第一章

 静かな深夜の空に月が煌々と輝いている。

 町外れの忘れられた廃墟ビルの屋上で、少年――立川アユムは空を見上げていた。

「はぁ、どうしよう……」

 ため息混じりに漏れた言葉に答える者は無く、昼間の熱い日差しの名残が生温かい風となって吹き抜けていく。

 空に浮かぶ月へと手を伸ばしてみても、宙をかくだけの手のひらに距離を感じて、アユムは腕を力なく下ろした。

「明日になったら、もう……」

 そこまで言って思い浮かべた想い人の顔に、アユムは胸を押さえると肩から力を抜いてゆっくりと息を吐き出す。その顔には、諦めにも似た苦笑が浮かんでいた。

 普通に高校に入って、普通に勉強して、普通に友達と遊んで、そして、いつの間にか恋をしていた。

 それは同じクラスの女子だった。みんなから頼られる学級委員長で、少し冷たい感じもするけど優しくて、でもどこか周囲とは一線を引いているような、少し不思議な雰囲気をまとった少女だった。

 何をやっても空回りな僕とは大違いだ。

 アユムは数々の失敗を思い出して、ため息をついた。

 プリント運びを手伝ったら緊張してプリントを廊下にぶちまけて、それを拾って顔を上げたら彼女のスカートの中だったり、教室を掃除してたら雑巾を踏んで足を滑らせた拍子に彼女を押し倒していたり、それ以外にも似たようなことが何度かあって、ついに彼女は僕を見るなり無言で距離をとるようになってしまった。そして、昨日のお別れ会では彼女の胸にジュースをこぼして、慌てて拭いた僕は彼女の見事な平手打ちを頬に食らった。

 気のせいか少し熱くなった頬をさすりながら、アユムは手のひらに蘇った感触に思いを馳せる。

 それにしても、柔らかかったなぁ。

「……て、僕は何を思い出してんだよ!」

 アユムはコンクリートの床に倒れるように寝転ぶと、背中に当たる硬い感触に少し顔を歪めてため息をついた。

 明日になれば彼女は引っ越してしまう。たしか、お父さんの仕事の関係で外国に行くとか言っていた。そうなれば、もう彼女と話せる機会なんて無いんだろうな。

「……話すとか。僕の場合は、それ以前のことか……」

 アユムは右手を空に向けて伸ばすと、何も掴めない自分の手にため息をついて、視線を隠すように腕で顔を覆った。

 真っ暗になった世界で、アユムは深呼吸をすると耳を澄ませる。すると微かに鼓動のような何かが聞こえてきた。それは一定のリズムで、風の音にも掻き消されそうなのに決して消えることなく、耳の奥へとじんわりと浸透してくる。

 木琴を叩くように鉄琴をはじくように幾つもの音が連なって、それは水面に落ちる雫のように体中へと広がっていった。

 どこまでも透き通った歌声のようなそれは、耳を澄ませるほどに輪郭がぼやけてしまい、捉えどころの無い、寄せては返す波のような感じがした。

 これに気付いたのは二年前、中学三年の夏休みだった。祖母の葬式の最中に僕は親戚の輪から一人離れて、祭壇に飾られた祖母の写真をじっと見ていた。そのとき何か聞いたことの無いような不思議な音が聞こえて、僕は周りを見回した。けれど、自分以外には誰にも聞こえていない様子で、最初は耳鳴りか気のせいだと思っていた。しかし、その音が鳴り止むことは決してなかった。

 気にしなければ聞こえなくなるような些細な音。日常の中に隠れるようにして存在するこの音が、アユムは世界が自分に何かを語りかけているようで気になった。そして、いつしか気が向くと夜中に一人で、この廃墟ビルの屋上に来ては世界の音に耳を澄ますようになっていた。

「ばあちゃん……」

 アユムは音を掴むことをやめると、聞こえるままに世界の音に身を委ねた。

 世界と一つになってるみたいだ。

 その包み込まれるような安心感に、アユムは小さい頃、祖母の膝の上でいろいろな話を聞いていたこと思い出す。

 二年前に亡くなってしまった祖母。いつでも明るく、元気な笑顔で自分を勇気づけてくれた人は、しかし今はもういない。

「僕が告白なんて、やっぱり彼女には迷惑かな?」

 アユムは両腕を大の字に広げて空を見上げると、今日何度目かのため息をついた。

       ◆

「ん?」

 アユムは、上空で何か小さな爆発音が鳴ったような気がしてじっと目を凝らした。すると、夜空が少し揺らめいたように見えた。

 さらに目を凝らせば、闇の中で月の明かりを反射するように時折、銀色のうねりが浮かんでは消え、それは徐々に近づいてくる。それは背後に黒い影のようなものを従えていて、風を切る音とともに月明かりを背にして輪郭を浮かび上がらせた。

 それは人だった。

「え!? ええーーーーっ!」

 ワンピースを着た長髪の人影が自分のほうへと落ちてくる。

「ちょ、ちょっと? え、うわぁああああ!」

 アユムは慌てて立ち上がると、白い布をはためかせながら自由落下を続ける人影を見て両腕を構えた。落下地点を予測しながら位置を微調整しようと、右へ左へ前へ後ろへと足を動かす。そして、少し後ろへ行こうとして、

「うわっ!?」

 小石を踏んづけて後ろへこけた。

「いったたたた……」

 強く打ちつけたお尻の痛みに顔をしかめながら、アユムは布が風を打つ大きな音に気づいて目を向けた。そこには数メートルという近さで、女性の顔があった。肌は色白で、ゆで卵のように小さな顔が可愛らしい。特に、その小さな唇は……。

 て、そうじゃなくて! やばいッ!

 アユムは妄想を振りい払うと、とっさに立ち上がって腕を伸ばした。そして思わず目を閉じた。すると、機械音のような声が空気を震わせる。

《永続閉紋:衝撃を喰らう鳥:駆動》

 そして、それ以外は何も起こらなかった。

 人が落ちるような音も自分に何かがぶつかるような衝撃もなく、虫の鳴く声が微かな風の音ともに聞こえてくる。

「あれ?」

 想像とは違う展開に疑問を感じて、アユムは恐る恐る目を開ける。

 そこには、色白のきれいな女性が長い髪を横たえて宙に浮かんでいた。艶やかな腰までもある長い髪は毛先から半分までが銀色で、残り半分は栗色をしていた。しかし、すぐに銀色の部分も色あせるように栗色へと変わっていく。

 女性は重さを失ったかのようにアユムの胸の高さで浮かんだまま、しかし少しずつ、ゆっくり下へと降りていく。そして、伸ばしたままだったアユムの腕に触れると、いきなり重さを取り戻した。

「うわっ!?」

 なんとか女性の脇に腕を入れるようにして体を支えると、アユムは体制を整えようと両腕を彼女の体の前へとさらに回した。そして、背後から抱きしめるように自分の体へと引き寄せる。

 ふにゅ。

 それはアユムの手のひらで起きた。しかも両手同時に。ワンピースの布越しに、何か柔らかなものが両手を優しく押し返す。その感触にアユムは覚えがあった。

 つい最近、これに似た感触をどこかで……。

「うわわわっ!?」

 彼女から受けた平手打ちの感触とともにそれを思い出して、アユムは慌てて彼女の胸から自分の手を離そうとする。でも、呻き声とともに体をよじった彼女の細い体が、腕からずり落ちそうになって、

「おっと……」

 再び胸を鷲?みにしてしまった。

 や、やわらけぇ!

