腹の中
ちばな
腹の中
暗闇の奥深く、その最も深い闇から、低くうなるような音が轟いた。さらには、足もとがはげしく震える。それはまるで、地の神ネプトゥヌスの怒りのような荒々しさだ。
「いまので4回目だね」
ぼくがそう言うと、ゼペットおじさんは小さな声で答える。膝を抱えて背をまるめた姿は、いじけた子供ようだ。
ぼくとおじさん、そして、ぼくの麻シャツの胸ポケットから顔を覗かせたジミニー・クリケットは、夏のバカンスのため沖に出て海釣りをしていた。
なに、知っている物語と違う?
ぼくがおじさんの作った人形であることは?
女神さまが、正直者であれば人間にしてくれると約束したことは?
嘘や虚偽を話すと鼻が伸びることは?
そう、なら問題はない。そんなのは小さな違いさ。
三人で釣りをしていると、いきなり大きなクジラ――サメではなくて――に飲み込まれた。その寸前にぼくが見たものは、うねる波に揺られた筏と三人の男――ふたりは筏の上にいて、ひとりは海の中に入っていた。
不運にも彼らを含めたぼくたち六人は、水中深くから浮上したクジラにとらえられ、いっしょに飲み込まれた海水に勢いよく流されると、ここ、クジラの腹の中へとたどり着いた。その途中、どうやらぼくは気を失ってしまったらしく、最後の記憶と言えば、すがる思いで掴もうとしたクジラの髭のかたい感触だった。
腹の中はうんと広く――そこに数字をあたえるとすれば、端から端まで一〇〇メートルほどで、まるい形をしていることが数回の探索でわかってきた。天井と床――という言い方が正しいのかは不明だが、こちらもわずかに湾曲しているようで、おそらくここを取り出したら、かぼちゃのような形をしているだろう。
腹の中には、ぼくの腿あたりまで海水が張っていて、その上を船の残骸らしき木片やブイ、ロープなどのほか、積み荷用らしい、人がふたりは入れそうな大きな木箱が形はそのままに漂っていた。
ちょうど中央にある、どこかの港のモニュメントらしい、直径五メートルほどのコイン型の石碑からも、この胃袋の持ち主の大きさが想像できる。そして、ぼくらはこの石碑の上へと避難していた。
ゼペットおじさんは、ポケットに入っていたマッチ箱から湿っていない一本を見つけると乾いた木片を集めて火をつけた。灯りはほんのりとぼくらを照らしたものの、依然として周囲には闇が広がっていた。
腹の中にはぼくらが流れ入った〈入口〉と、ちょうどその反対側に〈出口〉がある。いずれも常時はかたい肉壁がすぼまっていて、こじ開けようとしても無駄だ。
この周囲の壁はグロテスクな動きで波打ち、時おり高さを変える。その際に〈入口〉では少量の海水が流れ込み、〈出口〉では逆にすこしずつ流れ出ていた。そのため、〈入口〉から〈出口〉へ向かって海水にゆるやかな流れがある。浮遊物も流れに乗っており、その速さが一定だとすれば、胃袋を横断するのに三○分ほど掛かるだろう。また、床もすこしカーブしているため水流は中央を通っていく。
「やっぱり、あそこから出られないかな?」
ぼくが〈出口〉の方角を指さして言う。〈出口〉の近くには流されてきたがたくたが穴を抜けられずに、所在なげにあたりを漂っている。
「いまのところ無理じゃな。〈排水〉されるときでもメロン玉くらいにしか開かない」
ゼペットおじさんは暗い表情で言った。
〈排水〉というのは、〈出口〉の穴が大きく開き、水やがらくたが流れ出ていくことだ。これとは逆に〈入口〉から大量の水とがらくたとが流れ入る〈入水〉がある。
現在までのところ、〈入水〉と〈排水〉は交互に起き、いずれも大きな音と揺れを伴った。また、〈入水〉のほうが音と揺れの程度が大きい。つまり、ぼくらをここへ運んだ〈入水〉を除いて、さっきの音と揺れで四度目だから、〈排水〉と〈入水〉が二回ずつ起きていることになる。
「第一として、〈出口〉の先がどうなっているのかわからない。一般的に考えれば消化器官が続くはずじゃが」
「しょうかきかん?」
「簡単に言えば、食べ物から栄養を吸収するところじゃよ」
「それで、うんちとかおしっこになって出てくるんだね」
「ピノキオ、おまえには好きな女の子はいるかい?」
ゼペットおじさんの問いにぼくは首を横に振った。嘘だ。本当は花屋のアンナが気になっている。むずむずしてぼくは鼻を掻いた。
「いいかい、好きな女の子の前では、うんちだとか言ってはならんよ」
ぼくはおじさんがもっと早く教えてくれたらよかったのにと思った。もう手遅れだ。
「でもさ、もしも、ぼくらがのどのところで引っかかっていれば助かったのかも。ふふっ、そしたらぼくたち魚の骨みたい。魚ののどに魚の骨が刺さるのって変だね」
「おやおや、ピノキオ。クジラは魚ではないのじゃよ。わしが大学で研究していたヤツクビウシと同じ哺乳類じゃ。そして、クジラには歯クジラと髭クジラの2種類があってのう。覚えとらんか、上あごにあった髭――いや、これは毛ではなくて皮膚なのじゃが、あれにえさが引っかかって、それを食べるのが髭クジラじゃ。しかしのう、髭クジラは主にプランクトンや小魚を食べとって、のどは案外細いから人間やここにあるようながらくたは吐き出されるはずなのじゃが。
それに、わしらのほかには魚一匹いないのも不思議じゃ。もしかしたら、魚たちは流れに逆らって泳げるから逃げてしまうのかもしれん。そもそも、ここが胃袋だとすればどうしてわしたちは消化されないのか――」
おじさんの言葉はだんだんとか細くなり、結尾はよく聞こえなくなった。
「ピノキオ、おいで」
ゼペットおじさんはぼくを抱きかかえると昔話をした。初恋のこと。おじさんのお父さんとお母さんのこと。田舎の親戚の家に行ったときのこと。そこでは畑でたくさんの野菜を作っていて、縄でくくって川で冷やしたスイカがおじさんは大好きだったこと。おじさんのお父さんとお母さんが事故で死んでしまって泣いたこと。
「ピノキオは涙を知らんじゃろう?」
「うん」
「涙は温かいのじゃ」
「涙って目から出る水でしょう。お湯なの?」
「ふふっ、おまえはこれからいろんなことを知っていくのじゃよ」
おじさんのぼくを抱くちからが、ほんのすこしだけ強くなった気がした。
そのとき、〈出口〉の方角から大きな声がした。ぼくとおじさんは顔を見合わせると、すぐに松明を手に取り、走り出した。冷たさを感じない木製の脚に海水が浸み込むと重くて鬱陶しい。
〈出口〉の近くの暗がりにふたつの灯りが浮かんでいた。近づくと、がっしりとしたファーゴの背中が見えてきた。ぼくらに気づき、彼が振り向く。松明の灯りに照らされてもなお青白い彼の顔には、恐怖と驚きの入り混じった表情が浮かんでいた。
ファーゴはぽつりと言った。
「死んでいる。ベルナルドが死んでいるんだ」
ファーゴのそばでたたずんでいたアントニオが震える指で示したその先には、大きな木箱が浮かんでいた。箱は横倒しにした状態で浮いている。おそるおそる覗くと、中にはベルナルドの死体があった。背中にはナイフが突き刺さっている。そして、死体には首から上がなかった。とっさにおじさんはぼくの目を大きな腕で覆ったが、一瞬見えたその光景は、ぼくの脳裏にしっかりと焼きついていた。
*
「どうなっているんだ、一体」
アントニオのヒステリックな叫びが響いた。
ぼくらはひとまず中央の石碑へと戻ってきていた。慎重に運ばれたベルナルドの遺体には、ファーゴが着ていた服を被せてある。
事態を整理するため、ぼくたちは話し合うことに決めた。おじさんはぼくを子供扱いして遠ざけようとしたが、ファーゴは「証言者は多い方がいい」と言って同席させた。たき火の頼りない灯りを取り囲むようにして、みんなが膝を突き合わせている。
ジミニーは速記が得意で、小説風にぼくの成長記録をいつも書いていた。このことが買われ、彼は書記係に任命された。いまもお気に入りの防水インキペンで耐水紙のノートにせっせと書き込んでいる。
「落ち着け。大声を上げてもどうにもならないだろう」
そう言うファーゴもまた興奮しているのが声色から伝わる。
「犯人は正気じゃない。こんな状況で人を殺すだけじゃ飽き足らず、首を切るなんて」
「まだ殺人だとは」
「じゃあなんだ。おまえはベルナルドの首が勝手に吹っ飛んだとでも言うのか?」
「そうじゃなくて。例えば、おれたちのようにサメが飲み込まれていたとしたら」
