三題噺「海の上」
桜枝 巧
海の上で。
私たちの住む町から何度も電車を乗り継ぐと、地元のものしか知らない海岸にたどり着く。
夏だからね、サビキで少なくとも小イワシかアジが釣れると思うよ。あと狙えるのは……」
そういった奴の目は、小学生のちびっこのように輝いている。手にはしっかりと釣り竿の入った細長いバッグのようなものが握られていた。蒼の下地に白い文字で「We Are Fishers!」とペイントされた帽子は、風で飛ばされないようにひもで固定されている。バッグの反対の手には、プラスチック製の箱。肩には大きなクーラーボックスのひもがかけられている。
「ごめんね、今回もついてきてもらっちゃって」
申し訳なさそうに眉を寄せた奴に、私はそっぽを向いた。何度か気の利いた言葉で返そうと口を開いたが、結局何も出てこなかった。仕方なく、
「方向音痴が一人で迷わず海に来れるとは思わないけれど」
と悪態だけついて終わる。
そうだね、と小さく頭を掻いた奴は、でも来れてよかった、と目の前に広がる海を見つめる。
二人が並んで一杯に埋まってしまうくらい細い堤防は、何度も波にぶつけられたのか緑色のコケが所狭しと生えている。気を付けないと転んでしまいそうだ。
どこまでも続いていく海自体も、どこか少し濁っていた。木の破片や人間が捨てたのであろうプラスチック上の何かが所々浮かんでいる。
始めようか、と奴は荷物をコンクリートの上にすべておろした。プラスチック製の、工具箱のようなものを開けると何やら作業を始める。すぐに見失ってしまいそうなほど細い糸や、魚がこれから食いつくのであろう、変なひらひらとした飾りのついた針をつなぎ合わせていく。
「シカケ」というらしいが、よくは分からなかった。
ただ、前回受けた中二の学年末試験の時よりも真剣な顔をしている奴を見ると、話しかける気にはなれなかった。私の、この幼馴染に対する「踏み込めない領域」を見せつけられたようにすら、感じた。
手持ち無沙汰になった私は、何とはなしに先ほどまで歩いてきた堤防を眺める。曲ることもなく、分かれてもいない一本の道が、陸までずっと続いていた。この道を二人で歩いてきたのだ、ずっと一緒だったのだと思うと、少し誇らしかった。
「……よし、できた!」
隣で何も言わずに作業していた男子の両手が、自慢するように高々と上がる。手にはTVでよく見るような「釣り竿」が握られていた。
ようやく奴がいつもの「奴」に戻った気がした。そんなことを考える自分がいて、何かから逃げるように首をふる。
ここから先は、知らない。何もできない。
私はただ、道案内をしただけ。
今からは、奴にとっては運と判断力の問題だ。私はいつも通り砂浜をぶらぶらと散歩し、時折通りかかる猫と遊ぶしかない。帰るわけにもいかないし。
どちらにしろ、陸にいる私と海好きの奴の間にある差は、埋まりやしないのだ。
「じゃあ――」
砂浜で待っているから、と言おうとして、奴の一言にさえぎられる。
「はい、これ」
優に私の身長を超すような、長いものを手渡される。針があるから気を付けて、と言われ、私はぽかんとしたままそれを受け取った。竿はさっきまで奴が強く握っていたせいか、温かさが残っていた。
「……って、え?」
ようやく我に返った。これって、と言おうとする言葉の前に、また奴が口を開く。少しだけ頬が赤い。しかしその中には、いくらかの罪悪感が混じっていた。
「いや、これが最後だし。さんざん世話になったのに、いつまでも一人だけっていうのはなーって思っただけ」
俺、来年の高校、東京の私立にしようと思っているんだ。
奴の目は、いくらか揺れてはいたものの、変わらない決意を物語っていた。
そっか。
私はそれだけしか言えなかった。そうか、私たちもう中三か。一緒の高校ってわけにもいかないしね。そんな言い訳めいた言葉すら、口から出ることはなかった。
にゃう、と不意に声がする。足元を見ると、普段は砂浜やその付近の道路にいるはずの猫がすり寄ってきている。危ないよ、と奴が呟く。猫はぱっと身をひるがえし、一本道を戻っていった。
そして気が付く。
私たちがいる場所の先は、もう海だった。一緒に歩いていけるような道は、存在していなかった。
奴が決定的な一言を放つ。
「お前は大事な友達、だから、さ」
一緒にやろうぜ。
私はその場に座り込んだ。ざらつくコンクリートの地面が痛い。右手で受け取った竿だけが、空を指している。
そうだね。
私は無理やり笑顔を浮かべると、奴がやっていたように思いっきり釣り竿を振った。餌は、つけていなかった。
それほど飛ばなかった糸の先は、何も言わずに海へと沈んでいった。
三題噺「海の上」 桜枝 巧 @ouetakumi
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