第四章

 魔女の声が月夜に響く。

「ロック《閉紋:結果の無いゲーム:駆動》」

 それは運命を変える歯車の音。死という結果を無限に後退させる歯車の組み合わせを生み出した。

 フラウの声はアユムの体から死の臭いを消し去り、彼の何もかもを生へと執着させていく。

「間に合ったわね」

 フラウは大きく一息ついて、安堵の表情を浮かべた。

 相変わらず彼の顔は白いままだが、それでもフラウは自分に言い聞かせるように、彼の状況を頭の中で整理する。

 これでアユムの死は回避できた。まだ、目を覚ますには理由が足りないけど、それは後でどうとでもなる。

 そしてアユムを地面に横たえると、フラウは対峙する二人へと目を向けた。

 怯える獲物を追い詰めるようにゆっくりと、11は鋭い眼光の代わりに鎌の群れを引き連れて、カイルへ一歩また一歩と近づいていく。

「ナンバー11!」

 突然かけられた声に11は立ち止まり、どこが正面かわからない顔をフラウに向けて、機械のような声で感情無く話す。

「おや、もうよろしいのですか? ナンバー13」

「ええ、おかげさまでね」

 余裕の笑みを浮かべてフラウは答えた。

「それより……」

 そう言って、フラウは険しい視線をカイルに向ける。

 彼は逃げ腰で、怯える子供のような恐怖に歪んだ顔を彼女に返した。

 再び11へと視線を戻して、フラウは立ち上がりながら言う。

「あんたが、あいつの父親を殺したってのは本当なのかしら?」

 彼女は銀髪を夜風になびかせ、楽しげに見下すような視線を11に送った。しかし、その目は笑ってはいなかった。

 11は表情無くフラウに答える。

「はい、本当ですが……。気になりますか?」

 フラウは数秒黙ると、

「いいえ」

 と短く言って、湧き上がる感情を吐き出すように大きく息をついた。

 彼だけでなく父様まで、こいつが……。

 それでも押し寄せる感情にフラウは大きく息を吸い込むと、白い球体に指を突きつけて吐き出した。

「11! あんたは私の敵よ!」

 それに対して11は体全体を一瞬振るわせ、両腕を広げたままフラウへと向き直る。そして、左手を胸に当てて軽くお辞儀をしながら言った。

「それは光栄ですね。しかし、残念ながら今はあなたの相手をする時間は無いようです」

 そう言って上げた目の無い顔は、視線をフラウの後ろへと向けていた。

 無いはずの視線を追って振り向けば、そこには地面に横たわるアユムがいる。

 そして突然、彼から金属の砕けるような音が生まれた。

「なっ!?」

 フラウの目の前で、アユムにかけたギアが砕け散る。そして、散らばるギアの欠片を吸い込むように、アユムの体へと風が吹く。それは円を描いて渦となり、彼の体を浮かばせた。

「いったい、何が起こったの!?」

《まずいことになった》

 フラウの疑問に答えたのは白兎の声だった。

 その間にアユムの体は十メートル近くまで上昇し、取り巻く渦は早く強くなって周囲の木々を揺らし始める。しかし、なぜか体感する風はゆっくりで視覚と触覚のずれにフラウは戸惑いの表情を浮かべた。

 そんな彼女に、兎も戸惑いを含んだ声で話を続ける。

《あいつはリバースだ》

「リバース?」

 知らない言葉にフラウはさらに戸惑い、宙に浮かぶアユムを見上げて眉間に皺を寄せた。

 すると、別の声がフラウの耳へと突然届く。

《このままだと、世界の始まりが観測できるかもしれませんね》

 淡々と予測を口にしたのは黒兎の声だった。

 対してフラウは、予測しない事態に拳を握りしめて言う。

「あんたたち、これはどういうことなの!?」

 しかし、それは台風並みに勢力を増しつつある風に掻き消され、フラウは暴れる髪を押さえて周囲を見回す。

 暴風となった風は墓石を揺らし、供えられた花々を空へと一気に舞い上がらせていく。そうして花の乱舞が宙を埋め尽くす中、橙色のホオズキが月の光を受けて明かりを灯す。

 しかし、それはすぐに橙色から緑色へと色を変え、小さく萎んで白い花へと姿を変える。

「あれは、どういうこと?」

 ほかの植物も花から蕾へ、草から種へと姿を変えて、種はさらに小さくなって粉のようなものが吹雪のように風に舞う。

《運命を巻き戻しているんです》

《しかも、あいつ暴走してやがる》

 目の前の光景に呆然とするフラウへと、黒と白がそれぞれ説明を口にする。

 渦の中心へ目を向ければ、死を回避するギアを失ったはずのアユムの体が急速に回復していく。砕かれた骨も千切れた筋肉も断たれた血管も破れた皮膚も、すべてが元の状態へと巻き戻されていく。

 運命を巻き戻してるですって?

