小魚ジョージ

矢口 水晶

小魚ジョージ

 妻が魚を産んだ。嘘じゃない、本当だ。

 それはある夜、二人でコンソメスープを食べている最中のことだった。彼女は「あっ」とつぶやいて、スープボウルの中にぽちゃんとスプーンを落した。

 スープに虫でも入っていたのかい。僕は妻にたずねた。

「産まれるわ」妻は一言そう言った。

 妻は冷静だった。スプーン片手におろおろする僕に命令して、産婦人科の先生と、義母と義父を呼ばせた。その間にも妻は破水し、股の間からどばどばと水があふれ出した。彼女のマタニティドレスとダイニングの床が、瞬く間にびしょ濡れになった。

 十五分足らずで産婦人科の先生が看護師を伴ってアパートにやって来た。カウチに座った妻の腹に、先生は聴診器を当てた。ふうふうと苦しそうに妻の吐く息に合わせて、膨れた腹がポンプのように上下した。

 妻からあふれ出る水はなかなか止まらなかった。彼女がいきむたびに、ばしゃばしゃ、ばしゃばしゃと羊水だかなんだか分からないものがほとばしった。カーペットはすでに大洪水になっている。この分だと、階下の住人から水漏れの苦情が来るのも時間の問題だろう。

「大丈夫よ。リラックスして、リラックス」

 中年の看護師が妻の手を握って励ました。妻は顔中に脂汗を滲ませていた。

 間もなくして、義母と義父が到着した。義母はカウチで喘ぐ妻のそばに駆け寄って、「しっかりするのよ」と声をかけた。義父は水浸しの床を見渡して「何だこりゃ」と素っ頓狂な声を上げた。

 出産は一時間に及んだ。繰り返しやってくる陣痛の波に耐え、妻は顔を真っ赤にしてふいごのように息を吐き出している。ひいひい、ふう。ひいひい、ふう。妻の吐く息と生ぬるい水のおかげで、サウナのようなむっとした熱気が部屋に充満した。

 先生、妻は大丈夫なのでしょうか。

 僕は不安になって産婦人科の先生に問いかけた。彼は「ううむ、ううむ」と唸り、妻の足の間を覗き込んで首を傾げるばかりだった。

 やがて妻がひときわ大きな悲鳴を上げた。その拍子に何かが彼女から飛び出して、ぽちゃん、と床の水たまりに落ちた。あっ、と僕たちは一斉に声を上げた。

 妻から産まれてきたのは、一匹の小魚だった。

 小指にも満たない、ちっぽけな稚魚だ。青白いうろこに覆われた皮膚はぬらぬらと濡れて、妻が作った水たまりの中でぴくんぴくんと跳ねている。それはフナのようなありきたりな魚のようにも見えたが、腹から生えた白い肉の管が、妻の子宮までつながっていた。先生はそれを医療用の鋏で、ちょんと切り離した。

「ちょっとあなた、何やってんの」義母が僕を怒鳴りつけた。

「早くすくっておやり。死んでしまうよ」

 僕は慌てて持っていたスプーンで小魚をすくい上げた。そして右往左往してあたりを見回したあげく、それを自分のスープボウルの中に入れた。スープはずいぶん時間が経っていたので、すっかり冷めきっていた。

「おめでとうございます。元気な赤ちゃんですよ」

 看護師はスープボウルを抱えて妻に見せた。コーンの粒やオニオンの欠片が浮かぶオレンジ色のスープの中で、小魚がちょろちょろと尾ひれをはためかせている。コンソメスープの海で泳ぐ、魚の子供。何とも奇妙な光景だった。

「まあ、何てかわいいの!」

 妻はスープボウルごと魚を抱きしめて感涙した。ぽとぽとと彼女から零れ落ちた涙が、スープに小さな波紋を作った。

 妻と義母はかわるがわるボウルを覗き込み、歓喜の声を上げた。いつの間にか苦情を言いに来た階下の中国人夫婦まで部屋に上がりこんで、「おめでとう、おめでとう」と手を叩いている。彼女らが命の誕生を喜び合う中、僕はちっとも明るい気持ちにはなれなかった。

