§4 幾子ばあちゃん
サンディ谷仲は、莫大な追徴金を支払った上、新たに老齢ビザを取得したらしい。逮捕から釈放まで、一週間足らず。あっさりとしたものだった。
テレビでは謝罪会見が放送され、メディアの論調は一転、サンディ谷仲に同情的なものへと変わった。曰く、「何歳になっても生きたいと思うのは人間としての本能」、「追徴金を支払ったのだから、すでに罪は償っている」、「あれほど国民に愛されている人物なのだから、生き続ける価値がある」――全く、手のひら返しもいいところだ。
美莉奈ねえちゃんとは、あれっきりだ。実家に帰っていたのは数日だけで、すぐに東京の部屋に戻ったらしい。結局、サンディ谷仲と関係があったのかどうか、僕にはわからない。週刊誌の記事もあれっきりだった。まぁ、無名タレントに手を出したなんて話、スキャンダルにすらならないってことなのだろう。
それでも、少なくとも、仕事の上でサンディ谷仲のお世話になったことがあるのは確かなわけで、それについてどう思っているのか、聞いておきたかったとは思う。
しばらくの間、サンディ谷仲はテレビ出演を自粛するらしかった。番組は代わりのタレントが司会を務めていた。寝っ転がってそれを見ながら、俺は自分の心を持て余していた。
ある日、うちに大勢の人が集まった。
その中心にいたのは、幾子ばあちゃんだった。俺はその片隅で、やり取りを見守っていた。集まっていたのは、近所の人たちや地元の名士、その他、見たことのある人や見たこともない人が半々くらい。うちのそう広くはない居間に、20人近くがひしめき合っていた。
「幾子さん、これは俺たちの感謝の気持ちなんだ。どうか受けてはもらえないだろうか」
その中の一人、確かあれは、地元で三代続く青果卸の――
「善八さん、本当にありがとう。気持ちはありがたく受けとくよ」
幾子ばあちゃんが善八さんに答えて言った。
「気持ちは、って、それじゃぁ……」
「あんたらのなけなしのお金を受け取って、のうのうと生きられるかぃ。勘弁しとくれよ」
憎まれ口を叩いて幾子ばあちゃんは笑った。その笑い声が少し、申し訳なさそうだと俺には思えた。
「それは違うぜ、姐さん」
善八さんの斜め後ろに座っていた、色付き眼鏡の大男が口を出した。
「俺たちはみんな、姐さんのお陰で今こうして曲がりなりにも商売をしていられるんだ。だからこれは、それを返すっていうことで……」
「よせやい、あんたらに世話なんかした覚えはないよ」
眉間に皺を寄せて、幾子ばあちゃんは手を振った。
「あんたらが恩に感じてくれてるのはわかったけどね。だけど、それを恩に着せるようじゃあたしも女がすたるってもんさ」
「しかし……」
毅然とした幾子ばあちゃんの姿勢に、説得しているみんなも段々とトーンダウンして来ていた。中には涙ぐむ人もいる。
「俺たちは、あんたに生きていて欲しいんだ……」
誰かが呟いた声が聞こえた。
うなだれたみんなを前にして、幾子ばあちゃんは飽くまでも背筋を伸ばしてまっすぐに前を見据えていた。俺にはその姿は、なんだか冷たくて、悲しいもののように思えたんだ。
「みんな、本当にありがとう」
ふっと、幾子ばあちゃんは言った。それは俺たち家族でさえ、ほとんど聞いたことのないような、本当に優しい声だった。
「だけどね、人生は限られてるんだ。どっちにしろ、私の時間はいつか尽きる。そんなもののために、みんなのお金を使わせるわけにはいかないよ」
「どうしてさ!」
不意に、誰かの声が響いた。その声に驚いて、一座のみんなの視線が集まる。その視線の先――その声を発した主は、俺自身だった。
「みんなばあちゃんに、少しでも長く生きて欲しいって言ってるんだろ!?そんなものってことあるかよ!」
