鳰の海

泡沫恋歌

第一巻 瀬田の唐橋

 におうみや霞のうちにこぐ船のまほにも春のけしきなるかな

                     (式子内親王「新勅撰集」)


 におうみとは琵琶湖の古称で近江国の歌枕である。京の都から近い淡水の海として近淡海ちかあわうみと呼ばれる琵琶湖びわこ

 その煌めくさざなみが、やがて穏やかな流れとなる瀬田川せたがわ、その瀬田川と琵琶湖に架かっている「瀬田せた唐橋からはし」は古来より歴史の拠点として度々その名が挙げられる。

 その存在は古くは日本書紀にも記されている。「唐橋を制する者は天下を制す」という云われるほど、東国から京の都に入る唯一の橋であった。


 その「瀬田の唐橋」のほど近くに、高貴な姫君がひっそりと暮らして居られた。だが、普段は静かな屋敷の中がざわめいている。乳母めのと湖都夜ことよは大張りきりで侍女たちと、今宵、初めて通ってこられる式部大輔しきぶたいふのお迎えの支度を調えていた。粗相そそうのないようにと、細かく侍女たちに指図をしているのだ。屋敷の前では篝火かがりびを焚いて牛車の到着を待っている。

 しかし、当の本人、瑠璃姫るりひめは、そんな乳母たちを尻目に御簾すみの奥で所在なさそうに脇息きょうそくにもたれ、物憂い表情で溜息をいていた。

 乳母の湖都夜には内緒だが、もう男に通って来られるのは煩わしいと姫君は思っていて、人知れず平穏な日々を送りたいのである。

「姫君、これはまたとない、ご縁でございます」

「もう、殿御とのごはいらぬ……」

「何をおっしゃる、姫君には殿上人てんじょうびとの北の方として、都に還るのが天命、これは好機でござりまする」

 おおいに乗り気な乳母は、姫君の尻を叩いている。

 今宵こよい通われる。式部大輔しきぶたいふ藤原兼通ふじわら かねみちは、父君は右大臣、母君は大納言の家柄の娘で、由緒正しき血統の嫡男ちゃくなんである。

 今は、まだ若いので正五位、式部大輔と官位は低いが、将来有望な公達きんだちなのだ。しかも、兼通は、一年ほど前に北の方を亡くされて以来、ずっとに服しておられた。噂ではかよっておられる女人も何人かはいるようだが、誰も北の方になさろうとはしない。

 今なら寵愛ちょうあいが深ければ、兼通の北の方になれるかも知れないのだ。


 こんな片田舎の瀬田せたの里に住まう、瑠璃姫だが決して家柄は悪くはない。

 瑠璃姫の父君は、右近衛大将うこのえたいしょう九条良憲くじょう よしのりで、母君は中宮ちゅうぐうに仕える女官であった。内裏だいりで近衛大将に見染められた母君は宮仕えを辞して、夫が用意した屋敷に住まうこととなったが、近衛大将の北の方は悋気りんきの強いお方で、都に居を構えることを許さなかった。それゆえ、都より遥か遠い琵琶湖を望む、瀬田に屋敷を構えることになった。

 そうなると、遠方ゆえに近衛大将は通うことも儘ならず、男の愛情は思った以上に早く冷めてしまわれた。都の女たちの元ばかりに通われて、瀬田の母君の元へは、月に一、二度しか通っては来られなかった。

 瑠璃姫が生まれて、瀬田の長者の娘、湖都夜が乳母めのととして奉公にあがった。湖都夜は、生後まもなく我が子を亡くし、夫とも疎遠になっていたので、屋敷に召されて姫君を育てることを生甲斐と感じていた。

 乳母は田舎育ちだったが、若い頃、都で貴族の屋敷に奉公したことがあって、都育ちの女主人を尊敬し憧れていた。鬱々うつうつと物思いに耽る母君とは違い、乳母はほがらかで活発な性格、姫君にはきびしいが情の厚い女である。

 元々、病弱だった母君は、瑠璃姫が七つの時に身罷みまかった。夫を待つばかりの寂しい日々が寿命を削ったのかも知れない……と、姫君は思っている。

 母が亡くなって、北の方の元へ引き取る話もあったが、幼く愛らしい姫君を……あの悋気の強い妻の性格を知っている近衛大将だけに、瑠璃姫の養育を乳母の湖都夜に任せて、この地に姫君を残した。




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 ■におうみ⇒ 琵琶湖


 ■式部大輔しきぶたいふ⇒ 式部省は、日本の律令制における八省のひとつ。官位は正五位下。


 ■右近衛大将うこのえたいしょう近衛大将このえのだいしょうは、日本の律令官制における令外官の一つ。宮中の 警固などを司る左右の近衛府の長官。

 左近衛府には左近衛大将さこんえのだいしょう 、右近衛府には右近衛大将うこのえたいしょうが置かれた。官位は従三位


 ■殿上人てんじょうびと⇒ 九世紀以降の日本の朝廷において、天皇の日常生活の場 である清涼殿の殿上間に昇ること(昇殿)を許された者のことである。


 ■中宮ちゅうぐう⇒ 天皇の妻たちの呼称の一つ。皇后・皇太后・太皇太后の三宮の総称。


 ■内裏だいり⇒ 古代都城の宮城における天皇の私的区域のこと。御所ごしょ禁裏きんり大内おおうちなどの異称がある。


 ■悋気りんき⇒ ねたむこと。特に情事に関する嫉妬。やきもち。


 ■身罷みまかる⇒ 身が現世からまかる意。死ぬ 。

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