紫陽花

矢口 水晶

紫陽花


 紫陽花は惨めな花だ。


 あの花は枯れた姿がいけない。梅雨の長雨に洗い流されるように脱色し、最後には丸めた新聞紙のような無残な色になる。それだけならまだしも、紫陽花は枯れた後も花弁が散らない。

 例えば、桜は良い花だ。花弁が色褪せる前に散って、無様な姿を見せまいとする。その潔さが好ましい。

 だが、紫陽花は枯れ果てて醜い姿となっても、茂った葉の間に埋もれて枝にしがみ付いている。夏が終わり、季節が秋になっても、枝に残っている。その生き意地の汚さが、見苦しいことこの上ない。

 文机に頬杖をつきながら、私は庭の紫陽花を眺めていた。青紫色の紫陽花の花は、昨晩降った雨の滴を纏い、きらきらと輝いている。今日、梅雨明けが宣言され、久々に青空が広がっていた。

 今は鮮やかな花を咲かせているが、紫陽花はすぐに衰え、朽ち枯れるだろう。そしてぼろ雑巾のような姿をいつまでも日の下に晒すのだ。それを思うと、胸が悪くなるようだった。

 いや、紫陽花のことを思わずとも、胸はいつも悪い。今日は特に気だるく、身体が重かった。

 私は生れ付き身体が弱い。心臓に持病があり、時々発作を起こす。少し風に当たっただけでも寝込んでしまうため、子供の頃に外で遊び回った記憶はない。生まれてすぐに二十歳まで生きられないだろう、と医師に言われたそうだ。

 だが、私は今年で三十歳になる。これまで何度も命に関わる大病を患ったが、死ぬことはなかった。親よりも早く死ぬだろうとずっと言われ続けていたのに、その親は二人とも病であっさりと逝ってしまった。

「いや、今度の新作もすばらしいですな、先生」

 振り返ると、小太りの中年男が黄ばんだ歯を見せて笑っていた。胡坐を組んだ足の上に、今しがた手渡した原稿を広げている。

 彼は私の担当編集者だ。いったい何が面白いのか、いつも浮ついた笑みを浮かべている。まだ夏と呼ぶには早い時期なのに、たるんだ頬をしきりにハンケチで拭っていた。

 死んだ父は十分すぎるほどの財産を残してくれた。だから私が自ら金を稼ぐ必要もないのだが、何もしないで家に籠っているのも苦痛だった。暇つぶしに書いた小説のようなものが、どこでどう間違ったのか文芸誌に掲載され、今では先生などと呼ばれている。

