外伝 竜の踊るときは踊れ

 この大陸には人間と竜が暮らしていて、普段交流することはほとんど無いけれど、人間であるあたしと、竜の男であるジーヴは、のっぴきならない事情により、現在一緒に旅を続けている。

 あたしには左腕がなく、ジーヴには右目の視力がない。

 あたしは生き別れた兄を捜し、黒竜のジーヴは同族の生き残りを捜している。

 それだけが、あたしとジーヴを結びつけるもの。



 その日、あたしと旅の相棒であるジーヴが足を踏み入れた街には、賑々しい音楽が満ち満ちていた。

 時刻はお昼前。通りには楽しげな表情の人々がそぞろ歩き、店屋の前では客引きが声を張り上げている。そして、燦々と降り注ぐ陽光に負けず劣らず、陽気な旋律がそこかしこから聞こえてきている。耳を傾けてみると、弦・管・打楽器など、使われている楽器は多岐に渡っているらしい。演奏者の姿が直接見えないのは、道端の人だかりのその向こうに彼らがいるからだろう。

 道を行き来する人々より、頭ひとつ以上抜けたところにあるジーヴの口から、騒々しいな、と言葉が漏れる。

 人型になった竜はほとんど人間と区別が付かないが、それでも尖った耳や口から覗く牙から、竜と気づいた人がジーヴに好奇の視線を向けている。それとも、たっぷりと金刺繍の施された貴族然とした黒い長衣と、彫りの深い端正な顔立ちに目を奪われているのかもしれないが。当の彼はそんな視線を気にする風もなく、大通りに向かってすたすたと歩いている。

 目下のところ、向かうのは街の中心だ。今まで兄さんの手がかりを求めてたくさんの村や街を回ってきたが、飲食店や宿などは大概、家並みの中心にあることが多い。そろそろお昼時だから、今日泊まる宿を決めて、空いた腹を満たさねばならない。

 街の大通りに出て二頭立ての馬車を止め、御者に行き先を告げる。赤土色の煉瓦が敷かれた道を、足音も高く馬が軽快に闊歩する。

 進めど進めど、耳に届く音楽は止むことを知らなかった。故郷が灰となった日に兄と生き別れてから、たくさんの街を巡ってきたけれど、こんなのは初めてだった。

 誰にともなく、ぽつりと呟く。


「変わった街だな、ここは」

「そうだな。何かの祭りでもあるのではないのか。人間の祭りがどういうものかはよく知らんが」


 いらえのぶっきらぼうな口調に反し、ジーヴは辺りに漂う音楽のことを嫌がってはいないようだった。

 街の中心は円に近い形の広場になっていた。噴水の飛沫がきらめいている。そこでは一際賑やかな音が流れていて、それもそのはず、広場の一角に三十人はいようかという楽団が二列になって、一糸乱れぬ弾きぶりを披露していた。歌劇場の壇上で身に纏うようなかっちりとした黒い服を着込み、思い思いに楽器に向き合っている。彼らの足元は周りより一段高くなっているようだった。

 あたしはしばし聞き惚れたが、ジーヴはさっさと歩みを進めてしまう。その広い背を慌てて追うと、噴水のそばに人の背丈ほどの塔のようなものがあるのに気づいた。塔の脇には警邏隊けいらたいの制服姿の若者が二人、まるで宝物を守るように背筋をぴんと伸ばして屹立きつりつしている。ジーヴはそちらへ向かって歩み寄っていく。

 近寄ると、塔は木でできた台座で、その上部に箱の形をしたものが鎮座しているのが分かった。


「旅人さんかい」


 あたしたちが何か言うより先に、警邏隊の一人が口を開く。ジーヴは首肯して、宿と昼食を摂る場所を知りたい旨を話した。その会話が終わると、今度はあたしが兄の似顔絵を若者に見せる番になる。反応は芳しくなく、心当たりはないとのことだった。