 その甘美な感触に、アユムは思わず心の中で感想を叫んでいた。一瞬で意識は手のひらへと集中し、指の一本一本がまるで磁石のように双丘に吸い付いて離れない。

「……いったた。あの狼、女の華奢な体になんて馬鹿力を……」

 突然聞こえた女性の声に、アユムは我に返って固まった。すると、抱きかかえた女性の首が静かにこちらへと振り向いて言う。

「あなた、誰?」

「ご、ごめんなさいッ!」

 怪訝そうな視線を向けてくる彼女にアユムは反射的に謝った。しかし、彼女は無言でアユムの顔を見続けると、こつ然と腕の中からいなくなった。

「えっ!?」

 そして、いきなりアユムは背後から首を絞められた。

「!? く、苦し……」

 回された腕を外そうとしても、まるで鉄塊のようにびくともしない。

 腕の中でもがくアユムを無視して、女は首を絞めたまま周囲を注意深く見回した。そして、近くに危険が無いことを確認すると安堵の吐息とともにつぶやいた。

「……ひとまずは、ごまかせたみたいね」

 そして腕の力を緩めると、力なく崩れ落ちるアユムを見下ろして言う。

「あなた、機関の連中じゃないわね?」

「ごほっ、げほっ……き、きかん?」

 咳き込みながら見上げて聞き返すアユムに、女は無表情に手を伸ばす。

「え? やめっ……」

 何かされると身構えたアユムの襟首を掴んで、女は長髪を翻すと階段のほうへと歩き出す。

「ちょっと、私に付き合いなさい」

「え? ちょっと!? 待って、何? どういうこと?」

 後ろ向きで引きずられながら戸惑うアユムに、女は振り向くことなく答えた。

「あなたには人質になってもらうわ」

       ◆

 夜の住宅街を、ジーパンに焦げ茶色のレザージャケットという格好をした男が歩いている。

 周囲の一軒家やマンションに明かりはほとんど無く、街灯の無機質な明かりだけが一定の間隔で道の存在を示していた。

 アスファルトに蓄えられた静かな熱気が、月明かりに沈んだ町の闇とともに男の肌にまとわりつき、男は不機嫌そうな目つきで何も無い道の先を睨みつけたまま、栗色の短髪をかき上げるように額の汗を拭った。

「まったく、なんでこの国の夏はこんなに蒸すんだ? キノコでも栽培してんのか?」

 聞く者のいない問い掛けを独りごちると、男はため息をついて広い空へと視線を向ける。

「満月……には少し足りないか」

 闇の薄まった空には、月が静寂をたたえて浮かんでいる。

「……兄貴……」

 言葉とともに握りしめた左手から、紙の潰れる音がした。

「あ、いけね」

 男は左手を上げると、その手に持った花束を見て大丈夫か確かめる。それは橙色の鈴を連ねたような、立派なホオズキの花束だった。

「兄貴も変わったものが好きだよな」

 そう言って男はホオズキを月にかざした。

 鬼灯と月か……。

 それは男に一つの言葉を想起させる。

「……フェンリルの魔女……」

 男の右手が、自然と腰のナイフホルダーへと触れる。

 そのナイフホルダーからは、燃えるような赤い光が音もなく漏れ出ていた。

       ◆

「あのー、どこまで行くんでしょうか?」

 アユムは手首をきつく掴まれ引かれながら、前を早足で歩く女性に話しかけた。

 女は無言で周囲を見回しながら、先へ先へと歩いていく。そして小さな公園を見つけると、中を窺い入っていった。

 公園には三、四人掛けのベンチが一つある。女性はベンチに腰掛けると、堂々と両手を広げて月を見上げた。そして、一息つくなりアユムに言った。

「あなた、喉が渇いたから何か飲み物、買ってきてくれる?」

「え?」

 立ったまま動かないアユムに、女は面倒くさそうに彼へと視線を向ける。

「何、ぼけっと突っ立てるの? そうね、炭酸系でいいから、さっさとしてくれる?」

 そう言って公園の向かいにあるコンビニを指さした。

「えーと、炭酸系ですか……」

 状況が今一つ飲み込めず、アユムは彼女の言葉を繰り返す。

 そんなアユムに女は呆れた視線を向け、

「あなた、バカなの? それとも体に直接言わないとわからない部類の人?」

 そう言って眉間に皺を寄せると、ベンチの背もたれに載せた腕に力を込めて拳を握った。

 その瞬間、ベンチの背もたれが軋んだような音を上げ、アユムの顔にピリピリとした殺気が突き刺さる。そして女の背後には、どす黒い殺気のようなものが渦巻いているようにアユムには見えた。

「た、炭酸系ですね! 買ってきますっ!」

 顔を引きつらせながら、アユムは急いで向かいのコンビニへと走っていく。

 女はアユムがコンビニへ入ったのを確認すると、ワンピースの胸元を指でつまんであおぎだした。

「あー、暑い」

       ◆

「あ、あの、これ、買ってきました」

 数分後、アユムは走って公園に戻ってくると、そう言って水滴の付いた缶を女に差し出した。

 女はぐったりとベンチに張り付くようにしながら、目を閉じたまま口だけを開く。

「私、今疲れてるの。開けてくれる?」

「…………」

「早くしてくれるかしら?」

「あ、はい」

 丁寧な口調とは裏腹に有無を言わせない迫力を感じさせる女の言葉に、アユムは思わず返事をするとプルタブに指をかけた。

「あ、あれ?」

 でも、さっきまで強く手首を掴まれていたせいか緊張からか、うまく指に力が入らない。

「ねぇ、まだなの?」

 女が片目を開けてのぞきながら言ってくる。

「いや、その、ちょっと力が……」

 急かされたアユムは、言うことを聞かない腕をぷるぷると振るわせながら、思いっきり指先に力を込めてプルタブを引っ張った。

 すると、ふたの開く小気味よい音が聞こえて、

「やった!」

 アユムの声とともに、炭酸の吹き出す爽やかな音が女に向かって飛んでいく。

「あ……」

 二人の間に生まれた小さな噴水は女の全身をずぶ濡れにして、缶を掴んだままのアユムの指を少しだけ濡らした。

 アユムは、すっかり軽くなった缶から視線をゆっくり女に向ける。

「…………」

 そこには半眼で自分を睨みつける彼女の顔があった。

 女は顔を引きつらせたアユムを見て鼻で笑うと、口を三日月のように歪ませる。

「私はね、シャワーが浴びたかったんじゃなくて喉を潤したかったんだけど。これは、いったいどういうことかしら?」

 肌に張り付いたワンピースを広げながら、女は静かな口調で言ってくる。でも、そのこめかみには太い青筋がくっきりと浮かんでいた。

「ひ、ひぃいい、ご、ごめんなさい!」

 そのどす黒い雰囲気に気圧されて、アユムはとっさに逃げ出そうと踵を返した。しかし、すぐに後頭部を鬼のような力で掴まれて、体が恐怖で動かなくなる。

「どこへ行こうというのかしら?」

 頭を万力のように締め付けながら、女は落ち着いた口調でアユムに言った。

「お、お助けぇええ、殺さないでぇええ!」

 夜中の公園にいたいけな少年の悲鳴が上がる。

「静かになさい。近所迷惑でしょ?」

 そう言って、女は泣きわめくアユムの首筋に素早く手刀を打ち込んだ。

「ぐがっ!」

 短い呻き声とともにアユムの体から力が抜ける。

 静かになったアユムに女はため息をついて、

「仕方ないわね。じゃあ、あなたの望みどおりシャワーでも浴びに行きましょうか」

 と、気怠そうにつぶやいた。そして、全身ずぶ濡れのまま片手でアユムの頭を掴み直すと、彼を引きずりながら公園をあとにした。

       ◆

「んん……。あれ? ここは……」

 アユムが目を開くと、そこには仰向けの自分がいた。

 周囲は薄暗く、それでも快適な空調と風や虫の音が聞こえないことから、自分が室内にいることはわかった。

 背中に感じる柔らかな感触が心地いい。

 目の前の自分は、フリフリの可愛らしい布地の上に大の字で寝転がっていて、よく見れば、それは大きな花型のベッドだった。

「……これって……」

 天井の大きな鏡に、どこか見覚えがあるような気がしてアユムは体を起こそうとする。しかし、沈み込むような柔らかさにバランスを崩しそうになって、思わず動かした首の痛みに顔をしかめた。

「いててて……。寝違えたかな?」

「ようやく起きたのね」

 女性の声に首を押さえながら視線を向けると、あの女がバスタオルを巻いただけの姿で立っている。その背後には、湯気の立ち込めるガラス張りのシャワールームがあった。

「…………」

 目の前の状況から導き出される結論が理解できず、アユムの思考が停止する。

 女は手にしたドリンクに口をつけながら、呆然と自分を見つめるアユムを見下ろした。そして、胸を片腕で抱えるように持ち上げると小さく笑う。

「ご、ごめんなさい!」

 アユムは反射的に謝り慌てて背を向け俯くと、状況を整理しようと頭を抱える。

 なんだ? ここどこ? どうしてこうなった?