 だって、産まれてきたのは魚だ。僕の子供は小魚だ。どう考えたっておかしい。

「先生、あれは私の孫なのですか?」

 青白い顔で問い詰める義父に、産婦人科の先生は「ううむ」と弱り切った顔で唸るだけだった。彼の白衣はたっぷり水を吸って、裾からぽたぽたとしずくを滴らせていた。どうして妻から小魚が産まれてきたのか、産婦人科の先生にも分からないらしい。

「あなた」妻が手招きした。

「抱いてあげて、あなたの子よ」

 そう言って、妻はずいとスープボウルを僕の胸に押し付けた。出産という大事業を成し遂げた彼女の顔は、汗で濡れ光って、美しく、誇り高かった。

 僕は恐々とスープボウルの中を覗き込んだ。ごみのように小さな魚が、じっと僕の顔を見上げていた。




 生後三日目。

 僕はアパートに妻と子供(?)を残して出勤した。僕は小さな保険会社で、人々に安心を売り歩く仕事をしている。たとえ生まれたのが魚だったとしても、僕は僕と妻の生活のために仕事をしなければならない。

 妻は赤ん坊のために用意した白いおくるみでスープボウルを包み、それを抱えて玄関まで僕を送り出してくれた。女というのは頑丈なもので、彼女は出産翌日から元気に部屋を歩き回っていた。

「いってらっしゃい」

 彼女は僕の頬にキスをした。小魚はスープボウルの中で、円を描くように泳いでいた。

 僕は駅前の本社に出社し、同僚たちに子供が生まれたと報告した。

「おめでとう」

「生まれたのは男の子? 女の子?」

「名前は何ていうの?」

 同僚たちは僕を祝福し、次々と質問を浴びせてきた。僕は曖昧に笑い、ぺこぺこと頷くだけだった。

 産まれたのは小魚です。僕のスープボウルの中で元気に泳いでいますよ。

 そんなこと、たとえ拳銃を突きつけられたって同僚たちに言えない。

「いやあ、めでたい。めでたいね」

 上司がやってきて僕の背中をぽんぽんと叩いた。

「子供が生まれるのはいいもんだ。人生に喜びを与えてくれるぞ」

 上司の言葉に、僕は、はあ、と曖昧に頷いた。

 でもまだ、実感がありません。僕がそう言って苦笑すると、「なあに。父親とはそんなもんさ」と上司は快活に笑った。

「女は妊娠した時から母親になる。しかし、男が父親になるのは子供が生まれたずっと後だ。実感なんて徐々に芽生えてくるものだ、心配するな」

「私に娘が生まれた時もそうだったからね」そう言って、上司は頼まれもしないのに子供の写真を取出して家族自慢をし始めた。彼は社内でも子煩悩で有名だった。

 差し出された写真には、今より少し痩せている上司と、その傍らに寄り添う若き頃の奥様が写っていた。奥様の腕には幼子が抱かれて、ぱっちりした瞳でカメラのファインダーを見つめている。うろこもひれもない、ちゃんとした人間の赤ん坊だった。

 上司の家族自慢から解放され、僕は自分の机に戻った。新しい商品の詳細資料。今日回らなければならない顧客のリスト。確認待ちの企画書。今日も処理しなければならない書類が山積みだ。しかし、僕はしばらく仕事を始めることが出来なかった。

 スープボウルを抱えて僕を送り出す妻。その姿が、いつまでもまぶたの裏にちらついて離れなかった。




 生後一週目。僕たちと小魚の奇妙な生活が始まった。

 妻は人間の赤ん坊に接するかのように、かいがいしく稚魚の世話を焼いた。僕のスープボウルに魚を入れ、日に三回、中の水を替えた。おかげで僕はスープを食べることが出来なくなった。

 魚はすこぶる元気だ。妻が入れた水草の間を泳ぎ回り、ぷくぷくと泡を吐いている。その様はペットショップで売られている観賞魚と変わらなかった。

 魚はあまりに小さすぎて性別が判らなかった。だから妻は「ジョージ」「メアリ」とあらかじめ考えていた男の子と女の子の名前で交互に魚を呼んだ。スープボウルを覗き込む彼女は、本当に幸せそうだった。

「ほら、ジョージ。ご飯の時間よ」

 妻は膝の上にスープボウルを乗せて、ぱんぱんに張った乳房を絞って小魚に母乳を与えた。白いしずくが水面に零れ落ち、小魚はその下でぱくぱくと口を開いている。透明な水が淡い乳白色に変わった。