「背中に刺さっていたナイフを見なかったのか。あんなものが突き刺さっていたってことは、人喰いサメの仕業ではねえってことだ」
「――あれは、兄貴の死体だよな」
「首がなくとも見間違わんさ。それに、おれたち以外に誰がいる?」
ふたりの口論をそばでじっと聞いているおじさんは、なにか考え事をしているようだ。
僕はというと、そんなみんなを黙って見ていることしかできなかった。
クジラに飲み込まれた状況は予想外のできごとすぎて、先ほど以上の説明は不可能だった。ひとつ付け足すとすれば、海に入っていた男というのはベルナルドだったことだろうか。彼はシャツといっしょに長さ三〇センチもあるナイフを筏の上に置いて、大海での遊泳を楽しんでいたらしい。だが、このナイフこそが、皮肉にも彼をしとめた凶器なのだ。
シャツといっしょにナイフが置いてあったことは、ファーゴとアントニオ、そしてぼくによって裏付けられた。
「遠目だったからナイフとはわからなかったけど、なにかがきらりと光ったのは見えたよ」
彼らは貴金属や宝石類は身につけていなかったので、この反射物はナイフと考えて間違いないだろう。これにはみんなも納得した。
「鞘に入れていなかったのかね」
「ああ、前の島で食料に困っていたときに食っちまった」
「食った?」
「知らないのか、じいさん。革製品って食えるんだぜ」
アントニオはからかうような笑みを浮かべたが、食べたのはあながち嘘ではないのかもしれない。鞘を食べたのか、本当のところはわからないが、ベルナルドは腰に巻いていた布にナイフを刺して携帯していたらしい。
クジラに飲み込まれ、流されるうちに気を失ってしまったのは、ぼくだけでないようだ。
最初に目覚めたのはおじさんで、そばで気を失っていたファーゴを起こした。次がぼくで、最後に同じ筏の残骸にしがみついていたベルナルドとアントニオが起こされた。不安からか誰もが辺りを見回しており、このとき不審な動きをした者はいなかったと互いが証言し合った。
「みんな気持ちよさそうに木を枕にして寝ていたぜ」
アントニオの道化は、別の形で出会えていればもっと楽しめたのかもしれない。彼のウェーブした黒髪や、先がつんと上に向いた鼻はお調子者の印象をあたえた。ひょろりと細長い体もトレジャーハンターというより、ピエロのほうが似合う。
一方で、まるでクマのような体躯をしたファーゴは、幼いころからベルナルドと親しく、高校を出るとふたりで旅に出た。身ひとつであっても旅には何かと金が要り用ということで、いつしか名ばかりのトレジャーハンターになったそうだ。ここにベルナルドの弟であるアントニオが加わり、現在に至るそうだ。指揮はファーゴが執っていたらしい。
そして、いまや故人となったベルナルドは、顔立ちは弟のアントニオに似ていたが、長年の旅を経験した体は凛々しく、鍛えられた筋肉はたき火によって深い陰影を作った。その素晴らしい肉体もいまや物体と化してしまった。大人に憧れるぼくが見惚れていると、やさしく微笑んでくれたあの表情も、もう見ることはできないのだ。
*
ベルナルドとアントニオを起こすと、中央にあるコイン型の石碑へと避難した。
おじさんが持っていたマッチと周囲にあった木片で火を起こし、それぞれ服を乾かすために下着姿になった。全員ほとんど裸に近く、大型のナイフは隠せなかったはずだ。
四〇分くらいしただろうか、服が乾いてきたので着替えを済ませたころ、ふいにゴゴゴという音とともに足もとが揺れた。これが最初の〈排水〉だ。水かさも少し減ったようだった。音と揺れはじきに止み、情報不足を懸念したファーゴが周囲を探索することを提案した。
「なにか変わったことが起きれば、すぐに中央へ戻ってくるんだ」
ファーゴはこれだけを念押してぼくらに言い聞かせた。
最初、おじさんはぼくといっしょに探索すると主張したが、事態をまだ把握していない、探検気分のぼくは子供扱いが気に入らず、ひとりで行くと言い張った。ベルナルドは呆れつつも、ぼくとおじさんのあいだに入り、両方をサポートすると言ってくれた。
こうして、一回目の探索のそれぞれの配置は、腹の中を時計に見立てると、〈入口〉近くの十一時から一時をベルナルド、以下時計回りに、一時から三時をおじさん、三時から六時をアントニオ、六時から九時をファーゴ、九時から十一時をぼく、と割り振られた。
また、ジミニーはポケットから落ちたりしたら危ないということで中央に残ることとなった。ぼくは、戻ってきたら成長記録のために報告をするよと約束した。
たき火の灯りでは石碑周辺を照らすのが関の山で、手もとに光源が必要となる。ファーゴたちは乾いた木片と布、船の積み荷だったらしい燃料を調達してくると、慣れた手つきで人数分の松明を作り上げた。
そして、ぼくらは松明を片手にそれぞれの配置へと出発した。
心細さの反面、冒険のようでわくわくしながらゆっくり暗闇を進む。しばらくすると壁にたどり着いたので、今度は足もとに注意を払ってさらに調べてみる。だが、がらくたは流されてしまったらしく、あたりにはなにもない。拍子抜けしてしまいがっかりしていると、先ほどよりも大きな音と振動がやってきた。
一度目の〈入水〉である。音もすごいが、揺れは立っていられないほどに激しい。しばらくは地面に手をついてじっとしてなくてはならなかった。
揺れが収まるとすぐに中央へと引き返した。不測のできごとに歩みが速くなる。それでも走らないのは自制心からだ。慌てちゃいけない。
中央にはおじさんとファーゴ、アントニオの三人が先に着いていた。おじさんはぼくを見るなり、すぐに駆け寄ってきて抱きしめた。
曲がりなりにもトレジャーハンターの男たちは激しい揺れの中を急いで戻ってきたらしい。〈出口〉の方角からばしゃばしゃと音を立てて走ってきたふたりに、ジミニーはすこしばかりの恐怖心を抱いたのだと恥ずかしそうに言った。
それにしてもベルナルドが遅い。さらには、ジミニーが気になる話をした。彼は探索の最中、周囲を見回してみんなの松明の灯りを見ていたそうだ。そして、ちょうどベルナルドの灯りを確認したとき、音と揺れが起き、それに驚いて目線をはずしてしまった。すぐに、先ほどの方向に目線を戻すと、ベルナルドの松明の光がなかったという。しかし、彼は灯りが消えた瞬間を見たわけではなかった。
みんなが一方の闇を見つめる。
けれども、ベルナルドはおろか、がらくたひとつ現れなかった。
二、三分待ったのち、すぐに二回目の探索に出ることになった。
「ピノキオはここで待っていなさい」
さすがのぼくもおじさんの言うことに従った。冒険気分はとうに失せ、なによりも不安だった。そんなぼくを見かねて、おじさんはアントニオに残ってくれないかと頼む。
「おれは兄貴を探さなきゃ」
「いや、おれもじいさんに賛成だ。おまえの気持ちもわかるが、それで深追いでもしてふたりも行方がわからなくなったら困る。すこし大人しくしていろ」
普段からリーダーを務めるファーゴにこう言われてはアントニオも従わざるをえなかった。彼は腕からダイバーウォッチを外すと、おじさんに差し出した。
「今度からは時間を決めてやったほうがいい。時計はふたつしかないから交代でつけよう」
おじさんは歳のわりに太い腕に、似合わない腕時計を巻いた。
「時間は十分ほどでどうだ?」
ファーゴが自分の腕時計を見ながら言う。
「十分じゃな。それとのう、さっき調べていたところがあって、もう少しあっちを探してみたいのじゃが」
「わかった。本当はベルナルドが気になるから、おれもそっちを探したいんだが。まあいい、じいさんにまかせた」
ファーゴは〈出口〉方面へぐんぐんと進んでいった。おじさんもぼくの頭を撫でると〈入口〉の方向へと歩いていく。
こうして、二回目の探索は時計盤で言えば、おじさんが上半分の九時から三時、ファーゴが下半分の三時から九時を調べることとなった。
「ベルナルドさんとは仲良かったの?」
あまり詮索されたくないのか、アントニオはすこし面倒そうな顔をした。
「いまはそうでもないが、むかしはすごく仲が悪かった」
「そうなの?」
「と言っても、おれが一方的に嫌っていただけなんだけどな。兄貴はなにかとうまくやる人だったから、くらべられてばかりだった」
アントニオは〈入口〉方向の闇を見やる。
