遠恋

奔埜しおり

遠恋

 キラキラ。そんな音が聞こえてきそうなほどの、目の前にある煌めき。

 赤青緑。真っ暗な夜道の中で、上から下までいろんな色に輝く家。左右に飛び跳ねるトナカイに、点滅するサンタクロース。小学生の頃、友達の家で行われたクリスマスパーティーからの帰り道に見た光景だ。

「すっごーい……。綺麗だね、香月ちゃん!」

 一緒にその家を見ていた彼が、興奮ぎみに私のコートの袖を握って、目の前の輝きに負けないくらいキラキラとした瞳で言ってくる。私はその家に見惚れながら、彼の言葉にこくりと頷いた。

「なんか……お城みたいだな!」

 昨日テレビで見たお姫様と王子様の恋のお話。それに出てきたお城も、こんな風に輝いて見えた。

「じゃあ、香月ちゃんがお姫様で僕は王子様だね」

 彼は元気いっぱいにそう言って、少し照れたような柔らかな微笑みでこちらを見る。

 ふわふわとした癖の強いこげ茶の長髪。白くて透き通るような肌にほっそりとした手足。クリっとして可愛らしい大きな瞳。

 はっきり言って彼は、一般的な女の子よりも美人だ。

 対して自分はというと、黒いまっすぐな髪を、邪魔だからと言う理由でベリーショートにしている。毎日の外遊びでよく日に焼けた肌は茶色い。

 初めて会う人には男の子だといつも勘違いされたし、親しい人からもそういう風に扱われた。事実、ケンカをすれば男の子よりも強かったし、お化けも虫も、何も怖いものなんてなかった。だから女の子として扱われるより、男の子として扱われた方が気が楽だった。

 男の子よりも強い私と、女の子よりも可愛い彼。

 女の子として男の子である彼に女の子らしさで負けるのには少しの悔しさがあった。だけど、これで二人のバランスがとれていると思ったらなんだかすごく嬉しくて、これでいいのだと私は納得していた。そして、これからもずっとこれが続けばいい、とそう思っていた。

「違うよ!」

 私が彼の言葉を笑顔で否定する。彼は、え、と首をかしげた。

「美晴君がお姫様で、私が王子様。私が美晴君を守るんだ!」

 二人一緒にからかわれるたびに、私は彼を守り続けてきた。王子様はお姫様を守るもの。だから私は王子様で、彼はお姫様。それが自分の中では、当たり前だと思っていたから、悪気なんてちっともなくて、すごく純粋な気持ちでそんな言葉が出てきたのだ。

「……今の僕じゃ、王子様にはなれないんだね」

「え?」

 だから、どうして彼の表情がみるみるうちに悲しげになっていくのか、なんですごく切ない声でそんなことを言うのか、当時の私にはわからなかった。首をかしげる私に、彼はなんでもない、と静かに首を横に振ると、にっこりと笑う。

「じゃあ、帰ろっか。ちょっと寒いし、早く帰らないとお母さんたちに怒られちゃう!」

 そう言って彼は、掴んでいた私の袖をグイッと引っ張った。本当はもうちょっとこの家を見ていたかったけれど、帰りが遅くなるのはダメだ。私や彼のお母さんたちに怒られてしまう。名残惜しいが、しょうがない。

「おう、わかった!」

 大きく頷いて、私たちは自分たちの家の方向へ歩き出した。



 幼いころの、大切な思い出。毎年、町がいろんな色に輝くたびに思い出す、今でも鮮やかなままでいる思い出。

 彼はこの次の日に、長かった髪の毛をバッサリと切ってしまった。ショックで何も言えなくなった私に、あの少し照れたような柔らかい微笑みで彼は言ったのだ。



――僕、君の王子様になってみせるね、と。





「……えー。というわけで、明日からは高校生活最後の冬休みだ。まだ受験の終わってない者、センター試験を受ける者、もう就職が決まっている者。いろいろいると思うが、羽目を外しすぎない程度に悔いのない冬休みを送ってほしい。くれぐれも、この時期に学校の評判を落とすようなことをしてくれるなよ。では、解散!」

