第二章

「気になってたんですが……」

 水の入ったグラスに手を添えながら、アユムはフラウに尋ねた。

「ん? 何? 分けてあげないわよ?」

 テーブルの上では黒い鉄板がソースを弾けさせ、そして、鉄板一面に鎮座した分厚い肉の塊にフォークを突き刺しながら、フラウは肉汁滴る固まりを頬張りつつ答えた。

 ……なんか、台無しだ……。

 早朝のファミレスで朝食をとりながら、アユムはため息をついて肩を落とした。

 目の前には見た目のきれいな女性がいて、二人きりで食事というシチュエーション。なのに、まるでがさつな姉に無理矢理呼び出された挙げ句、問答無用でおごらされている弟のような気分になってくる。

「いや……、そのキロステーキではなくてですね」

 アユムは落ち込みそうになる気分を振り払うと、自分の頼んだイングリッシュマフィンのモーニングセットはまだなのかと、少し苛立ち混じりに話を戻す。

 目の前の光景を見ているだけで、お腹が悲鳴を上げそうだった。

「じゃあ、何?」

 切り終わった肉塊を口へ運びながらフラウは言う。

「こんなところで、のんきに食事なんかしてていいんですか?」

 お腹をさすりながらアユムは尋ね、フラウは肉の塊を喉の奥へと流し込んでから、それに答えた。

「緊張してるの? 大丈夫よ。私、今は普通の人間とほとんど変わらないから」

「緊張はしてませんけど……。て、それ、どういうことですか?」

 少し不機嫌そうに言うアユムに、フラウは強がりを言っていると思ったのか、小馬鹿にしたような笑みを浮かべて話を続ける。

「機関の連中は、魔女の力を目印に私を追いかけてるの。でも、今の私にはその力がほとんどないわけ。だから、普通にしてれば連中も簡単には見つけられないわ」

「木の葉を隠すなら森の中ってやつですか……」

「まあ、そんなところね。でも、力がないってことは見つかったら即アウトってことでもあるから……」

「ダメじゃないですか!」

 付け合わせのフライドポテトをフォークで刺しながら言うフラウに、アユムは身を乗り出して声を上げる。そんな彼の口にポテトをねじ込んで黙らせると、彼女は子供を叱る母親のように言った。

「大きな声を出さないの。アユムは私に協力してくれるんじゃないの?」

「しますけど……」

 口の中のポテトを味わいながら、アユムは大人しく腰を下ろすと周囲を見回す。

 そんなアユムの前でフラウがテーブルを指で叩く。

「だから、そんなにキョロキョロしないの」

「……すみません」

 席で小さくなりながら謝るアユムに、フラウは肉を切りながら話を続けた。

「即アウトって言っても相手にもよるし、それに今はキーホルダーのあんたもいるから大丈夫よ」

 肉を刺したままのフォークで自分を指しながら言うフラウに、アユムは肉汁溢れる断面と脂の甘い香りに思わず顔をしかめた。

 ポテトを食べたせいか、余計にお腹が空いてきた気がする。

 生唾を飲み込むと、アユムは空腹を誤魔化すように質問を口にした。

「前も言ってましたけど、そのキーホルダーって何なんですか?」

 そんな彼の目の前で、フラウは口を大きく開けると躊躇なく肉をその中へと放り込む。そして数回噛んだだけで呑み込むと、唇についた脂を舌できれいに舐め取った。

 脂で光るフォークを揺らしながら彼女は答える。

「キーホルダーっていうのは、ギアになれる可能性を持った人間のことよ。アユムも聞こえるでしょ? 世界の音が」

 今は世界の音よりも腹の音が聞こえそうだとアユムは思った。でも、フラウはお腹を押さえるアユムを気にすることなく話を続ける。

「あ、でも連中もキーホルダーを探してるんだっけ。じゃあ、連中に見つかったらアユムもやばいかもね」

 そう言って、フラウは口に入るのかと思うくらいに大きく肉を切り分け始める。ナイフを進めるたびに溢れる肉汁を見ながら、アユムは再び生唾を飲み込むと相づちを打った。

「……そうなんですか……」

 その視線は肉に釘付けで、言葉も上の空だった。しかしフラウは肉を見たまま話を続ける。

「表向きは保護って言ってるけど、機関の連中、裏ではギアへの対抗策のために人体実験も平気でやってるみたいだしね。たまに人狼とか襲ってくるし」

 空腹の狼はこんな感じだろうかと思いながら、アユムはフラウの口へと向かう肉を見つめていた。

 その真っ直ぐな視線に気付くと、フラウは何を思ったのか、肉を見せつけるように左手を掲げてアユムに言った。

「そうだ。アユムも試してみる?」

「え? いいんですか?」

 喉を鳴らして驚くアユムに、フラウは楽しげに笑みを浮かべる。そして、その手にした指輪を外して彼の目の前へと置いた。

「…………」

 これは食べられないよなと思いながらも、アユムはなんとなく指輪を手に取った。すると、いきなり機械音のような声が聞こえる。

《未登録キーの存在を確認。適合評価を開始しますか?》

 周囲を見回すアユムを面白そうに見つめながら、フラウは楽しげに声に答えた。

「始めてちょうだい」

 そしてアユムは別の音を聞く。それは何かが噛み合うような、動き出すような重くて硬い金属のような音だった。

 次の瞬間、アユムは落下していく感覚に襲われ、闇に吸い込まれるように視界から光が消えていく。

 突然のことに手を伸ばしても、視界に手は見えず声も出ない。そんな中、わずかな光の隙間からフラウの声がこぼれるように聞こえてきた。

「世界の裏側、ユグドラシルへようこそ」

 それは楽しげで、どこか子供を寝かしつける母親のように優しい声だった。

       ◆

 薄暗い空間にぼんやりと光が広がっている。

 アユムはまぶしさに目を細めながら、ゆっくりと周囲に視線を向けた。

 すると車のエンジン音やピコピコという様々な電子音、そして重火器を撃つような音や爆発音が聞こえてくる。それらは途切れることなく混ざり合って、まるで音の嵐に巻き込まれているようだった。

 ただ、どの音も正面から流れてくるようで、確かめようと視線を向ければ光が壁のように広がって、アユムは思わず目を閉じた。

 それでも少しずつ目を開ければ、そこには両手を広げても抱えきれないほどの大きなディスプレイがあった。

 ディスプレイには、赤土の荒野を上空から見たような広大な風景が映し出され、大小様々な起伏が入り組んだ迷路のようになっていた。そして、その中にある大河のような谷間を、色鮮やかな車や戦闘機のようなものが何台も先を競うように進んでいく。

 それは、いわゆるバトルアクション系のレースゲームだった。

「おい! ふざけんなッ!」

 いきなり子供のような少し高めの怒声が聞こえて、アユムは肩を縮めて周囲を見回した。

 でも、人影らしきものは何も無い。

 相変わらずゲーム音だけが響く中、アユムは少し怯えながらも、もう一度ディスプレイへと視線を向けた。すると、そこにはさっきまでと同じようなゲームの映像と、

 ……あれ? なんか……

 その映像を遮るように、二本の白い棒のようなものが立っていた。それは表面をもふもふとした毛で覆われていて、ピョコピョコと左右に揺れている。

 あんなもの、さっきあったっけ?

 まだ少しぼんやりとした頭でアユムが首をかしげていると、

「おっしゃあ! 吹っ飛べや!」

 さっき聞こえた声とともに、白いそれは急にピンと真上に伸びる。そして、その下にも何かあることにアユムは気付いた。

 よく見てみると、ディスプレイの前には大きなソファーが一つ。そして、そこに何かが乗っている。

 アユムは嫌な予感に顔をしかめながらも、少しずつソファーへ近づいて、それを横からのぞき込んだ。

 すると、そこには白い兎のようなものがいた。

「ここからがワイの本領発揮や。ぶっちぎってやんよ!」

 兎は黒い大きなサングラスをかけ、同じく黒いコントローラーを小さな手で器用に操作しながら声を上げる。そして体を右に左に傾けながら、ディスプレイに向かって叫び声とともに拳のように長い耳を振り回していた。

「あ、あの……」

 アユムは鞭のように向かってくる耳を避けながら、兎に声をかけてみた。

 しかし兎はアユムを見ることなくゲームを続け、

「おんどれは黙ってワイの後ろをついてればええんじゃ! 金魚の糞みたいになっ!」

 口の端をつり上げてそう言うと、コントローラーのボタンを激しく操作しながら狂ったように笑い出した。

 これ、兎なのか?

 不安しか覚えない目の前の状況に頬を引きつらせながらも、アユムは取り敢えずもう一度声をかけてみる。

「あのー、すいませーん」

 しかし兎は聞こえなかったのか、ディスプレイのほうを向いたまま、ちぎれそうなほど耳を振り回してひたすらゲームを続ける。

 こいつ大丈夫なのか?