 その後は自然と、鼓膜を打つ音楽のことへと話題が移る。この街はいつでもこうなのか、とジーヴが訊くと、


「ああ、この街は音楽の街として古くから有名なんだ。昔、高名な吟遊詩人がこの街から出たそうでね、彼を嚆矢こうしとして音楽家がこの街には多いんだ。吟遊詩人なんて、蒸気機関が白煙を吐く現代じゃあ、もはや伝説的な存在になっているけどね」


 若者はのんびりとした口調で言う。吟遊詩人、という言葉は聞いたことはあるけれど、血肉の通った人間として明確な像が浮かぶ存在ではなかった。お伽噺とぎばなしの登場人物がそうであるのと同じように。

 ジーヴが小首を傾げる。


「その吟遊詩人というのは、青い髪をしていたか?」

「え? ああ、海で染めたような髪を豊かになびかせて各地を旅していた、と聞くけど……」

「ならば、俺はその吟遊詩人に会ったことがある。いつだったか、我が黒竜の里に何日か逗留とうりゅうしていた。穏やかで機知に溢れた、人間にしては感じのいい小僧だったな」


 永い時を生きる黒竜の元族長は、途方もない話をさらりと口にする。警邏隊の若者は伝説上の人物の実際の話を聞いて感銘すればいいのか、自分の街が輩出した偉人を小僧呼ばわりされて憤慨すればいいのか迷ったようで、どっちつかずの困惑したような曖昧な顔つきになった。


「それは、なんというか……すごい話だね。ああそれで、さっきの話だけど、街がこんなに賑やかなのは今日が特別な日だからなんだよ」

「今日はその吟遊詩人の誕生日とされる日でね」


 二人がどこか誇らしげに胸を反らす。

 ここに箱があるだろ、と若者の一人が台座の上に置かれた箱を指差す。

 あたしはそこにある小箱に目をやった。箱は掌から少し余るほどの大きさで、材質は木であるらしい。そばで見ると細かい彫刻がしてあるのが分かり、その上表面が虹色にきらきらと光っていた。螺鈿らでん細工だろうか。上品であると同時に愛らしくもある意匠だった。取っ手がついていることから、中にものを入れられる小箱だということが分かる。

 それを指差して、警邏の者に問うた。


「この箱がなに?」

「これはね、今日の夕刻から行われる、舞踏大会の景品なんだよ。一位になると貰える品で、職人が丹精込めて作った一点ものだから、なかなかの値打ちがあるんだ。男性ならカフスボタンやネクタイピンを入れるのもよし、女性ならアクセサリーを入れるのもよし、実利にも優れているってけっこう評判になっていてね。旅人さんたちもそれを聞きつけてやってきたのかい?」

「いや、そういうわけじゃないけど」

「なあんだ、そうか」


 あたしのあっさりとした否定により、彼らは目に見えて肩を落とし、落胆を表現する。


「でもこれ、本当にすごく綺麗……」


 取り繕うためでもなかったが、箱を見つめて感嘆を漏らす。あたしの目に、その箱は単なる容れ物には映らなかった。

 自分ならこの箱にどんなものを入れるだろう。この取っ手をそっと摘まんで開いたら、どんな素敵なものが入っているんだろう。そんなわくわくする想像が、眺めているだけでどこまでも広がっていくように思えた。

 ふと、そんなあたしの様子をむっつりと傍観していたジーヴが不意に問いを口にする。


「その舞踏大会というのは、申し込みの締め切りはいつなんだ?」

「夕方、ぎりぎりまで受け付けていたはずだけど……」


 そんなことを訊いてどうするんだろう。胸に浮かんだ淡い疑問は、その次のジーヴの言葉で粉々に粉砕される。


「なら、俺たちの名前も参加者に連ねておけ。俺の名前はジーヴとでも書けばよい」


 え、このひと、今なんて言った?

