第六巻 幸せな姫君に

 瀬田の屋敷ではもうすぐ得度式が行われる。姫君と乳母は黒い法衣に身を包んで、石山寺から訪れる僧侶たちを待っていた。

 いにしえより『 髪は女の命 』という。その大事な髪を切り落とされてしまわれる。生まれた時から、ずっと伸ばし続けた黒髪は、こんなに艶やかで美しいのに……女の煩悩と共に切り落とされる所存なのだろうが、勿体ないことよ。……どうしても乳母の湖都夜には諦め切れなかった。

 その時、呟くように瑠璃姫が独り言を云った。

「最後の逢瀬の褥で、わたくしを北の方にすると、あの方がおっしゃったのに……あれは嘘だったの、兼通様」

 まだ未練が断てず、姫君は懊悩おうのうとしておられる様子だった。

「もう、あんな男は忘れておしまいなさい」

 叱りつけるように、きつい口調で湖都夜が云ったら、その声に力なく項垂れ肩を震わせて忍び泣いておられる。痛ましいほどに打ちひしがれた姫君の様子に、乳母も胸が張り裂けんばかりで……。

 ――おのれ兼通め、わたくしの姫君をこんな目に合わせて……呪詛じゅそしてやるわ。

 おおよそ、今から授戒じゅかいを受けて出家する者が考えるようなことではない。それほどに湖都夜は悔しかったのだ。

「僧侶の方々がご到着なされました」

 知らせにきた侍女の目が赤い――。女主人の出家を悲しんで泣いていたのだ。瑠璃姫は高貴な身分なので、在家のままで出家修行者となる。だが、屋敷の主が尼になれば、華やかな祭事や道行とも無縁になってしまう。ひっそりと身を隠すようにして生きて行くのだから、もう訪れる人もいない。そのせいで侍女の何人かは暇を出されてしまうのだ。この屋敷が、あの頃のように華やぐことはもう二度とない。


 ――得度式が始まった。

 僧侶たちの荘厳な読経の中、瑠璃姫も合掌して念仏を唱えている。瞑目めいもくした美しい横顔は悲しみをたたえていた。ぬかづくようにこうべを垂れる姫君の黒髪を、僧侶がひと房掴むとついに剃髪の儀式が始まる。いよいよ剃刀を入れようとしていた。

「しばし、待たれよ」

 その時、声がした。どかどかと廊下を走りながら誰かが入ってきた。狩衣かりぎぬすがた姿の公達が息を切らせながら走り込んできたのだ。一同は驚いて儀式を中断した。

 その声に、頭を垂れて瞑目していた姫君が顔を上げた。目の前に現れた、愛しい男の姿に茫然としておられた。

「姫、わたしを見捨てて出家などしてはならぬ。ふたりは二世を誓った夫婦ではないか」

 瑠璃姫の肩を強く握ると、兼通は真っ直ぐにお顔を見てそうおっしゃった。声も出ぬまま、姫君の目からは、ただ、ただ滝のように涙が溢れていた。

「僧侶殿、誠に申し訳ないが、姫君は出家などなさらぬ。この藤原兼通の北の方になるお方ですから」

 そう宣言なさると、兼通は法衣姿の瑠璃姫をひょいと横抱きにしたままで、誰憚ることなく塗籠に入っていった。これから、この中でふたりは熱く語り合うのだろう。

 乳母の湖都夜は何が起きたのか分からぬまま、法衣姿で座っていた。兎に角、得度式は中断されて、僧侶たちも引き上げる支度をしていた。

 確か……、兼通殿が姫君を北の方にすると申された。右大臣家のご嫡男ちゃくなんの北の方に瑠璃姫さまが、なんとまあ、名誉なこと、女冥利おんなみょうりに尽きる。ほんのさっきまで、尼になるはずだった姫君が右大臣家の正妻の座に……すごい……衝撃の大きさに、乳母はその場で気を失った。

 侍女たちに介抱され、やっと気がついた時、御髪おぐしに手をやられて、

「髪があって良かったあ……」

 と、乳母がおっしゃっられて、侍女たちはくすくす笑った。


 瑠璃姫と乳母は生まれ故郷、鳰の海を後に「瀬田の唐橋」を渡り、京の都、右大臣家の寝殿造りの北の対に住まうことになった。嫡男、藤原兼通の正室として迎え入れられたのだ。兼通は通っていた女人たちと別れられて、瑠璃姫様、おひとりだけを寵愛なされた。

 瀬田の姫君の玉の輿は、童京きょうわらべたちの口の端に上がって、忽ち噂話になったが幸せな姫君だと誰もが羨み微笑んだ。父の近衛大将も大喜びしたが、その北の方だけは悔しがった。

 やがて、瑠璃姫は兼通との間に若君三人と姫君二人をもうけられた。若君たちは将来有望な公達として内裏で要職につかれた。二人の姫君の内のおひとりは入内にゅうだいされて、中宮ちゅうぐうとなり東宮とうぐうを挙げられた。もうひとりの姫君は左大臣家に嫁がれて、右大臣、藤原兼通の一族は栄華を誇った。

 そして瑠璃姫と兼通はいつまでも仲睦まじく、おしどり夫婦のままであった。瑠璃姫の傍らには、いつも乳母の湖都夜がいた。幼い頃から大事に育て上げた姫君の幸せは、すなわち乳母の幸せでもあったろう。

「姫君のお陰で乳母は幸せな一生でございました。ありがとう……」

 年老いた乳母の湖都夜は、姫君とその家族に見守られて、天寿を全うし、眠るように静かに息を引き取られた。


 鳰の海や 秋の夜わたる あまを船 月にのりてや 浦つたふらん                                (俊成女「玉葉集」)


 右大臣家の池には瀬田の里から持ってきた、あしが群生している。その葦の穂が風もないのに大きく揺れた、まるで天に向かって掌を振るかのように――。

 そして、生まれ故郷のにおうみを目指して飛び立った、ひとりの乳母の魂が「瀬田の唐橋」から、京の姫君に別れの挨拶をして、ゆっくりと昇天していったのである。



                 - 完 -




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 ■授戒じゅかい⇒ 仏門に入る者に師僧が戒律を授けること 。


 ■嫡男ちゃくなん⇒ 嫡男とは、嫡子(嫡嗣、ちゃくし)とも呼ばれ、一般に正室(正嫡)の生んだ 男子のうち最も年長の子を指す。

 長男と同一視されることも あるが、たとえ長男であっても側室の生んだ子である場合、正室の生んだ弟が嫡男となることもあることから、嫡男と長男は必ずしも同一ではない。


 ■入内にゅうだい⇒ 皇后・中宮・女御になる人が、儀礼 を整えて正式に内裏に入ること。


 ■東宮とうぐう⇒ 皇太子のこと。

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鳰の海 泡沫恋歌 @utakatarennka

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