 兎に人間の判断基準を当てはめていいのか迷いつつも、ほかに誰もいない状況に、アユムは仕方なく再度、今度は兎の前で手を振りながら声をかけてみた。

「すいませーん」

 すると、今度はさすがに気づいたのか兎の耳がピンと真っ直ぐに伸びて止まり、コントローラーを握っていた手から力が抜ける。そして、コントローラーが床に落ちる音がして、

「チッ」

 吐き捨てるような舌打ちとともに、兎はゆっくりとアユムのほうへと顔を向けた。その眉間には何本もの皺が寄り、眉もつり上がって明らかに怒りの表情を形作っている。

 その様子にアユムが困惑していると、兎はアユムを見つめたまま、ゆっくりとサングラスを持ち上げた。

 その顔にアユムは一瞬息を呑む。

 ……目が、縫い付けられてる……

 兎の閉ざされた両目に気味悪さを感じながらも、アユムはそこから感じる刺すような視線に目を逸らすことができなかった。

「よくも……」

 兎が奥歯を噛み締めながらつぶやく。

 その小さな手は強く握りしめられ、アユムがそれに気づいたときには、兎はもふもふの白い拳を繰り出しながら叫んでいた。

「兎様がゲームしとるのに邪魔するとはいい度胸やッ! 一遍死んで来いやああああああああああッ!!」

 彗星のように白い拳がアユムの顔を直撃し、それは、そのまま捻りを加えながら顔面を抉るようにディスプレイへと振り抜かれた。

「うぼげばぁあああああああ!」

 そしてアユムは、今まで口にしたことのないような叫び声を上げながら、ディスプレイの向こうに広がる荒野へと落ちていった。

       ◆

「いててて……」

 痛む頬を手で押さえながら、アユムは上半身を起こした。

 すると体についていた砂が落ちて、さらさらと乾いた音を立てていく。

 口の中に入った砂がザリザリと気持ち悪くて吐き出すと、吸い込んだ息とともに血の臭いが口の中に広がった。アユムは恐る恐る舌で口の中を確かめて、傷口に触れた途端に痛みで顔をしかめる。

「いっつうぅぅ」

 それでも、取り敢えず歯が折れていないことに安堵しながら、アユムは周囲を見回した。

 そこには赤土でできた大地が広がり、太陽の光を反射して陽炎が揺らめいている。その光景にアユムは既視感を覚えた。

 たしか、さっき……。

 そう思って上を向けば、空に穴のような黒い長方形が浮いている。そして、その中では小さな白いものが楽しげに飛び跳ねていた。

「あいつ!」

 思わず奥歯を噛み締めて、アユムは痛みに顔をしかめた。

 頬を手で押さえながら兎のいる穴へと視線を戻せば、そこにはもう兎の姿はなく、アユムは空に浮かぶ黒い長方形を見ながら力なく肩を落とす。

 あそこから落ちてきたのか……。

 よく生きてたなと感心しながら、アユムは白い兎の顔を思い浮かべてため息をついた。

 あいつは、なんなんだ?

 わけがわからないという思いだけが頭に浮かび、その理不尽な態度に怒りが込み上げてくる。

「いっててて……」

 再び走った頬の痛みに顔を歪めて、アユムはゆっくり息を吐いた。

 もう、アイツのことを考えるのはやめよう。

 無駄なことだと割り切って、アユムは目の前に広がる荒野に視線を移す。

「それにしても、どうするかな……」

 独りごちてぼんやり地平線を眺めていると、アユムの耳に一つの音が聞こえてきた。それは背後から段々と自分のほうへと近づいてくる。

 嫌な予感とともにやって来るそれは激しい鼓動のような機械音で、アユムは大きくなる予感に恐る恐る背後へと振り向いた。

 すると、そこには毒々しい色彩のトラックがあった。トラックは砂煙を上げて、猛スピードでこちらへ向かって走ってくる。しかし、その座席に人影はなく、代わりに二本の白い長耳が揺れていた。

「…………」

 アユムは自分の嫌な予感に納得し、目の前の絶望にうなだれた。

 しかし、そうこうしている間にも、トラックは自分のほうへと車体を激しく揺らして向かってくる。

「ちょ、ちょっと待て!」

 無駄なことを言っているとは自分でも思いながら、アユムは口の痛みを無視して叫ぶと急いで立ち上がる。その間もトラックは狂ったようなスピードでアユムへ迫り、すでに十メートルもない距離まで来ていた。

 壁のような恐怖から離れようと、アユムは前へ走り出す。

 乾いた大地に足を取られながら、アユムは遮る物のない荒野をひたすら真っ直ぐに駆けていく。

 爆発するようなエンジン音と大地を抉るタイヤの叫びは、呪いのようにアユムを追いかけ、瀑布のように迫る恐怖にアユムは手足を前へ前へと振り回す。

 そんな中、アユムは気になって少しだけ後ろへ振り向いた。

「!?」

 一瞬、アユムはそれが何だか理解できなかった。よく見れば、それはトラックの鼻先で、太陽の光を反射して不気味な輝きを放っていた。そして、アユムの背中に熱くなった鉄の塊が押しつけられる。

「うわあああああ!」

 アユムは叫び声を上げて加速した。それは一瞬だけ数十センチの隙間をつくり、しかしトラックのスピードにかなうはずもなく、その距離はエンジンの唸りとともにあっけなく無意味になる。

 そして、次のエンジン音とともにアユムの背骨は砕け、ひしゃげる音ともに大地のそれとは別の赤を空へと盛大にまき散らした。

       ◆

 ……うぅ……

 アユムは四肢の痛みに意識を取り戻した。

 目を開けて前を見れば、そこには滝のように巨大な木がある。そして周囲へ視線を向ければ、どこにも同じような巨木ばかりが立ち並び、下のほうに生えている草も見たことがないほど大きかった。

 ……なんだ、ここは?……

 一見して森のようだったが、何もかもが巨大で異様な空間に、アユムは体を動かそうとして別の異変に気がついた。

 ……体が、動かない?……

 手足を動かそうとしても、感覚はあるが何かに固定されているかのように動かせない。

 ……そう言えば、さっきトラックにはねられて……

 そのせいで体が言うことを聞かなくなってしまったのかと、アユムは試しに首を動かしてみた。すると、首は普通に動いて振り向くこともできそうだった。

 安堵したアユムは後ろへ振り向いて、そして目を見開いて息を呑んだ。

 そこにあったのは巨大な人の顔だった。空を覆い隠すほどの幼さを感じさせる大きな顔が、無邪気に楽しそうな視線を自分に向けている。

 アユムはとっさに逃げだそうとした。でも、手足がまったく動かない。

 ……いったい、なんなんだよ!?……

 焦る気持ちにアユムは自分の体を見て、そして探した。でも、視界には節くれ立った黒い棒があるだけで、自分の体が見当たらない。

 仕方なく黒い棒をよく見れば、それは六本あって大きな指につままれている。

 ……なんだ? これは……

 試しに手足を動かしてみれば、なぜかその六本が震えるように動きを見せる。そしてアユムは、視界の上端にも同じように黒くて垂れ下がる枝のようなものがあることに気がついた。

 ……まさか……

 思考とともに視界の下でも何かが動く。それは太くて牙のような形をしていた。

 アユムは目に見える断片を自分の記憶と重ね合わせる。それは小さい頃に祖母の庭先でよく見た誰もが知っている生き物で、

 ……虫の体……

 そして一つの結論にたどり着く。

 ……僕は、アリ、なのか?……

 疑問に答える者はなく、アユムは答えを求めるように巨人へと視線を向けた。

 ……じゃあ、これは子供……

 声にもならない問い掛けに、子供はにやりと口を歪める。そして、つまんでいた足を三本ずつ左右に引っ張り始めた。

 ……!? や、やめろ!!……

 しかし、子供は目を輝かせたままアユムの足をゆっくりと引っ張っていく。

 伸びきった足は節々で悲鳴を上げ始め、

 ……痛い!痛い痛い痛い痛いっ!!……

 そして、ブチッと何かが引きちぎれるような嫌な音がアユムの体に響いた。

 ……ぎゃあああああああ!!……

 ブチッ、ブチッ、ブチッ、ブチッ、ブチッ。

 聞こえるはずもない悲鳴を無視して、子供は花びらのようにアユムの足をすべて引きちぎっていく。

 体中に走る痺れと熱と喪失感に、アユムの意識は塗りつぶされていく。そんな中、アユムは子供の指が自分の頭に近づいてくるのをぼんやりと見ていた。

 ブチブチッ。

 音がして指が去ると、枝のように伸びていた触角は視界から消えていた。

 ……あ、ああああ……

 体中が痙攣するように危険を知らせ、しかしアユムに為す術は無く、そんな彼を見下ろして子供は口の端をつり上げる。そして、指の上にアユムを載せると狙いをつけて、その小さな体を指で軽くはじき飛ばした。

 ……ぐあっ……

 重い衝撃とともにアユムの体は真っ直ぐに宙を飛び、ゴムのような餅のような柔らかな何かに張り付いた。

 熱にうなされるような虚ろな意識の中、アユムはここが危険であることを本能的に感じていた。しかし、同時に今の自分ではどうすることもできないことも知っていた。

 ……死……

 その一文字が脳裏に浮かぶ。

 そして、それはアユムの近くへ来ると、のぞき込むように顔を近づけた。そこには丸い目が幾つかあり、そのどれもが感情もなく自分を見つめている。目の表面には、どれにも黒い塊と化した自分が、万華鏡のように映っていた。