 僕はその様子を遠目に見る度に、吐き気にも似た不安な気分に襲われた。




 生後六か月と十二日目。小魚は妻の母乳を吸ってすくすくと成長した。

 出産直後は小指の先ほどの大きさだったのが、タバコほどのサイズにまで大きくなった。青白い、頼りなさげなうろこも銀色に変わって、尾や胸のひれも厚みを増した。魚はスープボウルを覗き込む妻の顔を見上げて、ぷくぷくとあぶくを吐いた。

 魚類図鑑と見比べて、小魚をオスと判断した。名前は正式にジョージに決まった。少し窮屈になったからと、妻は魚をスープボウルから大きめのサラダボウルに移し替えた。

 妻は常にサラダボウルを両手に抱えていた。夕食を作る時も一緒。テレビを見る時も一緒。風呂に入る時も一緒。いつでもどこでもずっと一緒。

「ご飯にしましょうね、ジョージ」

「さあ、お風呂に入るわよ、ジョージ」

 何かあるたびに、妻はサラダボウルににこにこと笑って話しかけた。魚は人間の赤ん坊のように泣きも笑いもせず、ぼんやりと揺蕩うだけだった。

 君は、少し魚に構いすぎじゃないだろうか。

 ある晩、僕がそう言うと、「まあ、何を言っているの」と妻は目を見開いた。

「ジョージはまだ赤ちゃんなのよ、構うのは当たり前だわ。目を離したすきに猫が入り込んできて、この子を食べちゃったらどうするの」

「ねえ、ジョージ」と妻はサラダボウルを揺らした。彼女の腕の中で、ぽちゃぽちゃと水が跳ねた。

 ちゃんと戸締りしているんだ、そんな心配あるもんか。それより、どうして僕のネクタイにアイロンがかかっていないんだ。

 そう非難すると、彼女は「いやあね、男の人って」と顔をしかめた。

 それはどういう意味だ。僕は問いかけた。

「男の人って、大人になってもどこか子供っぽいじゃない。自分のことを自分で出来なかったり、つまらないことで怒ったり。私のパパがそうだもの。五十歳になってもママに靴下を履かせてもらっていたわ」

 妻の口ぶりに、僕は少しむっとした。

 僕は彼女のこういう口のきき方が嫌いだった。男の人って、どうして気が利かないのかしら、とか。男の人って、どうでもいいことにこだわるのね、とか。

 女の君に男の何が分かるのか。僕は皺だらけのネクタイを握りしめた。

「自分のことは自分でなさって。あなたはもうパパなんだから」

 そう言い残し、彼女はキッチンへ消えた。彼女が抱えるボウルの中で、小魚は人を馬鹿にするように尾ひれを振っていた。

 正直、僕は妻が不気味だった。

 いくら自分の胎内から産まれたとはいえ、どうしてあんな小魚に夢中になれるのか。肌身離さずサラダボウルを抱え、魚に話しかける彼女の姿は、滑稽ですらあった。

 狂っている。妻は子供を産んでからというもの、おかしくなってしまった。僕にはあの不気味な小魚が、彼女を狂わせているとしか思えなかった。




 生後一年目。小魚のジョージは目覚ましい変貌を遂げた。

 まず、手足が生えた。身体からちょろりと生えた胸びれと尻びれが徐々に大きくなり、長く伸びて人の手足のように形が変わった。ひれの先をよく見ると指のように分れて、水かきのある手のひらになっていた。

 それからずんぐりむっくりしていた身体の骨格が変わった。頭と首と胴の部分がはっきりしてきた。突き出した口先は引っ込み、代わりに頬の輪郭が丸みを帯びた。体形だけ見ると、立派に人間の子供だ。

 しかし、全身を覆うのはあくまでもぬめぬめ光るうろこだった。尻からはひれの着いた尻尾が生えたまま。おまけにかすかに魚市場のような臭いがする。

 半魚人。

 今のジョージの姿は、まさに映画やアニメに登場する半魚人そのものだった。彼はうろことひれの生えた赤ん坊に成長していた。

 ジョージが産まれた日、妻は誕生日のお祝いにとケーキとご馳走を用意した。仕事を終えて帰宅すると、二人では食べきれない量の食事がテーブルに並んでいた。クリームたっぷりのショートケーキに、よく肥えた鳥の丸焼き。自家製のクラムチャウダー、グリーンサラダ、フルーツの盛り合わせ。僕の誕生日には、こんなに豪勢な料理が出ることはなかったのに。