「何を謝ってるのかしら?」

 女は愉快そうにそう言って自分もベッドに腰掛けると、アユムの隣へと近寄ってきた。

 風呂上がりの石けんの香りが、ほのかな湯気とともにアユムのほうへと流れてくる。

「な、何って……、それはこっちが聞きたいんですけどっ!」

 俯いたまま声を上げれば、肘に柔らかな感触が当たった。

 何かと思って横目で見れば、そこには白いバスタオルがある。それは二つの膨らみを優しく包み込んでいて、アユムの脳裏ではその感触が自動再生を始めていた。

 お、おっぱい、やわらけぇ。

「ねぇ、どうだった?」

 女の囁くような声が聞こえる。

「……ぬわぁああああ!」

 脱兎の勢いでアユムはベッドの上を後ずさり、女は体の曲線を強調するようにくねらせながら、四つん這いでそれを追いかける。

「どうって、な、何がですか?」

 追い詰められながら、アユムは裏返った声で聞き返した。それに女は、片腕で自分の胸を抱くようにしながら舐めるような視線を向けて言う。

「私の胸、揉んだでしょ?」

「…………」

 アユムの顔が見る間に赤くなって、でも視線は吸い付くようにタオルから覗く胸の谷間へ向けられる。女は、その視線を楽しむように少しだけ動きを止めると、時間切れとでも言うように、すぐにタオルを直して隙間を隠した。そしてベッドの上に座り直すと、飽きたとでも言うように素っ気ない口調でアユムに言った。

「まあいいわ。それより、お互いに自己紹介がまだだったわね。私はフラウ。フラウ・オリハタよ。あなたは?」

「え? ぼ、僕ですか?」

 いきなり追求から解放されて戸惑うアユムに、フラウは目で促した。

「僕は、その……立川アユム、です」

「アユムね」

 視線を逸らしながら恥ずかしそうに言うアユムに、フラウは人差し指を唇に当てながら尋ねる。

「ねえ、アユム。あなた、あんな廃墟で何をしていたの?」

「僕は、ただ、星を見ていただけ、です」

 視線を逸らしたまま、アユムは少し不機嫌そうに答えた。

「本当に?」

 猫のような怪しげな視線とともに、フラウがアユムの頬へと左手を伸ばす。すると、アユムは顔をしかめて右耳を押さえた。

「どうしたの?」

「ちょっと音が……」

「音?」

 左手から顔を離そうと傾けるアユムに、フラウは眉をひそめた。そして、再び左手を伸ばしてアユムの顔に近づけた。

「や、やめてくださいよ!」

 手を払って嫌がるアユムにフラウは大人しく手を引っ込めると、薬指にはめられた指輪とアユムの顔を交互に見て楽しげに言う。

「ふーん。まさかキーホルダーに会えるとはね。これもギアの巡り合わせってやつかしら?」

「キーホルダー?」

 アユムは鍵を束ねるリングを思い浮かべて首をかしげる。

 なんなんだ、いったい。無理矢理こんなところに連れ込んで、わけのわからないことを言って。

 怪訝そうな視線を向けても、フラウは面白そうに笑みを浮かべるだけだった。

 アユムは釈然としない気持ちを吐き出すように、目の前で指輪を見つめる女に問い掛けた。

「その、あなたは、いったい何なんですか? いきなり空から降ってきて僕を連れ回して……。それに、人質とか言ってたし……」

 アユムの疑問に、フラウは頬を人差し指で軽く叩きながら口を開く。

「そうねー。簡単に言うと私は……魔女かしら? フェンリルの魔女?」

「魔女?」

 お互いに疑問符を浮かべ、でも構わずフラウは続ける。

「本当は違うんだけど、説明するのも面倒だから、取り敢えずそういうことにしといてくれる?」

「そんな、いい加減な……」

 胡散臭い上に曖昧な回答に、アユムはため息とともに肩を落とした。

「そう? でも、あなたみたいな嘘つきよりはいいんじゃない?」

「どういう意味ですか?」

 棘のある言葉に、アユムはとっさに聞き返していた。

 不機嫌な視線を受け止めながら、フラウは見下すような視線を返して言う。

「あんな明るい月の夜に天体観測なんて、あなたはやっぱりバカなのかしら?」

「……バカって失礼な」

「じゃあ、何をしていたのかしら?」

 ふくれっ面でそっぽを向くアユムをのぞき込むようにして、フラウが面白そうに聞いてくる。

 そんな彼女をアユムはしばらく無視していたが、しつこくのぞき込んでくる彼女の胸が気になって、ため息をつくと諦めたように口を開いた。

「相談を、していたんですよ」

「誰に? 何を?」

 隙を逃さないとばかりに彼女が一気に体を寄せてくる。

「ち、近いですよ!」

「誰に何を相談していたの?」

 抗議を無視してフラウは詰め寄る。

「そ、それは、その……」

 迫る柔肉が気になりながらも、アユムはなんとか声を絞り出す。

「天国の祖母に、好きな子へ告白するかどうか、を……」

 尻すぼみになる声とともにアユムの体も小さくなっていった。

 フラウは体を少し離すと、小馬鹿にするように感想を口にする。

「ふーん、お子様らしいお話だこと」

「お子様って……」

 不満そうな顔で振り向くと、フラウが自慢げに自分の指輪を見せてきた。

「それが、どうしたんですか?」

 顔をしかめて訊いてくるアユムに、フラウはやれやれと大げさに首を横に振る。そして、エメラルドに輝く指輪を見せつけながら言った。

「そんなんだから、お子様だって言うのよ。これは結婚指輪よ。わかる? け・っ・こ・ん」

「……けっこん……」

 言葉を反芻するアユムにフラウは得意げに続ける。

「そう、結婚。つまり私は人妻ってわけ」

「…………」

 アユムは思った。

 ラブホで高校生相手に、嬉しそうに指輪を見せつけるバスタオル姿の人妻って、普通いるのだろうか。

 目の前の現実に、アユムは一応これが夢か確認してみることにした。

 頬をつねると確かに痛い。どうやら、これは現実らしい。

 でも念のため、

「まさかー」

 アユムはそう言ってみた。

 起伏のない平坦な言葉に、笑みを浮かべていた人妻の表情が変わる。

「何? 信じられないって言うわけ!?」

「え? いやー、こんなところに高校生を連れ込んで、そんな格好で言われても……」

 困り顔で言うアユムに、フラウは自分の格好をまじまじと見ると胸を張って言う。

「まったくわかってないのね。これが人妻の余裕ってやつよ。あなたみたいなガキは眼中にないってこと。そんなことにも気付かないなんて、これじゃ、告白しても結果は見えてるわね」

 フラウの哀れむような視線に、アユムの胸が締め付けられる。

「そんなこと……」

 否定しようとして、アユムは俯くと小さな声で聞いていた。

「……あの、僕ってそんなにダメですかね?」

「そうね」

 と少し考えて、フラウは一気に言葉を続けた。

「どさくさに紛れて人妻の胸は揉むし、ジュースをぶちまけて人妻を濡れ濡れにするし、人妻の指輪にも気付かないし、全然、これっぽっちも、まったく役立たずのダメダメね。むしろ迷惑なんじゃないかしら?」

 次々に突き刺さるフラウの言葉に、アユムは虚ろな瞳で乾いた笑い声を漏らしながらベッドに倒れ込んだ。

 ばあちゃん、僕はやっぱりダメみたいです。

 天国にいる祖母に告げながら、アユムは柔らかなベッドへ沈み目を閉じた。

       ◆

 それはアユムが中学校に入学したばかりの頃、桜が舞い散る春のことだった。

「ばあちゃん!」

 病室の扉を勢いよく開けて、アユムはそこにいるはずの人へと叫んだ。

「アユム、静かに!」

 しかし、返ってきたのは母の声と幾つもの視線で、アユムは乱れた息を整えると、周囲のベッドから視線を向けるお年寄りたちにお辞儀をして、母のほうへと歩いていく。

 周囲には白いベッドが六つ。そして、ベッドを区切るための淡いクリーム色のカーテンと、白と木目調の壁が落ち着いた雰囲気を醸し出していた。窓は開けられており、白いカーテンを揺らしながら春の温かな風が心地よく室内へと入ってくる。

「まあまあ、大目に見てやりなよ。あんなに息を切らして駆けつけてきたんだから」

 その声に視線を向ければ、窓際のベッドを囲むように母や姉、それに祖母の茶飲み友達が何人かいて、その中心に声の主が上半身を起こしてベッドの上にいた。

「ばあちゃん、事故って……大丈夫なの?」

 アユムが訊くと、祖母は自分の足を指さして笑いながら言った。

「いやー、見事にバキッといっちゃったよ。バキッと直角に」

 そこにはギプスで固められた左足が宙づりにされている。

「バキッと直角って……」

 その様子を想像して顔をしかめながら、アユムは足以外にも幾つか包帯が巻かれているものの、本人は元気そうで胸を撫で下ろした。

「まったく、みんなして、たかが骨折くらいで騒ぎすぎなんだよ」

「もう、お母さんったら! 心配したんですよ?」

 怒る母に、それでも祖母は笑顔で「生きてたんだからいいじゃないか」と笑い声を上げる。

「母さんの言うとおりだよ。幾ら元気だからって、もういい年なんだから無茶しないでよ」

 アユムも気遣って注意するが、祖母は鼻にもかけない調子で続けた。

「無茶なもんか。それに人間、いつ死ぬかわからないんだから年なんて関係ないさね」

「また、そんなこと言って……」

 まだまだ現役だと言うように、祖母は親指を立てて見せつける。

 そんな男勝りな祖母に、アユムは小さな頃に膝の上で訊いた武勇伝を思い出す。

 柔道家を目指していたバリバリ体育会系の祖母は、名だたる大会でことごとく優勝し、「嵐のウメ」と呼ばれていたらしい。その実力から、結婚とともにあっさり第一線を退いたときには惜しむ声が結構あったらしいのだが、そのことを祖母は鬱陶しかったと言うだけだった。ただ、引退してからもその快活な性格とパワフルな行動力は衰えることがなく、むしろ火事場から祖父を担いで逃げ出したり、海で溺れていた子供をライフセーバーよりも先に救出したりと、引退後のほうが周囲を驚かせていた。