「おれは、いつだって追いかけていたが、ある日、兄貴は家を出て行ってしまったんだ」
「家出?」
「ちょうど家庭環境が最悪なときでな。そしたら突然、ファーゴといっしょに旅をするって言いだしたんだ。そのときは劣等感とは別に兄貴を恨んだよ。おれひとりをこんな家に残して行っちまうのかって。でも、離れるとなると案外さみしくなってな。あのナイフは旅に出る直前に、おれが兄貴に贈ったものだったんだ」
遠くを見つめるアントニオの頬がゆるんだ。話の内容からしてベルナルドにはもちろん、ファーゴにもこのことは話したことがなかったのかもしれない。肩の荷が下りたように、彼の口調はやわらかくなっていた。
「さっきの話じゃ、家庭のごたごたが嫌で家を飛び出したように聞こえたかもしれないが、いま思えば兄貴はそんなこと全然気にしていなかったと思う。
兄貴は運命だとかを信じる人で、いまの状況もきっとなにか意味があるんだって、いつも考えていた。強い人だったんだ。
あと、信仰深くもあったな。そういえば、聖書もかなり独特な解釈もしていて、大いなる魚はクジラなんじゃないかって、いろいろ調べていたころもあったな。
兄貴は自分を曲げない人だから。ファーゴとも意見の食い違いでよくけんかするんだ。あのふたりが睨み合うと、いっしょにいるこっちが冷や冷やさせられる」
これは意外だった。あのふたりならうまいことやりそうだが。
「おっ、帰ってきたぜ」
〈入口〉方向からおじさんがやって来た。すぐに反対方向からファーゴも戻ってきたが、どちらも浮かない顔をしていた。
三回目の探索は、おじさんが残り、ファーゴが上半分、アントニオが下半分と決まった。
ふたりが出発してしばらくすると、先ほどの〈入水〉で運ばれてきたらしいがらくたがたくさん流れてきた。船の残骸やロープ、大きな木箱、代わり映えしないものばかりだ。
「また、だれか飲み込まれたのかな」
「いや。さっき、ざっと調べてみたが、だれもおらんかった」
次第に、たき火が小さくなってきた。ぼくとおじさんは灯りからあまり離れないようにして、流れてきた船の成れの果てから乾いた木をさがす。木をくべて火が大きくなっても、おじさんは水から出ないで浮遊物を調べた。
「身体に悪いよ。休んだら?」
浮遊物の流れる速さはゆっくりだが、量が多いため全部は調べられない。結局は、乾いた木材をいくつか手に入れただけで、実のある収穫はなかった。
そうこうするうちに、ファーゴが静かに戻ってきた。なにも言わず、険しい顔をしている。すぐに、アントニオも帰ってきたが、彼もまた黙って首を横に振るだけだった。
「じゃあ、また行ってくるよ」
おじさんが〈出口〉方面へと歩いて行く。
四回目の探索は、連続で出ているファーゴが休み、アントニオが上半分、おじさんが下半分を調べることとなった。
探索で冷えた体を温めるように、ファーゴは腰を下ろしてたき火に手をかざしていた。ぼくは彼の大きい背中を見ながら、なにか話したほうがいいのか悩んだ。
あたりは不気味なほどに変化がなく、ただただ時が過ぎていった。
待機組には時計がないので正確な時間はわからなかったが、突如として〈排出〉がやってきた。やはり〈入水〉よりも音も振動も小さい。
ぼくはファーゴのそばへ駆け寄り、異変が収まるのを待った。
「大丈夫。大丈夫だ」
大きな手でぼくを抱えた彼の声は震えていた。
またしても収穫なく終わった四回目の探索は、一同をさらに不安へと駆り立てた。
言葉も交わされぬまま、ファーゴは静かに立ち上がり、すぐにアントニオと探索に出る準備をしはじめた。
「今度はふたりで行ってみる。それでなにも見つからなかったら、すこし話し合おう」
彼はそう言うと、返事も待たずにアントニオを連れて〈入口〉のほうへと消えていった。
おじさんもすっかり口数が減ってしまった。
やがて、四度目の音と揺れ、つまり〈入水〉がやってきた。その周期は短くなっている。それが収まると、おじさんはぼくにクジラの〝しょうかきかん〟の話をしてくれて――そして、ベルナルドの死体が発見された。
*
「よし、いままでの行動は大体こんなところだろう」
話疲れたのかファーゴは頭上を仰ぎ見る。そこには暗闇はあるが、煌めく星々はない。
「問題はベルナルドがいつ殺されたのか。どこで殺されたのか」
「それから、なぜ兄貴は殺されたのか」
「この状況下で動機を考えてもしょうがないじゃろう」
「いや、アントニオの言うように動機は一考の余地がありそうだ。単なる殺しならともかく、首を落とすのは手間もかかる」
「わしは大学で生物学を学んでいたから、人体ではないが解剖の経験も多少ある。首は骨と骨の間に刃を入れるようにすれば、時間も掛からず案外簡単に切れてしまうものじゃ。
それと、あまり血生臭い話は――」
みんながぼくを見る。たしかに聞いていて気分のいい話ではないが、それでもなにか進展するのであればかまわない。ぼくは平気な顔をしてみせて先をうながした。
「まあいい。じいさんの言うとおり、動機はひとまず置いておこう。じゃあ、いま一度、時間の流れに沿って考えてみようぜ」
ファーゴはそう言って、ぼくらに目配せをした。
「ベルナルドがいなくなったのは一回目の探索の最中――断わっておくが、このときに殺されたとは限らない。しかし、ジミニーの証言が正しければ、ベルナルドの松明の灯りはこの探索のときに消えたんだ。一回目の探索を軸に考えていいだろう。
そうだな、ここで場合分けをしてみようか。つまりだ、一回目の探索時にベルナルドが殺された場合と、それ以降で殺された場合だ。
順序が逆になるが、まずは後者、つまり二回目の探索以降に殺された場合から考えよう。実際には一回目の探索中に起きた〈入水〉によって、みんなが中央へと引き返してきて、しばらく様子見をしていた時間もあるわけだが、全員が揃っていたのだから犯行は不可能ということで省略していいだろう」
ファーゴのこの言葉にみんなの顔がこわばった。ファーゴの台詞は、この中に殺人者がいることを示唆しているのだ。
「さて、ベルナルドが二回目の探索以降に殺されたのだとすれば、あいつが〈入水〉後に姿を見せなかったのはなぜか」
「拘束されて動けなかった。あるいは、けがを負わされていた」
「しかし、首の切断以外に遺体に目立った外傷はなかった。けがの線は薄いじゃろう」
「いや、そこだよ。兄貴が頭部、あるいは頸部にけがを負わされていたとすれば、犯人が首を切断した理由もわかる。そのときに付いた傷を隠すためだ」
「そうじゃ。ベルナルドが自殺したとは考えられんか?」
おじさんの何気ない問いに、アントニオは嫌悪の表情を浮かべた。
「なにが言いたい。それに兄貴は信仰深くもあったんだ。自殺なんて」
アントニオはそう言うものの、この状況ではなにが確かなのか判断ができない様子だ。
ベルナルドは信仰深かった。では仮に、おじさんの言うように自殺したとしたら、そして誰かがその過ちを隠したのだとすれば、それは首の切断につながるのではないか。
「じいさん、そいつは無理な話だ。このなにもない空間でどうやって自殺するんだ。がらくたはぷかぷか浮いていて、首をくくることはできない。ナイフによる刺し傷は背中にひとつだけだったから、こいつもありえない。
あんたの考えていることはわかる。だが、そこまでベルナルドを想っていたやつが、背中にナイフを刺して、おまけにそれを残してくるのは矛盾していないか」
そう言うファーゴの表情には懐旧と苦痛の念が浮かんでいた。いま亡き友との旅路を巡るしばしの温もりから舞い戻ると、すぐに彼は表情を引き締めた。
「いいか、アントニオが挙げたふたつ以外に、もうひとつ可能性がある。ベルナルドみずから隠れていた場合だ」
「兄貴がなんでそんなこと」
「あくまで可能性のひとつを挙げただけだ。理由まではわからん。
いずれにしても疑問は残る。二回目以降の探索では、常に中央にピノキオとジミニー、もうひとり誰かがいて、残りのふたりは胃袋の半分ずつを調べていたわけだ。そのあいだ、ベルナルドには誰も会っていないわけだ。
再確認するが、一回目の探索に出て以降、ベルナルドの姿を見たやつはいないんだな」
たき火の光を宿したファーゴの鋭い眼がぼくらを見回す。全員が頷くのを見ると、彼は呼吸を整えるために大きく息を吸った。
「わかった。じゃあ、誰もベルナルドの姿を見なかったのはなぜかに戻ろう」