 キーンコーンカーン……。

 学年主任の長い話が終わると同時に、授業終了を告げるチャイムが鳴る。学級委員の号令に従って全員起立し、礼をする。退屈な学年集会が終わった。明日からは待ちに待った冬休み。ざわざわと話しながら、皆様々な表情で流れに流されるようにして、冷え切った体育館の中から出ていく。私も流されながら、今年の冬休みはどうやって過ごそうか、と考えていたときだった。

「かーづきっ!」

 後ろから声をかけられて振り向く。そこには、短めの髪の毛を左下にまとめて束ねている、活発そうな女の子がいた。多木怜那。彼女とは小学生の中学年くらいからの付き合いで、私と同じ吹奏楽部に入っていた友人である。もう三年生なので、部活はすでに引退しているが。

「もう冬休みだねー」

「そうだねー……。怜那は部活に差し入れとか持ってく?」

「どうしよーねー。確かこの時期だと、アンサンブルコンテストの練習中だっけ?」

 そんな話をしながら歩いていると、後ろから肩を叩かれた。

「!?」

 突然のことに、驚いて思わず肩が跳ねる。叩いた手の主は笑いながら、私の前に出てきた。

「そんなに驚くなって、香月君」

 青島美晴。ふわふわの短いこげ茶の癖っ毛。昔より日に当たる回数が増えたせいか少しだけ色は濃くなったけど、それでもやっぱり白い肌。細い筆でえがいたような眉に、凛とした瞳。幼いころよりもだいぶ男っぽくなったが、やはり男装した麗人、と言う印象を受ける程度には、美人だった。

「いきなり肩を叩いてくるからでしょ! ていうか、香月君言うな!」

 ムッとして言い返すと、美晴はケラケラと笑う。本当に、昔の可愛らしい彼はどこに行ったのだか……。なんて思いながらも、驚いたのとはまた別の理由で、心臓がすごく忙しく動いていた。それこそ、こうやって大声で反論しないとばれてしまうのではないか、と思うくらい。深呼吸をして、なんとかそれを抑える。触れられた肩は、とても熱い。

「で、何か用?」

「今日、委員会で遅くなりそうだから、校門で待っててくれない?」

 今日も一緒に帰れる!

 嬉しさに顔がゆるみそうになるのを、私は慌てて必死に抑える。あくまで幼馴染として誘われているだけ。決して気になる異性だとか、そういう意味で誘われてはいないのだから。そう、自分に言い聞かせる。自分の言葉に少しだけ悲しくなるのは、きっと私は彼のことをただの幼馴染としては見ていないからだ。

「別にいいけど」

 我ながら、なかなかに不愛想な声と言葉だ。もっと可愛く返事を返せないものか、と心の中で自己嫌悪。『今日も一緒に帰れるなんて嬉しい!』とか、『委員会、頑張ってね!』とか……。きっとそう返せていたら、私は今頃、彼にとっての特別な存在としてその隣に立っていただろう。そんなことをもんもんと心の中で考えていると、前のほうから彼の名前を呼ぶ男子の声が聞こえた。

「美晴―! 先行くぞー!」

「今行くーっ! ……じゃあ、またあとで」

 彼は少し笑ってから片手を振ると、声の主の元へと小走りで進んでいった。その背中は人の波に消えていく。それをじっと見送ってから、ふと怜那がいたずらっぽい笑みを浮かべて私を見ていることに気が付いた。

「……なによ」

「いやあ? いつの間に二人はくっついてたのかなって」

「はあ?」

 にやにやと笑う怜那に、思わず間の抜けた声で返してしまう。

「だって恋人でもない男の子と二人で帰らなくない? 普通さ」

「ただの幼馴染だから! 別に一緒に帰ったって構わないでしょ」

 慌てて否定をすると、怜那はさらに笑みを深くする。

「えー?」

「大体! あんな女男に男としての魅力なんて一切感じないし!」

 楽しそうな怜那に、むきになって大声で返す。こういう反応をするから面白がられるのだ、ということはわかっているのに、やっぱりこういうからかわれ方をすると条件反射のようにいつもどうしてもこんな反応を返してしまう。

 本当は彼に男としての魅力を感じていない、なんてことはない。そうでなければ、さっきみたいに顔がゆるむのを必死で抑えることもないし、照れ隠しで不愛想な返事をしてしまうこともない。彼への気持ちは自覚している。だけどどうしても素直になれない。それは怜那も知っているはずだ。