 聞き間違えでなければ、俺たち、ととんでもないことを言ったような――。

 動転したあたしがちょっと何言ってるの、と抗議の声を上げるより、若者たちがジーヴの言を受けて相好を崩す方が早かった。


「はいはい、ジーヴね。主催者に伝えておくよ。そっちのお嬢ちゃんの名前は?」


 きらきらした二対の目に熱い視線を送られる。否定の一言で切って捨てられる雰囲気ではない。いや、あたしは、などと言葉を濁していると、ジーヴに肩を軽く小突かれた。


「早く言え」


 二つほど季節を跨いでも旅の相棒の名前も覚えようとしない、無礼な竜の男が睨みを利かせてくる。


「お前の名は、なんだ」

「……あ、アイシャ」


 促されて、引きずられるように答えてしまった。

 アイシャね、了解、と鷹揚に頷く若者を見るか見ないかのうちに、ジーヴはくるりと踵を返す。自分勝手な竜の肘のあたりをがしっと掴んで、詰問する。


「ねえちょっと、何考えてるんだよ! あたし、ダンスなんてやったことないぞ! なんで勝手に――」

「お前、あの箱が欲しいのだろう」


 返ってきた言葉は端的だった。

 え、と喉元でぶつけるべき台詞が詰まる。


「お前はあの箱を欲している。あの箱を手に入れるには、舞踏大会に参加するしかない。だから参加すると伝えた。それだけのことだ」


 にべもなく言い放ち、停滞もそこそこに宿への歩みを進める。

 あたしは呆然としてその場に棒立ちになった。めちゃくちゃだ。大体大会に出たって、一等になれなければ賞品は貰えない。ジーヴはどうだか知らないが、あたしはダンスなんて踊れないのに。大勢の前で恥をかくだけだ。身勝手すぎる。

 でも、あたしが箱を熱心に見ていたから参加しようと思ったのだろうか。やり方は自分本意にすぎるが、それは気遣いとも呼べるものではないのか。常に人間を見下している竜らしからぬ唐突な振る舞いに、あたしは背筋にうすら寒いものを感じた。

 ジーヴはどんどんと離れていく。慌てて追い縋り、またも異議を申し立てようとする。

 

「ねえ、ジーヴ! あたしは踊れないぞ! 大会に出たって一等になんかなれないって!」


 ぎろり、と凄みのある隻眼があたしを捉える。ジーヴの右目は白濁しているが、残った左目の光は射るように強い。ひっ、と漏れそうになる悲鳴をなんとか喉元で抑えた。


やかましい小娘だ。それについてはお前が案ずる必要はない」

「必要ないって――」

「とにかく今は食事を摂るのが先決だ。夕刻までに済まさねばならん用意がごまんとあるからな」


 ジーヴは全く聞く耳を持とうとはしなかった。まあ、彼が傍若無人なのはいつものことなので、その点に改めて腹が立つことはなかったけれど。

 あたしは仕方なく、尊大不遜な竜の男に付き従った。

 こうしてあたしはなぜか、やったこともない舞踏の大会に出場する羽目になってしまった。



「用意って、何をするんだ?」


 昼食を食べ、お腹が膨れていくぶん機嫌が上向きになったあたしは、ずいぶん高いところにあるジーヴの顔に向かって尋ねる。毎日の糧食を得るために持ち歩いている槍筒やらテント用の布やらの荷物を宿に置いてきたため、心と同時に体も軽い。

 ジーヴはいつもの仏頂面で、黙々と足を動かすばかり。どこに向かっているかさえ分からなかったが、心配するなと言われたので、この男に任せてやれるだけやってみようという捨て鉢の気持ちになりつつあった。思いきりのよさは他人ひとより持っている自負がある。

 ジーヴはとある店屋の前で立ち止まる。店先のショーウィンドウの中に、フリルが幾重にも重ねられたきらびやかな白いドレスが飾ってある。裾は大きく広がり、その上に色とりどりの花が散らしてあった。その絢爛さに思わず目を見張る。ここは仕立屋だ。


「まずはお前のその薄汚れた格好をどうにかせねばならん。そんな格好で俺の隣に立たせるわけにはいかぬからな。行くぞ」


 流行を追う代わりに、普段鳥や獣ばかり追いかけているあたしの服は、ジーヴが冷ややかに言うように泥だらけだ。しかし彼だってそうして得た動物の肉を日々の糧としているのだから、何もそんな言いがかりめいた言い方をしなくともいいだろうに。憤慨で腹の底が熱くなったけれど、こんなところで言い争いをするわけにはいかないとぐっと文句を飲み込む。