「簡単だ。身動きが取れないか、あるいはすでに殺されて隠されていたんだ」
「おれもそう考えた。そこでジミニーに筆記具を借りて表を作ってみた。ここからは、腹の中を、〈入口〉を上、〈出口〉を下として話すぞ」
・飲み込まれ、中央へ避難
■〈排水〉
・探索①(腹の中を時計に見立て、十一時から一時をベルナルド、一時から三時をゼペット、三時から六時をアントニオ、六時から九時をファーゴ、九時から十一時をピノキオ)
□〈入水〉
・ベルナルドの松明の灯りが〈入水〉前後で消えた。(ジミニーによる証言)
※消えた瞬間を見たわけではないので、正確な時間はわからない。
・ベルナルド以外が中央へ引き返してくる
・二、三分ほど待機
・探索②(上半分をゼペット、下半分をファーゴ)
※二回目からの探索はそれぞれ十分と決める
・調査班、戻る
・探索③(上半分をファーゴ、下半分をアントニオ)
・調査班、戻る
・探索④(上半分をアントニオ、下半分をゼペット)
■〈排水〉
・調査班、戻る
・探索⑤(ファーゴ、アントニオがいっしょに行動。上半分から調べる)
□〈入水〉
・ベルナルドの遺体を発見
「可能性のひとつ、これが一番妥当だろうが、〈入口〉付近を調べていたベルナルドを殺した犯人があいつを〈出口〉側へと運んだケースだ。トリック――と呼べるような代物ではないが、その方法は大体予想できる。遺体を発見したとき大きな木箱に入っていただろう。犯人はあれにベルナルドを入れて、腹の中の海水のわずかな流れに乗せた」
二回目の探索のときに流れてきたがらくたにベルナルドが入っていた木箱があったのだろうか。そう考えるとぞっとした。
待てよ、いまのファーゴの推理ではおじさんの容疑が濃厚ということにならないだろうか。
この恐ろしい考えはみんなの頭にも浮かんだらしい。とりわけおじさんは何か言おうと立ち上がりかけたが、ファーゴの言葉のほうが速かった。
「焦りは禁物だ。ほかにも可能性はまだある。
そこで、棚上げにしていた、ベルナルドが隠れていた場合と合わせて考えてみよう。つまりだな、隠れていたベルナルドが下半分へと来たとき、そこを探索していたやつが殺したのなら、こちらも死体移動の問題はクリアなわけだ」
そうなると、死亡推定時刻の範囲はぐっと広がるわけだ。当然、容疑者の数も多くなる。
「可能性のひとつとしては、死んだベルナルドが見つかる直前に下半分を単独で調べたじいさんが怪しくなる。死体が見つかったなんて一言も言わなかったからな。だが、隠されていたからじいさんが気づかなかったとも考えられる。
それに五回目の探索でおれとアントニオが共謀すれば、こちらの犯行も不可能じゃないんだ。なんにしろ、ベルナルドの行動がわからないと、正確なことは言えない。
ここで最初の場合分けに戻って、他方の、一回目の探索でベルナルドが殺された場合を考えてみよう。この場合だと、状況から考えてじいさん、あんたとピノキオ以外に犯行は不可能なんだ。一回目の探索で、おれとアントニオは下半分(三時から六時をアントニオ、六時から九時をファーゴ)を担当していた。そして中央にはジミニーがいた。すると、中央を横切って〈入口〉付近にいるベルナルドのもとに行くのは難しい。足もとには海水が張っていることも忘れるなよ。そして、ベルナルドの両サイドにはじいさんとピノキオがいる。
つまり、おれたちふたりはあいつに近づけなかった。中央にいたジミニーにもこの小さい体じゃ殺人は無理だろう」
「待て。一回目の探索のとき、ジミニーは周囲を見回してみんなの松明の灯りを見ていたのじゃ。わしらの灯りがベルナルドのそれに近づくか、あるいは消えればわかるじゃろう。ジミニーよ、あのとき、わしらの灯りは不審な動きをしたかい?」
この質問にジミニーは首を横に振った。
「その点は、なんらかのトリック、例えば、浮遊物に自分の松明をくくりつけておくようなものでクリアできるだろう。暗闇の中を歩くことになるが、行きはベルナルドの灯りを目指して進み、帰りは自分の灯りを目印にすればいい。
そうだ、ベルナルドの松明を不安定なところにでも置いて、そのうちに水の中に落ちるよう工夫すれば、アリバイトリックも使えるんじゃないか」
「いいかのう、ファーゴ。おぬしの言うトリックは自分の首を絞めることにもなるぞ。
さっき、おぬしは自分とアントニオには犯行不可能と言っておったが、そのトリックを使えば前言が覆る。ジミニーの目は迂回していけばいいし、わしとピノキオの位置は松明の灯りでわかるから、それを避けるように進めば、こちらもパスできる」
ふたりは無言のまま、じりじりとにらみ合った。折れたのはファーゴのようだった。
「わかった。降参だよ」
彼は両手を上げて首を振った。
「まあ、さっきは無視すると言ったが、じいさんたちがベルナルドを殺す動機がおれには見当たらないんだ。初対面のあいつを、ましてやこの状況で」
「衝動的な犯行ならありえるぜ」
いままで黙って聞いていたアントニオがとげとげしく言い放った。
ファーゴは彼に一瞥くれるも、何事もなかったかのように続けた。
「それに、まだ問題はいくつも残っている」
「ベルナルドの首の行方じゃな」
「そうだ。あいつの首は一体どこへ行ってしまったのか。
ほかにも、ナイフの問題がある。さっきの話じゃ、飲み込まれる寸前、ナイフは筏の上にあった。ここにたどり着いてから一番はじめに目覚めたのはじいさんだった。その後、おれ、ピノキオ、ベルナルドとアントニオの順に目覚めたわけだが、このあいだに単独行動や不審な動きはそれぞれなかった。みんながきょろきょろとしていたから、目立つことはできないだろう。そのあと、服を乾かすために全員が裸同然になった。大きいナイフだ、下着のなかにでも隠せばすぐにわかる。脱いだ服は乾かしていたから、これに包んで隠すこともできない」
「じゃあ、最初に目覚めたじいさんが」
「ああ、じいさんなら、おれを起こす前にナイフを見つけて隠すことは可能だ!」
先ほどからのアントニオの横やりに、ファーゴは苛立たしそうだった。
「しかし、なぜ隠す。じいさんがベルナルド殺害の犯人だとしたら、お前が言ったように衝動的な犯行の可能性が高い。ならば、なぜ目覚めた直後に、まるで後々にベルナルド殺害に使うことを予期していたかのように、凶器のナイフを隠したりするんだ。これは、おかしい。だが、状況や初対面なことを考えれば、計画的な犯行だとは思えない」
ファーゴの声は次第に大きくなっていく。
「ベルナルドの首の切り口は明らかに刃物によるものだった。そして、背中にはナイフが刺さっていた。凶器は自明だ。しかし、このナイフはどこにあったのかわからない。
それに、あいつの首を見つけてやることさえできていない」
ファーゴはぼくらの傍らに横たわるベルナルドの遺体を見た。
「――すまない。結局、答えは出せずじまいだ。余計に不安にさせてしまった」
弱々しい声でなせれた降伏宣言に、場の空気はより重くなる。
大人しくしていたぼくは、なにか手掛かりはないかと、ジミニーの記録を読み返した。ほかのみんなは押し黙ったままだ。
そして、いままでのことが記された本を慎重に、注意深く読み進めてくと、わかったのだ。ナイフの問題も。ベルナルドがいつ死んだのかも。
誰が、なぜ彼の首を切り落とすなどという残虐な行為をしたのかも。
その答えはぼくを複雑な気持ちにさせた。
だからこそ、ぼくはみずからの推理を示さなくてはならなかった。
*
【追記② 読者への懇願状】
いま、あなたがこの文章をどういった経緯でお読みになったのかはわからない。それでも、この手記が無事たどり着いたのだとすれば、神のご加護があったのだろう。
わたしたちがどのような状況下におり、そして、なにが起こったのかを、ここまでをお読みになったあなたなら知っているでしょう。
ベルナルドというトレジャーハンターが、腹の中の探索中に突然姿を消した。その後、彼は死体となって発見されたが、不思議なことに首から上がなかった。
彼の死を巡る謎で、とくに重要なものは次のとおりだ。
ベルナルドはいつ死んだのか?
凶器と考えられるナイフの出どころは?
首を切り落とすなどという残忍な行為をしたのは誰なのか?
なぜ首を切断したのか?
そして、首はいまどこにあるのか?