 それは、ため息をつくように牙を一度動かすと、その奥にある口を見せつけながらアユムへと近づいてくる。そしてアユムの体に牙を突き立てると、何かをゆっくりと流し込み始めた。

 熱いようなむず痒いような感覚が、牙を中心にしてアユムの体を侵していく。それはアユムの意識をゆっくりと、体とともに溶かしていった。

       ◆

「おい! しっかりしろ!」

 肩を痛いくらいに叩かれてアユムは目を覚ました。

 驚いて隣を見れば、そこには迷彩柄の重そうなヘルメットをかぶった男がいた。その全身は迷彩服で覆われ、真っ直ぐな瞳が自分を見ている。

 男はアユムと視線を合わせると、背中を思いっきり叩きながら耳元で叫んだ。

「ぼけっとするな! 死にたいのかッ!」

 その言葉にアユムは肩を縮こまらせ、思わず握りしめた手の中に固い何かがあることに気がついた。

 何かと視線を移してみれば、そこには一丁のアサルトライフルが、ずっしりとした重みとともに存在していた。

「よし、次はおまえだ!」

「……え?」

 いきなり次だと言われ、アユムは再び背中をバンッと叩かれる。

 わけがわからず男へ視線を送ると、

「行け!」

 そう言って男は、無理矢理アユムを前へと押し出した。

 つんのめるように前へと進み出て、アユムはそこで立ち止まる。

 周囲を見回せば、砂埃の立ち込める廃墟が視界一面に広がっている。

 石でつくられた建物はどれもが崩れ落ち、舗装されていない道の端々には倒れた人が土嚢のように積まれていた。

「おいっ! 止まるな!」

 背後からの怒声に振り向いた瞬間、アユムの耳元をヘルメット越しに擦過音が突き抜けた。そして、耳鳴りに似た痛みに顔をしかめるアユムの目の前で、男が隠れていた家の壁に小さな穴が開く。

 男は素早く銃を構えると、アユムに向けて発砲した。

「ひっ!」

 それは連続する銃声を短く響かせ、しかしアユムは痛みもなく立ち尽くす。

 背後で何かが倒れる音がして振り向けば、地面に見知らぬ男が倒れていて、乾いた地面が濡れていく。

 黒く湿っていく地面に呆然と視線を落とすアユムに、またあの声が怒鳴りつける。

「走れ!走れ!走れ!走れ!」

 男は銃口を向けながら、先へ行けと促し叫ぶ。

 容赦ない男の声に押されて、アユムはわけもわからず一歩を踏み出し、そのまま廃墟の中を走り出した。

 手にした銃と服は重く、うまく足が動かず思うように走れない。

 それでも足を動かし前へと進むアユムの前に、突然建物の影から長い筒を肩に抱えた男が現れた。

 男は筒の先端を迷わずアユムに向け、アユムは思わず動きを止めた。途端に服の重さに引っ張られてアユムは地面に膝をつく。

「止まるな! 走れ!」

 後ろから再び怒鳴り声が聞こえ、その声に目を向ければ、自分の視線をたどるように煙が横を駆け抜ける。そして、次の瞬間には男が隠れていた家が吹き飛んだ。

 呆然とするアユムの背後で足音がする。それは確実に近づき、アユムの体はびくつき震えた。

 足音は影となってアユムを覆い、そして何かをはめるような金属音がする。

 絶望的な恐怖を感じながら、それでもアユムは奇跡的な助けを求めてゆっくりと振り返る。しかしそこには、ただ黒い穴があるだけだった。

 火薬の臭いがする。

 恐怖に麻痺し始めた頭でそんなことを思いながら、アユムは目だけを動かして銃口の上へと視線を向ける。そこには大きなゴーグルに覆われたひげ面の顔があって、その口元はなぜか楽しげに歪んでいた。

 引き金にかけられた指が無言で引かれていく。それはスローモーションのようにゆっくりで、まるで結末から逃げるように動きを緩めていく。

 しかし、亀を追いかけるアキレスのようにはいかなかった。

 アユムが何か弾ける音を聞いたときには目の前には青い空が広がり、顔を温かい何かが広がっていく。

 青い空は光を失ってモノクロになり、そして、自分を取り囲んでいた銃声や爆発音も次第に鳴りを潜めていった。

 思考さえも止まりかけた世界で、アユムはそれらをただ受け入れることしかできなかった。

       ◆

 アユムは再び痛みで目を覚ました。そしてアユムは再び殺された。それは何度も何度も何度も何度も繰り返された。

       ◆

 カチッカチッとリズムを刻んで何かが噛み合う音がする。

 それは早かったり遅かったり、大きかったり小さかったりして、幾つも幾つも重なって一つの鼓動を生み出していた。

 アユムは横になったまま、海に浮かんで波間を漂うような心地よさに目を閉じていた。

 酷く体が重い。

 そんな感想しか出てこなかった。

 いきなり知らない場所に放り込まれ、そして理不尽に殺される。それが何十、何百、何千と繰り返され、アユムはいつしか激しく明滅を繰り返す電球のように、自分が生きているのか死んでいるのかわからなくなっていた。

 僕は生きているのか?

 そんな疑問さえ、浮かんではすぐにどうでもよくなって消えていく。

「おい、起きろ」

 それは酷く耳障りな音だった。同時に、穏やかだった闇が大きく揺れて体が傾く。

「起きろって言ってるだろ?」

 揺れは徐々に大きくなって、なぜか揺れるたびに脇腹に痛みが走り始めた。

 痛いってことは、僕は生きてるのか?

 他人事のように思いながら、アユムはしつこい痛みが気になり始める。

 その間隔は次第に短く早くなり、痛みも大きくなっていく。

 そして、アユムが痛みに耐えられなくなって目を開けようとした、そのとき、再びあの声がやかましく聞こえた。

「いい加減に起きろや! このボケがッ!」

 脇腹に鋭い痛みが走り息が詰まる。

 体をくの字に曲げてなんとか痛みに耐えると、アユムは大きく息を吸って文句とともに吐き出した。

「痛いなッ! 何すんだよ!」

 そう言って勢いよく上半身を起こしたアユムの視界にあったのは、どこかで見たもふもふの白い小さな拳だった。

「それが兎様に対する態度かッ!」

 顔面に拳を受けて、アユムは再び暗闇へと落ちていった。

       ◆

「それで、輪廻転生は楽しかったか?」

 二人掛けのソファーに寝転がって、黒いサングラスをかけた白兎は興味なさそうにアユムに尋ねた。

「……酷い目に遭ったよ」

 アユムは一人掛けのソファーに座って、痛みの残る鼻をさすりながらつまらなそうに答えた。

 周囲を見回せば、闇に浮かぶように幾つものディスプレイが淡い光を放ち、その裏には大小様々な歯車が蠢いている。そして、その中心には幾つかのゲーム用コントローラーが無造作に置かれた小さなガラス製のテーブルがあり、白兎とアユムのいる大小のソファーと大画面のディスプレイがそれを囲んでいた。

 ゲーム画面を映していたディスプレイには、今は別の映像が流れている。

「まったく呑気なもんだよ」

 アユムは、ディスプレイの向こうで生クリームをたっぷり載せたパンケーキを口いっぱいに頬張るフラウを見てつぶやいた。

「こっちは、わけのわからないことになってるっていうのに……」

「ん? なんだおまえ、フラウから何も聞いてなかったのか?」

 頬杖をついてふて腐れるアユムに、白兎はサングラスを上げると閉じた瞳を向けて訊いてきた。

「そうだけど?」

 それに半目で答えて、アユムは頬を膨らませた。

「そうならそうと早く言え。まったくフラウの奴、勝手に送り込んでおいてインフォームドコンセントもしてないとか。危うくこいつを問答無用でギアにするところだったぞ」

 なんかさらっと怖いことを言って、白兎は慇懃なお辞儀とともに自己紹介を始めた。

「俺は盲目白兎だ。役目は、そうだな、主にギアの支援ってところか。イメージ的には魔女の使い魔みたいなもんかな」

 そして、両腕を広げると白兎は周囲を見回して続けた。

「で、ここはギアと世界を繋ぐ中枢。世界の裏側だ」

「世界の裏側ねぇ?」

 怪訝な瞳を向けて首をかしげるアユムに白兎は言葉を続ける。

「ユグドラシル。人間はそう呼んでるな」

 世界を意味する樹の名前に、アユムは改めて周囲を見回した。

 ディスプレイには、どれも衛星写真のような映像が映し出されている。あるものは都市部を、またあるものは森林や海など、それは地球の至る場所を映しているようだった。そして、その隅には年月や時刻が表示され、その中には過去や現在だけでなく、未来を示す数字もあった。