 フラウは逆回りの未来を想像して唖然とする。

「そんなことしたら……」

《運がよければ世界の振り出し》

《悪ければ世界の崩壊ですね》

 白と黒の言葉にフラウは奥歯を噛み締めた。

 なんで、こんなことになってるのよ!

 状況を整理しようと周囲を見回して、フラウは風の向こうに影のような巨躯がいることに気がついた。

「おい! カイル、大丈夫か!?」

 巨躯は人狼の声で叫んだ。

 いつの間に回復したのか、人狼は呆然とするカイルの肩を揺らして何やら話しかけている。そして、カイルは人狼をゆっくりと見上げ、しばらく見つめた後、人狼の体を力任せに押しのけた。

「俺に触るな!」

「おっ!?」

 人狼は少し驚いた声を上げ、少し後ろによろめくと、

「とととっ」

 と、さらに暴風に絡め取られるようにバランスを崩し、渦の中心、アユムの近くへと引き寄せられていく。

 そして、草花と同じく人狼の歯車が巻き戻り始めた。

 まずは人狼の体から獣の毛が消えていく。そして、その特徴的な獣の顔が人間のそれへと姿を変える。

「!? おいおい、なんだこれ!?」

「オーレイン!?」

 自分の体を見回す人狼へ、カイルが手を伸ばしながらその名を叫ぶ。

「来るな!」

 しかし人狼は、近づこうとしたカイルを怒鳴りつけて自分の顔を手で触る。

「俺の中の狼が消えていく?」

 頬に触れた手からは赤の爪が抜け落ち、全身の皮膚は抜け殻のように皺だらけになっていく。

 渦中に立ったまま男は爪を失った手を見つめ、地面に突き立つ爪を何気なく拾い上げた。すると爪は一瞬で赤黒く変色し、同じ色が人狼だった男を浸食するように染め上げる。そして人の形は影のように厚みを失い小さくなって、一枚の布きれへと変貌を遂げた。

 風の中で舞うそれは、ダークレッドのパンティーだった。

「…………」

 女物の下着を見つめてフラウは言葉を失った。

 代わりとでも言うように、かつて人狼だったそれを見ながら11が、まるで感心するように声を震わせ言葉をつくる。

「これが、歯車を巻き戻し作り直す力……」

 そしてアユムを見上げ拍手を送りながら、11はさらに言う。「素晴らしい。これでこそ来たかいがあったというもの。実に素晴らしい」

 サーカスに来た観客のように声を上げる11の視線を追うように、フラウも渦の中心へと目を向ける。「アユム……」

 小さくその名を口にして、フラウは拳を強く握りしめた。

 そして宙で横たわり背を向けるアユムに、彼女は睨みつけるような視線を向けて呼びかける。

「アユム! あんた、何やってるのよ!? そんなことより先にやることがあるでしょ!」

 しかし、その声さえも無かったことにするかのように風は唸り、アユムは何も反応を示さない。

 それでもフラウは巻き戻っていく運命を引き留めようと、彼が果たすべき約束を、力の限り大きな声で口にした。

「告白はどうするのよッ!!」

       ◆

 眼下で世界が壊れていく。

 草木の破片は渦を巻き、上空へと巻き上がっては消えていく。

 あるものは種に、あるものは若い芽に、しかし、いずれも最後は時を遡って消えていく。

 そして、消えた瞬間にそれらは姿を変えて蘇る。それは人の腕であったり、動物の目であったり、植物の花もあれば、血液や宝石など様々だった。

 混沌とした渦の中心にアユムは横たわり、しかし、その意識は自分さえも見下ろしていた。

(なんだ、これ?)