 サラダボウルに入りきらなくなったジョージは、熱帯魚用の水槽に入れられた。水槽の縁に水かきがついた指をかけて、じっと妻と僕の顔を見上げている。黒々とした彼の瞳はドングリをはめ込んだように大きく、本物の魚のように無感情だ。

 あの生き物は、いったい何を考えているのだろう。僕は彼の目が薄気味悪くて苦手だった。

「ジョージ、お誕生日おめでとう」

 妻はプレゼントのラバーダッグを水槽に浮かべた。駅前の百貨店で、彼女が一時間悩んで厳選した誕生日プレゼントだった。

 ぷかぷかと浮き沈みするゴムのアヒルに、ジョージはすぐに興味を示した。不思議そうに鼻先で突いたり、ぺたぺたと水かきで触ったりしている。その様子に彼女は感極まったように声を上げた。

「ほら見て、あなた。とても喜んでる。やっぱり、大きいアヒルちゃんにして正解だったわ」

 妻はくすくすと喉を鳴らし、指先でジョージの頭をくすぐった。ジョージがラバーダッグにしがみつこうとしてひっくり返り、跳ね上がるしずくがテーブルや料理を濡らした。僕は黙々とローストチキンを切り刻む作業に没頭していた。

 僕にはジョージが喜んでいるのかどうか、さっぱり分からない。魚の子供は相も変わらず人間のように泣きもしなければ笑いもしない。なまじ人間に近い姿になったせいで、より不気味さを増していた。この先、彼がさらに成長したらどうなるのか。僕は恐ろしくて考えることも出来なかった。

 ふと顔を上げると、ジョージが水槽から顔を出していた。ぬらりと濡れた黒い二つの目玉に、うっすらと僕の顔が映っている。

「みぃ」

 ジョージは子猫のような声を出した。近頃、彼はよく鳴くようになった。腹が減ったり心細くなったりすると、みぃみぃ、と水の中から妻を呼んだ。

 僕は得体のしれない生き物から目を逸らし、ナイフを動かし続けた。ローストチキンは原型が分からないくらいぼろぼろになっていた。




 生後一年四か月、二十七日目。僕と妻の間に摩擦が生じ始めた。

 その日、僕と妻はいつものように夕食をとっていた。妻は柔らかく煮たオートミールをスプーンですくい、かいがいしく水槽のジョージに食べさせている。半魚人はオートミールを舐めようと、じたばたと水の中でもがいている。

「今日はジョージと公園でお散歩したの。日差しが温かくて気持ちよかったわ」

 何だって? 僕は口にしたシチューを吐き出しそうになった。

「今日はとってもいい天気だったでしょう? 家に引きこもっていたらもったいないと思って、外に連れて行ってあげたの。ねえ、次の休みは三人でお散歩しましょうよ」

 呑気にそう話す妻に、僕は声を荒げた。

 君は何を考えているんだ。誰かに見られたらどうする。

 そう非難したが、「そんなの平気よ」と彼女はにべもなく言う。

「ベビーカーの日よけを降ろせば、誰かに水槽を見られることなんてないわ。ずっと家の中にいたんじゃジョージが病気になっちゃう。たまにはお日様に当てて、外の空気を吸わせてあげなきゃ」

 ジョージはえら呼吸だよ。

 そう言っても、彼女は「気分の問題よ」と知らん顔。ジョージに食事を与えるのに夢中で、僕の話など真剣に聞いてくれなかった。

 またある時、妻はジョージをバスタブに移そうと言い出した。水槽では狭すぎてかわいそうだと、そう主張するのだ。この頃だとジョージは二フィート近くまで成長していた。

 当然のことながら、僕は猛反対した。それなら、僕たちはこれからどこでシャワーを浴びたらいいのか、と。

「シャワーなら、下のご夫婦にお借りすればいいわ。いつもクッキーのおすそ分けをしているんだもの、快く貸してくださるわよ」

 彼女は呑気に言って、バスタブの中を覗き込んだ。新たにバスタブへ移されたジョージはラバーダックを抱え、ラッコのようにぷかぷかと浮かんでいる。密閉されたバスルームには、早くも魚の生臭さが充満していた。

