第三章

 目の前には、青白い月光の下で静かに佇む墓石の群れがある。それをフラウとアユムは茂みから黙って窺っていた。

「もう一人いるとはね」

 墓地に目を向けたままフラウが小さな声で言う。

 人狼を森に磔にして墓地へとやって来たが、その途中でアユムは新たなノイズを感知していた。それは人狼と同じように、こちらへと確実に向かってきている。

「ナンバー11は、まだいないみたいですね」

「そうね」

 誰もいない墓地を見ながら、アユムの言葉にフラウも小声で頷く。

「あの、フラウさん……」

「何?」

 躊躇いがちに言うアユムの声に、フラウが視線を向けて聞き返す。

「僕……」

 アユムはフラウの目を真っ直ぐに見つめると、小さな、しかし力強い声で言った。

「今日、告白します!」

「そう。……て、ええっ!?」

「しっ、声が大きいですよ!」

 アユムが慌ててフラウの口を押さえると、彼女は静かに息を呑む。そして、信じられないというように、なぜか青ざめた顔でつぶやいた。

「……あんた。よりによって、こんなときに……」

 月明かりの中、顔を引きつらせるフラウにアユムは首をかしげ、

「あの、僕、何か変なこと……」

 そこまで言ったアユムの口を、今度はフラウの人差し指が押さえつけた。

 彼女の視線は、いつの間にかアユムではなく、十数メートル先の石段の降り口へと向けられている。

 そして、そこに人影が現れた。

 人影は石段を登って開けた墓地に出ると、一息ついて月を見上げる。

 それはフラウと同じ栗色の短髪をした青年だった。

 青年は周囲を見回すと、目的があるかのように迷いなく歩き出す。

 それはフラウ達のほうではなく墓地へと向かい、その左手には柄杓の入った水桶が、そして右手には鈴のように連なった橙色のホオズキが握られていた。

 青年は、ある墓の前に来ると手にしたホオズキを左右の花立てに供え、水桶から水をくんで墓石にかけ始めた。

 水に濡れた墓石は冷たく月明かりを反射し、提灯のようなホオズキと相まって神秘的な空気が周囲に流れる。

「……カイル……」

 青年を見たまま、フラウは口元を押さえて呆然とつぶやいた。

 その震えを帯びた声に、アユムは彼女へと視線を向ける。彼女の瞳は、亡霊でも見るかのように大きく見開かれていた。

 そして、墓地へと向けられたアユムの耳に青年の声が静かに届く。

「兄貴……、俺は、父さんと同じ道を行くことにしたよ」

 青年は凛とした声ではっきり告げる。そして腰から一本のナイフを抜き出し、それを空に高く掲げた。

 満月の下で一振りの刃は赤い光を放ち、その光景にフラウの口から再び声が漏れる。

「カイル、なんであんたがグラムの牙を……」

 フラウと青年を見比べながらアユムは思う。

 あの人とフラウさんって、知り合いなのかな?

 そんなことを思っていると、突然、アユムの背筋に冷たいものが走り抜けた。

「――――!?」

 その異変にアユムは戸惑い俯き恐怖を覚える。

 そんな……、でも、これは……。

「どうしたの? アユム……」

 隣で震えだしたアユムにフラウが横を向く。しかし、アユムは彼女に答えることなく既に動いていた。

 自身の体をフラウの背後へと、彼女をかばうように大きく広げる。

 その直後、肉の千切れる音と骨の砕ける音が闇夜に響き、赤黒い飛沫が夜空に散った。

「……がはっ、げほっ……」

 湿った声でアユムは咳き込み、苦しそうに息をする。

 フラウの目の前ではアユムの背から赤い爪が生え、そして彼の体は、ゆっくりフラウのほうへと傾いていく。

 抱き留めたアユムの体からは温かい血が溢れ出し、死が冷たく彼の体へと広がり始めていた。

「どうだ? 後悔はしたか?」

 アユムを無言で抱きかかえるフラウの頭上に影が落ち、それは低い声で彼女に尋ねた。

 しかし、フラウはアユムを見下ろしたまま何も言わない。

「満月の夜は、実に気分がいい」

 無言で俯くフラウを気にすることなく、影の主――人狼は月明かりを浴びながら今の気分を口にする。その四肢の付け根と首回りの毛はねっとりと湿り、しかし左腕以外は何事もなかったかのようにそこにあった。