「で、今度は誰を助けてこうなったのさ?」

 アユムは心配するだけ無駄かもしれないと思いつつ、茶飲み友達と楽しげに話す祖母に尋ねた。

「ん? いやね、いつもみたいに散歩してたら遠くに妊婦さんがいたんだよ。結構お腹が大きくて辛そうな感じでさ。で、横断歩道を渡ってたから大丈夫かなと思ってたら、いきなりうずくまるじゃないか。向こうからはトラックが来るし、よく見たら運転手は手にした端末を見てて気付いてないし。あたしゃ焦ったよ。なにせ、そこまで七、八十メートルはあったからね」

 アユムは無言で額を押さえると上を向いた。

 その距離でトラックと競争して勝つって、どんだけなんだよ。

 感心を通り越して呆れる彼の横で祖母は続ける。

「あんなに可愛らしいお嬢さんに気付かないなんて、あの運転手の目は節穴かね?」

 ばあちゃんから見たら確かにそうだろうね。

 アユムは引きつる頬を一息ついて元に戻すと、祖母を真っ直ぐに見て言った。

「だからって自分が轢かれてどうすんのさ。今回は骨折で済んだから良かったけど……」

「なら良いじゃないか」

 気軽に祖母は言い返す。

「でも……」

 それ以上言えないアユムに、祖母は窓の外へ視線を向けながら話し始めた。

「いいかい、アユム? いつも言うけど、人間なんてシャボン玉みたいなもんさね。風に吹かれてどこまでも行くかと思ったら、次の瞬間には前触れもなく割れちまう」

 そう言う祖母の瞳は、空ではないどこか遠くを見ているようだった。その悲しげで、でも、どこか力強いその視線にアユムは胸が少し苦しくなった。

「でも、シャボン玉はそんなこと気にしちゃいない。ただ、きれいな虹のように輝いているだけ」

 そこで祖母は大きく息をついた。そして続ける。

「アユム、おまえはあのシャボン玉の虹が何に見える?」

 窓の外をよく見れば、どこから飛んできたのかシャボン玉が幾つか浮かんでいた。外の広場で子供が遊んでいるのかもしれない。

「いきなり、そんなこと言われたって……」

 何に見えるのだろう?

 アユムはすぐに答えられず、祖母は自分の話を続けた。

「あたしには、あれが笑顔に見えるんだ。それに、シャボン玉で遊ぶときの子供の笑顔が、あたしは何よりも好きでね」

 祖母はアユムのほうを向くと、シャボン玉と言うより太陽みたいな笑顔で言った。

「だから、アユム。いつまでも辛気くさい顔してないで笑ったらどうだい? あたしゃ、いつでも笑顔をつくれる男が好きなんだ。あんたのじいちゃん、翔ちゃんもそうだったよ」

 祖父の名を口にすると、祖母は再び窓の外へと視線を向けた。

 アユムはそんな祖母の横顔を見ながら、苦笑を浮かべることしかできなかった。

 そして三年後の冬、祖母はシャボン玉のようにあっけなく死んだ。心筋梗塞だった。

 いつでも笑顔をつくれるように。

 棺で眠る祖母の顔は相変わらずの笑顔で、口癖だったその言葉だけが、アユムの耳元で響き続けていた。

       ◆

「やっぱりダメなんかじゃないっ!」

 勢いよくベッドの誘惑から飛び起きて、アユムは目を開けた。でも、なぜか目の前は暗いままで、しかもふにゃりと柔らかかった。

「ん? あれ?」

「あらあら、甘えん坊さんね」

 上から聞こえる声に、アユムは目の前の感触を思い出す。

「うわああああ!」

 のけ反るアユムを見下ろして、フラウは面白そうに尋ねる。

「何がダメじゃないのかしら?」「あ、あなたには関係ありません!」

「そう? 関係ならあると思うけど、肉体的な意味で」

「変な言い方しないでください!」

 胸を強調して言うフラウを睨んで、アユムは顔を赤らめながら叫んだ。それを彼女は含み笑いで一蹴すると、アユムを追い詰めるように近づいて話しかける。

「ねぇ、実は私、悪い連中に追われてるのよね。協力してくれたら、君の相談に乗ってあげるわよ?」

「いきなりなんですか。それに協力? 人質の間違いでしょ?」

「それは、あなたの意志が決めることよ」

「そうですか。じゃあ、僕は告白があるんでここで」

 ベッドから下りて立ち去ろうとするアユムの背後で、フラウのため息が聞こえる。

「あら、人妻の体を散々弄んでおいて見捨てるの?」

「いい加減にしてください!」

 そう言って振り向いたアユムの前にフラウの姿はなく、ベッドの上にはバスタオルだけが残っている。そして背後から声がした。

「わかったわ。じゃあ、さっさと人質にしてあげる」

 耳元で囁くような冷たい声と首筋に当てられた鋭い感触に、アユムの体が硬直する。一気に鼓動が加速して、背中を冷や汗が流れ落ちる。そして、首筋の感触が消えたかと思うと次の瞬間、

「なーんてね」

 背後から抱きしめられて、背中に柔らかな感触が押しつけられた。

 アユムの背から一気に別の汗が噴き出し、息苦しさに胸を押さえる。

 乱れた息を無理矢理整えると、アユムは脱力とともに諦めの言葉を口にした。

「わかりましたよ。協力すればいいんでしょ?」

「そうそう。従順な男の子は可愛くて私は好きよ」

 胸を押しつけながら、フラウが楽しげにアユムの耳元で囁く。

「……生憎、お役に立てる自身はこれっぽっちもありませんけどね」

「もう、ふて腐れちゃって可愛いんだから」

 不機嫌そうにそっぽを向くアユムの頬をつつくと、フラウは体を離して言った。

「まあ、私はどっちもでいいんだけど、役に立たないようなら盾になってもらうだけだしね」

 離れたフラウを追うようにアユムが視線を向けると、そこには白い下着姿の彼女がワンピースの掛かったハンガーを手にしていた。

「あれ? ……下着?」

「ん? もしかして裸だと思ってた?」

 そう言うと、フラウは笑い声を押さえるように口元を手で隠す。しかし、その目は明らかに笑っていた。

 耳まで真っ赤にして、アユムは肩を怒らせながら部屋の出口へと向かっていく。

「やっぱり僕、帰ります!」

       ◆

「もう、そんなに怒らないでよ。いろいろと勉強になったでしょ?」

 大股で先を行くアユムにフラウが横から声をかける。

「何が勉強ですか……」

 振り向くことなく言って、アユムはさっさと前を歩いていく。それを追いかけるように、フラウは少し駆け足になりながら話しかけた。

「ほら、ブラの性能とかラブホの使い方とか……」

「そんなの知りたくなかったですよ!」

 街灯の下で立ち止まると、アユムは勢いよく振り返って抗議した。

 そんな彼を疑いの眼差しでフラウはからかうように見つめ、アユムは彼女から目を逸らして尋ねる。

「そんなことより僕、勝手に歩いてますけどいいんですか?」

「何が?」

 少し腰をかがめて上目遣いで訊いてくる人妻に、アユムはこめかみをひくつかせながら拳を握りしめてさらに訊いた。

「だ・か・ら、悪い連中に追われてるんですよね?」

「んー、そうね」

 フラウは唇に指を当てると、何も言わずにアユムの横を通り過ぎた。

 街灯の下から出て闇の中へと行く彼女を、今度はアユムが追って横につく。

 月明かりに照らされていても、人のいない通りは静かで日常とは違う雰囲気がする。その何か得体の知れない、まとわりつくような空気の中を、フラウは躊躇うことなく靴音もさせずに歩いていく。