「でも彼、すごく女の子にモテてるけど?」

「それは……確かに、そうだけど……」

 いろんなところで彼が告白されていたのを思い出す。それは休み時間になんとなく教室の窓から外を見たときだったり、教室移動の際中だったり、様々だ。一番すごかったのは、クラスの女の子が窓から思いっきり身を乗り出して、外にいた彼に大声で思いっきり想いの丈を叫んだ大胆告白だ。もちろんそのとき、彼も大声でその子に返事を返した。『ごめん、他に好きな子がいるから』と。その女の子がそのまま飛び降りてしまうんじゃないかとハラハラしたが、そんなことはなく、彼女は泣きながら笑顔でありがとう、と叫び、おとなしく自分の席に戻って泣きじゃくっていた。そのときはホッとしたものの、青春、と言う感じはするが、少し周りの迷惑を考えてほしいと思ってしまう。

 だけど同時に、うらやましくもあった。告白なんて私には到底できない。もしもフラれてしまったら? 彼はほかに好きな人がいるからと、いつもそう言って女の子たちをフッている。つまりそれは、その好きな人が私でなければ、今までのこの関係が壊れてしまう可能性が高い、ということ。臆病者の私はそれが怖いから、幼馴染と言う一番無難な関係に甘えている。

「そんな男の子を放課後独占しておきながら、魅力を一切感じない、とかどんだけ贅沢なのよ、君は」

「贅沢じゃないし……」

 唇を尖らせて言う私に彼女はため息を吐き、そして優しげに笑った。

「君さ、だいぶ恰好も言葉遣いも女子になってきてるんだから、自信持っていいと思うんだけど?」

 私のまっすぐに伸びた黒髪を指でいじりながら彼女は言った。幼いころベリーショートにしていた髪も、頑張って手入れをしたおかげか、今では綺麗に腰まで伸びてくれている。

「どういう意味よ」

「どういう意味も、こういう意味も。どこからどう見ても『美少女』だった彼がどんどん『男の子』になっていくにつれてモテ始めたのを見て、私に半泣きで『自分を女にしてほしい』って言いに来たのは誰――」

「あーあー! 聞こえなーい!!」

 両耳をふさいで大声で怜那の言葉を遮る。恥ずかしい記憶だ。できるのであれば彼女の頭からその部分だけ切り取ってしまいたいくらい。そんな私を見て彼女は楽しげに笑った。

「ていうかそれ、ずっと前の話でしょ!」

「彼に突っかかっていって、必死に他の女の子にとられないようにしてたのは誰だっけ?」

 私の必死の反論を無視して、彼女は楽しそうに私をからかってくる。

「もうやめてって!」

 これ以上何か言われたら、恥ずかしさで死ねる――!

 火が出そうなくらい顔を真っ赤にして必死で彼女の口を両手で塞ごうとすると、可笑しそうに爆笑されてしまった。そこまで爆笑しなくてもいいではないか。そう思い、思わず両頬を膨らめると、それに気づいた彼女は笑いながらごめんごめんと謝った。

「そう言えば三年になってからあんまり彼に突っかからなくなったけど、どうしたの?」

「だから突っかかってなんか――」

「彼が遠くに行くから?」

 言い返そうとした私の言葉を遮るようにして、彼女は言った。その静かに放たれた言葉に、ドキリと心臓が鳴る。図星だ。彼は四月から、関西のほうの大学に行く。それを知ってから、前までみたいに自分から彼に絡むことはしなくなっていた。彼から距離を取るためだ。彼のいない生活に耐えられるように。彼が私の知らない大切な人を作っても、笑っておめでとうと言えるように。それでもやっぱり、今日のように彼から誘われたりするとすぐにオーケーしてしまうのだが。