「ここは世界の中心であり裏側、そして運命を紡ぐ場所でもある」

 そう言って白兎は指を鳴らす。すると幾つもあったディスプレイは消え、その後ろにあった無数の歯車が顕わになる。それは球の内部のように周囲を覆い尽くし、ある場所では新しい歯車を継ぎ足しながら、またある場所では組み合わせを変えながら、何重にも連なり動き続けている。

「……運命を紡ぐ……」

 その呑み込まれるような光景に、アユムは思わずつぶやいていた。

「あそこを見てみろ」

 白兎は腕を組んだままそう言って、片耳で右上方を指し示した。

 そこには、錆びついたように回ることなく軋むだけの歯車があった。そして、それを中心として噛み合わさった大小様々な歯車も同じように軋み震えていた。

 盲目白兎は静かに告げる。

「あれが死……」

 その言葉とともに、中心にあった歯車が澄んだ音ともに砕け散る。

「そして転生だ」

 散った破片はそれぞれが小さな歯車となり、周囲に流れ星のように広がって別の歯車へと繋がっていく。そして、砕けた歯車に繋がっていた歯車たちは、何事もなかったように動き始める。

 よく見れば、歯車の破砕と再接続は至るところで星の瞬きのように起きていた。そんな動きの中、アユムは周囲の歯車を頻繁に組み替えている歯車があることに気がついた。

 その視線に、白兎はニヤリと口を歪めて言う。

「あれが自ら歯車を巻く者――ギアだ。ギアは運命の歯車を自ら組み替え、世界のあるべき姿を自ら変える」

 ほかとは違う能動的なギアを見ながら、アユムは兎の言葉を自分の言葉で言い換える。

「それって、運命を自分の思い通りに変えられるってことなのか?」

「そう言ったつもりだが?」

 白兎はアユムの疑問に、不思議そうに首と耳をかしげた。

 そんな兎にアユムはさらに問い掛ける。

「生死さえも?」

「もちろん」

 事も無げに白兎は答えて話を続けた。

「そして、おまえにはギアになる資格がある」

「資格? 僕に? なんで?」

 立て続けの疑問に、白兎は首と耳を横に振って言う。

「理由は知らん」

「知らんって……」

 呆れるアユムに、白兎はため息をついて肩と耳を落とした。そして小さな声で面倒臭そうにつぶやく。

「そんなことはナンバー0に訊いてくれ」

 また知らない言葉に、アユムは質問を口にしようとして、しかし兎は耳を突きつけてそれを拒んだ。

「それよりも、だ。現に、おまえはここにいて俺と話をしている。それが重要だ。それこそが資格を持つ者、世界の声を聞くことのできる者の証。資格のない者は、ここを認識することも俺を理解することもできないからな」

 そして白兎は、のぞき込むように閉じた瞳を向けてアユムに問い掛ける。

「どうする? おまえが望めば今すぐギアにしてやるぞ?」

 迫りながら言う白兎に、アユムは困った表情を浮かべて黙り込んだ。

 兎はさらに迫ってアユムに言う。

「死ぬのは怖かっただろ? あんな思いもギアになればしなくていいんだぞ?」

 詰め寄る兎に、アユムはソファーの背に追い詰められながら訝しげに尋ねた。

「なんか、話がうますぎないか?」

 その言葉に白兎の動きが止まる。そして含み笑いを浮かべると、胸を張って口を開く。

「よく気付いたな。まあ、多少の代償はある」

 その言葉に、アユムは苦虫をかみ潰したような顔をする。

 おまえもフラウのこと言えないじゃないか。

 そう思いながらも、アユムは訊いて欲しそうにしている白兎にしょうがなく尋ねた。

「で、その代償は?」

「記憶だ」

 即答する兎に呆れながらアユムは言った。

「あれですか? これはいわゆるアブダクションってやつですか?」

「あのな、おまえ。俺様のことを馬鹿にすると、本当に記憶を無かったことにするぞ」

「ひっ!」

 こめかみに青筋を浮かべながら拳を握りしめて言う白兎に、アユムはとっさに頬の痛みを思い出し、冷や汗を浮かべながら頬を押さえてソファーにうずくまる。

 そんなアユムに、白兎はため息とともにソファーに腰掛けると説明を続けた。

「まったく、その逆だよ。忘却ができなくなるんだ」

「え、それだけ?」

 拍子抜けした様子のアユムを一瞥すると、白兎は腕を組んで俯きながら話を続けた。

「ああ、記憶することが運命によって義務づけられるからな。ただ、それだけがギアの代償だ」

 そして大きく一度息を吐くと、アユムに顔を向けてもう一度問い掛ける。

「さあ、どうする?」

「僕は……」

 アユムは俯いて今までのことを思い出す。いずれも現実離れしたことばかりで、夢だと言われればそちらの方が現実味がある。でも、何かがアユムの胸につかえていた。

 そして、三秒が経過した。

「はい。時間切れー」

「は?」

 軽く手を打ち鳴らして告げる白兎に、アユムは驚き顔を上げた。しかし、そこに白兎の姿はなく、左側から聞こえた風音に視線をやれば、白い何かが自分へ向かって迫ってくる。それは見覚えのある動きで、ドリルのように高速で回転しながらアユムの顔面に突き刺さった。

「うぼげばぁあああ!」

 そして、アユムはつい最近口にしたばかりの悲鳴を上げながら、フラウの映るディスプレイへと吸い込まれていった。

       ◆

「お帰りなさい。少し早かったわね」

 フラウの声に目を開ければ、アユムの目の前には透明なバケツに入ったカラフルなパフェがあった。

 そこへとスプーンを突き刺しながら、彼女は口についたクリームを上品に拭う。

 バケツの周りには肉の無いステーキ皿や空の器があり、目の前のパフェも既に三分の二は無くなっていた。

 アユムは自分の前に置かれていたイングリッシュマフィンのモーニングセットを見て、まだ朝であることにため息をついた。

「それで、白兎の奴は元気だった?」

「酷い目に遭いましたよ」

 そう言ってアユムは、サーモンの載ったマフィンにかじりつく。塩気の利いたサーモンと、こんがり焼けたマフィンのほのかな甘味が口の中に広がって、一気に安堵が胸の中にも広がった。

 渇いた喉をオレンジジュースで潤すと、アユムはフラウに尋ねた。

「あれは、いったい何なんですか?」

「説明されたでしょ?」

「されましたけど……」

 納得いかないといった表情でアユムはマフィンを口にする。

「でも、その様子だと答えられなかったみたいね」

 バケツをつつきながら言うフラウに、アユムは不機嫌な顔をして、

「答えるも何もありませんよ。考えてる最中に殴られたんですから……」

 そう言って手にしたマフィンを一気にすべて平らげた。

「そうね。でも、大切なことほど答えは既に決まっているものよ」

 フラウは微笑んでパフェのイチゴを一個、口の中へと放り込む。そして話を続けた。

「まあいいわ。取り敢えずユグドラシルの存在さえ認識してくれれば」

「食べながら話さないでください」

 イチゴを頬張りながら話すフラウをたしなめて、アユムはハムとチーズが載ったマフィンに手を伸ばして一かじりする。

「ねえ、アユム。目を閉じて耳を澄ませてみてくれる?」

「なんですか、いきなり」

 食べている最中にもかかわらず言ってくるフラウに、伸びたチーズを口の中へとたぐり寄せながらアユムは答えた。

 フラウはアユムの口元をじっと見つめ、

「食べながら話さないの」

 そう言って、チーズの切れたマフィンをアユムの手から奪い取る。そして、代わりとでも言うようにパフェのリンゴをフォークに刺して、彼の口へとねじ込んだ。

 マフィンはあっという間にフラウの開いた大口へと消え去り、アユムは身代わりとなったリンゴを仕方なく味わいながら「マフィンとリンゴじゃ割が合わないよな」と思いつつも目を閉じた。

 視覚が遮断されると、リンゴの舌触りや甘味がより鮮明に感じられる。そして、微かに残ったハムとチーズの味にアユムは少し悲しくなった。

 それらが消えると、することが無くなったアユムは、いつものように世界の声に耳を澄ませてみた。すると、そこには今までよりも鮮明で美しい音色が広がっていた。

 アユムは驚き、その広がりに自分自身を重ねるように委ねてみる。それは色の無い水面のように穏やかで優しく、しかし明らかな存在を示すように澄んだリズムを刻んでいた。

 安らぎに満ちた世界をもっと感じようと意識を伸ばしていくと、アユムはそこに何か断続的な軋むような濁った音が混ざっていることに気がついた。

「あれ? なんだこれ? なんか嫌な音がする」

「それがノイズよ」

「ノイズ?」

 目を閉じたまま尋ねるアユムに、フラウはハムとチーズのおいしそうな匂いをさせながら答えた。

「機関の連中が持ってる機関員の証――グラムの牙が発する雑音よ」

「あの、僕のマフィンを食べながら話さないでくれますか?」

 こめかみをひくつかせながらアユムは言って、ふと思いついたことを口にした。

「じゃあ、これから離れれば……」

 そこまで言って、アユムはノイズが大分近くにあることに気がついた。距離にして三十メートルくらいだろうか。

「……フラウさん?」

 アユムの表情に、フラウは口を上品に拭うと伝票を手にして立ち上がる。

「ごちそうさま。じゃあ、さっさと行くわよ」

 その声にアユムが目を開けてテーブルの上を見ると、さっきまで残っていたはずのフラウのパフェもアユムの飲みかけのオレンジジュースも、すべてがきれいに無くなっていた。

       ◆

「アユムはノイズに集中して、その進行方向を教えてちょうだい」

 アユムの手を取りながら、フラウは立ち止まることなく歩いていく。その先には高いビルが建ち並ぶ商業区の中心があった。

 アユムは少し物足りないお腹をさすりながらも、目を閉じて音に集中することにする。

 それは、こちらが歩くのと同じ速度で、しかし確実に近づいていた。

「真っ直ぐこっちに向かってきます」

「わかったわ」

 フラウは右へとアユムの手を引いていく。

 その後も二人は、ノイズが方向を変えて追ってくるたびに相手を巻くように方向を変えては進み続けた。あるときは裏道を通り、あるときはビルの屋上を飛び渡り、またあるときは狭いトイレの窓をくぐり抜けて、休むことなく人の気配を避けて歩き続ける。