わたしは、かつて愛した探偵小説への敬意を込め、読者諸君への挑戦を言い渡そう。
おそらくは、英明な読者諸君ならば、ここまでの記述でその答えがわかるだろう。
では、ここに挑戦をひとつ加えよう。それは、
――その導き出した答えが〝真実〟たらしめんことを証明してみせよ
わたしはこの挑戦が果たせないことを、勝負を抜きにしても願うのだ。
そうでなければ、あの小さなピノキオの決意が報われない。
どうか、わたしの挑戦を遂げないでほしい。
ジミニー・クリケット
*
ぼくはすくっと立ち上がり、相変わらずたき火を囲んで座しているおじさんたちに近づいた。
「みんな、いいかな」
うつむいていた三人が顔を上げる。言わずもがな、その表情は浮かない。
「どうした、ピノキオ」
おじさんは目をぱちくりさせている。ほかのふたりも似たような表情でぼくを見ている。
「ぼく、犯人がわかったかもしれないんだ」
おとなたちの反応に大きなものはない。そればかりか、遊び半分と思われたのか、アントニオは苛立たしそうだ。
「おとな三人が額寄せあってもわからないのに、おまえがわかっただと?」
「うん。でも、確証はない。だから、確かめるためにもぼくの推理を聞いてほしいんだ」
こちらの思いが通じたのか、ファーゴは根負けしたようだ。
「わかった、いいだろう。まあ、聞くだけ聞いてみようじゃないか」
ファーゴに諭されてはアントニオも黙るしかなかった。
おじさんはなにか言いたそうに口をぱくつかせているが、結局はなにも言わなかった。
ぼくは小さく息を吸い、吐いた。頭の中で整えた推理の始端を手さぐり寄せていく。
「まず、今回の事件で改めて確認しておかなければならないことがあるんだ。死体となって発見されたベルナルドさんには首から上がなかった。ぼくはちゃんと見たわけではないけれど、首の切断面から鋭い刃物が使われたと考えていいんだよね」
ぼくの問いかけに三人は頷いた。
「そして、背中にはナイフが刺さっていた。いまのところ刃物はこのナイフ以外に見つかっていない。これだけのがらくたがあるのだから、海水の下をさらえばいくつか出てくるかもしれないけど、こうも広いと、特定のなにかを探すのは難しい。だから、ベルナルドさんの背中に突き刺さったナイフが、首切断にも使われたと考えたんだけど」
すぐにファーゴが異を唱えた。
「難しいと言っても、おれたちは何回か探索に出ているわけだし、時間がまったくなかったわけじゃない。それに海水をさらわなくたって、運よくがらくたの上に転がっていた可能性もある」
「でも、それはすこし考えにくいんじゃないかな。もし別の刃物を手に入れていたのなら、それで背中を刺せばいいのに、わざわざあのナイフを使っているんだよ。鉈のように刺すには適さない刃物もあるけど、最終的に首を切り落としているのだから、刺殺にこだわっているというわけでもないでしょう」
ファーゴは口もとに手を持っていって、うなり声をあげた。しかし、それ以上はなにも言わないので、ぼくは先を続けた。いつの間にか、おじさんもアントニオも聞き入っている。
「ところで、いまぼくは首を切断しているから、犯人は刺殺にこだわっているわけではないと言ったけど、厳密に言えばここははっきりとは断定できないんだ。なぜなら、首を切ったのと背中にナイフを突き立てたのと、どちらが先なのかはわからない。遺体の入っていた箱の中に血痕はあったらしいけど、具体的な出血量はわからないよね」
生々しい話にみんなの顔が歪む。ぼくだって口にして気持ちのいい話じゃない。 それでも話さなくちゃいけないんだ。
「どちらが先にしても、あのナイフの出どころは重要なポイントとなる。さっきのファーゴさんの推理にもあったように、飲み込まれてから一回目の探索までに、あのナイフを手にした人はいない。唯一、最初に目覚めたおじさんは、ほかの人を起こす前に手に入れておくこともできるって話が出たけど、これは動機の問題から却下となったんだよね」
先ほどのファーゴの推理では省かれていたが、海に入っていたベルナルドと彼らの筏から離れたところにいたぼくとおじさんを除くふたり、つまりはアントニオ、そしてファーゴは飲み込まれる寸前にナイフを手にした可能性はある。しかし、このふたりが大きく揺られる筏の上で、とっさにナイフを手にしていても、やはり服を乾かすときに下着姿になっているのだ。
「待っとくれ、ピノキオ。服を乾かすときにみんな下着姿になっておる。あのナイフは大きいものだから下着の中に隠すこともできんし、服は乾かしとるから、包んでおくこともできない。さっき、ファーゴはそう言ったのう。しかしじゃ、例えば海水の中に隠しておくことはできるとは思えんかね」
「それは話を先に進めて行けば否定できると思うんだ」
ぼくは鼻頭を掻いて、いままでの推理に間違えがないか確かめる。最近、この動作が癖になってきてしまった。
「おじさんから指摘された点はここでは保留にしておくとして、ファーゴさんの推理により、クジラに飲み込まれてから、いや、飲み込まれる直前から一回目の探索までにあのナイフを手にした人はいないと結論づけられた。ここまではいい?」
みんなが頷く。
「そこで、凶器のナイフについてはひとまず置いておいて、次に、いつベルナルドさんが亡くなったのかを考える。
ぼくはベルナルドさんの身になにかが起きたのは、一回目の探索のときだった思うんだ。その理由は、ベルナルドさんが一度目の〈入水〉あと、この石碑に戻ってこなかったから。あの激しい音と揺れが起きたあとで、異変があれば帰ってくるように言われているのに戻ってこないのはおかしいよ。
そこで、アントニオさんとファーゴさんがさっき挙げた三つの場合分けを使いましょう」
「兄貴が怪我を負わされていた場合、拘束されていた場合、そして兄貴自ら隠れていた場合だな」
「そう、ありがとうアントニオさん。
前ふたつは外的要因だからひとまとめにして、さらにそこへ殺害そのものも含めていいと思うんだ。三つめはベルナルドさん自身による行為だから、この場合から考えるよ。
もし、ベルナルドさんがぼくらから身を隠すとしたら、どのような理由がある?」
「考えてみたのじゃが、例えば財宝の類を見つけて、ひとり占めしようとしたらどうじゃ」
「じいさん、兄貴が」
アントニオの抗議をさえぎるように、ファーゴが口を開く。
「おれもあのあと、すこし考えてみたんだ。それで、出口を見つけたらどうだろうかと思ったんだが、ああしてベルナルドの死体が出てきている以上、あいつがひとりだけこっそりと脱出したことはなさそうだ」
「当たり前だ。そんなこと考えていたのか」
アントニオは眉間にしわを寄せて、見るからに不満げな表情を浮かべた。彼はちらりとファーゴを見たが、どうせ可能性のひとつだとか言うんだろうと小言を吐くと、むすっとしてぼくに先をうながした。
「そうだね。ファーゴさんの言うとおり、出口を見つけた場合は省いていいと思う。もちろん、一度脱出したあと、ぼくらを呼びに戻ってきたことも、彼が姿を現していない以上ありえない。
じつは、ぼくが考えたのも、おじさんのものと同じなんだ。ベルナルドさんは宝物を見つけて、ひとり占めしようとしていたんじゃないかって。すみません、アントニオさん。
でも、これも結局はおかしいんだ。もし、ベルナルドさんが宝物を見つけてひとり占めしようとしたら、こっそりと自分だけ脱出しようとする。そうなると、ベルナルドさんは出口を探すよね。さっき言ったように、ベルナルドさんの死体が見つかっているので、出口は見つからなかったのでしょう。
ところで、この腹の中は端から端まで大体一〇〇メートルぐらいだよね。形がきれいな円だとしたら、周りの長さは――」
「約三一四メートルだな」
「ありがとう、ファーゴさん。どうも、計算は苦手で。
話は戻って、ベルナルドさんは宝物を手に入れ、出口を探している。この腹の中は周りをぐるりと回っても三一四メートル。足もとには海水が張っているとはいえ、一周するのにそこまで時間は掛からない。
すると、ベルナルドさんは気の済むまで調べられたはずなんだ。そして、出口が見当たらないことを悟れば、まずは宝物よりも安全を確保しようとするはず。宝物があっても、出られなければ意味がないからね。だとすれば、みんなと合流するために中央へと戻ってくるのが自然だ。ところが、これは事実とは異なる。
以上よりぼくは、ベルナルドさんがみずから隠れていた場合はなかったと考えた」
長々と話し終え、ほっと息をつく。ぼく以上に安堵の様子を見せているのはアントニオだ。兄があらぬ疑いをかけられることが、よほど許せなかったのだろう。
まだまだ先は長い。息を整えると、推理の続きを話しはじめる。
「では、残りの外的要因によってベルナルドさんが姿を現さなかった場合に入りたいと思うんだけど、ここで動機をすこし考えてみるよ」
「動機はさっき考えないと言ったはずじゃが」
「でも、やっぱり首を切るなんてことを、狂人の行為で済ませてしまうのは危険だと思うんだ。それに、凶器の問題で、みんなを起こす前におじさんがナイフを手に入れて隠し持っていた場合を、動機によって否定しているからまったく触れないわけにもいかないんだ」
自身が凶器を手に入れたケースが否定し切れなくなると聞いて、おじさんもそれ以上はなにも言わなかった。
「まず、ファーゴさんはベルナルドさんとは旧友、一方のアントニオさんは家族だよね。いまここで具体的な話はあえて聞かないけど、ふたりがなんらかの動機を抱いていてもおかしくない――」
やや乱暴すぎるだろうか。しかし、アントニオから聞いた話をここで話してしまっていいのか判断に困った。