 彼女は月の浮かぶ空を見上げた。

 その瞳は前髪に隠れてアユムには見えない。けれど、シャボン玉を見つめる祖母のように、それはどこか遠くを見ているようで、そんな彼女にアユムの胸はざわついた。

「……魔女……」

 ふと出たアユムの言葉に、魔女がゆっくりと腕を上げる。

「あそこ……」

 その声に感情はなく、標識のように掲げられた腕から伸びる指は、今いる商業地区の向こう側、そこにそびえる山を指していた。

「あそこに行きましょ」

 そして彼女はため息をついた。

 気になってアユムが横を見ると、彼女は眉間にしわを寄せている。そしてアユムは思い出す。あの山にあるものを。それは祖母の遺骨が眠る場所。

「……墓地、ですか?」

「そうよ」

 短く言うフラウに、アユムは顔をしかめて続ける。

「隠れる場所もありますし人も余り来ませんけど、墓地に逃げるなんて縁起悪くありません? まあ、僕の場合は祖母のお墓があるんで守ってくれるかもしれませんけど……」

「あら奇遇ね。一応、私もあそこに彼のお墓があるのよ」

「え?」

 たまたま自分も近くに住んでたみたいに答えるフラウに、アユムはすぐに反応できなかった。

 アユムの脳裏に、結婚指輪を見せつけるフラウの笑顔が蘇る。そして今、横ではそんな彼女が苦笑を浮かべ自分を見ている。

「なんか、その……、すみません」

 気まずさに謝りながら、アユムは彼女の表情を伺う。

「ああ、いいのよ、別に気にしなくて」

 そう言って彼女は手を振りながら、なぜか苦笑を濃くして笑いをこらえるように話を続けた。

「だって、彼は死んでないし」

「は?」

 豆鉄砲をくらった鳩のようなアユムを横目に、フラウは大きく息を吸い込むと、ため息を吐き出すように月を見上げて言葉を続ける。

「まあ、三年前に戦死したことになってはいるんだけどね」

 そして首をかしげるアユムの前で手を握ると、月へと向けてそれを掲げる。

 ゆっくりと手を開けば、こぼれる星のように手のひらから細い銀鎖が流れ落ち、軽い音を立てた。その先には小さな板状のものがあり、揺れて月明かりを反射する。

 それは、一枚のIDタグだった。

       ◆

 腰まで流れる栗色の髪が風に揺れている。

 ブックバンドでまとめられた教科書とノートを両手で上品に持ちながら、フラウは芝生で覆われた中庭を横切る石畳の小道を歩いていた。

 昼休みが終わって次の授業が行われる教室へと向かいながら、彼女は首をかしげて何度もため息をついていた。

「なんで受け入れてくれないのかしら?」

 唇に人差し指を当てながら、フラウは眉間に小さなしわを寄せてつぶやく。

 日差しは温かく、花壇には色とりどりの花が咲いて周りはすっかり春だというのに、フラウの心はしぼんだままだった。

 いつになったら私のところにも春が来るのかしら?

 胸の中に吹くすきま風を吐き出すように大きなため息をついて、フラウは自分を困らせる人の名を口にした。

「……カケル……」

 それだけで想いは膨らみ、心の隙間を埋めるように胸が苦しく締め付けられる。

 フラウは少し熱くなった頬を自覚しながら、自分をこんな気持ちにさせる彼の顔を思い浮かべた。

 彼は東洋系のせいか、自分よりも集団を重んじるようで融通が利かないところが結構あった。今日だって、お昼を一緒にと思って誘っただけなのに「あなたの貴重な時間を自分が独占するわけにはいかない」とか言って、一人でどこかに行ってしまった。

 でも、そんなときの彼は少し慌てた感じで、

 そんな彼も可愛らしくて好きなんだけど……。

 そう思うだけでフラウの心は浮き立ち、自然と楽しくなって顔が綻ぶ。

「……いけない、いけない」

 フラウは自分の頬が緩んでいないか手を当てて確認すると、拳を握りしめて決意を心の中で叫んだ。

「よし、明日は絶対告白するわよ!」

 すると近くで息を呑むような小さな驚き声が聞こえる。そして、小さな笑い声が幾つか続いた。

 周囲を見回せば、いつの間にか自分は廊下にいて、廊下や教室にいた学生の視線が自分へと向けられている。

「……えっと……」

 その状況にフラウは自分の顔が熱くなっていくのを自覚する。そして、慌てて持っていた教科書で顔を隠すと猛ダッシュで廊下を駆け抜けた。

       ◆

「今日こそは頷かせてみせるわ」

 フラウは芝の広がる小さな丘を登りながら、拳を握りしめて言った。

 時折吹く風にスカートを手で押さえ、フラウは頂上へと向かう。そこには立派なオークの木が一本だけ、その葉をゆっくりと雲のように揺らしながら立っていた。

 その木を見てフラウは思い出す。

 東洋には「いわく付きの木の下で交わした約束は絶対」という有名な掟があるらしい。

 そんな噂を友達から聞いたフラウは、さっそくカケルを個人的な相談があるからと言って呼び出していた。

 いつものことながら「相談なら先生にしたほうがいい」と速攻で断られそうになったけれど、とっさに「世界の秘密を知ってしまって悪の組織に追われている」と言ったら、彼はなぜか神妙な顔になって、「そういうことなら」と来てくれることになった。

 気になってネットで調べてみたら、どうやら自分のついた嘘はチュウニビョウという東洋に伝わる隠語で、家族にも言えない秘め事を意味するらしい。

「まあ、来てさえくれれば何でもいいわ」

 フラウは余計な考えを振り払うように周囲を見回した。

 どこまでも続く芝の緑と空の青、そして所々に浮かぶ雲の白が清々しく、近くを流れる小川は春の日差しを反射して宝石のように輝いていた。

 絶好の告白日和じゃない。

 そう思いながら小川に掛かる小さな橋を見れば、そこを渡ってこちらに来る人影が一つある。

「やって来たわね」

 獲物を待ち受ける虎のような視線を向けながら、フラウは十三回目の告白に向けて準備に取り掛かった。

       ◆

「やあ、フラウ。待たせてしまったね」

 困り顔でそう言うカケルに、フラウは首を横に振って笑顔で出迎えた。

「ううん。わざわざ来てくれてありがとう」

「それで相談したいことって?」

 神妙な顔で聞いてくるカオルに、フラウは俯くと用意していた小さな箱を手にして彼を見上げる。

「うん。実は……」

 そして小箱を彼の手に握らせると、その手を握りしめながら上目遣いでフラウは言った。

「カケル、私と結婚しましょう!」

「……え、ええっ!?」

 思わず受け取った赤いハート型の箱を手に、カケルはのけ反りながら後ずさった。

「け、結婚って、僕らつき合ってもいないじゃないか……」

 想定内の答えにフラウは余裕の笑みを返す。

「そうね。でも、あなた何度言ってもつき合ってくれないじゃない」

「それは……、僕たちまだ学生だし、そういうことは早いと……」

 手にしたハートとフラウの顔を交互に見ながら、カケルは眉根を寄せる。

「だから、それは結婚してから考えることにしたの」

「そんな無茶苦茶な……」

 呆れるカケルにフラウは詰め寄る。

「そんなことないわ。順番が変わっただけだもの。それに早い遅いの問題じゃないの。人生は儚いものだもの、乙女ならなおさらでしょ? だから私は自分の心に従って、あなたと一緒にいると決めたの」

 そう言ってフラウは自分の左手を挙げてみせる。その薬指にはエメラルドの指輪があった。

「私、知ってるのよ。東洋では、いわく付きの木の下でした約束は絶対なんでしょ?」

 困惑の表情を浮かべるカケルを無視してフラウは続ける。

「知ってた? このオークの木には見えない猫が住んでるっていう言い伝えがあるのよ」

 胸を張って言うフラウにカケルは大きなため息をつくと、手の中のハートを彼女の頭の上に載せて言った。

「言ってることがよくわからないけど、君が自分の心に従うのなら、僕は自分の考えに従わせてもらうよ」

 そして彼は振り返ると、さっさと橋へ向かって歩き出そうとする。

「ごまかす気? 今日は絶対逃がさないわよっ!」

 叫んでフラウは彼の手を掴むと、自分のほうへと強引に引っ張った。コマのように手を引かれたカケルの顔が振り向いて、フラウは少しだけ背伸びをする。そして二人の顔が近づいて、

