告解

吾妻栄子

告解

「今日は顔色が良くないようだね、マルタ」

 窓から差し込んできた春の柔らかな光を背に、私は苦心してさりげない声を出す。

 音を立てないように息をふっと吸い込むと、朝方念入りに掃除したはずなのにどこかほこりっぽい。

 ほのかに薔薇の香りが匂う気がするが、一昨日おととい目にした時にはまだつぼみだった通りの花がもう開いたのだろうか。

「神父様、お分かりですか」

 目の前に座す若い娘の水色の瞳に、戸惑った様で、その実どこか嬉しそうな光がきらめいた。

「あたし、最近、よく眠れなくて」

 長い睫毛まつげがしばたく大きな目の下に、目を凝らすとそれと分かる程度にうっすらとくまが浮いている。

「それはいけないね」

 いけないと思いつつ、ベッドで悩ましげに寝返りを打つマルタの寝巻き姿を想像してしまう。

 一昨年に母親を亡くしてから、病気で寝たきりの父親の世話をする、十七歳のこの娘は、ここ最近、ひどく艶めいてきた。

 身に着けているものは変わらず質素だが、体つきはふくよかに丸みを帯び、表情には今までの生真面目で信心深い少女のそれとは異なる何かが漂うようになっている。

 しかし、次の瞬間、薄紅色の花びらじみた娘の唇から零れ落ちた一言が想念を打ち砕いた。

「ある方の事を思うと、眠れないのです」


*****

 日の暮れなずんだ外を歩くと、春とはいえ夕方の風は思いのほかひやりとしたものを含んでいる。

 今日は、一日、マルタの告白を受けた衝撃を引きずって過ごした。

 妻のある男に恋心を抱くようになり、道ならぬ思いと知りつつ、断ち切れないのだという。

 告解室で色恋沙汰の懺悔に耳を傾けるなど今更珍しいことではない。

 が、幼い頃から見知っていた教区民の、特に彼女のそうした話は聴きたくなかったと、現実に耳にしてしまった今、改めて思う。

 男の方では妻を一途に愛しており、他の女を寄せ付ける余地はないとマルタが話してくれたのがせめてもの救いだ。

 ほっと息を吐いて、道の脇に生えた薔薇の頭を撫ぜる。

 辺りが薄暗いので目でははっきりと確かめられないが、まだ固い蕾だった。

 何だかんだ言って、まだ彼女は子供だ。

 この街の司祭になってかれこれ十年余りも経ち、三十を過ぎてしまった私より、一回り以上も下なのだ。

 聞く限り、相手の男もかなり年上のようだから、過ちを犯さないだけの分別は持ち合わせているだろう。

 ぼんやりしている暇はない、まだ寝る前までやることが残っていると自分を追い立てて、礼拝堂に戻る足を早めた。


*****

「もう、よこしまな思いは捨てたかね」

 ただ座っているだけでも滲んでくる汗を拭いながら、私は娘に再び問う。

 あの告白から三ヶ月余り、毎週のこの時間は彼女と向き合っているが、いつもその時間を心待ちにして迎え、体の奥がじりじりするような苛立ちと失望を募らせながら終える。

「邪なんかじゃありません」

 マルタは潤んだ目で反駁はんばくする。

 その赤くなった白目と桃色に染まった目のふちに、腹の底がカッと燃え上がる。

「罪なんだ!」

 パリサイびとに姦通を問われた女もあるいはこんな顔をしていたのかもしれないと、私を見上げる若い娘に目を注ぎながらふと思う。

「そもそもその男には、深く愛する妻がいるのだろう?」

 この台詞はこれで何回目かと呆れつつ、「妻」の部分に力を込めて再び問いただした。

「知っていても、あたしには、どうしても思い切れないんです」

 マルタは触れればぽろりと涙の零れ落ちそうな瞳でこちらを見据えたまま、頑なに首を横に振る。

「父さんがあんな風になって、毎日辛くて押しつぶされそうだったけど、その人だけがあたしの心の支えになってくれた」

 お前がまだ人形遊びしていた頃からずっと近くで見守っていた私は、味方ではなかったというのか。

 彼女の肩を掴んでそう叫びたくなる衝動をぐっと堪えて、告げる。

「諦めるんだ」

 口に出して言ってみると、思ったよりも、ずっと冷酷に響いたが、もう仕方がなかった。

「そうですよね」

 相手は打ちのめされた風に俯くと、これまでと打って変わって寂しい声を出す。

「父さんももう長いことないのに、あたしときたら自分のことばかり」

 啜り上げると、まるで汚れが染み付く前に拭き取るかのように、マルタは手の甲で素早く両の目を拭った。

「そんな女、振り向かれなくて当然だわ」

 返事をする前に、彼女は立ち上がって行ってしまった。