 尖った爪が揃うジーヴの大きな手が仕立屋の扉を開けると、中でからんころん、と軽やかにベルが鳴った。

 店の内装を見て(ショーウィンドウの中身で気づくべきだったけれど)、ここが至極上等な店であると悟る。あたしのように小汚い格好をした人間が足を踏み入れていい場所じゃない。入り口で二の足を踏むあたしに対し、ジーヴは毛ほども臆することなく、出迎えた女主人につかつかと歩み寄った。


「この連れに一着、ドレスを仕立ててやってくれ。大勢の中でも映える服を頼む。夕刻までに仕上げてほしいのだが、できるか?」


 ふくふくとした女主人は、ジーヴの居丈高な物言いにも気を悪くした様子もなく、竜の背に半ば隠れているあたしの顔をにこやかに覗き見た。


「まあ、もしかして、婚礼の衣装かしら?」

「っち、違います!」


 予想だにしない問いかけに顔がかっと熱くなる。全力で手をぶんぶんと振ったあと、びしりとジーヴの顔を指差す。


「だってこのひと、竜だし……っ」

「あらあら、誰もこちらの殿方と式を挙げるの、なんて訊いていないのに」

「――!」


 どこか楽しげに口元を押さえる女主人。

 自分の思い違いが恥ずかしい。全身が火照っている。もう穴がなくても掘って入りたい。引合いに出されたジーヴは呆れた様子で首を振っている。


「まったく馬鹿馬鹿しい……どうした、小娘。顔が赤いぞ。こんな時に病気か?」

「違うから! こっち見るなって!」


 火が出そうな顔の半分ほどを、左肩を覆う布に埋めて隠す。人間の心の機微を理解しない竜に見られたくなかった。


「どうでもいいが早くしろ。採寸から頼まねばならんのだ。時間がないぞ」

「うう……誰のせいだと……」

「お前の早とちりのせいだ」


 ぴしゃりと言葉で叩かれる。正確な指摘にぐうの音も出ない。

 導かれるまま、すごすごといった体で店内の奥へ進む。ソファに身を沈めたジーヴを残し、あたしは衝立ついたての先へと案内された。店の壁紙は淡い草花の模様で、店内の空気は清潔そのものであり、どこかから花の匂いが漂ってくる。洗練された雰囲気に飲まれながら大人しく採寸台に立つと、体の周りにてきぱきとメジャーが当てられ始めた。

 こんな体験は初めてのことだった。子供の頃、新しいおもちゃを貰ったときのように、真新しい期待でどきどきと胸が高鳴る。

 主人が目盛りを読みつつ、何気ない様子で会話を切り出した。


「夕方までにってことは、舞踏大会に出るんでしょう」

「あ、はい」

「でもねえ、今から裁断して間に合うかしらねえ……」

「絶対に間に合わせろ。金なら積むぞ」


 唐突に、衝立の向こうからジーヴの重々しいバリトンが割り込んでくる。

 お金なら積む、というジーヴの言は嘘ではないだろう。あたしも、ジーヴも、お金なら潤沢に持っている。黒竜の鱗は珍しいため高く売れるのだが、以前にジーヴから彼の鱗を貰い、それを換金した残りがあるのだ。彼は場合によっては、鱗を追加で換金する腹づもりであるらしい。

