第二巻 片田舎の姫君
それから、十数年の歳月が流れた。
家柄は悪くないのに、こんな片田舎ゆえに年頃になっても、瑠璃姫の元に通ってくる殿御はいない。たまに文がきても乳母の湖都夜が、
「こんな身分の低い男とでは姫君と釣り合いませぬ」
と、勝手に握り潰してしまう。
湖都夜は、瑠璃姫を身分高い貴族の北の方にさせて、京の都に還るのが夢だった。そのために姫君を美しく聡明に育てあげたのだ。乳母に取って自慢の姫君である。
三年ほど前に、一度だけ、湖都夜のお眼鏡に叶った殿御がいた。
その後も三、四人の
「姫君は気位が高くて、とてもお相手が務まりません」
男たちの足が遠のいていった。片田舎に高貴な姫君が住むと聞いて、単なる好奇心から通い始めたくせに、冷たくあしらうと、すぐに諦めてしまう。なんて
瑠璃姫は浮世の煩わしさから逃れたかった。兼ねてより尼になりたいと考えていた。
毎日、叔母の湖都夜の元へ、瀬田川で獲れたしじみやごりなど届けに行く
「姫君、そんな憂鬱な顔をなさっては、美しいお姿が台無しでございます」
やたらと張りきる乳母とは対照的に、瑠璃姫は欝々とした気分だった。
「だって……どうせ、また……」
口の中でもぞもぞと反発するが、
「あれ、紅が薄いようでございますね。これ、誰か、姫君の化粧箱を持ってきや」
沈んだ姫君の様子に全く意に介さない、乳母の湖都夜である。
「わたくしのお育てした瑠璃姫様は、都の女人にも負けない美しさ。その長く艶やかな黒髪に心を奪われぬ殿御はおりませぬ」
姫君の衣装に香を焚きつけている。
いよいよ夜も深まって、もうすぐ式部大輔殿のお車が着きますと知らせが届いた。今宵は初見なのでお泊りにはならないと思うが、乳母の湖都夜は自分のことのように、そわそわと落ち着かない。
「いいですか、殿御のおっしゃることには『はい』とか『さようでございます』とか、ちゃんとお答えしなくてはいけませんよ。姫君は無愛想でいけません」
ぐちぐちと説教を始めた。
どうせ、二、三度通われて、足が遠のく殿御に媚びなど売らぬと姫君は考えていた。この
屋敷の前に牛車が到着して、にわかに活気づいてきた。共の者たちと一緒に屋敷の敷地に通されて、さらに奥の間へと式部大輔は進まれた。
今宵、初めて通われた
たぶん、歳は自分よりも十歳ほど上だろうか、藍色の
先ほどから、乳母の湖都夜が兼通の機嫌を取ろうと、あれこれ話かけている。時折、聴こえてくる、お声も低く心地よい。
「おほほっ、姫君はねんねで世事に
「わたしは世慣れた女人よりも、姫のようなひっそりとしたお方を好ましく思っています」
「まあ、そう云って頂けると……何しろ、ここは片田舎なもので、都の流儀が分かりませぬゆえ……」
「堅苦しい流儀は気にせずに、気が置けないもてなし有難く思います」
今まで、通ってきていた男たちとは受け答えがぜんぜん違う。この人はなんて心の広い人なのだろうと瑠璃姫は思った。
「それでは、今宵はこれくらいにして退席させて頂きます」
「さ、さようでございますか」
早い退席に、気分を害されたのではないかと乳母はおろおろしていた。
「では姫君、また、ご機嫌伺いに参りましょう」
あの方が帰られる。思わず瑠璃姫の口から声が出た。
「ど、どうか、またお越しくださいまし……」
小さな声で呟くように話した。
「おお、これは愛らしい。小鳥の
そう云って、朗らかに笑うと兼通は帰って行かれた。
わずかな時間だったが、瑠璃姫には深く心に染み入るような時間であった。こんな気持ちになったのは、たぶん生まれて初めてかも知れない。
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■
職務として、非違の糾弾、弾劾を司る。二官八省から独立して監察を行う。太政大臣を除くすべての役人の不正を摘発するのが主な任務である。
■
外出や造作、宮中の政、戦の開始などの際、その方角の吉凶を占い、その方角が悪いといったん別の方向に出かけ、目的地の方角が悪い方角にならないようにした。
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