 疑問しか浮かばないアユムの視界の中、今も老人になった人狼が、手品のように布きれに変わって宙を舞う。

 そこには死も生も無く、ただただ輪廻が乱れ渦巻いていた。

 渦の周りには、フラウと同じ栗色の髪をした青年と奇妙な姿の白ずくめ、そして銀髪を風に揺らすフラウの姿がある。

(フラウさんの、あの髪……)

 彼女が空から落ちてきたときのことをアユムは思い出す。

 あのときは僕が下で彼女を見上げ、彼女は僕に身を預けてくれた。

 懐かしい思いを引き寄せようと、アユムはフラウへ手を伸ばす。でも、それは彼女に届くことも距離を縮めることもなく、ただ宙を虚しくかくだけだった。

(くそっ、どうして……)

 変わらない距離に苛立ちながら、それでも伸ばした手の先で、アユムは彼女たちの表情に気づき手を止めた。

 三人は渦から一定の距離をとって、アユムをそれぞれ見上げている。その視線は困惑と怖れ、苛立ち、そして狂気を載せて押し寄せる。

(……また、僕は迷惑をかけてるのか……)

 伸ばした腕が力を失い垂れ下がる。

《まだ、諦めてはいけない》

 突然聞こえた声に顔を上げれば、アユムの正面に東洋人の男が一人立っていた。

《考え続けるんだ》

 男は軍服を身にまとい、真っ直ぐな視線を向けてアユムに言う。

(考えるって……)

 何をどうしたらいいかわからずアユムは視線を逸らし、しかし男は、その顔を両手で挟むと自分へ向けた。

《これは君が起こしていることだ》

 力強くも温かい男の手に戸惑いながら、アユムは右の頬に違和感を覚える。

 それは何かが欠けた冷たい空虚感。

 男の左手には薬指が無かった。

 そのことが気になりつつも、アユムは真綿で首を締めるような男の手のひらに何も言えず、視線を恐る恐る外した。

(そんなこと急に言われたって……)

 そんなアユムに、男は突きつけるように言葉を口にする。

《君は義務を果たさなければいけない。選択という義務を》

(……義務……)

 その射抜くような言葉に、アユムは息を呑んで視線を戻す。

 その目を真っ直ぐに見つめ男は続ける。

《そうだ。生きるものの義務として、君は考え選択しなければならない》

(もし、選択しなかったら?)

 小さな声でアユムは尋ねた。

《それも一つの選択だが、そのときは……》

 そう言って男は下へと視線を向ける。そこではフラウが何かを叫びながら、自分の元へ来ようとしていた。そして、渦に引き込まれた彼女の銀髪が数本、その先から半分を蛇に変えて彼女自身に襲いかかる。

(フラウさん!?)

 アユムは思わず男を突き飛ばし、叫んで下へと手を伸ばす。

 しかし、その手は届かない。

 眼下でフラウは、迷いなく蛇を髪ごと手刀で切り落とし、再びこちらを見上げて悔しそうな顔をする。

 その目は真っ直ぐアユムを見て、何かを伝えようとしているようだった。

《さあ、選択をしよう》

 両腕を大きく左右に広げ、男はアユムに語りかける。

 アユムは耳を押さえてうずくまり、

 ……何を、選択しろって言うんだ……

 わけがわからず目を閉じた。

 しかし男は話し続ける。《未来を、そして世界を》

 男の声は否応なく頭に響き、アユムは投げ捨てるように言葉を吐き出した。

(こんな状況、僕が考えたってわかるわけないじゃないか!)

《状況なんて関係ない》

 男は動じることなく低い声で静かに言い、

《君は、どうしたいんだ?》

 心臓を掴むようなその声に、アユムは胸を押さえて唇を噛んだ。

 ……僕は……

 締め付けるような苦しさに、アユムは助けを求めるように片目を開けて、視線を動かし周囲を見回す。

 しかし狭い視界に映るのは、ただ横たわるだけの自分の姿だけだった。

       ◆

「もう一押しと言ったところですか」

 11は表情のない顔で一人つぶやいた。

 目の前では直径十数メートル規模の渦が円筒状にそびえている。

「ロック《閉紋:風の回廊:駆動》」

 11の体が浮かび上がる。

「何をするつもり!?」

 風で暴れる銀髪を押さえながら、フラウは動きを見せた異形に叫ぶ。

 11は数メートル浮かんだ状態で立ち止まると、フラウのほうへ顔を向けて言った。

「彼を救って差し上げようかと思いまして」

 そして暴風の壁の中へと、右手を迷わず差し込んでいく。

「なっ!?」

 驚くフラウの目の前で、11の手は一瞬で枯れ木のように細くなり、次の瞬間には心臓のようなものへと姿を変える。変化はそれだけでは終わらず、ネズミの頭やムカデの体などに刻々と形を変えていく。しかし、11は気にすることなく右腕のすべてを暴風の中へと差し出した。