「……」

 黙ってしまった私に、また彼女はため息を吐く。

「諦めるの?」

「……」

「言っとくけど、ここで自分のとこに縛っとかないと、他の女の子にとられるよ?」

「……わかってるし」

 俯いてポツリとつぶやくと同時に教室に着いた。彼女は隣のクラスなので、ここでお別れだ。

「じゃ、まあ頑張んなよ?」

 そう言って私の背中を軽く叩くと、彼女はニッと笑って自分の教室に入っていった。それを見送ってから、ため息を吐いて私も教室に入った。





 私は何度目かわからないくらいの白い息を、自分の両手に吐いた。指先がほんのりと赤くなってしまった手をすり合わせ、まだ来ないのか、と校門の外から校舎の方を見た。

 グラウンドからはサッカー部の走り回る姿。体育館からはバスケ部の掛け声。五階建ての校舎の上のほうの階からは、様々な楽器の混ざり合った音が聞こえてくる。半年くらい前は自分もあの中にいたのだと思うと、少し不思議な気がする。そして同じ校舎の三階。電気のついた教室。三階多目的室。たぶん、彼はあの教室の中にいる。彼はクラス委員をしていた。そのクラス委員のミーティングは、大体あの教室で行われていたから、恐らく間違いないだろう。あとどれくらい待ったら終わるんだろう、なんて思いながら私は校舎から視線を外して、静かに校門の横の塀にもたれかかった。



『言っとくけど、ここで自分のとこに縛っとかないと、他の女の子にとられるよ?』

 今日の怜那の言葉が、頭の中で蘇る。

 わかっている。彼がまだここに、私のそばにいてくれるうちに思いを伝えなければ、きっともう、伝えられる機会は来ない。わかっているのだけれど、伝えたところで彼が首を縦に振ってくれるとは限らない。もしも彼が首を横に振ったとき、私は普段通り笑っていられるだろうか。その次に会うとき、私たちは今までの私たちのままでいられるのだろうか。そんなことを考えていると、足が震えてきた。

「無理だよ……」

 そこまで私の心は強くない。首を横に振られたら泣いてしまうだろうし、その次に会うときに今までのように笑えないのであれば、それはそれまでの私たちとは違う私たちだ。

――ごめん、怜那。やっぱり私にはできない。

 心の中で謝罪の言葉を呟きながら、自分の髪の毛を一房掴んで目の前に持ってきた。枝毛も、痛んだ毛もない艶やかな髪。怜那に手入れの方法を教えてもらって、頑張って手に入れた、綺麗な黒髪。



『なんか、女みたいになってきたな、お前』

 そう言われたのはいつだったか。たぶん、高校に入る前の春休みだった気がする。彼はちょうど今の私のように、私の髪の毛を一房掴むと自分の目の前に持って行って、まじまじと見たあとにそんなことを言ったのだ。まだ長さが肩より少し下くらいだったため、彼の顔はすごく近かった。それこそ、お互いの息が当たるくらいの距離だ。もちろん心臓はバクバクで、口から飛び出しそうなくらい自己主張をしていた。真っ赤な顔を隠すために、私は俯いた。

『そ、そう?』

『うん。なんか違和感』

『違和感って何よ、失礼な。私は女だよ?』

 きっとあのときうつむいていた私の顔はすごくゆるんでいたに違いない。それくらい嬉しかったのを、今でも覚えている。

 急に男の子になって、気づいたら友達が増えていて、女の子とも普通に会話をしていた彼。ただでさえあまり人と話すのが得意ではなかった彼が話すことができた女の子は、ちょっと前まで私だけだった。なのに、どんどんと女の子と話せるようになっていって、しかもその女の子がみんな可愛くて。いつか私は見捨てられてしまうのではないか、と不安に思っていたのだ。だから私は怜那にお願いして、頑張って『女の子』になった。彼のそばにいられるように。ちょっとでも、彼の隣にいるのにふさわしい女の子になるために。



「お待たせ」

 すぐ後ろから聞こえた声に驚いて振り向くと、彼が塀の上に肘をついてこちらを見ていた。

「いつの間に……」

「ついさっき」

「声かけてよ!」

 お前は忍者か! なんて脳内で突っ込んでみる。考え事をしていたからとはいえ、好きな人がすぐ近くに来ていたのに全く気が付けなかったことが、少し悔しい。

「今かけただろ? さ、帰ろう」

 くすくす笑いながら、彼が校門を通ってこちらに歩いてくる。その余裕ぶった動きが、少し腹立たしい。同時に、彼と目が合ったときから鳴りやまない自分の鼓動にも、腹が立った。