 そして三時間後。

 二人は人気のない袋小路に追い詰められていた。

「なんでこうなるんですか!?」

「さあ、なんでかしら?」

 冷や汗を浮かべて言うアユムに、フラウは他人事のように首をかしげた。そして突然、満面の笑みを浮かべると、アユムを見下ろしながらこう言った。

「やっぱり囮になってくれる?」

       ◆

 そこはアーケード通りだった。左右には遠くまで飲食店が立ち並び、お昼時ということもあって多くの人が通りを楽しそうに歩いている。

 そんな中、顔を赤くして時折後ろを振り返りながら、アユムはフラウとともに人混みのまっただ中にいた。

 フラウは目だけで周囲を見回しながら、後ろで不安そうにしているアユムに前を見つつ話しかけた。

「そんなにアレが気になるの?」

 その言葉にアユムはさらに顔を赤らめると、俯いて小さな声で尋ねる。

「あれで、本当に大丈夫なんですか?」

 そう言ってアユムは、チラチラとワンピースに隠れたフラウのお尻へ視線を送る。

 フラウは視線からお尻を隠すように少し振り向いて、眉根を少し寄せながら聞き返した。

「もう、どこ見てるのよ? 何? 私の使い魔が信用できないの?」

「だって、あんな……」

 そこまで言ってアユムは耳まで赤くする。そして、つぶやくように続きを口にした。

「あんな黒兎にパ、パンツを被せただけで……」

「ん? なーに? 聞こえなーい」

 フラウはアユムの前に一歩出て立ち止まると、耳に手を当てながら大げさな仕草で訊いてきた。それに対してアユムは、無言で赤い顔のまま彼女を睨み返す。

 そんな彼にフラウは笑顔を見せると、

「大丈夫よ。なんせ私のパンティーなんだから」

 と、自慢げにワンピースの裾をつまんで少し持ち上げた。

「ちょっ!? やめてくださいよ!」

 慌てて大声を出したアユムに周囲の視線が集まる。しかし、フラウは落ち着いて裾を上げたまま、周囲に軽くお辞儀をした。それだけで周囲の人は何事もなかったように、元の流れへと戻っていく。

 再び誰もが自分の世界へと戻っていく中、フラウはアユムの顔を両手で挟むと、自分のほうへ向けて言った。

「それに、現にノイズの動きは鈍ってるんでしょ?」

 半ば無理矢理唇をとがらせながら、アユムは不満げにフラウに答える。

「まあ、それまで迷いなく向かってきていたのが、たまに止まったり、僕たちから離れるような動きを見せるようにはなりましたけど……」

 視線を逸らしながら言うアユムに、フラウは彼の両肩を叩きながら「上出来。上出来」と言って頷いた。そして、右手の人差し指を立てると、

「でも、念には念を押しとかないとね」

 そう言って一軒の店を指さした。

 それは、食欲をそそるニンニクの香り漂う餃子専門店だった。

「あそこで、昼食にしましょ」

 フラウに手を引かれながら、アユムはわけがわからないといった表情で人形のように引きずられていく。しかし、そのお腹は彼女に賛成するかのように、ぐるぐると鳴き声を上げていた。

       ◆

 ニンニクたっぷりの餃子を満喫した二人は、その後も続けて香ばしい煙と甘いタレの匂いをさせる鰻屋、そして炭火焼きが自慢の焼き肉店をはしごした。

 そして焼き肉店を出ると、フラウは店でもらったガムを噛みながら、

「いやー、食べたわねー」

 そう言って満足そうに出てもいないお腹を軽く撫でた。

 フラウは軽い足取りで通りへと戻っていくが、アユムはその後ろで気持ち悪そうにしながら、とぼとぼと重い足取りでついていく。

「いくらなんでも食べす、うっ……」

 そこで何かが逆流しそうになって、アユムは慌てて口をふさいだ。そんな彼を横目で見ながら、フラウは「だらしないわねー」と言ってアユムの背中を何度も叩く。

「や、やべてくだぱい」

 口を押さえて少し涙目になりながら、アユムはフラウを恨めしそうに見上げた。

 自分の三倍は食べていたはずなのに、なんでこの人は平気なんだ?

 その光景を思い出しただけで少し気持ち悪くなって、アユムは考えるのをやめた。

 するとフラウが急に立ち止まって、疲れたようにため息をついた。

 やっぱり彼女も無理してたのかと視線を向ければ、

「ちょっと喉が渇いたし、食後のデザートにしましょ」

 そう言って、アユムを残して入り組んだ人の流れを軽やかにすり抜けていく。

 その先には色とりどりのジューサーが並んだ、おしゃれな店があった。

 その、いわゆるジューススタンドで彼女は何かを注文すると、行きと同じように障害などないかのように足取り軽く戻ってくる。しかし、フラウとすれ違った人たちは、必ず何か嫌な顔をして彼女のほうを振り返っていた。

 アユムは、迫り来る彼女とともに膨らむ嫌な予感をひしひしと感じながら、彼女が手にした二つのコップに視線を向けていた。

 フラウはアユムの前まで戻ってくると、その少し黄色みがかった液体入りの大きなコップを、なぜか顔を背けながら差し出してくる。しかも、両手を伸ばして二つとも。

 その瞬間、アユムは反射的に鼻をつまみながら訊いていた。

「なんれすか? それ」

 フラウは顔を背けたまま、腕を精一杯に伸ばして答える。

「ドリアンジュース。搾りたてだって」

「僕はいりません」

 そう言ってアユムは、ジュースを手で押し返そうとする。

「私のジュースが飲めないって言うの?」

 酔っ払いが絡むように言って、フラウはアユムを睨みつけた。それに対してアユムは、ジュースと視線から逃れるように背を向け、断りの言葉を口にする。

「そんな罰ゲームの王様みたいなもの、理由もなく飲めません」

 するとフラウは、アユムの首に腕を回して背後から抱きしめた。そして、ドリアンジュースを顔の前に差し出して楽しげに言う。

「そう言えば、ノイズはどうよ?」

「調子はどう?みたいに言ってもノリませんよ」

 コップを顔の前からどけながら言うアユムに、フラウはさらに体を密着させて、逃がさないとばかりに、ますます酔っ払いのように絡んでくる。

「ノリが悪いわねー。そんなことだと彼女に振られるわよ?」

「今は関係ないでしょ!」

 そう言って逃げようとするアユムの耳元で、フラウはすかさず囁く。

「いいから、ノイズは?」

「ひっ!?」

 短い悲鳴とともにアユムは肩を縮めると、離れようとしないフラウに大きなため息をついて目を閉じる。そしてノイズの位置を確認すると、疲れたように淡々と答えた。

「こっちとは、まったく関係ないほうへ行ってますよ」

「つまり、そういうことよ」

 アユムから体を離してフラウは言った。

「え? どういう……」

 彼女を追うようにして振り向けば、フラウはアユムの胸にコップを押しつけ、そのまま話を始める。

「追っ手は私の匂いを頼りに追いかけてたのよ。機関の奴等は今の私をギアの反応では追えないはずだし、視覚的に見失いやすい裏道やビルの中を通ったりしたのに迷わず追ってきた。まあ、音って可能性もあったけど、こんな人や機械が多い場所だと痕跡としては弱いしね。それに、よく考えたらあいつ人狼だったし……」