「ちょっと、何してるのよ!?」

 フラウの声に11は、頭だけを動かして、

「なぜ、引き留めるのですか? 彼をこちら側へ招くだけですよ?」

 蠢く腕を気にすることなく、世間話でもするかのように聞き返す。「ロック!《閉紋:翼を持たざる獣:駆動》」

 それを無視して、フラウはギアを組み替えた。

 直後、宙にいた11はストンと地面へ軽く落ちて、そのまま何事も無かったように立ち尽くす。しかし、その右腕は切断されたように無くなっていた。

「ロック《閉紋:消える猫は現れる:駆動》」

 11の声が短く響き、無くなった腕を撫でるように左手が動く。

 たったそれだけで、右腕が何事もなかったかのように現れる。そして不思議そうに腕を組むと、首をかしげて11は尋ねた。

「ナンバー13。あなたも彼に、こちら側へ来て欲しいのではないですか?」

 フラウは冷や汗を浮かべ、11に答えることなく問い掛けた。

「あんた、どうやってアユムを救うつもりなの?」

 11は少し考える仕草をすると、

「今、彼は自分自身に戸惑っている。だから教えてあげるだけです」

 そう言って右手の人差し指で空を指す。

 そこには夜空に輝く月があった。

 そして11は、さらに続ける。

「君は神になれるのだと」

「は? 神?」

 月を指さしたまま言う11に、フラウはあからさまに怪訝な視線を向けた。

 しかし11は、気にすることなく話を続ける。

「そうです。彼の力は、我々の運命を回す力とは違う。運命を生み出すことのできる力なのです」

 その声は相変わらず機械的で、でも、どこか興奮しているようにフラウの耳には聞こえた。

「ただ、神になった彼が、それでも人間であるのか。それは、まさに神のみぞ知るところですが」

 そして、お手上げとでも言うように11は両手を軽く広げて首を振る。

「ふざけないで!」

「ふざけてなどいませんよ」

 フラウへと向き直って11は言う。

「彼のギアをすべて完全駆動させ覚醒させる。それこそが、今の彼を救う唯一の方法です」

「でも、そんなことしたら……」

 アユムが世界と、システムと完全に同化してしまう。

 口籠もるフラウに11は問い掛ける。

「では、彼がこのまま死んでも構わないと?」

「そんなこと言ってない!」

 拳を握りしめて言うフラウの前で、しかし11は、もう話すことはないとでも言うように、再び暴風の壁へと顔を向けた。

 言葉も方法も見つからず、フラウは11の白い姿をただ見つめる。

 ほかに手はないの?