『お前ら、名前と性別逆でお似合いじゃないのか』


 私が彼と知り合ったのは、その一言がきっかけだった気がする。幼稚園の年長くらいの頃に、身体が縦にも横にもデカい男子に言われた。

 私の名前は香る月、と書いてかづき、と読む。そして彼は美しい晴れ、と書いてみはる、と読むのだ。確かに性別が逆な気もする名前だが、これで合っている。当時はこのことでからかわれるたび、彼はそんなことないと大声を上げて泣き、それを見た私は怒鳴りながら奴らを追いかけまわしていた。

 あの頃は泣いている彼を見るたび、そんなに私とお似合いと言われるのが嫌なのか、と悲しく思っていたものだ。

『弱い自分と一緒に香月がからかわれているのが申し訳なくて、嫌だったんだよ』

 少し照れながら彼が教えてくれたときはすごくホッとしたのを覚えている。気が緩んで思わず笑ってしまった私に、彼はすごく不機嫌な顔でデコピンをしてきたんだっけ。手加減なんてものを知らない時代だったから、すごく痛かった。

 彼とは卒園以降も小中高と同じ学校で、いわゆる幼馴染と言うやつだった。ひょっとしたら大学も、その先の就職先まで一緒かもしれない。あわよくばそのまま付き合って、結婚して……なんて考えたこともあったが、そんなことはなかった。出会いがあるのなら当然、別れもある。彼は数か月後、私のいるこの地とは別の地で、私とは別の大学で、私とは別のことを学ぶのだ。それを考えると胸が痛くなってしまう。

 一度だけぽつりと、私と同じ大学にしようかな、と彼が呟いたことがある。私はその呟きを、聞かなかったことにした。口を開いたら、きっとそうしてほしいと言ってしまっていたから。そんな厚かましいこと、恋人でもなんでもないただの幼馴染である私が言っていいことではないから。それに、私一人のためだけに自分の学びたいことを犠牲にしてほしくはなかった。



「もう、明日から冬休み、か……」

 彼の整った唇から、白い息とともにしんみりとした言葉がこぼれた。私はただ、こくりと頷く。視界の端で、赤いチェックのマフラーに挟まれた黒髪が、私の動きに合わせて揺れた。彼とこうやって話せるのも、あと少ししかない。そう考えると今までのことすべてが、すごくかけがえのない大事なものに思えてくる。

「そういえばさ」

 彼が口を開く。それに反応して、彼のほうを見る。

 彼の横をバイクが一台通って行く。それと同時に彼が何気なく、私の歩調に合わせて車道側を歩いてくれていることに気が付いた。幼稚園の頃は私が彼を守るほうだったのに、いつの間に立場が逆になっていたのだろう。髪を切ってから、彼は変わった。中学に入る前には、なよなよとした、でもすごく穏やかな口調で話していた彼はいなくなり、代わりに穏やかさは残っているものの男の子なんだな、という口調で話す彼がいた。その頃には、彼は家の中で静かに遊ぶことはなくなり、家の外でいろんな人に混じってボールを追いかけまわしていた。あんなに頼りなさげにヒョロッとしていた身体も、高校に入るころにはだいぶガッチリして筋肉がついていた。水泳の授業のときにちらりと見えた半身に思わず驚いてしまったのも、覚えている。すべてがすごく昔に感じるのと同時に、すごく最近のようにも感じ、時の速さが怖くなった。

「田中に彼女できたの、知ってた?」

「えっ? あ、ああ。二年の鈴木稚奈ちゃんでしょ? 部活一緒だから、回ってきた」

 彼の言葉に我に戻り、慌てて返す。そんな私を彼はいぶかしげに見てきた。

「どうかした?」

「ううん、なんでもない!」

「そう? それならいいけど……」

 彼は少し首をかしげる。

「で、それがどうしたの?」

 話の矛先を私から彼へ戻すために、彼の話を促す。

「田中にクリスマスに一緒に遊ばないかって、少し前に誘われてたんだけどさ。彼女できた途端デートがあるから、とか言って断ってきたんだ。酷くない?」

 そう言って、彼は大げさに肩をすくめてみせた。田中は彼と同じサッカー部の部員だ。彼と田中は何かあるたびに二人でよくつるんでいたから、私も見かけたら声をかける、くらいには親しい。大の本好きで、時間があれば本を読むし、休み時間はたいてい図書室、休日は図書館か書店にいることが多いそうだ。