当のアントニオは渋い顔をしていた。まだ過程とはいえ、殺人の動機の存在を黙認してしまうことと、過去のコンプレックスをここで打ち明けることを天秤に掛けているようだ。
ファーゴはというと表情ひとつ変えていないが、彼もベルナルドと激しくけんかをすることがあったのだ。
「体の小さなジミニーは容疑者リストから外れるとして、おじさんとぼくの動機はどうか。おじさんとぼくはベルナルドさんとは初対面だった。計画的な犯行とは考えにくい。これは、ひと足先に目覚めたおじさんが、凶器のナイフを手に入れて隠していたことの否定材料でもあったよね。
では、衝動的な殺人ならどうだろうか」
「さっきから出てくる衝動的な殺人とは具体的にどのようなものを指すのじゃ?」
「例えば、相手の何気ないひと言が気に障ったとかかな。
おじさんとぼくには衝動的な場合しか成り立たない。もちろん、ファーゴさんやアントニオさんの場合も、この衝動的な犯行である可能性はある。
しかし、あるひとつの矛盾に注目してもらいたいんだ」
ぼくが右手のひとさし指を立てると、みんなの視線がその先に集まるのを感じた。
「最初にも言ったように、ベルナルドさんがナイフで刺されたのと、首を切断されたのはどちらが先か、はっきりとは断定できない。常識的に考えれば、ベルナルドさんほどの人が黙って首を切られるとは考えられないけど、もしかしたら行方のわからない首から上には気絶させられたときの傷があるかもしれない。
でも、考えてみて。三〇センチもあるナイフで背中をひと突きすれば、即死とはならなくても、それは十分に死因たりえる。つまり、ベルナルドさんの遺体には、刺殺と首切断というふたつの死因を示す傷あとがあるんだ。
では、これが衝動的な殺人だとしたら、なぜ犯人は一度殺害しただけでは飽き足らず、二度も殺したのだろうか」
「首の切断はいまおまえが言ったように、首から上についた傷――そして、犯人にとって見つかってはまずい証拠を隠すためだと考えれば筋は通っているんじゃないのか」
「ええ、たしかにその考え方は理屈に合うように思える。でも、証拠隠滅のために首を切断までした犯人は、どうして凶器のナイフを背に残してきたのか。
ベルナルドさんの背中に残されたナイフは、首を切断するために用いられたものと同じだと確認しましたよね。とすれば、このナイフもまた大きな証拠なんだ。それを残すなんて矛盾している。
第一として、死体を隠さないこともおかしい。首を切るくらいなら、死体そのものを隠してしまったほうがずっと楽だよ」
この大きな矛盾を前に、ファーゴはまた口もとに手をやった。これが彼の考え込むときの癖なのかもしれない。眉間にはしわが寄っている。
「たしかに、それは無視できない矛盾だ。だが、それで衝動的な殺人が否定されたかと言うと微妙だな。慌てていた、忘れていた、それこそ狂気の沙汰だった、いくらでも考えられる」
たしかに可能性は無限にあるように思えるが、果たしてどうだろうか。首の切断が証拠隠滅のためだとすれば、犯人はごく冷静に思える。その犯人が慌てていた、忘れていたとは考えにくい。
「そもそも動機で否定し切るのは無理があったようだね。
ここでいま一度、確認しておこうか。
ぼくはベルナルドさんの身になにかあったのは一回目の探索のときだと考えた。それは、ベルナルドさんが〈入水〉のあとも戻ってこなかったから。まず、ベルナルドさんみずからが隠れていた場合を否定した。
そしていまは、けがを負わされていた、拘束されていた、殺されていた、つまりは外的要因によってベルナルドさんが戻ってこなかった場合を考えている。
ここまではいい?」
すぐにおじさんとアントニオは頷いた。なにかを考え込んでいるようなファーゴもすこし遅れて首を縦に振った。
「ベルナルドさんの松明の灯りが消えたのは一度目の〈入水〉直後だと、ジミニーは言った。彼は、ぼくら四人の灯りも見ていて、不審な動きをした者はいなかったとも言ったよね。
そこでファーゴさんが提案したトリック――松明を浮遊物に取り付けてアリバイを偽装したというものだけど、このトリックはぼくとおじさんには使えないんだ」
ファーゴは口もとから手を離し、怪訝そうな顔でぼくを見上げた。
「どういうことだ」
「この腹の中の海水には〈入口〉から〈出口〉に向かって、ごくわずかな流れがあって、浮遊物もまたそれに乗っている。その速さは端から端までは大体三〇分ほど。また、ぼくらはここへ着いてから、まず四〇分ほど服を乾かしたりしていたよね。そのあと、〈排水〉が起きて、周りを調べるために探索をはじめた。
すると、ぼくらと一緒に流れ着いたがらくたは一回目の探索のときには、すでに流されてしまっていて、腹の中の上半分にはなにもなかったはずなんだ。だから、上半分を調べていたおじさんとぼくにはトリックが使えな――」
ぼくが最後の言葉を言い終わるのを待たずして、アントニオが勢いよく立ち上がりぼくをにらみつけた。
「さっきから黙って聞いてれば、おまえらに都合のいいことばかり」
彼は肩を震わし続く言葉を吐こうとしたが、漏れてきたのは荒々しい息だけだった。ひとつ大きな息をつくと、彼は黙って座ってしまった。
ぼくはアントニオに同情した。そして、自分を嫌悪した。ベルナルドにとっての親友を、実の弟を、ぼくは彼を殺した容疑者リストに残したのだ。
「――続けるよ。下半分にいたファーゴさんとアントニオさん、ふたりの周りには浮遊物がたくさんあったはず。そして、そこに松明の灯りをくくり付け偽装することも可能だ」
ファーゴもアントニオもうつむいてしまっていて表情が見えない。おじさんはたき火をじっと見つめている。
ずっとみんなを見下ろしているのもいい気がしないので、ぼくはおじさんのそばに腰を下ろした。
「でも、ぼくはふたりにもまた犯行が不可能だったと考えているんだ」
みんなの顔がいっせいにぼくを見た。六つの大きく見開かれた目にはたき火の灯りが映りこんでいる。
「もう一度、ジミニーの証言を思い出して。ふたりは一度目の〈入水〉直後、激しい揺れの中を走って戻ってきた、そうも言っていたよね。そして、ふたりが〈出口〉方向から、ばしゃばしゃと音を立てて戻ってきたとも。
さっきも言ったけど、ベルナルドさんの灯りが消えたのは〈入水〉前後だ。ファーゴさんかアントニオさんが犯人でさっきのトリックを使ったのだとすれば、浮遊物にくくりつけてある松明のところまで一度戻らないといけない。このことも考えると、とてもじゃないけど時間が足らない。
よって、ふたりには犯行は不可能だとぼくは考えたんだ」
「ちょっといいかのよう。可能性はつぶしておかんとならん、恨まんでくれ。ファーゴが言ったようなベルナルドの松明を使ったアリバイトリックはできんのか」
「おじさん、それは無理だよ。ベルナルドさんは〈入口〉近くを探索していたんだ。ぼくらと同様に、そこには松明をくくり付けるようながらくたはなかったんだ。もしも〈出口〉近くのがらくたを持っていって使ったとしても、時間が経てばそのがらくたは流れてくるよね。
思い出して。ぼくらはベルナルドさんの帰りを待って、ずっと〈入口〉の方向を見ていたよね。でも、なにも現れなかった」
「一度目の〈入水〉で流れ入ってきたがらくたはどうじゃ」
「それはたしかに使えるけど……。
そもそもこのトリック自体あまり現実的じゃないと思うんだ。だって、ベルナルドさんの松明を使うって簡単に言うけど、松明が海水の中に落ちたら火が消えてしまうよ。殺されそうになったらベルナルドさんだって抵抗するだろうし、ふいに襲ったのだとしたらなおさら手から松明がすべり落ちそうだもん。
ファーゴさんたちならうまいこと言って松明をあらかじめ渡してもらえそうだけど、松明片手にナイフでひと突きっていうのも、やはり現実的じゃない。
――全員に犯行は不可能だったんだ。さっき、おじさんの言った、ナイフを水の中に隠しておくというのも意味がない」
「ま、待ってくれ。つまり、ベルナルドを殺したのは誰なんだ?」
「ここにいる五人に犯行は不可能だった。暗いとはいえ、探索に何度もしているし、ぼくら以外には誰もいないでしょう。また、自殺の可能性もない。
よって、考えられるのは事故しかない」
アントニオがすかさず立ち上がり、ぼくを見下ろした。
「おいおい、事故で首がすぱっと切れるかよ」
「だから、首の切断はやはり人によるものだろうね」
「ピノキオよ、事故とはなんなのか、もう少し詳しく話してくれんかのう」
いつの間にか、おじさんまでも立ち上がり、座っているのはあの考え込むポーズをとっているファーゴとぼくだけだ。
「事故と言っても、この状況下では限られているよね。
まず、ベルナルドさんの身になにかあったのは、一度目の〈入水〉のときだったと結論づけた。このときに起こった予期せぬこととはなにか」
「〈入水〉のときの音と揺れ」
「たしかに、それもそうだけど」
「〈入水〉そのものか」
そう言ったのはファーゴだった。彼の両の目はぼくのそれをじっと見つめていた。どうやら彼にもわかったらしい。
「そう、〈入水〉そのものがベルナルドさんに死をもたらしたんだ」
立ち上がっていたおじさんとアントニオのふたりは、拍子抜けしたように、なにも言わずへなへなと座り込んでしまった。それもそのはずだ。さっきまではぼくらの中にひそむ殺人者を探していたのだから。
「もうひとつ大事な要素として、凶器となったあのナイフの存在がある。あのナイフは一体どこにあったのか。
ぼくはこのクジラに飲み込まれたあと、ここに流される途中で気を失ったけど、それはみんなも同じだったよね。ぼくは気を失う直前に、必死の思いでクジラの髭を掴もうとしたのを覚えているんだ」
そのとき、気の抜けた様子だったおじさんとアントニオも、はっとぼくの顔を見た。