 そして一気に説明すると、フラウはウィンクをしながらアユムに言う。

「わかった?」

「……まったく、それならそうと」

 ため息をつくアユムに、フラウはもう一度コップを押しつける。

 アユムは臭いに顔をしかめながらも、諦めたようにコップを手に取った。

「じゃあ、これで仕上げ。行くわよ?」

 そう言ってフラウはコップを掲げる。それにアユムも続いて、二人は目を合わせて頷くと、

「「せーの!」」

 同時にコップの中身を口の中へと流し込んだ。

       ◆

「さすがにあれは少しきつかったかも……」

 公園のベンチで溶けたアイスのようになりながら、フラウは空を見上げて愚痴をこぼした。

 木々に囲まれて日陰にはなっていたが、それでも陽の当たる地面は白く陽炎が揺らめいている。

「それに、気のせいか体が火照って……」

 そう言ってフラウがワンピースの胸元をつまんで風を送っていると、その前に人影が現れて何かを差し出した。

「はい。フラウさん」

 それは袋に入ったアイスだった。袋には「女王の気品。マンゴスチン」と書かれている。

 フラウはじっと袋を見たまま大きく息をつくと、人影を見上げた。そして、袋を差し出したままのアユムを見て、もう一度大きく息をつく。

「溶けちゃいますよ?」

 心配そうに言うアユムに、フラウは既にベンチで溶けながら視線だけを彼に向けて言った。

「アユム、食べさせて」

「はい?」

「たーべーさーせーてー」

 いきなり駄々をこねるフラウに、アユムは疲れた表情で彼女の隣に座ると、袋からアイスを取り出して差し出した。

「はい、どうぞ」

「ありがと」

 短く言って、フラウはアイスを口いっぱいに頬張った。そして、口内の冷たさに耐えるように目を閉じると、こめかみを押さえながら何故か楽しげに「くぅーっ」と唸って拳を握りしめた。そして、

「さすが女王様! ひと味違うわね!」

 と、やけにテンション高く幸せそうに目を輝かせた。

「ソウデスネ。ジョオウサマ」

 顔を背けながらアユムは小さな声でつぶやいて、大きなため息を吐き出した。

 すると隣でパンと手を叩く音がする。振り向いてみれば、フラウの顔がやたらと近くにあった。

「ねえ、アユム」

「な、なんですか?」

 溶けたアイスに濡れたフラウの唇に目を惹かれながら、アユムは少し横へ動いて距離をとる。

「マンゴスチンってなんか……」

 囁くようにそう言って、フラウはアユムのほうへと体を寄せた。

 開いた距離が縮まって、濡れた唇が艶やかに光る。

「……卑猥、じゃない?」

「は?」

 少し熱のある息にフラウの顔をよく見れば、鼻の頭はほんのり赤く、その目はとろんと下がっていた。

 なんか、酔ってる!?

 アユムは色気を振りまくフラウを見ながら、頭の片隅で思い出す。

 そう言えば、ドリアンで酔うことがあるってどこかで聞いたような……。それにあのジュース、腐ったタマネギの臭いに混じって何か発酵したような臭いもしたし……。

 アユムが考えを巡らす間に、フラウは彼の肩に自分の肩を寄せると、その耳元に口を寄せて唇をゆっくりと動かした。

「ねえ、マンゴスチンって言ってみて?」

「ひっ!? ちょっと、フラウさん!?」

 戸惑うアユムを楽しそうに見つめながら、フラウは彼の二の腕に胸を押しつけるようにして、もう一度囁く。

「だ・か・ら、マンゴスチン」

 顔を赤くして、しきりに胸を気にするアユムに、フラウは彼の視線を追うように顔を動かすと、意味ありげに小さく笑って言った。

「中身が気になる?」

「違います!」

「じゃあ何? そんなにじろじろ見て」

 怪しげな瞳を向けて言うフラウに、アユムは意を決して言い放った。

「臭いんですよっ!」

 フラウは目を見開いて驚いた表情を浮かべ、

「うわー、さいてー」

 冷たい声と見下す視線をアユムに向けて、彼から体をサッと離した。

 そしてアユムの手から溶けかけのアイスを掴み取ると、残ったアイスを一気に頬張り勢いよく噛み砕いて飲み干した。

 残った棒を綺麗に舐めて、フラウはそれでアユムを指しながら「さいてー。まじさいてー」と呪文のように呟き始める。

 一気に冷めた空気に顔を引きつらせながらも、アユムは少しほっとして話題を変えようと目の前の魔女に話しかけた。

「臭いのことは置いといて、一つ聞いていいですか?」

「か弱い乙女心を傷つけておいて何よ?」

 アイスの棒を向けながら、少し怒気を含んだ低い声でフラウは言う。

 アユムは気圧され後ずさり、

「……ごめんなさい」

 本能に従って素直に謝っておくことにした。

 それを見たフラウは棒の先を納めると、

「まあ臭いのはお互い様だしね。いいわ。何?」

 冷めた口調で言いながらも、フラウはアユムの話を聞こうとベンチに座り直した。

 彼女の言葉に自分も臭うのかと気になりつつ、アユムは取り敢えず話を続ける。

「その、フラウさんはどうしてギアになったのかなって……」

 アユムの質問に、フラウは何を訊いているのかと不思議そうに首をかしげた。

「前にも言ったでしょ? 彼の死を否定するためよ」

「いや、そうじゃなくて、えーとですね、ユグドラシルに初めて行ったときの話とか、フラウさんは兎の問い掛けにどんな答えを出したのか、とか……」

 唇にアイスの棒を当てて聞いていたフラウの視線が、次第に何かを考えるように上を向き、瞳を閉じて彼女は言った。

「知りたいの?」

 その声は何かを突きつけるように硬く、アユムは姿勢を正すと真面目な声でそれに答える。

「はい」

 見下ろすような視線でフラウはアユムを見つめると、空へと視線を戻して照りつける太陽に目を細めた。

「そうねー」

 その声に先ほどの硬さはなく、でも、どこか悲しげにアユムには聞こえた。

       ◆

 それは、のどかな昼下がりのことだった。

 フラウは、自宅の庭先にある小さなテラスで紅茶を飲んでいた。

 日差しは穏やかで、時折吹く風は緑の香りを含み、小鳥のさえずりが耳に心地好い。

 ただ少しだけ、フラウは上空を行く雲の流れが早いような気がしていた。

「いつになったら戻ってくるのかしら?」

 ふと漏れた言葉に自分の弱さを感じて、フラウは自嘲気味に笑った。

 そんな彼女の栗色の長髪を風が優しく撫でていく。

 すると大きく厚い雲がやって来て、テラスを日陰で覆い始めた。それとともに、荒々しいエンジン音も聞こえてくる。それは家の近くで止まると、ドアを閉める音を雷のように響かせる。そして、次には規則正しい足音を鳴らし始めた。

「…………」

 フラウは、いつしかその音に耳を澄ませていた。

 それは彼を自分の元から連れ去った音。二度と聞きたくないと思っていた音だった。

 それが今、彼を待つ自分の元へ再び来ようとしている。

 そのことに、フラウの胸は静かに鼓動を早くする。

 何の用だろう?

 ざわつく予感を無視するように、彼女は渇いた喉を潤そうとカップを口に近づけた。その手は微かに震え、唇に触れた紅茶は既にすっかり冷めていた。

 そして、知らせを告げる鈴の音が玄関から聞こえ、

「ミズ・フラウ・オリハタ」

 自分の名を呼ぶ声がする。

 フラウは一気に紅茶を飲み干すと、すっかり曇った空を見上げて玄関へと向かった。

       ◆

 開けた扉の先にいたのは一人の老兵だった。

「フラウ・オリハタさんですか?」

「はい」

 フラウの返事に老兵は彼女の瞳をじっと見つめる。そして肩から提げた鞄から一通の封筒を取り出すと、目を伏せながらそれを差し出した。

 封筒には少し厚みがあり、裏側には差出人として彼の名前が書いてある。

 フラウは何も言わず、その場で封を開けた。

 その中にあったのは、一枚の手紙と傷つき歪んだIDタグ、そしてシナモンスティックのように細く干からびた一本の指だった。

 封筒の中を見つめたままのフラウに、老兵は一言「残念です」と告げると深々と頭を下げる。そして姿勢を正して敬礼すると、踵を返して車へと戻っていった。

 玄関で俯いたままのフラウを残して、車のエンジン音が遠ざかっていく。

 空に広がった雲は厚みを増して暗くなり、ポツリポツリと雨を降らせ始めていた。

       ◆

 台所のテーブルに置かれたオレンジの下で、読み手を失った手紙が風にはためいている。

 玄関は開けっ放しで、台所の裏手にあるバスルームからは水の流れる音がしていた。

 そして、水の溜まっていくバスタブの横で、フラウは右手に握った果物ナイフに映る自分の顔を見ていた。

 これは誰の顔だろう。

 表情の無い見たこともない他人に、フラウは呆然とそう思う。

 右手首にはIDタグがボールチェーンで巻き付けられ、そこには彼の名前が刻まれていた。

 カケル・オリハタ。

 唇だけを動かして、フラウはその名を口にする。

 口から入った空気が鼻から抜けるたび、血の臭いに混じって懐かしい彼の味が口の中に広がった。

 彼の指を口の中で転がしながら、フラウは彼が自分の体の中へと染み込んでいくような安心感を覚えていた。

 私を彼の所へ……。

 祈るように想い、フラウは一気に指を飲み込んだ。そして、自分の手首に刃を当てる。

「!?……」

 その瞬間、フラウは金属の冷たさとともに何かが聞こえた気がして手を止めた。

 それは歌のような金属にも似た澄んだ音で、頭に響いて冷たく心を振るわせる。

 本当に死んだら彼に会えるの?