 黒竜の一族が滅んでしまった今となっては、その珍しさも破格のものになってしまったが。

 それじゃ頑張らなくちゃねえ、と呟いたあとは粛々と採寸を続ける婦人が、あたしの左腕を覆う布を取ったとき、はっと息を飲むのが分かった。

 あたしのそこには、肩から先が丸ごとない。故郷が焼き尽くされた夜に、自分で切り落としたからだ。

 彼女の視線はそこに釘付けになっている。


「あなた、腕が……」

「自分でやったんです」


 ここで詳細を言う気にもなれず、言葉少なに返す。主人がぐっと気を引き締め、心を奮い立たせたように感じた。腕の残骸が残る肩を、優しくそっと撫でる。


「大変なことがあったのね。大丈夫よ。片腕がなくたって、他の人に見劣りしないドレスを仕立ててみせるわ」


 その言葉に、仕立て屋としての矜持が表れているように思え、感銘を受けながら小さく頷く。この人に任せれば大丈夫。そう思わせる真摯さと強靭さがそこにはあった。

 採寸が終わると、生地の色を決める段階に移る。自分の胸元に様々な色の端切れが目まぐるしく当てられていくのを、目が回るような気持ちで見ていた。


「髪の色に合わせるのもいいけれど、やっぱり、瞳が綺麗だからそっちに合わせましょうかね」


 あたしのくすんだ桃色の髪と、深い紫の目をしげしげと眺めて言う。瞳が綺麗だという称賛は素直に嬉しかった。この目の色は、今は行方不明の兄と同じ色だ。あたしは自分の目が好きだった。

 そうして下さい、と返し、意匠はお任せにして完成を待つことにする。

 手早く上着を着て衝立から出ると、ジーヴはソファにふんぞり返り、長い脚を投げ出すように組んで窓の外の往来を退屈そうに見やっていた。

 あたしの顔を認めれば、待ちかねたとばかりにその巨躯がすっくと立ち上がる。


「済んだか。それでは、必ず間に合わせるように。支払いはその時でよいな? ……来い、小娘。次だ」


 念押しを横柄に言い捨て、女主人の返事も待たず、ジーヴは店のドアを開ける。

 高慢な竜の代わりに、あたしがぺこぺこと何回も頭を下げたのは言うまでもない。



 先を行くジーヴをととっと追いかける。その表情は伺い知れず、あたしを振り回して何を考えているのか察することができない。次はどこに行くんだ、と問うと、予想外の答えが降ってくる。


「宿に一旦戻る」

「え?」

「お前、一度湯を浴びてこい。そんな泥だらけのなりで次の場所に行くわけにはいかん」


 ジーヴの声は平坦だ。

 陽の行く先を見る。もう既にだいぶ傾きつつあった。


「そんなゆっくりしてる暇あるのか? ダンスの練習もしないとまずいんじゃ……」

「いいから言う通りにしろ」


 不意にジーヴがこちらを振り向いた。慣れていない人なら一瞬で震え上がりそうな、怒りを司る戦神のごとき苛烈な表情をしている。濁っていない方の鋭い眼でぎろりと睨まれると、不承不承に受け入れる他なかった。

 何ゆえジーヴはそこまで舞踏大会に執着しているのか分からない。あたしが欲しそうにしていた、と言ったけれど、もしかして彼自身、よほどあの箱が欲しいのだろうか?

 促されるがまま、足早に宿へ戻り、湯浴みの支度をする。宿の二階に上がる直前に見たジーヴは、階下にある食堂の椅子に腰かけていた。お酒の一杯でも引っかけるつもりだろうか。あたしを急かしておいて、自分はいい気なものだ。

 こんな中途半端な時間に浴場に来る人もあるはずがなく、あたしは大きな湯船を独占することができた。香木でできた湯船の枠が、湯気で霞んだ空間に、しっとりと落ち着いた薫りを放っている。湯は何かが溶かしてあるのか、乳白色をしていた。

 ふうと深く息をつき、少しぬるめのお湯に浸かりながら、この先の展望を思い描いてみる。ドレスを仕立ててもらって、体を清めて、あとは何をすればいいのか。もう少しで舞踏大会に出ることが、うまく実感として捉えられない。まるでちよっとした白昼夢のように、ぼんやりした夢想が靄のように脳内を漂うばかりだ。

 色々と思索を巡らせているうち、相当の時間が流れてしまったようだ。浴槽の中で我に返ったあたしは、石作りの床に足を下ろしたところで危うく転びそうになりながら、そそくさと浴場を後にする。