「あのナイフは、鞘に入れず腰に巻いた布に刺して携帯していた。そして、クジラに飲み込まれる直前もまた、その状態で筏の上に置いてあった。
もう、わかったんじゃないかな。おそらく、あのナイフもクジラに飲み込まれたものの、髭に腰巻布がひっかかってしまったんだ。そして、一度目の探索のとき、ベルナルドさんは〈入口〉付近を調べていた。
このとき、ちょうど〈入水〉が起きたんだ。脱出の手掛かりはないかと調べものをしているときだよ。きっと、ベルナルドさんは〈入口〉――まだ、それがなにかわかっていなかった可能性の高い、その穴を調べようとしたのでしょう。
でも、ベルナルドさんほど鋭い方なら、徐々に近づいてくる轟音を聞いて、その正体を察したに違いない。だけど、踵を返して逃げようとしたときには、運悪く手遅れだった。勢いよく流されてきた水を背に受け、その流れに乗ったナイフに――。
見つかったナイフに布がまとわり付いていなかったから、たぶん、海水で流されようとするナイフの重さで布が裂けてしまったんじゃないかな」
長い台詞を言い終わったとき、みんなの表情を見ると、そこにめいめいの複雑な心境を浮かべていた。とりわけ暗い顔をしているのはファーゴで、ナイフのずさんな管理を注意しておけばと後悔しているようだった。
「先を続けてくれ。さっき、首を切断したのはやはり人間だったと、そう言っただろう」
「切断面から、首は刃物で切られたのだと推測したよね。まさか、刃物が飛び回るわけもありませんし、人為的なものであることは間違いないよ」
誰のものかはわからないが、つばを飲む音がした。
「次に考えるべきは、ベルナルドさんの遺体の移動の問題だね。いま説明したように、ベルナルドさんの死因が〈入水〉ならば、どうして〈出口〉側で遺体が見つかったのか。常にぼくらの中のふたりは中央に、残るふたりはばらばらだけど周囲を調べていたのに、誰もベルナルドさんの姿を見ていない」
「兄貴の首を切ったやつ以外はな。そいつは嘘をついている」
「そうだね。首を切った人物だけはその姿を見ているはずです。でも、それが誰かではなく、まずは死体移動の方法を先に考えよう」
「探索をしていたふたりが共犯であれば、その点に関しては問題ないんじゃないのか」
「でも、それだとファーゴさん、あなた自身とアントニオさんのペアが濃厚ということになるよ。おじさんとファーゴさんたちが共犯っていうのは考えにくい」
「わかっているが」
「いや、大丈夫だよ。ぼくはふたりが共犯である可能性はなかったと考えているから。なぜなら、ベルナルドさんの遺体を見つけたのがほかでもないファーゴさんたちだからね。ふたりによる犯行であるなら、そして一度は隠したのであれば、わざわざ自分たちから遺体を発見するのは矛盾している。
また、さっきも言ったけど、おじさんとふたりのどちらかが共犯の可能性も少ないと思う。自分で殺したわけでもない死体を隠す手伝いなんてしないでしょう」
「なら、ピノキオは単独犯だと考えとるのか?」
「うん。死体移動の問題に関するトリックは、ファーゴさんがさっき話してくれた、木箱を使ったものだろうね。遺体発見時に木箱に入っていた状況から考えて、これはほぼ間違いない。
犯人は木箱にベルナルドさんを入れて〈出口〉側へと流した。でも、なぜ犯人は死体を隠して〈出口〉へ運んだのか」
「放置しておけば兄貴の死体がそのまま流れに乗ってしまうからじゃないのか」
「でも、それが自然だよね。ベルナルドさんの死因は〈入水〉によってナイフが刺さったことであって、犯人が殺したわけじゃないんだから。
犯人にとってはほかに死体が見つかってはまずい理由があったんだ。
犯人は死体が発見されては困った。そして、見つからないまま〈出口〉近くへと運ばなくてはならなかった。では、この何もないような腹の中で、なぜ〈出口〉に犯人はこだわったのか」
「〈入口〉にあって〈出口〉にないものか。犯人は〈入水〉で流れてきた木箱を使ったんだよな。なら、がらくたは〈入口〉側にもあったはずだ」
アントニオが首をひねって考え込んでいる。
「そうだね、ぼくもがらくたではないと思う。だとしたら、あと〈入口〉との違いはなにか。
簡単だよ、〈出口〉そのものだ。それが犯人のねらいだったんだ」
おじさんが残り少なくなった木片をたき火に投げ入れた。ファーゴは少し大きくなった火をじっと見ていた。
「一体、誰がそんなことしたんだ」
ファーゴは燃えていく木の音にかき消されてしまうほど小さい声でぽつりと呟いた。
彼の目がぼくに向いた。怒りを宿した、鋭い眼だ。
「犯人が誰なのかは、実はごく簡単な消去法でわかるんだ。さっきも話したように、犯人は死体を〈出口〉へ運ばなくてはならなかった。その目的は〈出口〉そのものだった。だとすれば、犯人は必然的に、二回目の探索以降で、まずは腹の中の上半分、そして、そのあとに下半分を担当した人に――」
急に立ち上がり、自分で作った票を手にしたファーゴの目が、かっと見開かれた。
「おまえか、おまえがやったのか!」
そう言い放ったファーゴの鋭い眼は、おじさんを見ていた。
「おれは、二回目の探索では下半分、三回目では上半分を調べた。よって、上下の順序が逆だ。それ以降は、五回目にも出ているが、これはアントニオといっしょだった。共犯の可能性は否定されたから、これも成り立たない。五回目の探索でおれたちは互いを見張っていたわけじゃないが、さすがに死体にいたずらしていれば気づく。
アントニオも同じだ。こいつは、三回目の探索では下、四回目では上で順序が逆だし、五回目はおれといっしょだ」
ファーゴはおじさんの胸倉を掴んで揺さぶりながら、荒々しく叫んだ。アントニオがすかさず立ち上がり、ふたりを引き離した。
ぼくは、ぼくはなにもできなかった。
おじさんはなにも言わず、また座り込んでしまった。
ファーゴも肩で息を切りおじさんをにらみつけながらも、アントニオにうながされ腰を落とした。
アントニオが近くへやってきた。こうして見ると、やはり兄弟だ。彼の顔にはベルナルドのあの微笑にも似た表情が浮かんでいた。でも、そこには悲憤の念も表れていた。
「疲れたろう。もう休め」
彼の震える声がそう言ったとき、どんなにそうしたいと願っただろうか。
でも、この事件はぼく自身が解決しなくてはならないのだ。
「――おじさんが、木箱を使った死体移動のトリックを使ったのにはメリットがあった」
ぼくは覚悟を決めておじさんを見たが、彼はがっくりと肩を落としたままだった。
アントニオがぼくの肩に手を置いた。
「もういい、やめろ」
「いや、続けなきゃだめなんだ!」
このときだけ、おじさんの体がぴくりと反応した。
「おじさんは二回目の探索で上半分を、四回目で下半分を調べていた。そのあいだの三回目はというと、中央で待機していた。
思い出して。二回目の探索で、お兄さんを探したいだろうアントニオさんに、中央に残るように、さらには自分が〈入口〉側を調べると言い出したのはおじさんだ。実は、一回目の探索でナイフが刺さったベルナルドさんを見つけていたんじゃないかな」
むずむずしたので、ぼくは鼻を掻いた。
「そして、箱に彼を入れて流した。死体を木箱に入れて流すというトリックは一見リスキーだけど、おじさんにはメリットもあった。
それは、続く三回目の探索では中央に残ることで、木箱を監視できることだった。高齢のおじさんをさすがに連続で探索に出すことは考えにくいし、もしファーゴさんたちが言ってくれなければ、自分から疲れたなど言い出たのでしょう。あえて箱を流してしまい、中央から見ておくことで、誰かに箱の中を覗かれる、あるいは引っかかって止まってしまう、これらのトラブルを防いでいたんだ」
あのとき、おじさんはしばらく流れてくるがらくたを調べていた。ぼくがベルナルドの入った木箱に近づかないように注意をして。
「なんで、切断した首だけを運ばなかったんだ。そのほうが楽だろう。そもそも、なんで兄貴の首を切ったりしたんだ」
ぼくの肩に置かれたままのアントニオの手が強張るのを感じた。その問いにおじさんは答えようとしなかった。ただ、うつむき黙っている。
「首だけを運ばなかった理由は、首を切断している時間がなかったから。戻るのが遅れると怪しまれる。でも、きっとおじさんは――」
ふいに、おじさんがむくりと立ち上がった。
「すまんのう、ピノキオ。なにからなにまで話させて。
ここからはわしが話そう」
「何から話せばいいのか。
まず、ピノキオは一回目の探索でわしがベルナルドの死体を見つけたと言ったが、わしが発見したのは二回目の探索のときじゃった。〈入口〉のほうを調べたいと言ったのは、一度目の〈排水〉のときに水かさが減るのを見て、そのメカニズムを思いついたからじゃ。
そして、背中にナイフが刺さったベルナルドを見つけたとき、ある考えが浮かんだのじゃ。とても恐ろしい考えじゃ。しかし、わしはどうしてもそれを実行せずにはいれんかった」
おじさんの声は思いのほかはっきりとしていて、ぼくらの耳によく届いた。
「おぬしたちも、心の片隅ではこの状況に不安を抱いておるだろう。ここが胃袋だとすれば、なぜわしらは消化されないのか。わしにはまず、こんなにも大きな胃袋を持った生き物がいたことが信じられんかった。持ち合わせているクジラの知識がまったく通用しないこの状況に、わしは恐怖を抱いたのじゃ。どうなってしまうのか、怖くて仕方がなかった」
おじさんは暗闇を見やり、ぼくたちも彼の視線を追った。
「だから、ベルナルドの死体を見つけたとき、ある実験を思いついたのじゃ。ここが胃袋だとすれば、きっと消化器官が続くはずじゃ。しかし、わしらの身になにも起きていないという現状もある。もしかしたら、このあとも無事に脱出できるのではないか。ほんのすこしのあいだだけそう信じた。
