反魂香

蒼海すばる

第1話 反魂香

ゆらゆら…ゆらゆら…。

真白に光る月が、波間を漂っていた。

空の青とも違う、海の碧の上に浮かぶ月。女は、ただただその景色をぼうっと眺めるともなく眺めていた。

その黒目がちな瞳には、光は映ってはいなかった。

────・・・闇───。

そう形容するのが一番近いようなそんなような暗い瞳だった。

女の目の前には海が、海と月があった。

だが、女はそれを見てはいない。

女が見ているのは過去。

愛しい男との思い出。


春の、満開の桜の木の下で出会った。

運命的な出会い、とはこのことを言うのだろうか…。いや、あれはまさに運命だった。私も彼も、出会ってすぐに恋に落ちた。


彼とはたくさん、色んなところへ行った。


躑躅つつじの杜。菜の花畑。

小鳥のさえずりの白樺林。

そして…この美月みつきの海。


私はここで彼に、あの人に…。


『結婚してくれ、美月みづき


幸せだった。あの人と過ごした時間、全てが。

今でも彼が愛おしそうに私の名を呼ぶ声がする。

『美月』と…。

でもその声は、現実のものじゃない。

私の中の記憶が彼の声を思い出しているだけ。


だって、彼は…。


ゆらゆら…ゆらゆら…。


「お嬢さん、何かお悩みのようだの」

ふ、と。女のそばに一人の年経た法師が立っていた。女は法師を一瞥するとまた、海へと視線を戻した。

「…別に、悩んでなどいないわ。」

「では、何かお困りのようにお見受け致すが?…拙僧はただの法師ではなくての。ちと、訳ありでな。」

「……厄介ごとはごめんよ」

「まあ、まあ。そうつれなくせんでも、良いではないか。…お嬢さん、中国の故事に〖反魂香はんごんこう〗という物があるのを知っていなさるかね?」

「はんごんこう?」

今まで海へ向けていた瞳が、僅かに光を宿し老法師へと視線が向けられた。

「中国は唐の時代の皇帝が、道士に霊薬を作らせた。それが〖反魂香〗。この香は煙の中に死人の姿を映すという。」

「死人の…姿…」

女の瞳が、揺らいだ。

「真かどうかは分からない。真かもしらんし、真じゃないかもしらんがの。…その〖香〗、お嬢さんにわけてやろうかと思ったんじゃ。」

と、老法師は言った。


不思議な法師だった。

身なりは法師然、と言ったふうだが雰囲気が普通の法師とは違う気がした。

法師は女に「どうするね?」と問うた。


死者の姿を映す〖反魂香〗。

彼の姿も映してくれる、だろうか…。


彼は、数週間前に結核で亡くなった。

病魔は少しずつ二人の関係を蝕んでいき、終いには彼を女から奪い去ってしまった。


たとえ話せなくても、会えるだけでいい。

あの人に会えるならば…。


「その〖香〗、ください」

法師はニンマリと笑った。

そして、女に約束させた。

「〖香〗を焚くのは、必ず月のある夜にする事じゃ。間違っても、新月の夜に〖香〗を焚いてはならん。」

「なぜ?」

「………新月の晩は、こちら岸とあちら岸の境が曖昧じゃ。故に、新月の晩に焚けば引き摺られ、彼岸の世界の者になってしまう。」


気をつけなされ。ゆめゆめ、忘れてはならぬぞ。


老法師はそう言って〖香〗を渡すと、女の元から去っていった。


女は次の日の晩、〖香〗を焚いた。

今まで嗅いだ香りのどれよりも幻想的で、幽玄なその香りに目を細めた。

そして、次第に香炉の中から立ち上る煙の中に愛しいあの人が、生前と何ら変わらぬ姿でいた。


「ああ、やっと会えた…。会いたかった……」


女は恍惚とした表情で男の元へと歩いた。

男は愛しそうに女を見つめる。

ただただ、見つめる。


女はそれからというもの、夜毎に〖香〗を焚き男との逢瀬を楽しんだ。

次第に法師との約束も忘れ、〖反魂香〗の香りと男の幻想に魅入られていった。


そしてついに、新月の晩。

此岸と彼岸の境が曖昧な夜。

女はいつものように、男と…男の幻との逢瀬のために〖香〗を焚いた。

香りが立ち込め、煙が昇る。

いつものように、男が姿を現す。


「ああ、愛しのあなた…。愛してるわ…」

『僕モ、アイ…シテ、ル、ヨ……。ミヅ…キ…』


返事をしたその声は、生前の男の声だった。

女は嬉しくなり、恍惚と閉じていた瞳をぱっと上げ男を見た。


「……………え…?」


ごふっと、女の口から赤い、紅い、血が流れでた。

男は依然として、煙の中で愛しそうに見つめている。

だが、その部屋には女と男の幻の他にいた。

鬼、生首、女の顔にムカデの身体をしたモノ、その他異形の数々…。俗に言う、無数の魑魅魍魎ちみもうりょうの類。女の腹部には、ミミズに似た姿の、頭(?)に口が一つしかない妖が食らいついていた。


その妖を皮切りに、次々に女の身体は喰らわれていく。

ごりごり、ばきばき、じゅるじゅる…。

ついには女は髪の毛一本残さず、魑魅魍魎に喰らわれて跡形もなくなってしまった。


鬼や妖、異形のモノらに女が喰らわれているあいだも男はただただ愛しそうに、見つめていた。

かつて愛した女が喰らわれていくところを。


「……だから、あれほど言うたのに。『ゆめゆめ、忘れてはならぬぞ』と。」

老法師が、美月の海の砂浜でぽつりと、呟いた。

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反魂香 蒼海すばる @sora-aomi_steller0531

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