 手持ちのうちなるべく綺麗な服を身に付け、階下へ降りると、先刻と変わらない場所に座るジーヴの後ろ姿があった。ただし、そのシルエットがどこか妙に感じられ、いぶかりながら声をかけてみる。


「ジーヴ……? 上がったよ」

「入る前はあんなに文句を垂れていたのに、ずいぶん時間がかかったな」


 嫌味を放ちながら振り返るジーヴを見て、目を見張った。彼はいつもは真ん中で分けている前髪をぜんぶ、後ろに撫で付けていた。香油でも使ったのか、豊かな黒髪は艶々とした光を放っている。きっちりとした髪型のせいで、青年貴族めいた品格がいやが上にも増していた。それに加え、胸元のタイの上に見たこともないカメオブローチが鈍く光り、その存在を主張している。

 一瞬だけ彼が別人に見え、あまつさえどきりとしてしまう。


「どうだ、男ぶりが上がっただろう。……なんだ、俺に見とれたか?」


 前髪を撫で上る仕草をしながら、冗談めかしたようにジーヴがにやりと笑う。彼を直視していられなくて、思わず顔を逸らした。

 竜と人の種族の壁は厚い。人間は、竜からしたら瞬きのような時間しか生きられない。一緒にいられる時間は僅かだけだ。だから“俺に惚れてくれるなよ”などと、以前自分で言っていたくせに。狡いじゃないか。不意打ちでこんなことをするなんて。


「……そんなわけないだろ。誰があんたなんかに見とれるもんか」

「うむ、ならばよい。次に行くぞ」


 叩いた減らず口は、何事もなく飄々とかわされる。憮然としながら、足取りも軽いジーヴの後に付き従う。



 次に向かった先は、またも高級そうな髪結屋だった。

 恐る恐る店内に踏み込むあたしと、のしのしと無遠慮に踏みいるジーヴは両極端だった。迎え出たお店の人に、竜が胸を張りながら注文を伝える。

 

「舞踏大会に出るために、こいつの髪型を整え、化粧も施してくれ」


 なるほど、髪と化粧ときたか。あたしは心の内側で納得した。恐縮しつつ、お願いします、と店の人に頭を下げる。

 髪結屋には久しぶりに来た。兄と二人で暮らしているあいだは街のなじみの店に行っていたが、旅に出てからは自分で適当に切り揃えていたからだ。


「じゃあ、まずはお化粧からするわね」


 担当となった、洒脱な空気を纏う女性を前に、あたしはただこくりと頷くのみ。相手は気を悪くした様子もなく、ふわりと優しげに微笑む。

 またしてもジーヴを待合室のソファに残し、数個並ぶ椅子のうちのひとつに座る。眼前の大きな鏡に自分が映ると、あからさまに緊張した面持ちになっているのが分かった。

 髪に限らず化粧だって、いつもは全然していない。どうせ泥や動物の血で汚れるし、顔を合わせる相手もジーヴがほとんどだから、する意味を見出だせないのだ。

 もしかしたら、幼い頃に母の化粧道具を勝手に持ち出して、顔を滅茶苦茶な色に染めて怒られたとき以来、初めてなのではないか。航海に出て若くして亡くなった母と、焼き討ちに遭った故郷の残映が脳裏に蘇ってしまい、胸がきゅっと締めつけられる。


「緊張しなくても大丈夫よ。あなた、肌が綺麗だから、きっと化粧映えするわよお」


 担当の人はのんびりと言ってから、膏薬に似た感触の肌色のものを顔全面に伸ばしていく。

 あれよあれよと言う間に、眉に鋏を当てられ、白粉をはたかれ、まぶたを彩られ、紅を引かれる。そのあいだずっと、店の人の体がすぐ前にあったから、鏡はほとんど見えなかった。仕上がりを想像してどきどきしたり、眼前に筆のような用具が迫ってきてはらはらしたりした。