「男二人でクリスマスの寂しさ紛らわそうとするって、悲しいわね」

 さっきまでの考え事のせいか、少し言葉がきつくなってしまう。少しムッとした表情で彼がこちらを見た。

「うるさい。どうせお前はぼっちで過ごす予定だったんだろ」

「ところがざんねーん。加藤君に一緒に過ごさないかって誘われていたのです」

 私が少し胸を張って言うと、彼が黙り込んだ。何の反応もないのでどうしたのだろう、と顔を覗き込むと、すっと素早く顔をそらされた。あ、もしかして引っかかったか、なんて考えてみる。

「……で、返事はどうしたんだよ」

 強張った声で訊いてくる彼に、堪え切れずに吹き出してしまう。やっぱり引っかかっていたようだ。わかりやすいところはちっとも変っていない。突然吹き出した私を、彼は思いっきり怪訝な顔で睨む。

 神様。どうか今だけ、うぬぼれさせてください。彼にとって私は、少なくとも自分以外の男性と一緒にクリスマスを過ごしてほしくない程度には大切な女性なのだ、と。

 少しして笑いが収まってから、私は口を開いた。

「もちろん、丁重にお断りしたけど?」

「……それ、結局ボッチで過ごそうとしたってことだよな」

「まあね」

 さっきよりもゆるんだ声に、もしかして安心したのかな、なんて彼の気持ちを勝手に解釈してみる。そうだったら、嬉しいかもしれない。

「心配した?」

「いや、加藤も物好きだなと思っただけ」

 にやにやと笑いながら彼に問うと、いつも通りの調子で彼もニヤリと笑いながら返してきた。

「ひっどーい。きっと美晴ちゃんったら一人寂しくクリスマスを過ごすだろうから、付き合ってあげようと思ってせっかくの出会いを捨ててきたのにー」

 彼の前に出て後ろ歩きをしながらその顔を覗き込む。そしてちょっと可愛い子ぶった声で調子に乗ってそう言うと、彼がムッとした表情を見せた。

「その声やめい、気色悪い。っていうか、美晴ちゃん言うな。俺は男だ香月君」

「美晴だって! 私は女だし!」

「あーそーですか」

 私もムッとして返すと、彼は片手を私の頭の上に乗せて思いっきりワシャワシャと髪の毛を撫でまわしてきた。突然のことに対応できず、少しの間だけ私の頭もその動きに合わせて揺れた。

「ちょっ! やめて! 髪の毛ぐしゃぐしゃになる! 静電気が!」

 鼓動がすごく早くなっていくのを無視して両手で頭上にある彼の手を抑える。すると、彼はおとなしく髪の毛を撫でまわすのをやめてしまった。やめてと言ったものの、そんなにすぐにやめられてしまうと少し寂しい。そう思ってもやもやしていたら、上からため息が聞こえた。驚いて彼を見上げると、彼は何かを考えているような瞳でずっと遠くのほうを見ていた。彼の身体はここにあるのに、それ以外はすべて他のところにあるような、そんな瞳。

「美晴……?」

 こっちを見てほしくて、彼の名前を呼ぶ。

「……ここでこうしていられるのもあと数か月、か」

 だけど視線が交わることはなく、彼がぼんやりと呟いた。その言葉に何も言えず、私は俯いた。するっと、彼の手が私の頭から離れていく。私はそっと静かに両手を下した。なにか言わないといけないような気がして口を開くが、結局何を言えばいいのかがわからなくて、開いた口を閉じた。

 重い沈黙が落ちる。一緒に、足取りも重くなり始めたときだった。



「ねえ、ママ! トナカイさんがいるよ! サンタさんも!」



 すれ違った幼稚園児くらいの女の子の少し舌足らずな声に、ふと顔を上げる。女の子は笑顔で、とある一軒家を指さしていた。その家はこの辺では少し有名な家で、毎年気合いの入ったイルミネーションで家を飾っては、私たちを楽しませてくれている。女の子の母親も、女の子の嬉しそうなきらきらとした笑顔を見て微笑みながら頷いた。女の子と繋いでいないほうの手には、大量の買い物袋が提げられている。きっとクリスマスのごちそうの材料なのだろう。

