第12話

 ゆうが消えてから後、私の人生はとんとん拍子だった。


 園長先生の言葉に従い、私は一年間勤めてから退職した。いわゆる寿退社であり、さきの見合いがまとまったのだ。まさか自分のような人間が、人並みに結婚するなんて予想だにしなかった。相手は某大学の准教授で、地域コミュニティ会長のずっと若い後輩であり、自分の専門分野に情熱を持っているところに魅かれた。相手もなぜか私を気に入ってくれたようで、見合いから三か月後にはプロポーズされた。

 すぐにでも仕事を辞めてほしいと言われたが、私自身の希望で、年度中は仕事を続けた。園長先生との約束もあったが、ゆうへの未練があったことは否めない。

 園の居心地は悪くなく、職員とも和気藹々として過ごしていたが、日々が幸福であるほど、いたたまれなかった。ゆうの犠牲の上に今の生活があるのだと。けれど同時にゆうが犠牲になったならば、それほどまでにして守ってくれた生活を無碍にはできないとも思い直す。その繰り返しだった。

 結局、ゆうは溜池に消えた後、二度と私の前にあの小さな姿を現してくれなかった。勤務の最終日に私は号泣し、勘違いして同調してくれた若い先生たちも大いに泣いてくれた。


 結婚から一年後、私は女の子を出産した。初産には高齢で半ば子どもは諦めていたが、思いがけず自然妊娠したのだ。夫は喜び、双方の両親は初孫に夫以上に大喜びだった。

 名付けたかったのはもちろんあの子の名だけれど、私の意見が介在できる余地はなく、最終的には夫が両親たちの意見をまとめて『絵里香』と名付けてくれた。国際的に通用するような響きにしたかったそうだ。結果的には良かったのかもしれない。絵里香とあの子は、顔も性格もまったく違っていたから。


 早いもので絵里香も十八歳。春から大学に通い始め、青春を謳歌している。今日もサークルだ、コンサートだ、彼氏だと、朝から晩まで飛び回るのだろう。

「テーブルの上にお財布出しっぱなしだったわよ」

「ああ、もう。ママ、ピンクのカットソーどこ?」

 絵里香は差し出された財布を引ったくるようにして私の手から取る。外出前のこの子は、いつも気が荒い。

「おとつい着ていたやつ? 洗濯してまだ乾いていないわ」

「なにそれ、専業主婦のくせに怠けすぎじゃないの、ママ」

 厳しい口調で言われ、私は肩をすくめた。なんとか支度を整えた絵里香を玄関まで見送る。

「今日はおじいさまとおばあさまがお食事に行こうと言っていたでしょ。六時までには帰ってらっしゃいよ」

「ええー、そうだっけ。めんどくさ」

「入学祝いだけじゃなく、お小遣いももらったばかりでしょう。きちんとお礼をしてらっしゃい」

 絵里香は、私でも持っていない高いヒールの靴を履くと向き直り、どうせママは行かないんでしょ、と口を尖らせた。義理の両親が会いたいのは孫の絵里香なのだ。私がのこのこ顔を出しても、彼らは良い顔をしない。曖昧な苦笑を浮かべていると、絵里香は物言いたげな視線を寄こしたが、結局は行ってきますとだけ言って玄関を出た。

 

 絵里香が出掛けた後、家の中はさながら台風が去ったようだ。私は彼女の選別から外れた靴や鞄、はては下着までを拾い集めながらリビングへと戻る。点けっぱなしのテレビを切れば、閑静な高台に建つこの一軒家は本当に静まりかえる。今や教授となった夫は、昨日から泊まりがけの学会に行っていた。優秀な学生をお供に連れて。

 私は幸福だった。夫の社会的な地位は高く、経済的にも安定している。一人娘は目に入れて痛くないほど可愛く、眩しいほどに美しく成長した。唯一苦労と言えば、この広い家の掃除くらいだろうか。それも昨日一通りしたばかりなので、今日は特に用事が無かった。本当に、満ち足りた、恵まれた、美しい暮らし。

 お茶を淹れて、三人家族には広すぎるテーブルにつく。窓から射し入る光に目を細め、ほうっと息をついた。春の陽射しは、昔を思い起こさせる。あの心細く、惨めで、縋れる何かを必死に求めていたあの頃。だから、あんなものにすら・・・・・・・・温もりを求めてしまった。今なら、わかる。