「こんな感じでいかがかしら」


 全てが済むと、どこか恭しい様子で、店の人が身を引いた。同時に自分の顔が鏡に映りこむ。

 咄嗟に声が出なかった。

 くっきりと弧を描いた眉、びっくりするくらい大きく見える目、それを縁取るふさふさとした睫毛、ほんのりと上品に照り輝く頬、すっと通った鼻梁に、みずみずしい薄紅が乗った唇。自分が知っている自分より格段に大人っぽく、綺麗だ。まるで別人のように見えた。

 しばらくの絶句のあと、すごい、と感嘆を漏らすと、担当した女性はばちりと片目を瞑ってみせた。


「そうでしょ? 女の子はこうやって変身できるのよ。気に入ってもらえて良かったわ。髪型はどうしましょうか」

「ええと、お任せで……」

「これを使え」


 出し抜けに、それまでずっと黙っていたジーヴが発声したので、私も店の人もびくりと肩を震わせた。

 斜め後ろから、ジーヴの長い腕が延びてくる。そのたなごころには、小粒のガラスが散りばめられた、きらびやかなティアラが収まっていた。決して派手ではなく、上品な印象を受ける品である。

 普段のジーヴからは連想もできぬ取り合わせに、嬉しくなるよりは疑念と困惑の思いの方が強かった。


「こんなもの、持ってたわけ」

「さっきお前が湯に浸かってぼんやりしているあいだにあがなってきたのだ。俺自身の装飾品とともにな」


 竜の御仁は平然と、おごったようにのたまう。ぼんやりって、ジーヴがそうしろって言ったんじゃないか。そんな釈然としない気持ちを押し殺しながら前に向き直る。

 ティアラを受け取ったお店の人は、どこをどう見たらそういう結論になるのか、仲がいいのねえ、と含み笑いを漏らしていた。

 髪を整える作業は、担当の人が後ろ側にいたから、一部始終を見届けることができた。女性の指がしなやかに動き、あちらこちらをピンで留め、束になった髪をねじり、持ち上げ、編み込みを施し、完成形へと近づけていく。最後に頭頂にティアラを乗せれば終了だった。首の上だけが、別人のように綺麗になっている。


「こんな感じでどうかしら」

「すごいです……ありがとうございます」


 文句など何一つなかった。頭の重心が普段より上にある感じがし、少しふらつきながら椅子を降りる。支払いを済ませて店内を出るまで、ジーヴはあたしをほとんど見もしなかった。そりゃ、特に言及が欲しかったわけでもないけど、こんなに見た目が変貌したのだから、何かしらの反応をちょっとだけ期待していたのも事実だ。もやもやとしたものを抱えて往来に出る。

 あたしは顔と頭だけ見違えたように綺麗になっていたので、かなりちぐはぐな印象を与えるのだろう、道行く人にしげしげと物珍しそうな視線を向けられる。それに耐えられず、ジーヴの長身の陰に入って数々の目をやり過ごした。竜の並外れた体格もたまには役に立つものだ。

 日暮れが近づいていた。山の稜線あたりが、うっすらと茜色に染まりつつある。舞踏大会が始まる時刻も迫ってきている。 

 あたしたちはほとんど駆け足に近い速度で、午後一番に訪れた仕立て屋に向かう。

 ドアを開けると、女主人が少々疲れの見える、けれど達成感に満ちた顔で出迎えてくれた。


「ちょうどできたところよ。さあ、着てみて」


 満面の笑みとともに、光沢のある藤色の布で仕立てられたドレスが、彼女の胸の高さに掲げられる。

 ひだのついた垂れ幕に覆われた場所で、そのできたてほやほやのドレスに袖を通す。衿にはぐるりと細かなガラス玉があしらわれ、腰はきゅっと細く締まり、そこから裾に向かって豊かに波打つサテン地のドレープが伸びる。左腕部分には、たっぷりとしたフリルが寄せてあった。胸元は広く空いており、あたしはそわそわと落ち着かない気持ちにさせられた。

 どうかしら、と言いつつ、女主人が姿見を運んでくる。自分の全身を目の当たりにして、言葉を失った。これが、本当に自分? 頭の先から足元に至るまで、溜め息が出るくらい、別人のようになっていた。