「そうね、綺麗だね」

「うん! きらきらしててお城みたい!」

「ふふ。確かにお城みたい」

 そんな会話をしながら、親子は去っていった。私はその二人の歩いていった方向を見て、昔のことを思い出して少し微笑んだ。

「お城みたい、って香月も言ってたな、そういえば」

 その言葉に驚いて横を見る。彼は懐かしそうに目を細めて、その家を見つめていた。足は、止まっていた。

「私もそれ、覚えてる」

 驚いた表情で私たちは顔を見合わせて、そして笑った。ああ、彼がちゃんと私を見ている。ここにいる。

「確かあのとき、私が『お城みたい』って言ったら、美晴ったら『じゃあ、香月ちゃんがお姫様で僕は王子様だね』って可愛いことをすごい笑顔で言ったんだよね」

「で、お前はすぐに『美晴君がお姫様で、私が王子様。私が美晴君を守るんだ』って、その可愛いことをすごい無邪気な笑顔でぶっつぶしたんだけどな」

 私がそのときを思い出しながら言うと、彼はふふっと笑いながらそう返してくる。

「そうだったっけ?」

 本当は覚えているが、なんとなく申し訳なくて知らないふりをした。女の子らしいと言われることにコンプレックスを抱いていた彼にとって、とても残酷な一言だったことが今の私にはわかる。

「うん。あのあと俺、家帰ってすごく泣いた」

「ごめん。でも、体力的に今はちゃんと王子様になれるんじゃない? 顔はあれだけど……」

 幼い頃は同じ目線だった彼を、今は見上げる。彼ははあ、とため息を吐いた。彼の右手が近づいてきて、ぺちっと私のおでこが鳴る。

「いてっ」

「そこ、否定しない」

 拗ねたように言う彼が可愛くて、私はニッと笑った。

「大丈夫! 私、強気なお姫様大好物だから!」

 わざと明るい声でそう言うと、じろりと彼ににらまれる。

「もう一発食らっとく……?」

「ゴメンナサイ」

 さきほどのデコピンは、おふざけだったのかそこまで痛くなかったが、本気のデコピンは凄く痛い。あの痛みは思い出の中だけでいい。

 私が謝ると、ふっと彼は笑って、きらきらと光るイルミネーションを見つめた。私もつられてそちらを見る。

「なんか、あれだな……色々と懐かしいな」

「ね」

「……あーあ。ここともお別れかー」

 ゆっくりと伸びをしながら、何かをしまい込むようにまたそう言って、彼は歩き出した。私もそれについて行く。

「まだあと数か月あるでしょ」

「あとたったの数か月しかない」

「そんなふうに惜しむならさ」

 ピタリ。私は俯いて立ち止まった。彼も少し前まで進んでから立ち止まって、こちらを振り向いた、気がする。



 どこにも行かなければいいじゃない。



 口から出かけた言葉をすんでのところで飲み込んだ。そんなこと、言ってはダメだ。彼を困らせてしまう。

「……またあっち行ってからもちょくちょくこっち来ればいいじゃない」

「まあな」

 なんとか言葉を紡ぎだすと、彼は思案顔で呟くように返事をした。まただ。彼が、ここにいない。一緒に入れる時間は残り少ないのに。あんなに惜しんでるのに。なんでそういう風にどこかへ行ってしまうのだろう。そういう態度をとられるのは、はっきり言って、寂しいし、辛い。

「大体、関西のほうの大学受けるって言ったの、美晴じゃん」

 いじけた言い方になってしまうのはしょうがない。こんな言い方になってしまうような態度をとる彼が悪い。そうだ、全部全部彼が悪い。

「なーにいじけてんの?」

「いじけてない!」

 勢いよく顔を上げて彼を見る。自分で思っていた以上に大きな声が出て、自分でびっくりしてしまった。それは彼も同じだったようで、目を真ん丸にして私を見ている。

「ご、ごめん……」

 慌てて誤ると、彼は優しく微笑んで、私の頭をポンポンと撫でてくれた。優しい手。きっとこれまでもこの先も、彼にこういう風に撫でられる女の子、私しかいない。そう思いたい。