なんだかものすごく理不尽で、ものすごく納得がいかなかった。どうにも、黙っていられなかった。たぶんその時、俺は泣いていたと思う。
「汚い政治家や芸能人や……あんな奴らとは違うだろ!自分じゃない、周りの人が、生きて欲しいって……悪い奴が生きて、いい奴が死ぬなんて、おかしいだろ!」
一気に言葉を吐き出して、そこで俺はようやく息を吸った。その場の人たちは、黙ってうつむいていた。幾子ばあちゃんは俺の顔をまじまじと見ていたが、突然にかっと笑った。
「なに言ってんだい。この世の中は昔っから、善人が早死にすることになってんのさ」
「なんだよそれ……」
「いいかい亘ちゃん」
幾子ばあちゃんは真顔になった。
「良い奴が生きて、悪い奴が死ぬ。世の中がそんなに単純じゃぁ、いけないのさ。大体、誰が良い悪いを決めてくれるってんだい? あたしゃ嫌だね、そんなのは」
俺は黙っていた。みんなも、黙っていた。
「その点、金を持ってるやつが長生きできるってのはいい。良いも悪いも関係ないからね、平等なもんさ。だから長生きなんてぇ無粋な真似は、悪党どもに任しときな」
そこまで言うと、幾子ばあちゃんは立ち上がり、手を叩いた。びっくりするほど大きな音が鳴った。
「さ、辛気臭い話はここまでだ!せっかくこうしてみんな集まったんだ、ぱーっと酒でも飲もうじゃないか!」
幾子ばあちゃんの音頭で、宴会が始まった。みんな、どういうわけかとっても楽しそうだった。
俺はそこで初めて酒を飲み、潰れて次の日の昼まで寝ていた。
そして、幾子ばあちゃんは「定年」になった。
定年になったその日、役人がばあちゃんを迎えにきた。ここで暴れる人なんかもいるらしいけど、ばあちゃんは事前に届いた通知を用意し、身支度を整えて静かに役人について家を出た。
「定年」になった人間を迎えに来る灰色のバンを、子供のころ見ると「えんがちょ指切った」とかやってたものだけど、こうして自分の身内が乗る段になると、あれはいくらなんでも失礼だったなと思う。
このバンに乗せられ、ばあちゃんは専門の病院へ行き、薬を処方されて安楽死させられる。苦痛は一切ない。
その後、家に帰って来た幾子ばあちゃんは、安らかな顔で静かに微笑んでいた。車を運転してきた人が言うには、車に乗せた時にはこんな表情じゃなかった、らしい。死後硬直で、とか理屈をつけるのは単純だけど、家に帰ってきたら遺体が笑っていた、っていう風にした方がいいのだろうと思う。幾子ばあちゃんが言った通り、単純にしちゃいけないことっていうのはあるのだろう。
葬式にはたくさんの人が集まった。
近所の人から古い友人、何親等かわからないくらいの親戚まで、様々な人が訪れ、思い出話に花を咲かせながら賑やかに見送ってくれた。
美莉奈ねえちゃんも来た。サンディ谷仲も来ていた。だけど今更、そんなのはどうでもいいことだ。
ばあちゃんの言った通り、善良な人間が命を買えるわけじゃない。いつだって、金を持った人間が優先されるのだ。それでも、幾子ばあちゃんは生きることもできた。そしてそれを示して、堂々と死んでいった。
上の世代が死んでいくことで空いた席は、若者のものだ。これから高校を卒業し、社会に出ていく俺の席は、ばあちゃんが空けてくれたものだと思う。今のところは、それに甘んじて生きよう。だけど、その先は――いずれは自分の命も権力も、自分の力で勝ち取らなくてはいけないのだ。それがこの世界のルールなのだから。
不法就老 輝井永澄 @terry10x12th
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