第六巻 幸せな姫君に
瀬田の屋敷ではもうすぐ得度式が行われる。姫君と乳母は黒い法衣に身を包んで、石山寺から訪れる僧侶たちを待っていた。
その時、呟くように瑠璃姫が独り言を云った。
「最後の逢瀬の褥で、わたくしを北の方にすると、あの方がおっしゃったのに……あれは嘘だったの、兼通様」
まだ未練が断てず、姫君は
「もう、あんな男は忘れておしまいなさい」
叱りつけるように、きつい口調で湖都夜が云ったら、その声に力なく項垂れ肩を震わせて忍び泣いておられる。痛ましいほどに打ちひしがれた姫君の様子に、乳母も胸が張り裂けんばかりで……。
――おのれ兼通め、わたくしの姫君をこんな目に合わせて……
おおよそ、今から
「僧侶の方々がご到着なされました」
知らせにきた侍女の目が赤い――。女主人の出家を悲しんで泣いていたのだ。瑠璃姫は高貴な身分なので、在家のままで出家修行者となる。だが、屋敷の主が尼になれば、華やかな祭事や道行とも無縁になってしまう。ひっそりと身を隠すようにして生きて行くのだから、もう訪れる人もいない。そのせいで侍女の何人かは暇を出されてしまうのだ。この屋敷が、あの頃のように華やぐことはもう二度とない。
――得度式が始まった。
僧侶たちの荘厳な読経の中、瑠璃姫も合掌して念仏を唱えている。
「しばし、待たれよ」
その時、声がした。どかどかと廊下を走りながら誰かが入ってきた。
その声に、頭を垂れて瞑目していた姫君が顔を上げた。目の前に現れた、愛しい男の姿に茫然としておられた。
「姫、わたしを見捨てて出家などしてはならぬ。ふたりは二世を誓った夫婦ではないか」
瑠璃姫の肩を強く握ると、兼通は真っ直ぐにお顔を見てそうおっしゃった。声も出ぬまま、姫君の目からは、ただ、ただ滝のように涙が溢れていた。
「僧侶殿、誠に申し訳ないが、姫君は出家などなさらぬ。この藤原兼通の北の方になるお方ですから」
そう宣言なさると、兼通は法衣姿の瑠璃姫をひょいと横抱きにしたままで、誰憚ることなく塗籠に入っていった。これから、この中でふたりは熱く語り合うのだろう。
乳母の湖都夜は何が起きたのか分からぬまま、法衣姿で座っていた。兎に角、得度式は中断されて、僧侶たちも引き上げる支度をしていた。
確か……、兼通殿が姫君を北の方にすると申された。右大臣家のご
侍女たちに介抱され、やっと気がついた時、
「髪があって良かったあ……」
と、乳母がおっしゃっられて、侍女たちはくすくす笑った。
瑠璃姫と乳母は生まれ故郷、鳰の海を後に「瀬田の唐橋」を渡り、京の都、右大臣家の寝殿造りの北の対に住まうことになった。嫡男、藤原兼通の正室として迎え入れられたのだ。兼通は通っていた女人たちと別れられて、瑠璃姫様、おひとりだけを寵愛なされた。
瀬田の姫君の玉の輿は、
やがて、瑠璃姫は兼通との間に若君三人と姫君二人をもうけられた。若君たちは将来有望な公達として内裏で要職につかれた。二人の姫君の内のおひとりは
そして瑠璃姫と兼通はいつまでも仲睦まじく、おしどり夫婦のままであった。瑠璃姫の傍らには、いつも乳母の湖都夜がいた。幼い頃から大事に育て上げた姫君の幸せは、すなわち乳母の幸せでもあったろう。
「姫君のお陰で乳母は幸せな一生でございました。ありがとう……」
年老いた乳母の湖都夜は、姫君とその家族に見守られて、天寿を全うし、眠るように静かに息を引き取られた。
鳰の海や 秋の夜わたる あまを船 月にのりてや 浦つたふらん (俊成女「玉葉集」)
右大臣家の池には瀬田の里から持ってきた、
そして、生まれ故郷の
- 完 -
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長男と同一視されることも あるが、たとえ長男であっても側室の生んだ子である場合、正室の生んだ弟が嫡男となることもあることから、嫡男と長男は必ずしも同一ではない。
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鳰の海 泡沫恋歌 @utakatarennka
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