 後には、もう散ったはずの薔薇の香りが馥郁と残った。


*****

 少しでも夜風に当たろうと、寝巻き姿のまま礼拝堂の外に出た。

 扉を開けた瞬間、ふわっと生温かい空気に包まれ、一歩一歩路地へと踏み出すたびに暑さがむしろ増していく。

 見上げる空には、皮を向いた林檎のように黄色い月がおぼろに光っていた。

 今日は散々な一日だった、と、輪郭の曖昧な月を眺めながら思い出す。

 マルタの後には、靴屋のおかみさんの子育ての愚痴をいつも通り聴いてやって、ヘマをやって落ち込む鍛冶屋見習いのパウルを元気付けて、パン屋のヤンセン親方を笑顔にして帰したまでは良かった。

 しかし、日ごろは教会に姿を見せない伯爵が急遽やって来た時には、もう疲れ切っていた。

 相手が殊勝に懺悔しているようで、その実、どこか得意げに、年若い女中に「誘惑されて」手を付け、孕ませてしまったので悩んでいると語った時、何かが自分の中で切れてしまった。

「それは若い娘に誘惑されたのではなく、あなたに邪な気持ちがあったからこそ、過ちを犯したのでしょう」

「あなたこそ妻とした女性を裏切ったばかりでなく、年若く未熟な相手を堕落させた張本人です」

 伯爵はすっかりご不興になってお帰りになった。

 あの方に正面きっての批判は禁物だと重々承知していたはずなのに。

 まあ、どうせ生まれてくる子をどこか近隣の街の修道院に預けたいとかそういう相談だろうから、近々またいらっしゃるはずだ。

 大きく息を吐き出して、改めて街の家々が並ぶ方に目を向けると、真っ暗であった。

 こんな時刻に起きているのは物盗りと私くらいだろうと自嘲してから、マルタも眠れぬ夜を過ごしているはずだと思い当たる。

 こちらが何度諭しても、あんなにも強く断ち切れぬ思いを口にしていたのだから。

 父娘が暮らす家の辺りに目を凝らしても灯り一つ見出せなかったが、立ち並ぶ家々の屋根の黒く先尖った影を眺める内に、暗闇の中で悶えうごめく彼女の肢体がまざまざと浮かび上がってきて、思わず背筋がぞくりとした。

 我知らず手を当てた胸は、皮膚を破って飛び出しそうなほど激しく鼓動している。

 私は、おかしい。

 並び立つ家々に向かって走り出したい衝動を振り切るように礼拝堂に駆け込むと、扉を堅く閉ざした。

 ドン!

 ドン!

 自分で錠をした扉を力いっぱい叩くと、冷たい感触が拳に当たる。

 ドン!

 ダンッ……。

 何をしているんだ、私は。

 隙間なく閉め合わされた扉に抱きつくように頬を押し当てて持たれかかると、一人泣きながら笑い続けた。

 礼拝堂の奥にそびえ立つ、白い石膏のマリアに背を向けたまま。


*****

「この街を、出る事にしました」

 窓を閉めてもふとした隙間から冷めた秋風の忍び込む告解室で、マルタはしめやかな声で告げた。

「父ももう亡くなりましたし、これ以上ここにいると、あたしは罪を犯してしまいそうで」

 黒い喪服を纏った彼女の顔は、日陰に積もった雪のように青白かった。

「その方が良いだろうな」

 私はキリキリと痛みの治まらない胃に堪えつつ頷く。

 これ以上、他の男への思いを口にする彼女を目にしたら、こちらも恐ろしい過ちを犯してしまいそうに思える。

「神父様」

 マルタはいつの間にか澄んだ目に涙を浮かべていた。

「最後に、一つだけ申し上げたい事がございます」

 語る声も面差しも、懺悔というより、決意そのものだ。

「何だね」

 私は今、さぞかし冷たく恐ろしげな顔をしているに違いない。

 でも、きっと、これでいいんだろう。

「あたしが愛していたのは、貴方です」(了)


 *筆者注:神父ことカトリックの修道士は現在でも妻帯や女性との性関係を禁じられていますが、本作は社会における性道徳そのものが今よりはるかに厳しい時代のお話です。


 この時代に、神父が女性と通じたと露見すれば、双方が死刑になる可能性も十分に有り得ますし、そうでなくとも、社会的には厳しい制裁が待ち受けています。


 本作は16世紀のフランドルが舞台ですが、同時代の隣国フランスで書かれた「エプタメロン(七日物語)」には、密通の露見した修道士や修道女が火あぶりの刑に処せられる話も出てきます。

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告解 吾妻栄子 @gaoqiao412

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