終章

終章

 夕日が空を橙色に染めるより早く、『酒と剣亭』は今日も今日とて賑わい始める。他のどの店よりも多くの人々がテーブルに座り、料理と酒が並ぶのを待っている。酒や料理、体から発せられる様々なにおい、人々の喧騒が店内からこぼれ、大通りへ行く人々を中へと誘う。


 今夜は遅刻せずに出勤したインノツェンツァは、舞台の上でフィオレンツォやウーゴと音合わせを終えようかというところで、何気なく店内へ目を向け、一角を見てぎょっと目を見開いた。


 マリオやルイージ、マリアはわかるのだ。彼らは時々この酒場を訪れているのだから。ノームの少年がいるのも、神官長の許可をもらい、非番のマリアに同行したのだろうと推測できる。


 だが、興味津々であることを隠しもせずきょろきょろと辺りを見回している、マリオの隣に座る小柄な少女はどういうことだろうか。いつもなら無駄に偉そうなマリオが疲れているように見えるのも、インノツェンツァは気になって仕方がない。よくよく見れば、少し離れたところに庶民の身なりをした見知った顔の青年がいて、小さく一礼してくれるではないか。

 大方、城下を歩きたいというかねてからの願いを彼女が強行しようとし、マリオが折れたというところだろう。そして青年は護衛といったところか。行動力がありすぎる妹を持った兄は大変である。


 苦労人へ向けるインノツェンツァの生暖かい視線に気づいたルイージが、にっこりと笑顔で手を振った。それでマリオに話しかけていた小柄な少女はぱっと顔を輝かせ、ルイージよりも激しく手を振ってインノツェンツァの名を呼び、慌てたマリオにたしなめられる。ノームの少年が、馬鹿じゃないのと言わんばかりの表情で彼女を見ている。

 愛らしい少女の声援にのって、常連たちもいつもとは違う調子でインノツェンツァを囃したてる。後ろを振り返ればウーゴもくつくつと笑っていて、フィオレンツォは頭が痛そうだ。とっとと始めてくださいとばかりに睨みつけてくる。

 恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら、インノツェンツァはヴァイオリンを構えた。


 クレアーレ神殿の神官長からの褒美として与えられた‘アルテ’と‘リベラルディ’を使いこなすのは、試奏をしたことがあるとはいえ、最初はいささか骨が折れた。‘アマデウス’や無銘の楽弓とは本体の色や腕にかかる重み、握った感触がまるで違っていたのだ。弾いてみても、癖が違っていて思うようにはいかない。腕に指に‘彼ら’を馴染ませるには、少々の時間が必要だった。


 インノツェンツァがとった拍子に合わせ、まずピアノがかき鳴らされ、間を置かずインノツェンツァとフィオレンツォが旋律を奏でた。定番の、踊りだしたくなるあの陽気な主旋律だ。手拍子が鳴らされ、熱気が増して周囲へ広がり、曲に込められた熱をますますたぎらせていく。それに煽られてインノツェンツァたちの気分も高揚して、指や腕、吐息に熱と力がこもる。


 手拍子とピアノとヴィオラを伴奏に演奏する中、インノツェンツァは演奏中の曲に、酒場中の色から生まれたたくさんの音が重なっていくのを聞いた。赤、橙、茶、灰白、緑に黄。毎日繰り返されているのに二度と見ることのない、そのとき限りの変化し続ける‘曲’だ。

 楽器が奏でる曲に合っているのか合っていないのか、よくわからない。演奏すること、場の空気を楽しむことに心を傾けているからか、普段より色の音は気にならない。酒場のざわめきの一つと同じだ。

 ただ、生命の躍動感を表しているという点では似ていると思った。


 曲調に気分が同化しているインノツェンツァは、ふと目の前の旋律を弾いてみたい衝動に囚われた。


 この複雑精緻な、今を生きる生命そのものの曲を奏でてみたい。きっととても素敵な旋律なのだ。謁見の間の暗くて重々しい旋律や建国の王の壮大な旋律よりも、ずっとインノツェンツァの好みに合っている。

 が、それをすれば後ろの二人は驚くだろう。間違いなくフィオレンツォに怒られる。演奏の熱に浮かされても残るわずかな理性が、インノツェンツァにそう警告してくるのだ。フィオレンツォに怒られるのは嫌だ。ウーゴも呆れた顔で苦言を言うだろう。


 だからインノツェンツァは、待つことにした。この曲の最後は、インノツェンツァのヴァイオリンで締めくくられる。あの数拍でなら、多少好き勝手しても二人に迷惑はかけまい。


 曲の終わりが近づき、ウーゴとフィオレンツォの副旋律も激しさを増していく。ほろ酔い加減の若い女が曲に合わせ、テーブルの間でスカートの裾をからげて踊っているのがインノツェンツァの視界の端に見える。

 最後の一小節まであと少し――――――――

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王様の旋律 星 霄華 @seisyouka

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