「まだ結合が甘かったか。返してもらうぞ」

 人狼はアユムの体に突き刺さったままの左腕を、勢いよく引き抜いた。

 アユムの体が軽く浮き、落ちると同時に胸部に開いた穴から血が流れ落ちる。

 咳き込み口から血を吐き出しながら、アユムはかすれた声で言葉を漏らした。

「……フラウ、さ……」

「アユム!?」

 しかし、フラウの声にアユムが反応することはなかった。

「かばったのが魔女とは言え、命を賭して女を守るとは見事な心意気だ」

 左腕を元に戻しながら、人狼は低い声で楽しげに笑う。

「黙れ……」

 力なく自分に寄り掛かるアユムを抱きしめながら、フラウは怒気の籠もった声で絞り出すように言った。

「うむ、黙祷か? それは失礼した」

 人狼は腕を組むと月を見上げて黙り込む。しかし、沈黙はフラウ自信によってすぐに破られた。

「黙れぇええええええええええええええええええ!!!!!」

 大地を振るわせるように、フラウの叫びが真夜中の墓地に響き渡る。

       ◆

 アユムが目を覚ますと、そこには歯車の星空が広がっていた。

 僕は……。

 海に浮かんで波間を漂うような心地よさが全身を包み込む。

 アユムは星の煌めきにも似た歯車の音に耳を澄ませながら、同じ感覚を思い出す。

 ……ここは、ユグドラシル?

 すると、ぼんやりとした視界の中に白い長耳が現れた。

《……オまえ……早ク……ギア……に……な……》

 歪んだ音で意味の欠けた言葉が頭に響く。

《……死ンで……シま……ウ……》

 のぞき込むように白兎の閉じた両目が自分を見つめ、かすかに感じる刺すような視線に、アユムは眉根を寄せて揺らめく視界を振り払った。

 すると白兎の耳が緊張するように先まで伸びて、しかし、それも歪んで水面に映った影のように、アユムの視界から消えていく。

《……マさ……カ!?……リバース……だト!?……》

 見えなくなった白兎の声だけが頭の中に響いて、しかし、それも言葉になる前に意味を喪失してしまう。

 静かになった頭の中で、今度は別の音が鳴り響く。

 それは低く重く、ゆっくりとした鼓動にも似た音。

 歯車の空を歪め、その音を巻き戻すようなねじ曲がった力が、アユムを中心に広がっていく。

 しかし、その力がユグドラシルに満ちる前に、歯車の空は逃げるように遠ざかる。

 まるで世界が生まれる前へと戻るように星空は収束して点となり、アユムの中で始まりの闇が動き出す。

       ◆

 それは絶叫の残滓を掻き消すような風だった。

 叫びを上げて俯いたフラウの右手に糸状の何かが戻っていく。それと同時に山の至るところで何かが倒れ地面を揺らすような音が響き、それは押し寄せる波のようにフラウへと近づいてくる。

 そして彼女の周囲にあった木々や茂みごと、それは音もなく再び人狼を襲った。

「おっと、危ない」

 しかし、かまいたちのように切り裂かれ倒れ散る草木の中、人狼は巨躯を素早く墓地の開けた場所へと跳ばして、今度はそれを軽々避ける。そして、そこにいた青年に声をかけた。

「よお、カイル」

 青年は人狼を見てため息をつきつつ、つまらなそうにその名を呼んだ。

「ウルフ・オーレインか」

「相変わらず、先輩に対して敬意のない奴だな」

 言葉とは裏腹に、歯を剥き出しにして人狼は楽しげにカイルを見下ろした。

 そんな二人から離れた位置でフラウは一人、冷たくなったアユムを抱きしめている。

 彼女はアユムの背に開いた穴に手を当て、その空虚さを否定しこらえながら、抑えた声で指輪に話しかける。

「黒兎。リンク回復までの時間は?」

《リンク回復まで、あと六百四十八秒です》

 その答えにフラウは唇を噛み、そんな自分に心の中で言い聞かせる。

 アユムは、まだ死んでない!