「大丈夫、気にしてないから。まあ、学びたいことが学べて設備が一番充実している大学が、あそこしかなかったし。なんなら香月も来る?」

 軽い口調で言われたが、そんなの全然無理に決まっている。偏差値が私より十も上の大学なのだから。美晴には内緒だが、一度だけ模試で美晴の志望している大学を書いたことがある。結果はもちろん、散々だった。美晴のほうが頭がいいのは知っていたが、あまりの差に茫然としてしまったのを覚えている。

「無理。っていうかまず、私もう私大の推薦受かってますから」

「そういやそうだな」

 彼はそう言ってまた何かを考え始める。私がそれをじっと見ていると、視線に気づいたのか、彼が私を見た。よかった。今度は遠くに行く前に気づいてくれた。

「なに?」

「最近よく考え事してるよね。何考えてるの?」

 最近ずっと気になっていたこと。彼の目をじっと見つめる。

「それは……」

 彼が言いにくそうに目線を泳がせた。私は立ち止まって、彼のコートの袖を力強くつかんだ。同時に彼も止まる。

「香月、いきなり引っ張らな――」

「答えて」

 強い口調で言うと、彼は一瞬迷うような表情を見せた後、諦めたように溜息を吐いた。そして私をじっと見る。普段見せないような真剣な視線に、鼓動が高鳴ったが無視をした。

「香月って、遠恋に興味、ある?」

 予想もしていなかった問いかけに、一瞬きょとんとしてしまった私は、小さく首をかしげた。

「遠恋? 遠距離恋愛?」

「そう」

「いきなりなんで……」

 そう言うと、察しなよ、と睨まれた。睨まれる理由がわからず、頭をフル回転させて一生懸命思考を巡らせる。なんでここで遠距離恋愛、なんて単語が出てきたのか。どうしてそれに私が興味あるのか訊いてきたのか。考えて考えて考えて考えて――……。


 あ、とひらめいた。彼はもしかしたら……。それに気づくと、吹き出さずにはいられなくて、声を上げて笑ってしまった。彼が思いっきり不機嫌な顔でこちらをさっきまでよりも鋭い瞳で睨んでくる。でも彼の真っ赤な両頬を見ればそれが照れ隠しであることがわかるから、笑い声はさらに大きくなるだけだった。

「そんなに笑うことないだろ……」

「いや、だって、そんな、言い方、おかしいでしょ。普通に、言えば、いいのに」

 笑いで息も絶え絶えに言うと、彼の顔はさらに不機嫌になる。

「で、どうなの」

 笑いが収まってだいぶ息が整ってきたタイミングで、彼が問いかけてくる。リンゴみたいに真っ赤な、でもすごく真剣な表情をした彼。少し下に目を向けたら、彼の手が震えているのがわかって、私は少し微笑みながらその手を握った。ぴくっと彼の手が飛び跳ねたが、すぐに震えとともにそれも収まっていく。それと一緒に、私の中にあった迷いもなくなっていく。きっとそれは、彼が私と同じ気持ちだということに気づいたから。

 私は深呼吸をしてから口を開いた。

「興味は、ないよ」

 私の言葉に彼は一瞬固まったのがわかった。

「そう、か……」

 無理やり絞り出したような、情けない声。それを聞いて、少しの罪悪感を感じた。

「だって遠恋だと相手が浮気してないかな、とか、いつ自然消滅しちゃうんだろう、とか、そばにいれなくて寂しいな、とか考えちゃうでしょ? 美晴との関係がすごく不安になるなんて、私は嫌」

 早口にそう言うと、より強く彼の両手を握りしめて彼の顔を覗き込んだ。そして驚いた表情をした彼の、澄んだ瞳をじっと見つめる。この思いが、どうか彼に伝わりますように。そう祈りながら。

「だから私は、ずっと待つよ。美晴が、私の近くに戻ってきてくれるまで」

 へへへっと笑うと、彼も安心したような、嬉しそうな表情で笑った。それが嬉しくて、なんだか恥ずかしくて、私は俯いた。

「……迎えに、きてよね」

「……うん」

 ギュッとコートを掴んだ手に力を入れる。今度は何も、文句は言われなかった。

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