「うぷっ!?」

 合わせた唇から漏れる彼の声を塞ぐように、フラウはさらに手を引いて体を密着させる。そして、バランスを崩して倒れる彼を下にして、覆いかぶさり芝の上へと押し倒した。

「観念なさい。私からは逃げるなんて時間の無駄よ?」

 彼の見開いた目をのぞき込んで、フラウは不敵な笑みとともにそう囁いた。

       ◆

「じゃあ、行ってくるよ」

 カケルは仕事にでも行くような口調で、玄関に立つフラウへ声をかける。しかし、フラウは応えることなく黙って彼の袖を掴んだ。

 そんな彼女を見下ろして、カケルは静かな声で、でも確かな意志を口にする。

「大丈夫。必ず帰ってくるから」

「うん。信じてる。信じてるけど……」

 口を覆うように人差し指を唇に当てながら、フラウは俯いて黙り込む。これ以上何か言ったら、もう自分を抑えられない。そんな予感にフラウは怯えていた。

 小さく震える彼女に彼は言う。

「君からは逃げられない。そうだろ?」

 そう小さく笑いながら、彼の大きな手のひらが彼女の肩を包み込む。そして、優しく何度も撫でて、緊張にこわばったフラウの体を解かしてく。

 自分の弱さを改めて実感しながら、フラウは彼を求める自分の心に微笑を浮かべた。そして深呼吸をすると、カケルを見上げて口を開く。

「お願い。もっと温もりを……」

 なんて自分勝手なのだろうとフラウは思う。

 でも、私は自分の心を裏切れない。

 彼の思いを無視して強引に結婚し、つき合って、そうやって関係を深めた末に待っていたのは、彼を死地へと向かわせる未来だった。

 彼は世界のためだと言うけれど、自分と結婚していなければ無関係でいられたはずの場所。そんな運命へと彼は今日、向かおうとしている。それは彼の考えで、結局のところ、私の心は彼の考えを変えられない。でも、

「……お願い……」

 言葉とともにフラウの右手がカケルの頬へと伸びていく。その手をカケルは掴んで体ごと引き寄せ、彼女の唇に自分のそれを重ねた。

 震えを奪うような優しい口付けに、フラウの心と体が溶けていく。

 フラウは望むままに彼を求め、カケルは求める彼女を支えて応え続ける。そんな体温と唾液の交換はしばらく続き、二人は息苦しさにやっとお互いの唇を離した。

「続きは戻ってから」

 惚けた顔で見上げるフラウにそう言って、カケルは何事もなかったように玄関の扉を開けた。それをフラウは力なく玄関に座り込んで見つめる。そして乱れた息を抱きしめるように、重ねた両手を胸に当てた。

 開いた扉の先へと歩いていくカケルの背中が少しずつ小さくなって、

「あ、そう言えば……」

 門扉に手をかけながら彼は振り返る。そこには何気ない笑顔があって、フラウは息を呑んでそれを見つめた。

 さっきまで触れていた彼の唇が、フラウへと言葉をつくる。

「あのオークにいるのは、本当は猫じゃないんだ」

「え?」

「戻ってきたら、それも教えてあげるよ」

 フラウの口から漏れた疑問の声を避けるように、彼は踵を返して門の外へと、戦地へ続く道へと踏み出していく。

 彼を追うように伸ばしたフラウの左手でエメラルドが朝日に輝き、そのまぶしさにフラウは思わず目を閉じ思い出す。

 オークの木の下で私が言った、どうでもいいような言い伝え。それを彼は残して去っていく。

 目尻からこぼれ落ちる一粒の涙に、フラウは強く瞳を閉じて唇を噛み締めた。

 涙も泣き声も彼が戻ってきたときのためにとっておこう。悲しみじゃなくて喜びを伝えるために。

 その想いとともに、フラウは自分の気持ちを心にしまって前を見る。門の先に彼の姿はもうない。けれど、その瞳には笑顔で戻ってくる彼の姿が浮かんでいた。

 それから四カ月で戦争はあっけなく終了した。

 しかし、フラウが彼の笑顔を見ることは二度となかった。

       ◆

「……戦死、ですか……」

「そう、戦死。でも、帰ってきたのはこれと……」

 銀鎖に繋がれたIDタグを握りしめて手品のように消すと、フラウは月を見上げたまま言った。

「誰かもわからないような左手の薬指が一本だけ」

 苦笑を浮かべて彼女は話を続ける。

「まったく実感がなかったわ。だから私は信じなかった」

「…………」

 アユムは言葉が見つからず、どんな表情をすればいいのかもわからなかった。

「そんな悲しそうな目で見ないでよ。本当に、彼は死んでなんかいないんだから」

 そう言って困ったような表情を浮かべながら、フラウは辛気くさい空気を払うように「本当に違うから」と手を振った。

「じゃあ、なんで行くんですか?」

 やるせない思いと話が見えないじれったさに、アユムは少しふて腐れたように尋ねる。

 するとフラウは、笑いをこらえるように口の端を歪めて言った。

「あそこに行けばいるって言うのよね。兎が」

「兎? いる?」

 その言葉に月を見上げる彼に、フラウは憎々しげに低い声でその名を口にする。

「彼を私から遠ざける元凶。ナンバー11」

 ますます話が見えなくなって、アユムはお手上げといった様子で説明を求めた。

「ナンバー11? さっきから何の話をしてるんですか?」「ああ、そうね」

 フラウは眉根を寄せるアユムを見ると、少し考えながら話し始める。

「ナンバー11っていうのは私と同じギアのことよ。そいつが私と彼の再開を邪魔してるの。で、そいつが今日、あの墓地に来るはずなのよ」

「同じって、その11っていうのも魔女なんですか?」

「さあ?」

「さあ?って、同じ仲間なんでしょ?」

 アユムの言葉に、フラウはあからさまに嫌な顔をした。

「仲間? 冗談はよしてよ。人の恋路を邪魔するような陰険な奴なのよ? 会ったこともないし、男か女かも知らないわ。まあ、同類であることは間違いないけど……」

 最後のほうは嫌々ながらという感じで、吐き捨てるようにフラウは言った。

「じゃあ、同じとか同類っていうのは?」

「それは機関の奴等に追われる立場っていう意味でよ」

 不機嫌さの残る口調でフラウは答えた。

「じゃあ、その機関っていうのがフラウさんを追いかけてる悪い奴等ってことですか」

 アユムの言葉に、フラウは大きくため息をつく。

「グングニル機関。それが奴等の組織の名前。奴等は、私みたいな世界から祝福された存在を妬んでいるのよ」

 そして月を見ながら彼女は話を続けた。「だから奴等は私たちのことを、憎しみを込めてフェンリルの魔女とか亡霊って呼ぶの。私たちは、自分たちのことを世界の歯車って意味でギアと呼んでるけどね」

「なんかややこしいですね」

 アユムも月を見ながら腕を組んで首をかしげた。

「まあね。そんな呼び名なんて、何だっていいんだけど……」

 歩きながらフラウは頭を軽く振ると、両腕を伸ばして伸びをする。長い髪がさらさらと揺れて、ほのかにシャンプーの香りがアユムの鼻腔をくすぐった。

 こうして見てると普通のお姉さんっていう感じなのにな……。

 そう思いながら、アユムは同時に脳裏に蘇った彼女の強引な行動や言動に「そうでもないかも」と肩を落とした。そして、なんだか少しほっとしている自分に気付いて、アユムは笑顔を浮かべながらフラウに言った。