 あるはずだと思いながら、フラウは11を止めようと口を開き、

《手はあるで》

 その声にフラウと11の動きが止まる。

「……白兎。今、なんて?」

《あのガキを助けるのに、完全駆動以外にも手があるって言ったんや》

 兎の言葉にフラウは数秒俯くと、拳を握って指輪を怒鳴りつけた。

「そうならそうと早く言いなさいよッ!」

《いや、さっきまで聞かれなかったし》

 緊張感の欠片も無く答える白兎に、フラウはため息とともに肩を落として思った。

 そう言えば、こいつらシステムの一部だったのよね。いつも肝心なことに限って教えてくれないから、ユグドラシルに聞くという選択肢を忘れていたわ。

 兎はもとより、自分のバカさ加減にも腹が立つ。

 それでもフラウは気を取り直して兎に尋ねた。

「それで、どうすればいいの?」《まずは未契約のクラウンが必要なんだが》

「そんなもの、どこに……」

 いきなり壁にぶち当たったかと思いながら、フラウは周囲を見回した。すると、彼女の背後から、気配とともに重い足音が聞こえてくる。

 音の方へと振り向くと、そこには鋭く光る赤い刃を構えた青年の姿があった。

「カイル! あんた、まだ逃げてなかったの?」

「父の仇を目の前にして逃げられるかっ!」

 風に飛ばされないように腰を落としてカイルは叫んだ。

 しかしそのときには、フラウの視線は彼の顔ではなく、その顔を守るように構えた手に向けられていた。

「あった」

 フラウの口から気の抜けた声が漏れる。そしてフラウは、右手を出してカイルに言った。

「カイル。そのナイフを貸して」

「はぁ? 嫌だね」

 カイルは睨みながら、ナイフを隠すように背後に構えて即答する。それに対してフラウも両手を腰に当てて、のぞき込むように睨み返した。

「お姉ちゃんの言うことが聞けないの?」

「今さら姉貴面するなッ!!」

 顔を真っ赤にしてカイルが叫ぶ。

「戦争で死んだ義兄さんの後を追うように勝手にいなくなって、父さんが殺されたことも知らないで、俺と母さんがどれだけ苦労したかも知らないくせにッ!!」

 カイルは地面に吐き捨てるように、思いを一気にまくし立てた。

 それをフラウは黙って見つめ、静かに口を開いて話し始める。

「そうね。カイルの言うとおりかもしれない。でも……」

 真剣な眼差しをカイルに向けて、彼女は彼へと近づき耳元で囁いた。

 途端にカイルは地面に崩れ落ち、刃を地面に突き刺して、得意げに胸を張るフラウを恨めしそうに睨みつける。

 そしてフラウは、赤い刃を地面から引き抜いた。

「この卑怯者っ! ゴシップ魔女! 本当に、おまえなんか死んじまえ!」

 半泣きで言うカイルをフラウは見下ろし、

「弟は姉に逆らえない運命なのよ」

 そう言って楽しげに笑顔を浮かべた。

「それで、準備はできたのですか?」

 二人の視線を断ち切るように、感情のない冷たい声が問い掛ける。

 その声にムッとしながらも、フラウは表情を引き締めると指輪に訊いた。

「ほかに必要なものは?」

《あとは度胸だけやな》

 白兎の答えにフラウは頷き、不敵な笑みを浮かべて11を見る。

「わざわざ待っててくれるなんて、何を企んでるのかしら?」

「いえいえ、ただのレディーファーストですよ」

「そう」

 表情なくたたずむ白ずくめに警戒しつつ、フラウは渦へと対峙した。

 こいつのことはアユムを助けてから考えればいいわ。

 そう思い直してフラウは渦の中心、運命舞い散る壁の先へと視線を向ける。

 そこには静かに横たわるアユムがいて、それを見つめるフラウに11は、先を譲るように一歩を下がってこう言った。

「では、お手並み拝見といきましょうか」

       ◆

(やっぱり、わからないよ!)

 アユムは横たわる自分に向けて叫んでいた。

(未来とか世界とか義務とか、どうしたいかとか。そんなこと言われたって、僕はただ、ばあちゃんみたいに……)

 そこまで吐き出して、アユムは祖母とのことを走馬燈のように思い出す。

 それは一生懸命で、自分のやりたいことをやって、周りの心配なんか知らないで、でも、いつも笑顔で楽しそうで……。

 そんなばあちゃんが僕は大好きで、よく心配させられたけど、でも僕は、どこかでそれさえも嬉しく思ってて……。

 僕には生きてる実感もないし、やりたいこともないし、いつも周りに迷惑かけないようにって、そればかり考えてて……。

 それなのに僕は、いつも迷惑をかけてばかりだ。ただ迷惑をかけているだけだ!

 アユムの頬を月光が伝う。

 ばあちゃんみたいになれるわけないのにっ!

 憧れだけで誰かの役に立てるわけないのにっ!

 それなのに僕はッ!!

 僕は何も始めてすらいないじゃないかッ!!

《それなら、今から始めればいい》

 静かな声で、しかし力のある声で男はアユムに話しかける。

《これは、そのチャンスなのだから》

(……チャンス……)

《そうだ。何も遅いことなどない。これから君の世界を始めればいい。君の望む自分がいる世界を》

(……僕が望む自分……)

 アユムはゆっくりと立ち上がる。そして、横たわる自分を見下ろして力なく笑った。

(……今までの役立たずの僕を……)

《さあ、選択をしよう》

 男は静かに選択を促し、アユムはゆっくりと口を開く。

 息を吸い込み喉を震わせようとして、

「アユム!」

 その声にアユムは息を呑み込んだ。

 それはフラウの声だった。

 アユムは力のない瞳で視線を落とし、声のほうへと視線を向ける。

 そこには暴風の中を一歩ずつ踏みしめながら、自分のほうへと着実に向かってくる彼女がいた。

 その周囲では幾つもの歯車が生まれては砕け、そのたびに彼女は苦しげに胸を押さえて立ち止まる。しかし、その歩みは決して戻ることなく再び前へと進み始める。

《魔女が君を殺しに来たようだね》

 フラウの手に握られた不気味に輝く赤い刃を見て、男は淡々と死の来訪をアユムに告げた。

(……魔女……)