 そうかね、と私は適当に返答した。担当は太い眉をハの字に曲げて、へつらうような笑みを浮かべた。

「ええ、そうですとも。先生の小説は、毎回評判が良いのですよ。読者も先生の新作を待ち侘びています」

「こんなものが」

 私は、ちらと彼が手に持った原稿用紙に視線を落とした。

 私の小説など、日頃抱えている鬱憤をぶつけたものでしかない。何の価値のない駄文だ。そんなものを読んで、いったい誰が喜ぶのだろう。

 黙っていると、私が機嫌を悪くしたとでも思ったのか、どうされましたか、と担当は頬が強張ったような妙な顔をした。言葉を探すように、唇がだらしなく開いている。

 意味もなく笑うのは、相手の機嫌を取るためだ。だからこの男の愛想笑いは嫌いだ。

 からり、と襖の開く音がした。

 振り返ると、妻の白い顔が書斎の中を覗き込んでいた。

「あら、お客様がいらしてたのですか?」

 妻は音もなく書斎に入ってくると、担当に会釈した。担当は顎の肉を弛緩させながら、恐縮したように何度も頭を下げている。

 女の頬から飛び散る白粉の匂いが、鼻先を刺激する。その匂いに嫌悪感を覚え、私は顔をしかめた。

「すみません、外出していたものですから。今、お茶を淹れますわ」

「いえ、お構いなく。原稿を頂きに来ただけなので。すぐに帰ります」

 妻は担当に向かってうっすら微笑み、失礼します、と言って出て行った。襖越しに、足袋の底が廊下を擦る音が遠ざかっていくのが聞こえた。

「先生の奥様は、相変わらずお美しい」

 担当は広い額をハンケチで押さえると、先程とはまた違う種類の笑みを浮かべた。目許の肉を弛緩させた、好色そうな目付きだった。

 妻は色の白い、百合のように儚げな風貌の女だ。今年で二十七歳になるはずだが、実際の年齢よりも若々しく見える。黒目勝ちな瞳は、いつも泣いているように濡れていた。

 彼女とは結婚して三年になる。彼女の父は私の父と旧知の間柄であり、ほとんど親同士が決めた結婚だった。そうでなければ、年中家に引き籠っている私が結婚などできるはずもない。

 しばらくすると、担当は原稿を鞄に納めて本当に帰って行った。玄関口で見送りに行った妻と何か話している声が聞こえる。

 担当は私の原稿を読み終えた時よりも饒舌だった。時々、あの男は原稿ではなく、妻が目当てでこの家に来るのではないかと思うことがある。

 妻が戻ってきた。書斎に入って来ると、着物の裾を押さえて私の斜め後ろに正座した。彼女は外出用の着物から、地味な普段着に着替えていた。唇に塗った紅の赤さが、着物に不釣り合いだった。

「お身体の具合は? 今朝は気分が悪いと仰っていましたけれど」

 妻は私の顔を覗き込むように首を傾げた。結った髪から遅れ毛が一本零れて、白い首筋を撫でた。

「身体は問題ない。それより」

 今までどこに行っていた。私は問いかけた。

 黒々と濡れた瞳が、上目使いに私を見る。暗い湖の底のような、ぼんやりとした眼差しだった。

「どこって、お花のお稽古ですわ。毎週月曜のお昼に行くと、言ったではありませんか」

「嘘だ」

 私がそう言うと、彼女は怪訝そうに眉をひそめた。

 彼女が毎週何をしているのか、私は知っている。そんなにたっぷりと白粉を振って、良い着物を着て、どこへ行っているのか。この女は、私が何も知らないと思っているのだろう。