 彼の体から忍び寄る死という運命を拒絶して、フラウは思考を巡らせる。

「アユム、なに寝てるのよ?」

 彼の耳元で囁いて、フラウは彼を強く抱きしめた。

「これが終わったら、告白するんでしょ?」

 そんな彼女を見下ろしながら、カイルが一歩を踏み出し声をかける。

「今さら、ここへ何しに来た」

 その視線は氷のように冷たくて、そして手にした刃のように憎しみに満ちていた。

 フラウは少しだけ振り向いて彼を見る。その瞳は拒絶に満ち、無言の狂気が渦巻いているようにカイルには思えた。

「……この、裏切りの魔女が……」

 嫌悪とともに吐き出された言葉も、しかし今のフラウには届かない。彼女は視線をアユムに戻すと、そのまま何かをつぶやき始める。

「俺を無視するなッ!!」

 叫びとともにカイルは飛び出し、アユムの体ごとフラウをすくい上げるように足を振り抜いた。

 しかし、その足をフラウは腕一本で、アユムをかばいながら動くことなく受け止める。

 そして力任せに、怒声とともに押し返す。

「邪魔を、するなッ!!」

 数メートル押し戻されたカイルはすぐに刃を構え、背を向けたままのフラウに怒鳴り返す。

「邪魔はおまえだ。そいつを助けたければ……、おまえが死ねッ!!」

 言うなりカイルは再び飛び出し、

「まったくだ!」

 それを追って人狼も動き出す。

 カイルの刃と人狼の爪。二つの牙が同時にフラウへ襲いかかる。

       ◆

 刃と五本の爪が空中に六本の赤い軌跡を描き、一本はフラウの左から、残りの五本は右から回り込んで彼女を挟み撃ちにする。

 フラウはアユムをかばうように抱きしめると、地面に針を突き立てた。そして、それを指で軽く弾く。

《永続閉紋:螺旋公転:条件駆動》

 すると、フラウを中心に半球状の虹模様が一瞬浮かび上がり、そこへ赤をまとった爪と刃がぶつかった。

「ぐっ!」

 まるで透明な壁に押し返されるような感覚にカイルは刃を押さえつけ、さらに押し込むように力を込めた。一方、人狼は爪を弾かれ左腕を後ろに持っていかれる。

「無駄なあがきを!」

 しかし、人狼は地面を足の爪で捕らえ、上半身を弓のようにしならせると反動を利用して再び爪を振り下ろす。

 それでも爪はフラウに届くことなく、刃も止まったまま、それ以上彼女に近づくことはできなかった。

 二人の牙は火花を上げ始め、フラウ達を包む壁を光と影でドーム状に浮かび上がらせる。

 全体重をかけて爪をドームに突き立てながら、人狼は大きく息を吸うとフラウに向かって苦々しく口を開いた。

「こいつ、安息日だからって引きこもりやがって……」

 そして大きく息を吸い、筋肉質の胸を膨らませる。

「オーレイン!」

 カイルは顔をしかめながら叫ぶと、とっさに耳を塞いで後ろに跳び下がる。

 その直後、人狼がフラウに向かって咆哮を叩きつけた。

「!!!!!!!!!!!!!!!!」

 それは衝撃波となってドームを突き抜け、その中を高速で震わせる。

「うっ、がぁあああああああああああ!」

 フラウは耳を押さえてうずくまり、彼女のまとう白い布地に細かい裂け目が生まれ始める。さらに、ドーム内の地面に刺さった針が揺れて、徐々にその身を持ち上げていく。

 そして針が抜けた瞬間、そよ風とともにドームは消え去り、抵抗を失った獣の爪は蓄えられた力とともに再び獲物に襲いかかる。

「もらったああああッ!」

 そのとき、

「ロック《閉紋:消えない落書き:駆動》」

 人狼の声と同時に機械のような声が空から落ちた。

 直後、獣の爪は色を失い、フラウをかすめて地面に突き刺さる。そして、人狼の体は積み木のように地面へと次々に崩れ落ちた。

「!? 何が、起きやがった」

 地面に転がった人狼の顔が、驚きと疑問を口にする。

「まったく、女性一人に対して男が二人がかりとは……」

 人工的な声は狼の頭を見下ろしながら地面に降り立ち、

「礼儀がなっていませんね」

 くぐもった音でため息をついた。

 声の主はスーツに手袋、靴に至るまで白ずくめだった。そいつは直立したまま周囲を見回すように顔を動かす。

 しかし、その顔には口はもとより目や耳もありはしなかった。

「貴様、死神か」

 憎々しげに、人狼は白ずくめを見上げてその名を口にする。

 バラバラになった人狼の肉塊からは血が流れ、川のように体と四肢、そして首と胴体とを結んでいた。そして、血の川はそれ自体が生き物であるかのように脈打ちながら、それぞれのパーツを少しずつ胴体へと引き寄せていく。