 アユムはフラウをじっと見つめ、彼女もアユムのほうを真っ直ぐ見つめて進み続ける。

《早くしないと、彼女が君を殺してしまうよ?》

 男は、アユムの背中を押すように問い掛ける。しかし、男の瞳はアユムと同じようにフラウへ向けられていた。

《君は……》

 そこで男は言葉を止めた。まるで何かがつかえたかのように黙り、そしてフラウを見たままアユムに尋ねる。

《君は、告白をしたことがあるかい?》

 その言葉は、なぜか悲しげで優しい響きを持っていた。

「……こくはく……」

 心臓が軋むような、胸が張り裂けそうな感覚にアユムは胸を押さえて俯いた。

 僕、今日、告白します!

 自分の言葉が蘇る。そして、フラウとの今までの記憶が巻き戻っていく。

 ……僕は……

「……僕は……」

 アユムの目の前で、男が流れる雲のように消えていく。その表情はどこか穏やかで、薬指のない左手を優しく見つめていた。

 そしてアユムは口にする。

 自分の選択を。

 自分が今、どうしたいのかを。

       ◆

「デュアル・ロック《永続閉紋:愚者の道:駆動》」

 声に続いて、フラウが渦の前へと一歩を踏み出す。その足は空中を踏みしめ、彼女の体を空の月へと近づける。

「まずは、あそこに行かないとね」

 上空を見上げれば、月明かりを遮るように黒い塊が浮いている。それは、暴風によって巻き上げられた何かだったものの集合体。崩壊と再生を繰り返した果ての塊が、アユムを中心に闇のように集まっている。

 手前に目をやれば、そこには土や草木などに混じって大小様々な歯車が飛び回っていた。それらはぶつかっては砕け、新たな歯車となり、さらに砕けて輪廻を繰り返す。それはアユムへ向かうほど早くなり、その密度を増していく。

「まるで運命の嵐ね」

 この中に入ったら何が起こるのかを想像して、フラウは横目で11を見た。

 激しく葉を揺らす木の下で、11は無言でフラウのほうを向いている。

 フラウは視線を前に戻すと一歩を踏み出そうとして、ふと思い出したように口を開いた。

「カイル!」

 しかし弟の返事はない。

 フラウはため息をついて、仕方なく視線をカイルへ向ける。そこには不機嫌そうにそっぽを向く弟の顔があった。

 フラウの声が暴風の中響く。

「デュアル・ロック《永続閉紋:かごの鳥:駆動》」

 それはカイルの自由を奪い、彼の危険も同時に奪う運命のギアとなる。

「ぐっ!? おいっ、俺に何をした!?」

 抗議の声を上げる弟を見下ろしてフラウは言った。

「これで、運があんたを守ってくれるわ!」

「余計なことを! 今すぐこれを解けよっ!」

「いいから、あんたはそこで見てなさい!」

 そしてフラウは前を向く。

 振り向きざまに見せたフラウの顔は、口調とは裏腹に優しい眼差しをカイルに向けて、その儚い表情に彼は息を呑んだ。

 私の姿を覚えておきなさい。

 そう言っているようにカイルには見えて、

「おいっ! ねぇ……」

 しかし、彼の声を無視してフラウは兎に告げる。「黒兎! サポートをお願い!」《了解です。ナンバー13》

 そしてフラウの足が暴風の中へと入ってく。

「デュアル・ロック!《永続閉紋:ウサギのマーチ:駆動》」

 その声は三連の運命を回し、白いワンピースの中からウサギを手品のように呼び出す。

 次々と現れたウサギは、その数十三。ウサギは、それぞれにカップやポットなどのティーセットを手に持ち、フラウの周りを踊り始めた。

 ウサギの行進とともに、フラウは見えない階段を風と踊るように昇っていく。

「デュアル・ロック!《永続閉紋:終わらないお茶会:駆動》」

 フラウは、さらに三連の運命を回す。

 それはウサギの手にしたティーセットを一瞬振るわせ、その直後、ティーセットは踊り揺れては増えていく。それらはウサギとともにフラウを囲んで周りを回り、運命の嵐の中を割れ砕かれては、再生と輪舞を繰り返す。