「誰かと会っているんじゃないのか?」

「いいえ。誰とも会いません」

 妻は、きっぱりと否定した。彼女の青白い表情を、その大きな目を、私は注意深く観察した。

「嘘だ。本当のことを言え」

「本当のことですわ」

 まるで聞き分けのない子供に言い聞かせるような、はっきりとした口調だった。彼女は少し戸惑うように目を細めた。

「私があなたに嘘を吐くわけがありませんわ。どうしてそんなことを仰るの?」

「お前を、信用できない」

「まあ」

 ふう。彼女は小さく溜息を吐いた。

「あなたがそんなことを仰るのは、きっとお仕事で疲れているせいですわ。体調だって優れないようですし」

「違う。体調など関係ない」

「本当に?」

 妻は私の顔を覗き込んだ。感情のこもらない、水面のような瞳。その表面に、青白い男の顔が映っている。まるで、死人のような顔をしていた。

 そうやって彼女と向かい合っていると、呼吸が苦しくなってきた。胸に鈍い痛みが生まれて、じわじわと広がり始める。

 私が思わず胸を押さえると、彼女は、ほら、と言った。

「やっぱりそうですわ。そんなに顔色が悪いんですもの、一度寝室でお休みにならないと」

 さあ、と妻は寝室へと促そうと手を伸ばしてきた。私はその手を振り払う。

「誤魔化すな。まだ、本当のことを、聞いていない」

「誤魔化すだなんて」

 妻は長い睫毛を伏せ、顔を俯かせる。赤い唇がきつく噛みしめられていた。本当に傷付いているような表情に、ぎりりと胸の痛みが増した。

 彼女が言葉を重ねるほどに、動悸が激しくなっていくようだった。女のたおやかな指が、私の心臓を掴んで弄んでいる。そんな妄想が、頭の中に浮かんで消えた。

「私は、ただあなたを心配しているだけなのに。どうしてそんな酷いことを仰るの? 私が嘘を吐いている証拠が、どこにあるのです?」

 彼女の言葉に、私は口ごもった。

 証拠なんてものはない。ただ、彼女の化粧や髪形の変化、その雰囲気から不信感を抱いただけだ。

 私は自分の直感を確信している。彼女は自己主張の少ない、薄ぼんやりとした女だ。かつては着飾って外出することなど滅多になかった。

 しかし、私の指摘に彼女は微塵も動揺を見せず、純真な聖女のような顔をしている。それどころか、本当に私の身体を気遣うような様子を見せている。そんな彼女と比べると、自分が猜疑心に取り付かれた、愚かな男であるように思えた。

「可哀想な人」

 妻は、ぽつりと呟いた。

 彼女はじっと私を見つめている。その瞳は、なみなみと憐憫の情を湛えていた。

「何だって?」

「あなたって、可哀想」

 妻は繰り返す。私は舌の根がからからに乾くのを感じた。額から粘ったような汗が滲み、頬へと流れ落ちてきた。

「その身体のせいで何も思い通りにできず、しかし死ぬこともできない。まるで、生きているのに死んでいるみたい」

「止めろ」

 私は頭を振って、妻の言葉を聞くまいとした。耳を塞ぐ手が、凍えたように震えている。

「止めろ。そんな目で見るな。そんなことを言うな」

「どうして?」

 どうして、と妻はさらに問う。何も知らない、あどけない幼女のように。彼女の言葉の一つ一つが、冷たく研ぎ澄まされた針のように、私の胸に突き刺さる。

 喉の奥から、ひゅうひゅうと木枯らしのような音が漏れ出てくる。全身が鉛のように重い。もう支えていることが出来なかった。

 私は胸を押さえ、畳の上に倒れ伏した。胎児のように身体を丸め、苦し紛れに畳の目を引っ掻く。がりり、と耳障りな音が上がった。

 妻は、額ずくような恰好の私を黙って見下ろしている。その目は凍りつきそうなほどに冷たく、鏡のように無慈悲に私の姿を映していた。

 急激に視界が暗くなっていく。私が最後に見た光景の中に、妻の瞳だけが、やけにはっきりと焼き付いた。








 目を覚ますと、私は布団の中にいた。目の前に見慣れた寝室の天井が広がっている。

 どうやら、また発作を起こしたらしい。妻に背中を擦られ、口に薬を流し込まれたことをぼんやりと覚えている。今は呼吸も静まり、胸の動悸はおさまっていた。手足にみっしりと砂が詰まっているような、嫌な気分だ。

 ふと、天井から視線を反らした。障子がかすかに開いていて、白っぽい午後の日差しが畳の上に落ちている。細く切り取られた空間に、紫陽花の青々とした葉が茂っていた。

 茂みの間に、灰色の塊が縮こまるように丸まっていた。ぼろ布のような花弁が、じっとりと濡れそぼっている。

 ざわり。私の中で何かが揺れるのを感じた。静まったはずの発作がぶり返したように、締め付けられるような息苦しさが胸に広がる。

 私は布団から這い出した。足に力が入らず、ふらつきながら障子を開け放つ。裸足のまま湿った土の上に降り立ち、幽鬼のような足取りで紫陽花のそばに向かった。

 紫陽花の茂みの中へ、両手を突っ込んだ。枯れた紫陽花の花を掴み、枝から引き毟る。枝が折れ、ぶちぶちと茎の千切れる音がした。

 手の中の花を力いっぱい引き裂き、ぬかるんだ足許に打ち捨てた。くすんだ花弁が、ばらばらと舞い落ちる。

「ああああっ、あああああ」

 私は両手で顔を覆い、その場に崩れ落ちるように膝をついた。そして泣き喚く子供のように、いつまでも引き攣れた声を上げ続けた。


 捨てられた花の姿は、私に似ていた。



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紫陽花 矢口 水晶 @suisyo

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