【短編】湿気

甲斐ミサキ

【短編】湿気

 新入生歓迎コンパの余興のつもりだったのだ。

 河津は《紫の結社》に在席している。簡単に説明するなら、魔術論議やオカルトをロジカルな視点で研究しようというサークルだが、方向性で言えば「不思議萌え」な奴らばかりで構成されている不思議物好き、ヒドゥンアニマル好きの集いだ。

 そのサークル、式王子大学支部に顔を覗かせたのが木津という清楚な雰囲気をまとう少女だった。《紫の結社》は学生に留まらず、社会人も他の大学生も受け入れる広範な活動をしているので、見知らぬ顔が増えているのもままある。

 その木津翔という少女は、河津を一目見て、「カエルさんみたいな顔ね」微笑んだ。その瞳に悪意はない。ほよーとした雰囲気な口振りからすると、額が狭く、両目の間が開き気味の河津が単にそう見えただけのことだろう。

「ピョンピョンガエルっていうのかな、空気送り込むとぴょこんと跳ねるオモチャあって、あーいうのとか、なんか造詣可愛くないですかー」ふにょーと言う。


 新入生歓迎コンパをやるという。

 六月にというのは遅いように見えてそうではない。学生が一通りのサークルやクラブを見回って、腰を落ち着かせるのがその頃だから、正式な入会式のようなものだ。

 仮にも結社なんだから。

 そこに木津も来る。河津は客観がどうであれ、自分の外見を好意的に受け入れてくれた木津をサプライズさせるために何か用意しようと思った。

 式王子港駅コンコースから発車する式王子港私鉄バスに乗り込んで、棲家の霧生ヶ谷市まで国道一三三九号線で色々噂のある暗がり峠、式王子ヶ谷第一トンネルを通過し五十分くらいで北区外縁堀通り前に着く。北区の外縁堀は並々と水が湛えられているものの、部分的に外蓋がしてあって一部が通行可能になっており、そこから北区へと入る道のりがある。

 いい月夜だ。霧生ヶ谷市では月酔いすると聞く。月光が収束して黒点照射のように一箇所を照らすものだから、月の魔力に酔うのだと。そんなことをふと思うのも、木津が河津に好意を持っているかもしれないという心的酩酊感が彼を酔わせて私的な抒情も浮かぶというものであろう。

 歩きなれた夜道にふと見慣れない店が目に入る。水路沿いにぽつねんと建つ骨董屋然とした居ずまいは数百年の歳月を閲した風格が漂っているが、その割に目にした記憶がないというのも不思議だった。

「いらっしゃーい……なんでオレが店番してる時に客来るかなァ」

 カウンターであぐらをかいて、デスサイズフロッグと書かれたシャツを着た少年が文句たらたらに河津を迎えた。

 月酔いしたのか、河津には少年の声は届いていなかった。何より、店の陳列棚に目を奪われた。

 河童が昆布で簀巻きにされてもがいている。

 妖怪にさほど造詣が深いわけじゃない河津でもそれが半魚人か河童かくらいの区別はつく。いわゆる頭蓋が皿となって剥き出してるのでこれは河童だ。切なそうな目でこちらを見つめてくる河童某に河津が思わずたじろぐ。

「これは本物?」

「おう、混じりッけなしのモノホン。味はいけるんだけど活け作りみたいなモンだから、慣れるまではね。素人にゃ薦めらんないな。にいさん、これどうだい?」

 赤と黄色斑のカエルが圧縮されて平べったくなっている。表面は蝋で加工してある。さすがに内臓は抜かれているようだけど、これはなんなのか。

「トレカ。トレーディングカード。昔でいやメンコだけど、にいさん好きそうなオーラで出てるかんなー」結社ではタロットの方が隆盛だったのでトレカとは縁遠いのだけど、これは何やら珍妙だが惹かれる。

 と物色していた河津の目に一つの丸薬が飛び込んだ。

「一日カエル体験剤」とある。

「あの、これって?」

「お、にいさん。好い所に目をつけたね。その名の通り一日カエルを体験できる薬剤。

 キリュウガヤソコヌキガエルとその他の薬効成分を混ぜて作ったマジモン」

 薬包を解いて中身を見せてもらう。見た目は白色に緑や茶が浮いた斑の固形コンソメっぽいが明らかに怪しい臭気がする。

「これを食べると一日カエルに成れるんだな」

「そー」

 サプライズを考えていた。目の前で河津が木津の前で忽然とカエルに変化したらどんな反応が返ってくるだろうか。トリックではない本物のカエルになるとしたら?

 一粒四千九百円。これで彼女の心を射止めることが出来たら……。

「済まないけど、これが本当に効くか証明して貰えるかな。本物だったら買おう」

 少年は数瞬考えて愉快そうな笑みを浮かべた。

「お客さんの頼みを断っちゃ、名折れだ。任せなって」

 すでに解いてあった丸薬をポーンと口に放り込んでもにゅもにゅと噛む。

「味は?」

「苦酸っぱいようなそれでいて肉汁たっぷり汁気たっぷりかな。名状しがたい味」

 刹那。

 ぽひゅんと少年の縮尺が縮まる。カウンターの上で胡坐をかいていた少年は透き通った水色のカエルに化生していた。

「どうかな……ゲロ……くそ声帯がゲロ……効果はご覧のゲロ」

 ひゅんと空気がざわめき、瞬き一つの間に少年が元に戻っていた。

「お一人様お買い上げー!」 

 

 *

 

 結果は惨憺たるものだった。

 意気揚々に隠し持った一日カエル体験剤を口に含み、皆さんご覧あれ!