じゃが、確証は得られない。だから、きっとあるだろう出口から、ベルナルドの死体を使って、この先が危険かどうか実験してみようと考えたのじゃ。なるべく生き物がよかったが、ここにはなぜか魚一匹おらん。ほかに使えるものがなかったのじゃ。
四回目の探索で〈排水〉が来たのは偶然じゃった。いつ来るかはわからんが、チャンスはいくらでもあるだろうと思ってのう。ファーゴたちはベルナルドのいなくなった〈入口〉側を重点的にさがすじゃろうから、その点でも余裕があった」
それはあまりにも恐ろしい計画だ。わかっていたとはいえ、ぼくは息を飲んだ。
「なんで、首なんだ。足や腕のほうが切りやすいだろう」
まだ離れたところに座っているファーゴが言った。
「本来であれば、髭クジラののどは人間が飲まれても通ることはできないくらい細いのじゃ。しかし、このクジラはすべてが常識では計り知れん。出口の先はうんと細くなっていることだって考えられる。腕や足はたしかに切断しやすいが、もしかしたら出口の先で引っかかってしまうかもしれん。だから、なるべく球体に近い部位が望ましかった。しかし、手のひらなどでは小さすぎる。いずれ、わしらが進むことになるのじゃからのう。
小さいころに田舎に行ったとき、よく川でスイカを冷やしてのう。そのときのロープの結び方が役に立った」
「あんたは狂っている。兄貴の首を切るなんて――」
「待て」
割って入ったファーゴは立ち上がり、おじさんのそばに近づいてきて、彼を見下ろした。
「じいさん、それで全部か?」
「そうじゃ」
「しかし、おれにはどうもわからないことがひとつある。あんたの話じゃ、すでに事切れているベルナルドを見つけ、その実験とやらを実行した。それでいいんだな?」
「うむ」
「しかし、それは変じゃないか。ベルナルドの死体には、背中にナイフが刺さっていた。あんたは、あいつの首を落としたあとに、また死体にナイフを刺したことになる」
「ファーゴ、このじいさんは狂っている。そんなやつの行動ひとつひとつに意味は――」
「いいや。この矛盾は別の可能性を示すんだよ。もっと狂っている可能性を」
アントニオが目をぱちくりさせた。
「簡単だ。順番が逆だったんだよ。
まず、ベルナルドを気絶でもさせて首を落としたあとに、殺人の罪から逃れるために、背中を刺したんだ。あとでもっともらしい説明ができるようにな。これなら、ナイフが残っていた理由が説明できる。はじめから、実験にあいつの体を使おうと思ったんじゃないのか」
「じいさん、あんた」
アントニオも立ち上がり、いまにもおじさんに飛びかかりそうだ。それなのに、おじさんはなにも言い返さない。ぼくはもう黙っていられなかった。
「違うんだ!」
三人がいっせいにぼくを見る。
「違うんだ、おじさんはただ――」
「ピノキオ!」
「おじさんはただ、ベルナルドさんの指示に従っただけなんだ」
「なんで兄貴がそんなことを」
「まず、ファーゴさんの推理は根本的に間違っているよ。さっき、あれだけ細かく一回目の探索でベルナルドさんを誰も殺せなかったと証明したじゃないか。
きっと、ベルナルドさんもおじさんと同じように、この状況を危惧していたんだ。そして、〈入水〉によってナイフが刺さったときに、ベルナルドさんが実験を思いついたんだ。そうだよね、おじさん?
ベルナルドさんはトレジャーハンターだからロープの使い方には長けていた。また、クジラを神聖なものと考えていて、いろいろ調べたりもしていたから、このクジラの不可解さを恐れていた。
ここからは想像するしかないけど、ナイフが刺さったとき、それがみずからの運命だと悟ったんじゃないかな。それまでの人生でなにか悔やんでいることがあったのかもしれない」
ぼくはアントニオを見た。そのときのかれの表情を表す言葉を、きっとぼくはまだ知らない。
「でも、ベルナルドさんはみんなの運命はきっと違う道にあると信じていたんだ。きっと、助かる方法はあるはずだって。
だから、自分が死んだあとに、その体を使って実験をするように、たまたま彼を発見したおじさんに話した」
「兄貴は、ナイフが刺さって即死したわけじゃないんだな」
「うん。さっきも言ったけど、いくら大きなナイフとはいえ、背中に刺さって即死というのはすこし不自然だしね。
それと、ぼくはおじさんが一回目の探索のときにベルナルドさんを見つけたと思っていたけどこれは間違いだった。おじさんの言うように二回目の探索のときに発見したのなら、さっきの切った首だけを運べばよかったんじゃないかって話にもうまい説明がつく。
体ごと〈出口〉へ運ばなくちゃいけなかった最大の理由は、ベルナルドさんはまだ生きていたからだったんだ。さすがに、ベルナルドさんにとどめを刺すことはできなかった」
「信じられん。ベルナルドが――。なら、なぜじいさんは黙っていたんだ?」
「これは、信じてとしか言えない。でも、ぼくは自分が真実を話していると自信を持っているよ。それと、おじさんが黙っていた理由は――」
「言うに言えんかった」
それはいまにも消えてしまいそうなほどか細い声だった。おじさんはいつかのように背中をまるめて膝を抱えていた。
「〈出口〉からベルナルドの首を出したあと、焦りのあまり予定よりもずっと早くにロープを手繰り寄せてしまったんじゃ。ところが、ロープを引いても手ごたえはなく、端がすぐに出てきてしまった。わかるかのう。〈出口〉の先は地獄のような場所じゃ。ベルナルドの首をあっという間に溶かしてしまうような場所だったんじゃ」
打ちひしがれたアントニオは、へなへなとひざから崩れ落ちた。
「じゃあ、兄貴の頭は」
その問いに誰も答えられなかった。
「まだ疑問は残っている。なぜ、ベルナルドの背中にナイフが残っていたんだ」
ファーゴは納得がいくまで座らないつもりらしく、おじさんを見下ろして聞いた。
「きっと、ベルナルドさんがそうしてくれって言ったんじゃないかな。彼はナイフが自分に死をもたらしたことを運命だったと信じたから。それは、そこにあることになにか意味があると考えたんじゃないかな」
アントニオはぐっと息飲むと、すぐに両の目から涙がこぼれ落ちた。
「あれは、おれが兄貴に送ったナイフなんだ。ファーゴと旅に出るって家を飛び出すときに。おれが送ったナイフを、兄貴は恨みを表しているのだと勘違いしていたんじゃ。だとしたら、だとしたらおれは」
うつむいて肩を震わすアントニオにファーゴが近づいていき背中をさすってやる。
「――これで終わりだよ」
ぼくの小さな声は暗闇に吸い込まれていった。
すべてが終わり、ほっとしたぼくをやわらかい光が包んだ。
「ピノキオ、おまえ」
驚いた表情のファーゴの言葉は轟音にかき消された。
これまでとはくらべものにならないほどの低くうなるような音だ。足もともすぐに揺れ出す。おとなたちが立っていられないほどに激しい。
「な、なんだ」
「〈排水〉じゃ」
「いや、揺れと音が〈入水〉よりも大きいぞ」
「じゃから、いままで以上に大きな〈排水〉じゃ」
すると、腹の中がすこしずつ傾ぎだした。
音と揺れは徐々に弱まっていったが、完全には止む気配はなく、物陰からそっと機会をうかがっているように続いた。足もとは着々と傾いていく。
おじさんが走り寄ってきて、ぼくの手をしっかりと握った。
「みんな、覚悟を決めろ!」
ファーゴの叫びが遠く聞こえたのは気のせいだろうか。
ぼくらは、じっと深い闇を見つめ、〝そのとき〟を待った。
*
【追記①】
いま、この小説を読んでいる人がいるのなら知っておいてほしいことがあるんだ。
はじめから読んだ人なら、ぼくらの身になにが起きたか知っていると思う。
クジラの腹の中なんて場所で、トレジャーハンターのひとりのベルナルドさんの遺体が見つかった。その遺体にはなぜか首から上がなかった。
この事件を解決すべく、ぼくは名乗りを上げた。
いちばん年下のぼくが、おとなたちを差し置いてなぜ解決しようとしたのか。
それは、ぼくが解決しなくてはならなかったからだった。
ぼくは、女神さまから嘘をついたり、事実と反することを話したりすれば、鼻が伸びる魔法をかけられていたんだ。
ぼくはジミニーの小説を読み返したとき、すべての真相を悟った。
だから、ぼくはみずからの言葉で推理を話さなくてはならなかった。
それは、おじさんが、大好きなおじさんが罪を犯したわけではないと証明するために。
複雑な事件ゆえに、一歩間違えばおじさんが犯人扱いされてもおかしくない。
事実、真相はそれに近いものだったからなおさらだった。
すべての推理を話し終えたとき、やわらかくてあたたかい光がぼくを包み込んだ。
わかるかい、〝あたたかさ〟を感じることができたんだ!
ぼくの話した推理は正しかった。そして、ぼくは女神さまとの約束どおり、真実を話す正直者と認められて、人間になれたんだ。
でも、〝そのとき〟はすぐそこにやってきている。
ぼくは傾き続ける足もとに気をつけて、〈出口〉の近くから空きビンを拾ってくると、ジミニーに手記を入れたらどうかと提案してみたんだ。
この追記を書き足してもらって。
揺れがまた強くなってきた。
もう、足にちからを入れていないといけないほど、傾斜もきつくなってきたよ。
この手記を読んだ人に知っていてほしいんだ。
ぼくは、この世の終わりのような、クジラの腹の中で人間になることができたんだ。
そして、頬を伝う涙の温度を知ることができたんだ。
どうかそれを知っていてほしい。
ピノキオ
(終)
腹の中 ちばな @auto_chibana
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