 しかし白ずくめは、人狼のことなど気にすることなく、見下ろすようにフラウへ顔を傾け言った。

「ご機嫌はいかがですか? ナンバー13」

 フラウは白ずくめを見上げ、ひどく青白い顔に不敵な笑みを浮かべて問い返す。

「あんたの機嫌はどうなのよ。ナンバー11」「そうですね。機嫌などと言うものは忘れてしまいましたが、状況から考えると楽しそうですね」

 顔らしき球体の顎に当たる部分に手を当てて、そいつは他人事のように飄々と答えた。

 話を合わせてかまをかけてみたものの、初めて見るナンバー11の異様な姿に、フラウは思わず生唾を飲み込んだ。

 こいつがナンバー11。

 アユムを抱きしめるフラウの手に力が籠もる。しかし、そんなフラウの思いを遮るように、ナンバー11とも人狼とも違う声が、地面を強く踏みしめる音とともに墓地に響いた。

「ようやく会えたな、エンプティ・ダンプフィルっ!」

 それはカイルの声だった。

 カイルは11へと刃を構え、鋭い目つきで睨みつける。その視線の中にフラウの姿は既になく、異形だけを真っ直ぐ捕らえて狙いをつける。

 そして、燃えるように赤く光る刃に力を込めて、カイルは地面を蹴り飛ばすと同時に叫び声を撃ち放つ。

「死ねぇえええええ、父の仇ぃいいいいい!」

 赤いラインが白へと最短距離で伸び迫る。

 それに対して白い異形は、慇懃な礼をして彼を迎え入れた。

「お久しぶりです。カイル・リッター」

 赤と白。二つの色が交錯する。

       ◆

「黒兎。あとどれくらい?」

 11とカイルが戦闘を繰り広げる横で、フラウは指輪に話しかける。

《残り百三十二秒です》

 血の気の引いたアユムの顔は、白く月明かりに照らされ、頬に飛び散った血の一滴が鮮やかに存在を主張する。

 その人形のように穏やかな表情は、フラウを夢の中にいるような気分にさせた。しかし、それは断続的に響く痺れるような金属音に邪魔される。

 音のほうへと目を向ければ、カイルが11へと真っ直ぐに刃を突き込んでいた。

 その刃を11は闘牛士のように軽やかにかわし、それがテンポと軌道を変えて繰り返される。

 輪舞のように、月下の墓地を舞台に二つの色は風のように駆け回り、攻撃と回避の役が決まった劇は、終わりを予感させることなく続く。

 その狂ったように繰り返される攻防に、フラウは違和感を覚えていた。

 それはまるで、フラウのために時間を稼いでいるようで、

 何が目的なの?

 フラウが疑問の視線を11に向ける。

 すると11が、一瞬こちらに顔を向けるような動きを見せる。

 その隙を逃すことなくカイルの刃は赤の一線を素早く放ち、それは加速する踏み込みとともに鋭い弧を描いて、11の死角へと軌跡を伸ばす。

「ロック《閉紋:攻撃を望む標的:駆動》」

 フラウには、11の歪んだ声とともに歯車の噛み合う音が聞こえた。

 次の瞬間には、11の体は刃の死角から正面へと向いていて、その変化にカイルの表情は一変する。

「――――!?」

 その目は怯え、顔は恐怖に引きつって、カイルは本能的に距離をとる。

 彼が凝視する視線の先では、11が両腕を大きく左右に広げ、満月を背に悠然と立っていた。

 そして、その背後には、いつの間にか十数本の小さな鎌が浮かんでいた。

 圧力を伴った異様な雰囲気が、11を中心に墓地全体へと広がっていく。

 フラウは寒気とともに焦りを覚え、アユムを強く抱きしめる。

 まだ? まだなの?

 カイルと11の張り詰めた空気に、フラウは腕の中にある焦りとは別に、彼に対して予感めいた不安を感じていた。嫌な汗が頬を伝い、フラウが見つめる前で11は狂気とともにカイルとの距離を詰めていく。

《ナンバー13》

 その愛想のない声に、フラウは思わず漏れそうになった感情をぐっと堪えて、指輪へと視線を移す。

《ユグドラシルとのリンクを回復しました》

 それは待ち望んだ言葉だった。

 そして、黒兎の声がフラウに告げる。

《お帰りなさいませ。死なない世界へ》

 彼女の髪は栗色から銀へと流れるように色を変え、フラウは月光を浴びるように髪を左右に揺らすと、艶めかしい安堵の息を夜空に漏らした。

 満月の夜。フェンリルの魔女が蘇る。

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