女の姿勢が、修平にはこの上なく好ましかった。
「どんな理由があっても、いじめるのは駄目」
「でもそいつ、僕たちを田舎者扱いするんですよ。だから腹が立ったんです」
「駄目。悪いことだわ」
でも、と女はカップを手に取り、唇を潤した。
「ちょっとだけ、羨ましいわ」
「何が?」
「私、悪いことをしたことがないんですもの」
はあ、と修平は曖昧に頷く。
「良い子だったから。子供の頃から、ずっと。母は躾に厳しい人だったわ。昔は、何とも思わなかったんだけど」
女はか細い溜息を吐いた。少し傾いた首が、血管が透けそうなほど白い。修平は見てはいけないものを見た気がして、目を反らした。
「お母さんのことは、好きではないのですか?」
「いいえ、そんなことはないの。母はとても綺麗で優しい人よ」
そう言いながら、女は物思いに耽るように手許のカップに視線を落とした。小さな赤い水面に、彼女の顔が薄ぼんやりと映っている。
時折、女はひどく鬱々とした表情を見せる。そんな時の彼女は、梅雨の湿気を孕んだように重くなった。しかしその表情は、笑っている時よりも艶めいていた。
「悪いことをするってどんな気分?」
「どんなって。子供の頃は、すかっとしましたよ」
「そう」
女は気まぐれのように窓の外に目をやった。薄い窓ガラスの向こうには、分厚い曇天が広がっている。今にも降り出しそうな天気だった。
「そろそろ帰らなきゃ」
女は席を立ち、ご馳走様と言った。代金はいつも修平が払っていた。財布に余裕があるわけではないのだが、彼女に懐の深いところを見せたいという見栄からそうしていた。
「もう?」
「ええ。あの人の具合が悪くなったら、大変ですもの」
儚く消えてしまいそうな笑みを残して、女は店から出て行った。修平は窓硝子越しに彼女の後姿を追う。
彼女の憂鬱の要因は、おそらく小説家の夫だろうと修平は思っていた。彼女はあまり自分自身のことを語らないのだが、その表情から何らかの不満を抱いているのは明らかだった。
しかし、彼女はいつも夫の心配ばかりしている。そのことが、修平には不思議でならなかった。
次の月曜日、窓際の席は空っぽだった。
今まで女が修平より遅れて来ることはなかった。不思議に思いながらも、修平は席に座って彼女を待った。
神保町は朝から降り続く小糠雨で、暗く濡れている。紫陽花は赤紫色の花を咲かせ、瑞々しく潤っていた。
二杯目の珈琲を飲み終えた頃、ようやく女が姿を現した。雨に濡れた着物の裾を足にまとわりつかせるようにしながら、彼女は無言で向かいの席に腰を降ろす。
女はいつもと様子が違っていた。ただでさえ儚げなのに、今日はより薄っぺらで、身体から色素が抜け落ちたように見えた。黒々とした瞳でさえ、乾いていた。
どうかしましたか、と修平は問う。女は億劫そうに顔が上げ、修平を見た。
「郷里の母が、死んだの」
ぽつり、と女は呟いた。艶を失った、砂のような声だった。修平はとっさに言葉が見つからず、口ごもる。
「昨日葬儀があったの。まるで寝ているみたいで、死んでいるなんて信じられなかったわ」
「それは、ご愁傷様です」
修平は戸惑いながら、使い慣れない言葉を送った。
女は窓の外に視線を流し、まるでうわ言を呟いているようだった。ぐったりと項垂れた頭が、何かの拍子にもげ落ちてしまいそうで、修平は目を離すことが出来なかった。
その時、ふっ、と赤い唇が綻んだ。
「良妻賢母に、なりなさい」
「は?」
「それが母の教えだったわ」
女は亡霊のように顔を上げた。前髪に隠れた彼女の顔は、泣き笑いのような表情を浮かべている。今まで年上の女のそんな表情を見たことがなくて、修平は心臓がぎりりと締め上げられるのを感じた。
「子供を育てて、夫と仲睦まじく暮らすのが女の幸せだって、母は言ったわ。だから母のような女、妻になろうと思ったの。そのことに何の疑問も感じなかったわ」
でも、と彼女は壊れたレコードのように、低く唸った。
「母が死んで気付いたわ。私は、鏡のようなものなのね」
「鏡?」
「そうよ。娘は、母親という女を映す、鏡なのよ」
あなたに分かるかしら? と女はどこか自嘲めいた笑みを浮かべた。彼女がこれほど自分自身について語るのはこれが初めてだった。
「でも、鏡は映すものがないと、何の意味もないの。母は死んでしまった。意味のない私は、いったい、どうしたらいいのかしら」
それきり、女は言葉を忘れたように黙り込んだ。
修平は、ごくりと苦い唾を飲み下す。
虚ろな彼女の瞳は、底なしの井戸のように深かった。ともすれば女の中に引きずり込まれてしまいそうで、向かい合っていることがとても危ういように思えた。この女は巨大な虚だ。薄ぼんやりとしていて、実体がない。
しかし、その底なしの闇がどこまで続いているのか、それを確かめたいという衝動が修平の中に湧き上がってきた。
「別に、いいんじゃないですか?」
修平は、ぼそりと呟いた。
美しい柳眉を寄せ、女は首を傾ける。
「いいって、何が?」
「あなたのお母さんとか、良妻賢母になることです。そんなものに、なる必要はないと思うんです」
「どうして?」
どうして、と彼女は繰り返す。その表情は、無知な童女のようだった。
「だって、あなたはあなたじゃないですか。あなたは今のままで十分なのに、どうして他のものにならなきゃいけないんです? そんな風に思う必要は、ないんですよ」
ねえ? と修平はぎこちない笑みを浮かべた。
女は唇を閉ざし、また深く俯いた。テーブルの上で、硬く指を結んでいる。
修平は、赤面して顔を伏せた。元気付けるつもりが、逆に不快な気持ちにさせてしまったのかもしれない。今の女は薄氷のように脆いように思え、口を開くのが怖かった。
気付けば雨は止んでいた。濁った雲の隙間から、うっすらと光が差している。潤んだ町の風景は、まるで知らない国のようだった。
「ねえ」
やがて、女が口を開いた。彼女は小枝のように白い指を、そっと修平の手許に伸ばす。
見ると、女は先程までとは違う、薄い笑みを浮かべていた。まったくの別人のような、月夜の猫のような微笑だった。
美しい軟体動物のような口唇に、修平の目は吸い付けられる。
「悪いことを、してみたい」
彼女の爪の先が、すっと修平の人差し指をなぞった。
雨 矢口 水晶 @suisyo
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