 フラウは踊るように、そして跳ねるように運命の塔を駆け上がる。

「デュアル・ロック!《永続閉紋:トランプの兵隊:駆動》」

 そしてフラウは三度、三連の運命を回す。

 それは舞うようにスカートから現れる五十三枚の札。四の王は命令し、四の女王は兵を鼓舞し、四の騎士は十の兵を率いる。そして道化師は一人戦場を飛び回り、五十二枚の兵はフラウを中心に陣形を組んで彼女を守る。

 花と内臓が飛び交い、かつての栄光と狂気が渦巻く中をフラウは進む。ウサギが羽と散り、ティーセットが弾け、トランプは、飛び交うかつての何かを突き刺し進む。

 それはワルキューレの行進。九つの運命を従えて、戦女神が運命の中を駆け上る。白い服をなびかせて、馬のように気高く雄々しく優雅に駆ける。

 しかし、目の前に運命の闇は迫り来る。

 近づくほどに歯車は次々と砕け散り、破片は刃のようにフラウを襲う。

 服を裂き、肌を切り、髪を断って彼女のすべてを傷つける。

「ぐっ!」

 傷は蠢き、新たな宿命とともに彼女を犯し苦しめる。そして、傷ついた運命はフラウ自身を軋ませる。

《警告:ナンバー13。これ以上の接近は危険です》

「わかってるわよ!」

 フラウは胸を押さえて立ち止まり、顔をしかめて奥歯を噛んだ。

 あと少し、もう少しなのに……。

 ギアがぶつかり砕け散る中、フラウは再び運命に手をかける。

「デュアル・ロック!」

《警告:ピニオンスロットがありません。新たなギアの使用には駆動ギアのリリースが必要です》

 しかし、運命は回らない。

 フラウは胸を押さえた手に力を込めて、闇を濃くする中心へと叫ぶ。

「アユムッ!」

 しかし、アユムは応えない。

 一つでいい。もう一つギアを……。

 そしてフラウは急いで下へと視線を移す。

 しかし、そこにあるカイルの姿は、既に勢力を増した逆流する運命の内側にあった。

 カイルのギアは外せない。

 ほかに何か……。

 運命が砕け続ける中でフラウは必死に考える。しかし、考えるほどに心が絶望に塗りつぶされていく。

 諦めちゃダメッ!

 フラウは自分の心に叫んで考える。

 たとえ絶望で心が塗りつぶされても、希望が無いように思えても、考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて……。