 嫌だよ、そんなの。みっともない。

 そう言うと、彼女は「何がみっともないものですか」とすかさず反論した。

「ジョージのためなんだもの、そのくらいのことは我慢してちょうだい。あなたは、この子のパパなんだから」

 頭の中で、何かが切れる音を聞いた。僕の我慢も限界だった。

 どうしてこいつのためにシャワーを我慢しなければならないんだ。君は頭がおかしいんじゃないか。

 僕の怒声が、びりびりとバスルームのタイルを震わせた。こんな大声を出すのは、生まれて初めてだ。

「ひどい、……どうしてそんなことを言うの?」

 妻の頬から、さっと血の気が引いた。

「ジョージは成長していくんですもの、仕方がないじゃない。あなたは自分の子供がかわいくないの?」

 かわいくないのかって? 僕はバスタブを指差して叫んだ。

 だってこいつは魚だぞ。愛せるわけがないじゃないか。

 僕は一年と半年間、ずっとため込んでいたものを盛大にぶちまけた。バスタブの中で、ジョージはラバーダッグの尻をしゃぶりながら、じっと僕の顔を見つめていた。

「……魚だから何よ」

 妻はぶるぶると震えて涙を流した。

「魚だとしても、私たちの子供よ。神様がくださった大切な子供なのよ。私たちが守ってあげなければ、誰が守ってあげるって言うのよ」

「出ていってよ」妻はバスルームの外を指差した。

「あなたは人でなしよ。わたしとジョージに近づかないで」

 妻はわあっと小さな女の子のように泣きだした。僕がなおも反論しようとすると、彼女はバスルームにある物を手当たり次第に引っ掴んで、僕に投げつけ始めた。洗濯洗剤が床にぶちまけられ、香水の瓶が頭の上を飛んだ。ミルク石鹸がバスタブの中にどぼんと落ちて、ジョージが「きゃん!」と悲鳴を上げて水の中に潜り込んだ。

 僕は掃除用のブラシで殴られながら、戦場と化したバスルームから退避した。ばん、とけたたましい音を立てて扉が閉ざされた。中から、妻のすすり泣きが聞こえた。

 僕は呆然として廊下に立ち尽くした。

 こんなことは初めてだ。まだ夫婦ではなく恋人同士だった時から、僕と妻は喧嘩なんか一度もしたことがなかった。僕たちは自他ともに認める仲のいいカップルだったのに。

 以前の妻はもっと冷静だった。僕だって寛容な夫だった。それなのに、僕も妻も相手に譲歩することが出来なくなっていた。お互いに愛し合っているのに、相手を許せなくなってしまった。

 あいつのせいだ。

 黒い感情が、ゆらゆらと鬼火のように僕の中で燃え始めた。

 あいつが出てきた日から、すべてがおかしくなってしまった。やつのせいで妻は変わった。このままでは、僕たちは身も心も永遠に離れ離れになってしまうだろう。

 ジョージを消さなければ。僕はかたく決意した。




 生後一年四か月、三十日目。

 僕は寝息を立てる妻をベッドに残し――同じ寝室で眠っているものの、妻とは三日前から冷戦状態に入っている――夜中のバスルームに忍び込んだ。

 懐中電灯の光でバスタブを照らした。ジョージはラバーダッグを抱えて丸くなり、バスタブの底で眠っている。鼻の穴が開閉する度に、小さな気泡がぷくぷくと吐き出された。

 僕はジョージが目覚めないよう、慎重に水槽の中へと移した。ぬめぬめとしたうろこの感触に、ぞわりと腕の毛が逆立った。水の中から引き上げた手のひらから、磯のような湿っぽい臭いがした。

 急いで水槽を車の荷台に運び入れ、眠る夜の街を走った。目指すは山中の湖だ。湖には多くの魚や水鳥が生息し、連休になると大勢の釣り人で賑わった。ハンドルを回すたびに、座席の後ろでちゃぽちゃぽと水槽の水が跳ねた。

 真夜中の湖畔は深海のような静寂に満ちていた。風でかすかに揺蕩う湖面に浮かぶ、白銀色の満月。僕は草むらの中に車を止めて、湖まで水槽を抱えて歩いた。水の入った水槽は岩のように重く、僕はぜいぜいと喘いだ。

