第五巻 尼になる決意

 その頃、京の都の右大臣家、藤原兼通の屋敷では、信じられない事件が露呈ろていしていた。

 兼通は御所の蹴鞠けまりの競技で脚を挫いて、しばらく床に臥せっていたのだ。そのことを知らせた文を瀬田の瑠璃姫の元へ寄越したのだが、なんら見舞いの文も来なかった。ずいぶん薄情だと思ったが……兼通は病床の中で、毎日々、姫君に文を書き送っていた。だが、まったく返事がこない。使いの者に様子を見に行かせたが「息災そくさいに暮らしています」と伝えられたが、肝心の姫君からの文がない。

 怪我けがで逢いに行けないので、ご機嫌ななめなのかと京の珍しい品々を瀬田に送り届けたが、姫君からは礼の一文もない。さすがの兼通も「いくら、田舎暮らしとはゆえ、あまりに礼儀がなっていない」と立腹した。

 先日、亡くなった北の方の乳母、笹塚ささづかに瀬田の姫君を北の方に迎えたいと相談したばかりだったのに……まさか、瑠璃姫がこんな情愛の薄い女人とは思わなかったと、兼通はすっかり幻滅してしまった。


 それでも、夜になると姫君のしとねでの愛らしい肢体が忘れられず、悶々としていた。もしかしたら、新しい男が通って来ているのかも知れないと……妄想で嫉妬して眠れなかった。何故なにゆえ、こんな邪険な態度を取るのか、理解に苦しんだ。ふたりは契りあって二世を誓っていたはずなのに……人知れず累々と涙を流した。

 怪我が癒えた頃、兼通は「姫に逢いたい」と、居ても立ってもいられないほど、恋しさが募っていた。自分でも信じられないほど、瑠璃姫に執着していたのだ。瀬田の地へ行って、たとえ姫君が逢ってくれなくとも、遠くからひと目だけでも見たい……そして、愛しい姫君の面影を抱いて、鳰の海に、この身沈めてもよいとさえ思っていたのだ。

 兼通は、家人を呼びつけると、今から瀬田に参るので、牛車の支度をするように言いつけた。その言葉をきいて、いきなり家人のひとりが平伏して泣きながら、兼通に許しを乞うた。その男は笹塚の乳母子めのとごであった。


 いきなりの来訪に驚いた侍女たちだったが、無礼を止めるのも聞かず、憤怒した兼通はどかどかと乳母、笹塚の部屋へ入っていった。いつも穏やかな主人はなりを潜め、怒りで顔を紅潮させて、

「乳母殿、隠している物を見せて貰おうぞっ」

 きつい口調で云い放った。その剣幕に怖れをなした笹塚は、隠していた葛篭つづらを見せた。葛篭の中には、兼通と瑠璃姫の手紙がいっぱい詰まっている。几帳の奥には瀬田に送ったはずの品々が隠されていた。

「笹塚、これはどういうことだ」

 送ったと思っていた文も、あちらから届いていた文も、全て笹塚が隠していたのだ。まさか、こんなことをすると……怒りを通り越えて呆れてしまった。

「どうか、お許しください。亡き北の方を忘れて、新しい北の方に迎えるのが、どうにも悔しくて……文を隠したり、使いの者に金品を与えて、瀬田には行かず、行ったと嘘をつかせて、ふたりの仲を裂こうとしました。兼通殿が瀬田の姫に愛想を尽かして、諦めてしまえばよいと思ったのでございます」

 乳母は自分の罪を告白すると、泣きながら、

「罪深いことをいたしました。この笹塚、尼になって、亡き北の方の御霊みたまを弔いますゆえ……。どうか、お許しくださいまし……」

 床にぬかづいて詫びられた。笹塚の乳母子はその片棒を担いでいたのだ。兼通に瀬田に行かれれば、すべてが暴かれてしまうので、先に謝ったのだ。


 ――やっと、仔細しさいが分かった。

 兼通は自分に送ってきた、瑠璃姫の文を一通一通丹念に読んだ。急に連絡もなく、通わなくなった自分のことを驚き、嘆き、悲しんでいた――。

 ああ、姫君も自分と同じ気持ちだったのだと分かって嬉しかった。

 次々と文を読み続けていくと……新しい文には姫君が病気になられましたと、乳母の湖都夜から恨みのこもった文面だった。そして、一番新しい文には姫君が尼になられると書いてあった。

「なにっ、尼だと……」

 兼通は驚いた。姫君が尼になってしまったら、何もかも取り返しがつかなくなる。もう、二度と逢えなくなってしまう。――明日が得度式ではないか、何としても止めなくては、もう時間がない、瀬田まで間に合うか。

「馬だ。誰か、馬を持てい」




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 ■蹴鞠けまり⇒ 平安時代に流行した競技のひとつ。鹿皮製の鞠を一定の高 さで蹴り続け、その回数を競う競技である。


 ■乳母子めのとご⇒ 乳母は、実母に 代わって母乳を与え、育てる女性ですが、乳母子とは、その乳母の実子のことです。

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