「でも、ようやくフラウさんの立場というか状況が、なんとなくわかりましたよ」

 するとフラウの足が止まる。

 いきなりのことに、アユムは数歩進んで振り返った。

「どうかしたんですか?」

「ううん、ちょっと……。なんていうか、名前で呼ばれるの、よく考えたら久しぶりだなって……」

 少し驚いた様子で彼女は言う。そんな彼女にアユムは仕返しとばかりに聞き返す。

「呼び名なんて、どうでもよかったんじゃないんですか?」

「う、うるさいわね!」

 そう言って彼女は早足で先へ行く。

 その背中を見ながら、アユムは彼女が通り過ぎていくときに見せた赤い横顔にほっとして、でも少し胸が締め付けられるような想いを抱いていた。

 やっぱり、普通のお姉さんだよな。

 そしてアユムは頷くと、彼女のあとを追いかけた。

       ◆

 アユムは歩きながら、周囲の雰囲気が変わりつつあることに気がついた。暗くて余り気にしていなかったが、どうやらさっきまで廃墟近くの倉庫街を歩いていたらしい。

 あの廃墟にはよく行くけど、ほとんど夜に行くから周囲を歩き回るなんてしないしな。近くにラブホなんてあったのか。

 そんなことを思いつつ、アユムは少しずつ家屋が多くなっていく景色を眺めつつフラウに話しかけた。

「フラウさんは、ここら辺に詳しいんですか?」

「んー、結婚する前に彼に連れられて数回来たくらいだから、全然詳しくなんかないわよ」

 フラウも周囲を見ながらアユムに答える。

「それじゃあ、なんでラ……」

 そこまで言って、アユムは口を開けたまま言葉を止めた。

「ラ?」

 聞き返してくるフラウに、アユムは目を逸らして「ら?らら?」と口ずさむ。そして何食わぬ顔で続きを口にした。

「あ、そう言えば、なんであのホテルのことを知ってたんですか?」

「…………」

 フラウの視線が頬に痛く突き刺さる。

 アユムは視線を逸らしたまま「ららら~」と再び口ずさんでみるが、フラウの視線は変わらない。

「えっとですね、だから、あの……」

 耐えかねて質問を繰り返そうとするアユムの横で、フラウが小さく笑い出す。

「……何が、おかしいんですか?」

 そう言って頬を膨らませるアユムに、フラウは口元を手で隠し、

「ごめんごめん」

 そう謝りながらアユムの質問に答えた。

「ラブホは周りを見回したら、たまたまあっただけよ」

 そして大きく息をついて話を続ける。

「自分に縁のある場所は、基本的に機関の連中に狙われやすいからね。ギアになってからは自分の家にも帰ってないわ」

 フラウは夜空へ視線を移し、アユムも同じ空を見ながら、ふと思った疑問を口にした。

「じゃあ、墓地にも機関の人たちがいるってことですか?」

「その可能性は高いでしょうね」

 平然と彼女は言い、アユムはさらに頭に浮かんだ疑問を口にする。

「そんなところにナンバー11でしたっけ? は、なんで来るんですかね?」

「知らないわよ。そんなこと」

 お手上げというように両手を軽く挙げて、フラウは面倒臭そうにため息をつく。

「じゃあ、もしナンバー11に会ったらどうするんですか? やっぱり、いきなり首締めですか?」

「何、物騒なこと言ってるのよ」

 フラウが呆れた顔でアユムを見た。

「会ったら、まずは私の邪魔をする理由を聞くわよ。世の中、大抵のことは話で解決するのよ? ただ、それに必要な時間がないだけでね」

 そんなこともわからないのかと、彼女は哀れむような視線をアユムに向ける。そんな彼女に、アユムは信じられないというような視線を返した。

「何よ、その顔は?」

「いいえ、別に……」

 アユムは首をさすりながら視線を逸らす。

「まあ、話せるかどうかは相手次第だけど、少なくとも顔くらいは見ておきたいわね」

 真面目な声で言う彼女を横目で見て、アユムは一息つくとしょうがないという感じで口を開いた。

「わかりました。そういうことなら僕も協力しますよ」

「あら、積極的ね? 私、前向きな子は好きよ」

 フラウが唇に指を当てて言ってくる。

「茶化さないでください。要は追っ手から逃げつつ、そのナンバー11に会えばいいんでしょ?」

 少し不機嫌になって訊いてくるアユムに、フラウは少し考えると試すような口調で言った。

「そうね。でも大丈夫? 機関の奴等との戦闘は避けられないわよ? もしかしたら、今日があんたの命日になるかも」

「大丈夫ですよ。僕には、ばあちゃん譲りの体力がありますし。それに、やばくなったら全力で逃げます!」

 握りしめた拳を掲げながらアユムは笑顔で応える。

 そんな彼の首に腕を回すと、フラウは頭をぐしゃぐしゃと撫でながら、あることを思い出した。

 そう言えば、今日は彼の命日ってことになってたわね。

 彼のお墓がある山を見ながら、フラウはなぜか胸がざわつくのを感じていた。

       ◆

「ねえ、アユム」

 夜が明け始めた住宅街を歩きながら、フラウがアユムに話しかける。

「なんですか?」

 紺色の空気に白の光が混ざり始めるような夜と朝の狭間を眺めながら、アユムは少し眠い頭でぼんやりと返事をした。

「あんた、おばあちゃんが亡くなったとき、どう思った?」

 向かってくるスクーターから距離をとるように道の端に寄りながら、アユムはフラウの質問にすぐには答えず、少し俯いて黙り込む。

 そんな彼の沈黙を気にすることなく、フラウは自分の話を続けた。

「私はね、彼が死んだって聞いた途端に体中の力が抜けちゃって、そのときから何もかもが止まってる。彼が戦地へ行ったときに、それは心のどこかで覚悟はしてたけど、だからかな、悲しいとか感じる前にそんな世界から自分を遠ざけていたのよ」

 アユムは何も言わず、フラウも特に返事を待つわけでもなく話を続ける。

「それでも世界って奴は残酷でね。死んだ証拠だとか、供養しないと彼が浮かばれないとか……。私は、そんなこと望んでないのに……」

 フラウは背伸びをして大きくあくびをする。そして、目をこすりながらアユムを見て言った。

「いいじゃないね。終わりのない永遠があったってさ」

 迷いのない真っ直ぐな瞳を向ける彼女に、アユムは病室で空を見上げる祖母を思い出していた。

 なんか、ばあちゃんみたいだな。

 強引なところ以外は見た目も考え方もまったく違うというのに、そんなことを思う自分にアユムは苦笑を浮かべた。

「何、にやけてるのよ。気持ち悪いわね」

 一歩を引いて言うフラウに、アユムは「ひどいな」と心の中でだけ思って別のことを口にする。

「僕は、ばあちゃんが死んだとき、すぐに泣きましたよ」

 アユムは、ベッドで眠るように横たわっていた祖母を思い出す。

 それは雪が深々と降り続ける一月のことだった。病院に運ばれたと聞いてアユムがいつものように駆けつけると、そこにはいつもの太陽みたいな笑顔も元気な声もなく、ただ穏やかな表情で無言のままベッドに横たわる祖母の姿があるだけだった。

 母の話では、幼稚園から逃げ出した兎を追って近くの雪山へと入り、兎を抱きかかえたまま木の下で倒れていたらしい。

 何でそんなことをという思いと、ばあちゃんらしいという思いがない交ぜになって、アユムの頭で兎を追いかける祖母と目の前で静かに眠る祖母の姿が重なっていく。

 そして、いつだったか小さいときに聞いた祖母の言葉をアユムは思い出していた。

(あたしゃね、本当な怠け者なんだ。でも欲張りだから、自分のやりたいことはとことんやりたい。けど、体が動かないときもある。そんなとき、どうするか知ってるかい?)

 当時のアユムは、ほとんど考えることもなく首を振っていた。

(自分を追いかけてくるゴールを思い浮かべるのさ。そうすれば、自然と気持ちが背中を押して動かしてくれる)

 その答えにアユムは首をかしげ、「ゴールは追いかけるものだし、もしゴールが追いかけてくるならどうして待っていないの?」と祖母に言ってみた。でも、祖母は「確かにそうだね。どうしてだろうね」と言って笑うだけだった。

 アユムは祖母の楽しそうな顔を思い浮かべながら口を開いた。

「本当にばあちゃんは一生懸命で、だから、ばあちゃんが死んだって聞いたとき、僕はすぐにわかったんです。ばあちゃんはゴールしちゃったんだなって……」

「アユムは、それで良かったの?」

 フラウの問い掛けに、アユムは首をかしげて苦笑を浮かべる。

「良かったかどうかは、正直わかりません。僕だって死にたくはありませんし。でも……」

「でも?」

 視線を横に感じながらアユムは話を続けた。

「当たり前かもしれませんけど、今の僕に死に対する実感なんてないですし、ピンとこないんですよね。なんか言葉にすると変ですけど、自分が死ぬような気がしないというか、どこか他人事なんですよね」

 フラウは何も言わず、先を促すような視線にアユムは、なんだか恥ずかしい気がして苦笑を浮かべながら続けた。

「だからですかね。ばあちゃんみたいに誰かの役に立ちたいのに、自分のことでさえうまくいかないのは……」

 朝の冷えた空気を吸い込むと、アユムは遠くの空を見つめて言った。

「だとしたら僕にも必要なのかもしれません。ばあちゃんの言うゴールが」

 それきり二人は何も言わなかった。

 すっかり夜は明け、人々の生活が音を立て始めていた。

       ◆

 公園のベンチで一人の男が横になっている。

 男は栗色の短髪を朝の涼しい風に晒しながら、その胸に花束を載せて静かな寝息をたてていた。

 男の左手は花束を抱えるように優しく添えられ、一方で右手は腰のナイフを握りしめていた。

「……父さん……」

 寝言とともに花束が揺れて、花弁についた朝露が男の頬へとこぼれ落ちた。

       ◆

 どこまでも追いかけてくるような満月を背後に感じながら、栗色の髪の少年は手に懐中電灯と父の着替えを抱えながら林道を歩いていた。

「まったく、急に宿直になるとか、どんだけ人手不足なんだよ」

 文句を言いながら少年は気持ち足取りを速めた。

 ここのところ町では無差別殺人や失踪事件が頻発し、警察は総動員で捜査と警戒に当たっていた。父もその一員として、そして失踪者の家族として、連日情報収集に明け暮れ、帰ってくるたびに手がかりのなさを嘆いていた。

 ……姉さん……。

 義兄さんを追うように消えた姉の顔を思い浮かべて、少年は唇を噛み締めた。すると抱えた紙袋が音を立てた。中を見れば、そこには洗い立ての父の制服があり、少年は父の大きくていかにも元軍人といった感じの背中を思い出すと、首を振って俯いた気持ちを振り払った。

 さっさと用事を済ませて帰らないと。

 そう思って前を見ると、そこには異様なものがあった。

「……なんだ、あれ?」

 それは闇の中にゆらゆらと浮かんでいるようだった。目を凝らしてよく見れば、それは白い人影のようで、細い手足を持っていた。体には白いスーツ、そして手足には白い手袋と白い靴を身に付けている。しかし何よりも奇妙なのは、その頭部だった。顔には目や鼻や口はなく、ただ真っ白な卵のような頭が載っている。

 卵人間? 何かの仮装か?