 フラウの視線は激しく周囲を見回し、絶望を否定しようと思考が頭を飛び回る。

 トランプの兵は紙吹雪となり、お茶を失ったティーセットは役者のいない舞台となって、雪降る舞台で慌てたウサギが駆け回る。

 考え考え考えて、そしてフラウは扉に触れた。

 それは心の奥にある、思い出の木でできた一つの扉。

 扉に触れてフラウは思う。彼の名を。

 ……カケル……。

 その温もりを十分に確かめて、フラウは扉の錠に手をかけた。

 つぶやくように、泣かないように、優しく扉を開く鍵を口にする。

「リリース・ロック《永続閉紋:アリスの夢:解放》」

 運命の輪が、凛とした音を立ててこぼれ落ちた。

 それを見ていた死神は、表情のない顔に笑顔を残して姿を消した。

 フラウは、別れを振り払って運命の輪を回す。

「デュアル・ロック!《永続閉紋:目覚めの時:駆動》」

 運命の闇が道を示し、フラウは刃を構えて一気に前へと走り出す。

「アユムッ!」

 迫る闇を赤き光で振り払い、そして抜けた闇のその先に、フラウは彼の姿をその目に捕らえた。

 それは軍服姿の青年で、しかしフラウの足は止まらない。

 刃は両手を広げた青年の胸を真っ直ぐ突き刺し、青年は刃ごとフラウを抱きしめた。

 そして彼は彼女へ囁いた。約束の言葉。告白のフレーズを。

《愛してるよ、フラウ。いつまでも》

「―――!? カケル!!」

 慌てて彼の顔を見上げれば、そこに彼の顔は既に無く、アユムの胸に突き立つ刃が緑の光を放って輝いていた。

       ◆

《ユグドラシルとの接続及び封印機構(ラチェットシール)の動作を確認》

 剥き出しになった山肌に黒兎の声が響く。

 役目を終えた舞台のように、草木も墓石も消え去った空き地は静まり返り、満月の明かりだけが深々と土の上に降り注ぐ。

 その中心には座り込むフラウの姿と、彼女の膝枕に頭を乗せるアユムの姿があった。

 嵐の名残を思わせるそよ風が、アユムの頬を数度優しく撫でていく。

「んん……」

 小さなうめきとともに、膝の上でアユムが意識を取り戻し始める。

「……アユム……」

 フラウは彼を見下ろし名前を呼ぶと、そっと彼の胸に手を当てる。そこに刃の形は無く、しかし破れた服から覗く彼の肌には、小さな傷跡が一つ残っていた。

 フラウは傷跡を撫でながら、彼の名を心の中でつぶやいた。

 それは懐かしい温もりとなって、彼女の瞳から溢れこぼれ落ちる。

「……フラウ、さん?」

 アユムがフラウを見上げて呼びかける。しかし彼女は月を見上げ、一言静かに言葉を放つ。

「ロック《閉紋:世界の裏側:駆動》」

 それは夢から醒めるように、周囲に虫の音と草木の揺れる音を呼び戻す。

 アユムが横に目を向ければ、そこにはいつもと変わらない墓地の姿があった。

 ……僕はいったい……。

 記憶をたどって、アユムは彼女を助けようとした自分のことを思い出す。そして、彼女の温もりにアユムは安堵の表情を浮かべた。

「……よかった。無事、だったんですね」

 安心した途端、アユムの全身から力が一気に抜けていく。その体が沈み込むような感覚に、アユムは一気にまぶたが重くなるのを感じた。

 すると、閉じかけたまぶたの先で銀髪がさらさらと揺れて音がする。

「デュアル・ロック《永続閉紋:儚きアリス:駆動》」

 直後、アユムの頭が持ち上がり、

「え?」

 フラウが優しい笑顔とともに終わりを告げる。

「はい、おしまい」

 そして、彼女は無造作に立ち上がった。

「うわわっ!?」

 視界が急に横を向き、森が見えたかと思えば再び夜空が広がって、直後にアユムは後頭部に鈍い痛みを覚えて白く瞬く星を見た。

「くぅうう、痛いじゃないですかぁ」

 頭を押さえて起き上がるアユムに、フラウは突き放すように見下ろして言う。

「膝枕なら、彼女にしてもらいなさい」

「……え? 今、なんて?」

 しかしアユムは頭をさすりながら、惚けた顔で彼女を見上げる。そんな彼にフラウはため息をつくと、腰に手を当てて半眼でのぞき込むように問い掛けた。

「告白、するんでしょ?」

 その言葉に、アユムは思い出したように表情を変える。そして、勢いよく立ち上がって、

「はい! もちろん!」

 真っ直ぐな返事と笑顔をフラウに返す。

 満月の下、穏やかな虫の音が響く中、二人は楽しげに視線を交わす。

       ◆

「おい」

 それは不機嫌そうな青年の声だった。

 アユムは驚き、フラウは面倒臭そうな顔をした。

 そんな二人に、カイルは座り込んだままさらに言う。

「早く俺を解放しろ」

「まったく、デリカシーのない弟だこと……」

 呆れたように言いつつも、フラウはカイルに近づくと、

「リリース・ロック《永続閉紋:かごの鳥:解放》」

 彼の運命を解き放つ。

 自由になったカイルは立ち上がり、気まずそうにフラウから視線を外して、軽く身なりを整え始める。

 そんな弟に、フラウは銀髪をかき上げると胸を張って楽しげに尋ねた。

「で、久しぶりのお姉ちゃんはどうだったかしら? 改めて尊敬した?」

 フラウを横目で睨みながら、カイルは呆れたように答えを返す。

「その自分勝手なところは、死ななきゃ直らないみたいだな」

「そう。じゃあ、私を殺す?」

 フラウは不敵な笑みを浮かべ、二人の視線が音を立ててぶつかり合う。しかし、すぐにカイルは視線を逸らすと、呆れたように手を振って背を向けた。

「素手で魔女に挑むほど、俺はバカじゃない」

 そう言ってカイルは墓地を去っていく。

 フラウは何も言わず、月明かりに照らされた弟の背中を見ながら小さく笑った。

「……弟さん、だったんですか」

 石段を降りていくカイルを見ながら、アユムは腑に落ちたというようにフラウに言った。

「そうよ。できの悪い私の弟……」

 誰もいなくなった石段を見ながら銀髪の魔女は言う。

 その横顔を見てアユムは思う。

 やっぱりこの人は、普通のきれいなお姉さんだよな、と。

 石段の向こうには見慣れた町が広がっている。

 それは昇り始めた陽の光で、少しずつ夜から浮かび上がろうとしていた。

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