 としたが、なんの変化もなかった。木津さんどころではなかった。そそくさと逃げ口上を繕い、ほうほうの体でコンパ会場から抜け出した。

 少年の見事な変身に目を奪われて効能を疑いもせず、説明書すら読んでいなかったことに今更ながら気付いた。

「薬効成分には《個人差》があります。

 アレルギー体質の方は医師の所見の下、服用してください。

 この薬剤に関して一切のトラブルは当社には責任義務は負わないことを明記します。

 それでは良き、遺伝子の旅をお楽しみください」 

    

 *

 

 服用して以来、やたらと喉が渇くようになった。部屋の乾燥が気になる。

 霧生ヶ谷市に空梅雨はない。

 西からの海風が式王子ヶ谷山地にぶつかって、盆地である霧生ヶ谷に水の恵みをもたらすのだ。落葉樹林が豊富な山地は豊富な天然の貯水池となり、霧生ヶ谷の水路が枯れることはない。並々と常に湛えられている。

 それでも河津には空気の乾燥が耐えられなかった。加湿器などという高級なものを所持してはいないので、水で湿らせたバスタオルを何枚もハンガーにかけ、小まめに霧吹きで部屋に加湿した。それでも何か息苦しい。畳に洗面器で水をぶち撒けたら粘菌類がそこらに沸いて出た。黴の胞子が吸気に混じる。

 しだいに肌が滑りを帯びるようになってきた。掌をあてがうとぺたりと吸い付く。例えるなら皮膚の表面にもう一層ゼラチンの膜が覆っているような感じだ。

 現状に耐え切れず、次元錦の銘酒「酒都の霧」を浴びるように飲み、酔いで誤魔化そうとするが、ますます意識だけが鋭敏になっていく。野生を帯びていく。

 月夜に人を忍びつつ這う。

 河津は陽の下ではもはやろくに動けなくなっていた。もう一度、あの店に押し入り、この状態を打破せねばならない。

 北区の同じ水路。数百年を閲したかのような古びた襤褸屋が……あった!

 人当たりの良さそうな好好爺が猪口で何かをやっている。

「おや、お客人かな。ふむ、極度の酩酊。この店に辿り着けるはずぢゃの」

「ここで薬剤を買ったのだが、効果を打ち消したいんです」

 ほっ、と老人が両掌を打った。お主か。あれを買ったのは。

「結論から言うとな、済まぬことじゃが、打ち消せン。

 アレは「捻転眼」といって、ふむ。人の言葉で例えると内分泌腺に作用して、脳下垂体の活動を麻痺させるものなのじゃ。末端肥大症を極度に人為的に推し進めた薬剤と言えば分かるかの。つまり《先祖返り》を引き起こすのじゃ。もっとも誘発する対象をカエルとして売り込んではいるがね」

「しかし、一日体験って……」

「ふむ、いずれ一日はカエルとしての生を堪能できるはずぢゃ。なのでわしらが嘘をついておるわけではない。

 まぁ、カエルになるまでの時間的個人差はあるがね。気の毒なことぢゃ」

「でも、店番の少年はすぐさまカエルになって、すぐさま元に戻ったのに!」

「孫は別ぢゃ。わしらは人の姿をしておるが、体質は人とは違うからのう」


 *

 

 ほんの余興のつもりだったのだ。

 両眼の幅が広がっていき、正面に据えると言うよりは、もはや左右に配すると言うほうが形容として正しくなってきている。口裂が真一文字に裂ける。

 部屋にある鏡という鏡は全て叩き割った。己の姿を見るのが恐いのだ。

 指の間に薄い膜が張り始めている。

 加工食品が口に出来なくなった。冷凍庫にある豚ばら肉や鰹の切身を齧る。

 呼吸が苦しい。空気が、酸素が。何より皮膚が乾くと耐え難い痛みがはしる。加湿では追いつかない。風呂に水を張り一日中浸かっている。

 脱衣所でビー玉ほどの斑模様の蜘蛛を見つけた。理性より先に舌が伸びた。

 チョコレートの味、という形容ではなかったが、汁気があり味蕾に馴染む。

 皮膚はマジョーラカラー、光学色彩と言うか、角度により、様々な色や斑紋を浮かび上がらせる。そのゼラチンの皮膚の下に鱗状の角質が生えだしている。《先祖返り》がこのまま進めばカエルどころか爬虫類目になってしまうだろう。

 顎の両脇に違和感を覚える。たるんだ皮膚が裂けようとしている。鰓の萌芽だ。

 風呂場の窓から外を覗く。

 月光を反射して並並と湛えられた水路の水に途方もない誘惑を感じる。

 冷蔵庫の食材はすでに尽きた。

 骨格が変容し肋骨の幾本かは消失してしまった。前屈姿勢に背骨が曲がり、誰かが彼を見れば粘膜に覆われたせむし男を彷彿とするだろう。

 もはや自分は人ではない。大学の哲学授業で習ったデカルトの言葉だけが自分を人たらんと足掻くためのか細い糸だ。

 我思う。ゆえに我あり。

 でもその我を見失っている自分に、人たるを説明出来るロジックはない。

 木津さんを思い浮かべた。たおやかな白い首筋に齧りつく自分がいる。血を啜り胸骨を引き裂き、汁気溢れる肝臓に舌鼓を打つ。宙をもがく白魚のような指先を握り締め、開いていく瞳孔を愛しげに見つめ返す。脈動する心臓に甘い口づけ。そうして頬袋一杯に飲み込み、消化に励むのだ。完全一体となる恍惚。

 河津は表情を歪め、啼きながら嗤った。声帯が発するそれは人のものではない。

 月光に魚鱗が照り輝く。喉が鳴る。

 とぷん。

 名月や 河津飛び込む 水の音。 

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