 私はしばらく、光に目をすがめていた。窓の向こうで揺れているのは、今年も花盛りを迎えたモッコウバラとクレマチスだ。アーチに沿って淡黄色と白の花が垂れ下がっている。ここ数年、私はガーデニングに凝っていた。保育園で覚えた園芸がここにきて再燃したのだ。肥料や土など重い荷物を運ぶのは一苦労だが、愛娘が手伝ってくれるので助かっている。今や、ご近所でも評判の庭となっていた。

 と、目の錯覚だろうか。私は違和感を覚えて目元に手をやった。揺れる花々がやたら近くに感じられたのだ。花房が窓ガラスを音も無しに突き破り浮き上がったように、それはぐんっと近付いてくる。既視感。

 光にまぎれ、ぽっかりと浮かび上がってきたのは、白い手首だった。

 こちらに伸ばされたすんなり長い指先は、私の頬を愛撫するように触れ、顎を辿り、首筋へと下る。冷ややかな体温は子どものそれではない。

 声も出せなかった。

 次に起きる光景に目を見張る。

 手から繋がる腕が徐々に光から浮き上がる。

 手から腕、腕から肩、胸、胴、上半身、下半身。徐々に、徐々に、ほっそりとした姿が現れる。気付けば、輝くほどに若く美しい女性が目の前にいた。


「……ゆう」


 愛しい名を呟けば、彼女はさも嬉しそうに微笑み、しなやかな腕を回し、抱擁を求めてきた。いつまで経っても甘えてくる子を抱き、艶やかな黒髪を撫でてやる。

 彼女が現れる時、私はいつも緊張して息を詰めて食い入ってしまう。一度は、この何より尊い存在を失ってしまった経験があるから。

 

 結婚して十数年経った頃、私は夫の不倫に気付いた。相手は夫が教える、とびきり優秀で、とびきり綺麗な学生だった。今日の学会も彼女と一緒であり、二人の関係は今後も続くだろう。気付いたものの、夫を責められなかった。露わにすれば、夫は今の地位を失い、私の生活も破綻する。そんな恐怖があったのも事実だが、因果応報という言葉が頭から離れなかったのが一番の理由だろう。戦うだけの気力も情熱も無かった。ちょうど同じ時期、思春期に入った絵里香とも、義両親ともうまくいっておらず、私はただ無為に日々を過ごしていた。

 そんなある日、ゆうが現れた。一人きりの家でぼんやりとしていると、今日のように、なんの脈絡もなく、ぽっかりと、手首から。しかも、見知った小さなゆうの姿ではなく、十七、八の成長した女性となっていたものだから、私は悲鳴を上げてしまった。顔に愛しい子の面影を見つけ、もちろんすぐに誰か思い当たったけれど。

 どうして今となって現れたのか、どうして園から出られたのか、どうしてあの時消えたのか。訊きたいことは山ほどあった。

 

 ――おかあさんが、心配だったから

 

 けれど、その端的な答えで、他の一切の理由が必要なくなった。

 ゆう、あなたさえいてくれるのなら。帽子を脱いでも消えなくなったのと同じく、園を出られるまでに成長したゆうが、私を助けにきてくれた。これ以上の幸福があるだろうか。たとえ、私の妄想だとしても。

 それからゆうは私が一人きりになるとやってきて、話し相手になってくれたり、お手伝いをしてくれたり、一緒にお茶を飲んだりしてくれる。


「今日はグラジオラスとダリアの球根を植えたいの。ああ、向日葵もね。手伝ってくれる?」


 ゆうは顔をほころばせて頷くと、壁に掛けてあった揃いの日除け帽子を取り、一つを私に、もう一つを被って光満ちる庭へと出た。その溢れる光に負けないほど、ゆうは溌剌と眩しかった。

 あの小さないとけないゆうとはもう会えない。それは寂しくはあるが、今は自ら光を放つ太陽のようなゆうがいる。

 私は幸福だ。本当に、満ち足りた、恵まれた、美しい暮らし。ゆうがいるだけで、世界はこんなにも輝く。

 ただ一つだけ不満があるとすれば、近所の人が我が家には姉妹がいると思っているらしいことだ。そのたびには苦笑を含んで「私の娘は一人ですよ」と訂正しなければならないから。〈了〉

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浮帽子 坂水 @sakamizu

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