 ふと心に浮かんだのは、そんな今となっては意味の無い疑問だった。

 でも、それはフラウの心に不安の波を生み広がっていく。

 もし、天国なんて無かったら?

 辛いことも悲しいこともない、そんな都合のいい場所が本当にあるの?

 辛いことや悲しいことのない場所で、本当に幸せや嬉しさを感じることができるの?

 もし、その先に何も無かったら?

 もし、今あるものがすべてだとしたら?

 もし、……。

 もし、……。

 もし、……。

 もし、……。

 フラウは未だに来ない時を思い浮かべる。

 次第に消えていく意識のなかで、辛いことも悲しいことも感じなくなって、家族の記憶も彼との思い出も消えて、何もかもが私の中から失われて、そして私さえも消えて、私が存在したことさえも消えて……。

 その先にあるのは?

 フラウは考え、思い、想像し、そして恐怖に心を震わせた。しかし、それでもフラウは想像することをやめなかった。

 もし、天国も死後の世界もなくて、ただ忘却の彼方に消えてしまうとしたら、その先にあるのは何?

 その先に……、いったい何が、あるの?

 思考の先へと、想像の底へとフラウの意識が落ちていく。

 そして、フラウの手からナイフがゆっくり滑り落ちる。

 バスルームに金属の鋭い音が響き渡り、それはフラウの頭で何かと共鳴するように反響を繰り返した。

 フラウの心が震え、軋み始める。

「あぁ、ああ、あああああぁああぁあアアアアァアアアァアアァアアアアアアアアアアアア!!!」

 彼女は頭を抱え、そして逃げるように家を飛び出した。

       ◆

 吹き荒れる風と叩きつけるような雨の中をフラウは走った。

 失いたくない。

 その想いだけが今の彼女を突き動かしていた。

 塗りつぶされる恐怖から、迫り来る不安から、そして彼の温もりを奪おうとする世界からフラウは逃げた。

 町の通りを、林の中を、どこまでも続く草原を、増水した小川の中を、誰にも届かない叫び声を上げながら彼女はただただ走り続ける。

 そしてフラウは、一本の大きな木に全速力でぶつかって気を失った。

 それは、彼と初めてキスをした丘に立つ、あのいわく付きのオークだった。

       ◆

「結局、猫じゃなかったら、いったい何なのよ……」

 オークの幹に背を預けながら、そよ風に揺れる葉を見上げてフラウはつぶやいた。

 気がつくとすっかり雨は止んでいて、空には満月を中心に澄んだ星空が広がっている。

 教えてくれるって言ったのに……。

 ため息とともに目を閉じれば、彼の笑顔が浮かんでフラウの頬を涙が一条落ちていく。

 失いたくない。

 今確かにあるこの想いを抱きしめるように、フラウは自分の体を強く強く抱きしめた。

 やっぱり嫌ッ! 失いたくないッ!

「そんなに死が嫌ですか?」

 それは冷たく落ち着いた声だった。

 いきなり降ってきた声に頭上を見上げれば、枝の上に梟のような黒い影が乗っている。しかし、その頭には細長い葉っぱのようなものが一本生えていた。

「……何?」

 フラウの声に、黒い影は音もなく彼女の前に舞い降りる。

 月明かりに照らされたそれは、小さな赤黒いシルクハットを頭に載せた片耳の黒兎だった。

 黒兎は後ろ足だけで直立すると、手のような前足で帽子を取って、フラウへ丁寧なお辞儀を披露する。

「お初にお目にかかります。私は片耳黒兎と申します」

 丸見えになった兎の頭には、帽子の載っていた部分に千切れた耳の名残があった。それは赤黒く蠢き、脈動する傷口にフラウは思わず目を逸らす。

 黒兎は気にすることなく頭に帽子を戻すと、細い体を抱いて俯く彼女へ話を続けた。

「フラウ様。貴殿をお迎えに上がりました」

 自分の名を呼ばれて、フラウは兎に視線を戻す。

「……私を?」

「はい。あなたは資格を有されておりますので」

 兎は頷きフラウに答え、フラウは兎の言葉を繰り返す。

「資格……」

「はい」

「…………」

 再び黙るフラウに、黒兎は首をかしげて言った。

「フラウ様。もしかして貴殿は……」

 そして少し疑うような表情をして言葉を続ける。

「死を望まれていたのですか?」

 兎の言葉にフラウは怯えるような怒るような表情を浮かべ、

「そんなわけないでしょ!? 死なんて嫌に決まってるじゃない! なんで死なんてあるのよ! 誰も死ぬ必要なんて無いのにッ!」

 吐き出すようにまくし立て、力任せに拳でオークを殴りつけた。

 木は揺れ数枚の葉が落ちてくる。

 その間から覗く彼女の視線は鋭く黒兎を睨みつけ、しかし、兎は落ち着いた表情のまま彼女に答えた。

「そうかもしれません。でも、そうではないかもしれない」

「何が、言いたいのよ?」

 怒りで拳を傷つけて、フラウは感情を踏みつけるように問い掛ける。しかし兎は平然と、首を振って自分の使命を口にする。

「わたくしは何も。ただ、あなたをお誘いに来ただけですので」

 怪訝な視線を突きつけるフラウに、黒兎は再び恭しく頭を下げた。そして、どこか試すような口調でフラウに問い掛ける。

「来られますか? 死を忘れた世界の裏側へ」

 死を忘れた世界。

 その言葉にフラウは、あの歌声のような音を耳にする。

 そして小さく笑い声を漏らすと、右手を伸ばして黒い兎に答えを返す。

「いいわね。さっさと連れて行きなさいよ。その世界の裏側とやらへ」

「そうですか。ならば参りましょう」

 黒兎は頷き、音もなくフラウに近づき手を取った。

「ようこそ。ユグドラシルへ」

 そして彼女の目の前でマントを翻すように大口を開けると、彼女を一瞬でその中へと呑み込んだ。

       ◆

「まあ、そんな感じよ」

 話し終わると、フラウは自嘲気味な笑顔を浮かべた。

「彼は今、どこにいるのかしらね」

 ゆっくりと雲が流れる空を見上げて彼女はつぶやく。

「わからないんですか?」

「世界中を旅して探してるんだけどね」

 遠くを見つめるフラウの視線を追いかけるように、アユムも空を見上げた。

「でも、そんなことしなくてもギアの力を使えば……」

 不思議そうに言うアユムに、フラウは疲れた口調でため息混じりに答える。

「そのはずなんだけどね」

「ダメ、なんですか?」

 横を見れば、アイスの棒と一緒に彼女は首を横に振って話を続けた。

「死んではいないはずなんだけど、どうやっても会えないのよね」

「ギアを使っても?」

「そう。ギアを使っても。例えば、彼が自分の家に帰ってくるという運命をギアの力で組むじゃない? そうすると、どうなると思う?」

 フラウは先生が生徒を指すように、アイスの棒をアユムに向ける。

「……彼、カケルさんでしたっけ、が家に帰ってくるんじゃないですか?」

 そう思うでしょ?とアイスの棒を振りながら彼女は続けた。

「でも、実際には家が解体されちゃって彼は帰ってこないわけ」

「家が解体……?」

 話を飲み込めていない様子のアユムに、フラウは苦笑を浮かべる。

「もう、びっくりしたわよ。ギアを組んだ翌朝、ベッドの上で目を開けたら突き抜けるようなきれいな青空が、目の前一杯に広がっているじゃない。どうやら手違いが重なって数件隣の解体工事をうちと間違えたらしいんだけど……。本当に、あのときは清々しい朝だったわー」

 最後のほうは棒読みだったが、彼女は再び空を見上げながらそう言った。

「なら、その解体をなかったことにすれば……」

「それは無理。運命って言うのは認識という歯車の積み重ねなの。一度認識されて歯車がはまったら、それを外すことはできないのよ。世界を壊すでもしない限りはね」

 そういうものなのかと思いながら、アユムは別の疑問をフラウに投げかける。

「じゃあ、ナンバー11でしたっけ、そいつがやったって、どうしてわかったんですか?」

「兎に、ギアになると忘れることができなくなるって聞いたでしょ?」

 アユムは白兎を思い出して、顔を引きつらせつつも頷いた。

「……ええ。そんなことも言ってましたね」

 フラウはアユムの様子に苦笑を浮かべながらも話を続ける。

「各ギアの見たことや行動は、すべてユグドラシルに記録されるの。で、兎に訊いてみたのよ。私の邪魔をしてるのは誰かって」

「それで教えてくれたんですか?」

 彼女は肩を竦めると、ため息をついて言った。

「そう。彼の場所は教えてくれないのにね」

 フラウも兎にはいい思いをしていないのか、アイスの棒を強く握りしめると眉間に皺を寄せる。

「ユグドラシルの眼が使えても、探す手間は変わらないっての!」

 空に向かって文句を言うフラウの拳からは木の折れる音がして、アユムは黙って苦笑を浮かべながら、それを見ていた。

「まあ、いずれにしてもナンバー11に直接会って聞き出せばわかることよ」

 そう言ってフラウは立ち上がる。そして、折れたアイスの棒をゴミ箱に放り捨てるとさっさと歩き出した。

「待ってくださいよ!」

 その後を追おうと立ち上がって、アユムは自分が手にしていた小さな袋の存在を思い出す。

 液体の入ったその袋には「バキバキ君きゅうり味」と書かれていた。

       ◆

「いやー、パンティー効果抜群ね」

 山の入り口に立って、フラウは夕暮れに沈み始めた町を見ながら胸を張る。

「まあ、そうですね……」

 事実を否定することもできず、アユムは取り敢えず同意しておくことにした。

 人狼のノイズは、まだ町の中にあった。でも、今は追いかけるような動きはなく、何かを待っているかのように同じ場所で止まっている。

 その不気味な雰囲気から目を逸らすように、アユムは山の入り口へと目をやった。そこには真っ直ぐに続く石段がある。この石段を登り切れば、そこには墓地が山の中腹当たりから頂上にかけて棚田のように広がっているはずだ。