 訝しむ少年の前で、その卵人間は手のひらを揺らめかせながら口のない顔で話し始めた。それは機械のような人工的な声で、耳にこびりつくような嘲るような震えを帯びた音だった。

「……世界の音が聞こえるか?」

 少年は、それの言っている意味がわからなかった。

 でも、それは気にすることなく質問を続ける。

「歯車の音が聞こえるか?」

「…………」

 動くことなくふらふらと言葉を発する卵人間に、少年は吐き気にも似た気持ち悪さを感じていた。

 こいつは危険だ。

 本能の囁きに従って、少年は卵人間の問いかけを無視すると、下を向いてその横を早足で通り過ぎようとした。そして、何事もなく通り過ぎて視界から人影が消えた直後、少年の足はピタリと動かなくなった。

 なんだ? 体が言うことを聞かない!?

 それは突然背後に現れた異様な黒い威圧感のせいだった。

 体が動いたら危険だと、命に関わる恐れがあると、筋肉に信号を送っている。

 少年の全身からは汗が噴き出し、同時に鳥肌と寒気が全身を覆う。

 ヤバイ! ヤバイヤバイヤバイヤバイ!

 とにかく危険を知らせる信号だけが脳裏を駆け、少年の思考を埋め尽くしていく。

 しかし、早く逃げろという感情だけでは体が動かず、危険を把握しようと思考が勝手に首を後ろへ振り向かせていく。

 そして少年は闇の中にそれを見た。

 満月を喰らうように細い三日月が闇の中で浮いている。

       ◆

 ダメだ、死ぬっ!!

 少年へと、月明かりを宿した大鎌が笑うように振り下ろされる。それは卵人間の表情を代弁するかのようで、切っ先は少年の首をさらうように音もなくスライドする。

 誰か助けてっ!!

 針のような殺気が首筋をかすめ、しかし、それが首に食い込む直前、火薬の炸裂音が闇の中に響き渡る。そして、金属音が少年の耳元で悲鳴を上げた。

 ――――――――――――――――!?

 頭を締め付けるような感覚とともに、強烈なめまいが少年を襲う。

 体はふらつき、視界がゆっくりと傾いていく。それでも金縛りに遭ったかのように体は言うことを聞かなかった。

 そんな中、少年は歪む視界の隅で赤い小さな光を見た。それは流れ星のように遠くへ飛んでいき、同時に大鎌も動きを巻き戻すように闇の中へと消えていく。

 何が……。

 そう思った少年の耳に聞き慣れた声が届く。

「無事か!? カイル!」

 それは父の声だった。

 ふらつく頭を声のほうへなんとか向けると、少年――カイルは自分の足が一歩を踏み出していることに気がついた。

 体が動く!?

「早く、そいつから離れろ!」

 力強い父の言葉に引かれるように、カイルは父の方へと体を傾け走り出す。

 父の隣へ来て振り向けば、卵人間は追いかけることなく闇の中に佇んでいた。

「カイル、大丈夫か?」

 父がこちらを見ることなく緊張した面持ちで聞いてくる。

 その手には拳銃が握られ、硝煙の臭いが漂っていた。

「……あいつ、何?」

 カイルは白い人影を見ながら震える声で父に尋ねる。

 喉が渇いて、張り付いたようにもどかしい。

「……エンプティ・ダンプフィル。フェンリルの死神か……」

 独り言のようにつぶやいて、父は唾を飲み込んだ。頬を一筋の汗が流れ落ち、絞り出すような声で父は言う。

「まさか、おまえが犯人だったとはな……」

 犯人?

 その言葉にカイルは一人の女性を思い浮かべた。

 強気で一途でわがままだった自分の姉。最愛の人を失い消えた姉。それが卵人間の表情のない顔へと吸い込まれていく。

 こいつが姉さんを?

 確信にも近い疑問が、カイルの視線を卵人間へと釘付けにする。

 隣では父が大きく息を吐き、そして、手にした銃を前に突き出し狙いを定める。

「だが、そんな大鎌一本で俺はやられんぞ」

 しかし、父の怒気を含んだ低い声に卵人間は首をかしげただけで、再び煙のように現れた大鎌を軽々と構えた。それに対して父は、右手で拳銃を構えたまま左手を背中へと伸ばし、そこにあるものを掴む。

「ありがたく思え、俺が冥土に送ってやる。この亡霊がッ!」

 そして、勢いよく背中から散弾銃を取り出すと、父は横へと走りながら白い影へ引き金を引いた。

 木々を振るわせるように銃声が轟き、その先端から無数のレーザー光にも似た赤い光が伸びていく。それは面となって卵人間へと迫った。

 よし、当たる!

 カイルがそう思った直後、白い影が震えた。

「ロック《閉紋:攻撃を望む標的:駆動》」

 それは何かが噛み合うような音だった。

 カイルの目の前で、幾筋もの赤い光が闇の中へと消えていく。

 そして近くに突然現れた威圧感に横を見たとき、そこには二発目を撃とうと銃を構えた父がいて、その銃口の先、触れそうな位置に白い影が立っていた。

 カイルは自分の目を疑った。

 父の顔が驚きに歪み、しかし、すぐに獲物を睨みつけると引き金にかけた指に力を込める。

 今度こそやったとカイルは思い、白い影が赤い散弾を受けて煙のように吹き飛ぶ様を思い浮かべた。

 しかし、銃声は鳴らなかった。

「ぐはっ!」

 代わりに聞こえてきたのは父のくぐもった声で、カイルの前を大きな体が宙をのけ反りながら飛んでいく。その全身からは花火のように細かな血しぶきが上がり、力の抜けた四肢を連れて弧を描きながら地面へ落ちていく。

「……父さん!?」

 父を追いかけようとするカイルの目の前で、しかし、それは落ちることなく動きを止めた。

 その背後には白い影が浮かび上がり、それは血を滴らせた十数本の小さな鎌を周囲に連れて静かに佇む。

「……冥土は、どこだ?……」

 口さえも動かせないカイルの前で、それは父の体とともに闇の中へと溶けて消えた。

       ◆

「……ん?」

 目を覚ますと、カイルは自分の頬が濡れていることに気がついた。

 目の前には橙色のホオズキがあって、可愛らしく揺れている。その向こうに広がる空は、いつの間にか明るくなっていて、朝の訪れを告げるように鳥が鳴いていた。

「朝か……」

 息を吐き出すように独りごちて、カイルは心臓がドキドキと脈打っていることに気がついた。首筋にはじっとりと汗が浮かび、朝の風が冷たく感じられる。

 嫌な夢を見たな。

 そう思ってカイルは汗を拭おうと右腕を動かした。しかし、手首から先を何かに掴まれたように、幾ら力を入れても腕が持ち上がらない。

 何度か動かして、カイルはようやく自分が右手を強く握りしめていることに気がついた。

「…………」

 深呼吸をして体中の力を抜く。

 すると右手の力も抜けて腕が持ち上がる。空を背に手のひらを見ると、そこにはナイフの柄に刻まれた模様がくっきりと浮かんでいた。

 グングニルの槍とグラムの剣。

 交差する神の槍と英雄の剣を見ながら、カイルは自分の使命を再確認する。

 自分は義兄を戦争で失い、父は殺人鬼に殺された。そして母は病床で姉の帰りを待っている。だから、姉だけは絶対に取り戻さなくてはならない。フェンリルという名の怪物から。

 カイルは上半身を起こすと、軽く伸びをして周囲を見回す。公園には自分以外に誰も人影はなく、けれど、いつもの日常がいつもと変わらない時を刻んでいる。

 その中に自分がいることをカイルは幸せだと思った。そして、姉はなぜここにいないのかとも。

 カイルは立ち上がると、もう一度腰のナイフに手を当てて助けるべき人の名を口にした。

「……フラウ姉さん……」

 花束と牙のごときナイフを携えて、青年は公園をあとにする。

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