 湖面の縁までたどり着き、僕は中の水ごとジョージを捨てた。その間も彼は目を覚ますことなく、まるで吸い込まれるように湖の底へと沈んでいった。

 僕は大きなため息を一つ吐いた。まるで一日中砂漠を歩き回ったような疲労感が、ずしりと圧し掛かってきた。

 悪く思うなよ。僕は湖面に向かって呟いた。

 これも僕と妻の平和のためだ。仕方のないことだ。そもそも、人間から魚の子供が生まれてくること自体が間違いなんだ――僕は心の中でジョージに言って聞かせた。

 明日、ジョージがいなくなったことに気づいた妻が、また大騒ぎすることだろう。そのことを思うと気が重いが、後のことなんかどうとでもなる。いずれは妻も正気に戻り、穏やかな生活が戻ってくることだろう。

 僕は空っぽの水槽を抱えて車に戻り、キーを回した。どるるん、とエンジンが唸り声を上げた、その時だった。

 みいいいぃ――……。

 長い長い悲鳴が、夜の森に響き渡った。それは胸を切り裂くような、寂しげな声だった。

 ジョージだ。彼が目を覚まし、湖で泣いているのだ。みぃみぃ。みぃみぃ。弱々しいその声は、水の中で妻を呼ぶ時のそれだった。ざわざわと胸の中で波が立った。

 放っておけ。あんなやつ、無視しろ。

 僕は魚の鳴き声を振り切って車を発進させようとした。しかし、膝から下が石のように固まって、アクセルを踏むことが出来なかった。彼の声はいつまでも山中の暗闇にこだましていた。

 僕はだんだん堪らなくなってきた。運転席から転がり出て、湖へと戻った。

「ジョージ」僕は湖に向かって叫んだ。

 真っ暗闇に塗りつぶされた水面に、彼の姿は見えなかった。ガラスを掻き毟るような泣き声だけが、真っ白な星々を震わせていた。

 ジョージは水辺の草むらの中にいた。彼は初めて陸上に上がった古代魚さながらに、水の中から這い上がっていた。あと少し気づくのが遅かったら、踏ん付けてしまうところだった。

「みぃー」

 ジョージはまっすぐ僕の足元に這い寄ってきた。そして小さな右手をいっぱいに伸ばし、靴のつま先に触れた。

 彼は弱々しかった。僕がちょっと足を動かすだけで、彼の身体は簡単に潰れてしまうだろう。

 カエルみたいに踏み潰して、また湖の中に投げ込めばいい。そうすれば、僕は妻と二人きりの生活を取り戻せる。

 僕には彼の命を自由に出来る力があった。彼はあまりに小さく、か弱かった。

 大きな二つの感情が、ぐるぐると腹の中で渦巻いている。僕はその渦の中心で、小魚のように翻弄されていた。




「まあ、いったいどうしたの?」

 玄関で僕を迎えるなり、彼女は目を丸くした。

 僕はジョージを入れた水槽を抱えたまま、涙を流していた。ぽたぽたと涙が落ちて、小さな波紋をいくつも作った。その下で、ジョージは親指をしゃぶってすうすうと寝息を立てている。

 アパートを目指して車を走らせている間、僕はずっと泣いていた。大人にもなって鼻水まで垂らしている姿は、この上なくみっともなく見えていることだろう。

「いやあね。男の人って、いつまでも子供なんだから」

 妻は苦笑し、ショールの端で僕の顔を拭ってくれた。彼女が母親のようにかいがいしく世話を焼いてくれることが嬉しい反面、少し恥ずかしかった。

 僕と妻は並んでバスタブの底で眠るジョージを見下ろした。彼は子猫のように丸くなって、とても気持ちよさそうに眠っている。自分のすべてを誰かに預けた、安心しきった子供の寝顔だ。身体を覆うパラフィン紙のようなうろこが、きらきらと美しく輝いていた。

「見て、あなた。なんて可愛らしいのかしら」鈴を転がすような妻の笑い声が、静寂に満ちたバスルームに落とされた。

「ねえ」

 僕が呼びかけると、彼女はバスタブの縁から顔を上げた。

「夏になったら、引っ越しをしよう。田舎の、プール付きの一軒家にみんなで暮らすんだ」

 僕がそう言うと、妻は「まあ」とほほ笑んだ。

「なんて素敵なアイデアなの」

 妻は僕の肩にもたれかかった。ぴちゃん、としずくの弾ける音がバスルームに響いた。


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小魚ジョージ 矢口 水晶 @suisyo

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