 祖母の墓を思い出しながら、アユムは石段へと一歩を踏み出して言った。

「行きましょう」

「そうね」

 アユムの後に続いてフラウも石段を登り始める。しかし、数段登ったところでアユムの動きが止まった。

 急に止まったアユムの横を通り過ぎてフラウが尋ねる。

「どうしたの?」

「……フラウさん……」

 しかし、その視線はフラウを見ていなかった。アユムは町の方へと振り向きながら血の気の引いた白い顔をしている。

「見つかっちゃったか。じゃあ……」

 落ち着いた声で言うフラウに、アユムは助けを求めるように顔を向けた。その目の前でフラウは両手を腰に当てて、

「今度はブラね!」

 ためらいなくワンピースをたくし上げようとした。

「うわぁあああああああ!」

 アユムは慌ててワンピースを押さえつける。

「何やってんですかッ!」

「何って、次の囮を……」

「今さら意味ないですよ!」

「そう? それは残念」

 あっさりワンピースから両手を放すと、今度は左手でアユムの手を取ってフラウは言った。

「じゃあ、アユム。あいつの位置を見失わないように気をつけてちょうだい」

 そしてフラウは加速する。アユムを引きずるように一気に石段を半ばまで駆け登ると、今度は急に木々の生えた斜面へと方向を変えた。

「うわっ、ちょっ、フラウさん!?」

「下手に喋ると舌噛むわよ!」

 前を見たままフラウはさらに加速する。その動きは直線的ではなく、木々を避けながら複雑に蛇行を繰り返すものだった。絶え間なく変わる方向に酔いそうになりながら、アユムは自分の手を握るフラウの左手に光るものを見つけた。

 それは薬指にはめられた指輪で、よく見ると緑の光で文字列が幾つも浮かんでいる。

《永続閉紋:獣の本質:駆動中》《永続閉紋:衝撃を喰らう鳥:駆動中》《永続閉紋:限界の超人:駆動中》《永続閉紋:距離の無い糸:駆動中》《永続閉紋:距離のある針:駆動中》《永続閉紋:見えない翼:駆動中》

 文字列は車輪のように次々と流れては消え、それは繰り返し何度も現れ続ける。

 もしかして、これがギア?

 アユムが直感的にそう思った直後、腕が不意に上へと引っ張られた。

「へ?」

 足下から地面の感触が消えて下を見れば、そこには草木の無い抉られた山肌が見える。

「!!!!!!」

 丁度石段があった山の入り口の反対側。十メートルほどの幅を持った崖を二人は跳んでいた。

 アユムは吸い込まれるような光景に声も出せず、ただフラウの手を握り直して彼女の背へと視線を向ける。そこにはうっすらと透明な翼のようなものがあって、夕焼けの色を映して浮かび上がる羽の温かさに、アユムは思わず息を呑んだ。

 すごく、きれいだ。

 しかし、そう思ったのも束の間、目の前には再び木々が現れ、二人は雲の上に降り立つように地面へと優しく着地する。そして再び森を走り出す。

       ◆

 山の周囲を三分の二ほど回ったかといったところで、辺りはすっかり暗くなっていた。空には雲が幾つも流れ、今は月を覆って夜の闇をより深くしている。

 明かりの無い森の中をフラウに引かれて走りながら、アユムはその変化に気付いて声を上げた。

「フラウさん!」

 ほとんど何も見えない山の中を迷いなく走りながら、フラウは淡く漏れる指輪の光の中、アユムへと視線を向ける。

 さっきまで石段のほうへと向かっていたノイズが方向を変えて、自分たちのほうへと一直線で速度を上げて向かって来ていた。

 アユムは、緑の光に浮かぶフラウのどこか楽しげな瞳に武者震いを覚えつつ、わき上がる感情に乗せて言葉を放つ。

「真っ直ぐ来ます!」

 フラウは口の端を上げると前を向き、今度は枝の上へと跳躍した。そして、蛇行する動きに枝と地面という上下の動きを加え始める。

「何してるんですか!? 早く逃げないと!」

 速度を落とすような動きにアユムは声を上げ、しかしフラウは不敵な笑みを向けるだけで何も答えない。

 二人とノイズの距離はみるみる内に縮まり、そして、そろそろ山を一周しようかという頃、アユムは後ろで葉を揺らし草を刈るような鋭い音を耳にする。

 やばい、追いつかれた!?

 とっさにアユムはフラウの手を強く握った。すると、フラウは振り向いて楽しげに笑顔を向ける。

 大丈夫だから。

 そういう表情を浮かべるフラウに、しかしアユムは背筋に冷たいものを感じながら、彼女を信じて、その手をしっかりと握り直した。

 後ろを見れば、闇に小さく光る目が二つ浮かんでいる。それは、まるで糸で繋がっているかのように、自分たちの後ろで一定の距離を保ってついてくる。

 やっぱり、もうダメだ!!

 アユムがそう思って目を閉じた直後、その耳に風を切る音がやけにはっきりと聞こえた。それはフラウの左側、自分と彼女が手を繋いでいる方向から一気に近づいてくる。

 とっさに目を開ければ、さっきまで後ろをついていた光は無く、横へと視線を向けたその先、目と鼻の距離にそいつはいた。

「フラウさん!?」

 五本の赤い線が、アユムとフラウをなぎ払うように闇に走る。

「アユムっ!」

 振り向いたフラウはアユムを抱き寄せ後ろへ跳んだ。しかし、闇から固まりのように現れた人狼の腕は、逃さないとばかりに二人へ伸びる。

「え?」

 しかし、そこでアユムが上げたのは悲鳴ではなく驚きの声だった。

       ◆

「ぐっ……。貴様、いったい何をした?」

 野太い声で人狼は唸るように言った。

 流れる雲の合間からは月が顔を出し、その真円から静かな光が降り注ぐ。

 木々の影がはっきりと浮かび上がる中、狼の毛に覆われた巨躯が宙に現れた。

「あなたには見えないでしょうね」

 静かな声でフラウは言うと、アユムのほうへと視線だけを向けて右手を挙げる。その指の間には針が一本あり、そこから非常に細い何かが伸びていた。

 フラウが右手を軽く後ろへ引くと、それは月明かりを照り返すように蜘蛛の巣にも似た光景を至るところに浮かび上がらせた。

 森を描いた絵画を切り裂くようにあらゆる方向へと直線が飛び交い、蜘蛛の巣に絡まるように人狼が、四肢と胴体そして首を、その直線によって拘束されている。

「…………」

 目の前の光景に呆然とするアユムを横目に、フラウは得意げに人狼へと話しかけた。

「言っとくけど、無理に動いたら全身ギロチンよ。糸のない操り人形になりたくなかったら、動かないことね」

 その言葉に人狼は唾を吐き捨てると、吠えるように言い返す。

「グラムの牙に魔女の情けは不要! 亡霊なんぞと違って、我らはグングニルの下、自らの命を懸けて一つの生を全うするのだ! 死こそが生の証! ひと思いに殺せ!」

 人狼の叫びにフラウは大きくため息をつくと、蔑み睨むような鋭い視線を人狼に向ける。

「まったく暑苦しい。あんた、バカじゃないの? いい? あんたの生き様なんか、私の知ったことじゃないの。私は死が嫌いなだけ。特に目の前で死なれるなんて冗談じゃないわ」

 それだけ言うと、フラウはアユムに目配せをして人狼に背を向けた。

「おい! どこへ行く!!」

 人狼の空気を引き裂く怒声に、フラウの後を追おうとしたアユムの足がすくんで止まる。

 しかし、その手を強く引いて、フラウは振り向くことなく墓地へと向かう。

 そして、背後の人狼へと軽く手を振りながら彼女は言った。

「それに私、中身じゃなくて下着を追いかけるような男に興味ないの」

 その直後、アユムは背後で膨れる殺気とともに何かが切れる音を聞いた。しかしフラウは、それでも気にすることなく歩き続ける。

「き、貴様! あとで必ず後悔するぞ!」

 満月の下、多分に動揺を含んだ狼の遠吠えが虚しく響いた。

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