「窮屈なところとか、緩いところはない?」

「……大丈夫です。本当に……素敵なものをありがとうございます」


 いつもその日の糧食をどうするかばかり考えている自分には、この高揚した気持ちをどう表せば適切なのか、まったく考えもつかない。結局、口をついたのは拙い感想だった。

 それでも、主人はにこっと破顔してくれ、左肩のフリル部分をそっと撫でた。


「このフリル、ダンスでターンなんかすると広がってとっても綺麗だと思うわ。頑張ってね」


 そのままぽんぽんと優しく叩かれる。太鼓判を押され、送り出しされるように、気分が昂るのを感じた。


「ほら、連れの素敵な殿方にも見せておあげなさい」

「いや、あのひとはそんなんじゃ――」


 衝立から押し出されるようにジーヴの前に出る。ジーヴは最後に見たときと同じくソファに腰かけていたが、脚を組んではいなかった。あたしに向き直ると、その長身がすっと伸びる。

 そのままつかつかと歩み寄ると、頭ひとつ以上高いところから、じろじろとあたしの全身を矯めつ眇めつ見てくる。あたしが化粧をしても髪型を変えても何も言わなかったジーヴが、なぜか今度はにんまりと口の端を歪めた。


「存外に似合うではないか。どこぞの国の姫君のようだぞ」


 いつも人間を馬鹿にする言葉しか吐かない口から、そんな言葉が飛び出す。途端に顔がぼっと熱を持つ。いきなり何を言っているのだ、この竜は。少し前、あたしが首飾りを身に付けたら、竜子にも衣装だと大笑いしていたくせに。

 あたしはジーヴから顔を逸らす。


「何それ、どういう皮肉……」

「どういうも何も、そのままの意味だが」


 ジーヴが笑いを引っ込め、真顔で小首を傾げる。ああもう、このひとはどうして態度を一貫してくれないのだろう。そうしてくれたら、あたしだっていつも腹を立てているだけで済むのに。こんなに、気持ちを掻き乱されなくて済むのに。


「お前の顔は赤くなったり戻ったりせわしないな。人間にはそういう病があるのか?」

「うるさい! 誰のせいだと思ってるんだ!」

「お前の事情など、俺が知るわけがないだろう」

「あんたのせいだからな! 全部!」


 人前でそんなことを言われたのが恥ずかしすぎて、右腕の拳でぽこぽこ叩こうと思ったけれど、ジーヴの長い腕に阻まれて徒労に終わった。

 こんなことをしている場合でないことを思い出し、会計を頼む。

 ドレスの代金の額を聞いて、


「それだけでいいんですか?」


 と思わず訊いてしまった。それくらい、予期していたよりもずっと低い金額だったからだ。主人はいたずらっぽく片目を閉じてみせる。


「いいのよ。その代わり、舞踏大会でたくさん目立って店の宣伝をしてちょうだい」

「……それなら、はい。分かりました」

「それと一回と言わず、何回もそのドレスを役立ててほしいわね。婚礼の席でも来てもらえたら光栄だわ。あ、でも最初に着たときに隣に殿方がいたと知ったら、花婿さんが嫉妬するかしら?」

「あ、あのひとはそういうのじゃないですから! 大丈夫です!」


 一度引いた熱が頬に帰ってくる。

 やましいことなど何もないのだ。ジーヴは本当に、ただ単に一緒に旅をしているだけの、契約相手だ。現に彼はあたしのことを“非常食”などと評したりもする。そんな人を対等に扱わない竜に、特別な感情など持ちようもない。なのに、揶揄されると顔が火照るのはなぜなのだろう。

 そんなあたしの煩悶など知る由のない、無粋な竜が急かしてくる。


「おい、早く行くぞ」


 やれやれと小さく溜め息を吐き、もう一度女主人にありがとうございました、と深々と礼をする。

 きびすを返し、戸をくぐったところで、唐突に体がふわっと浮いた。

 何事だ。反射的に手足をじたばたさせると、耳元で暴れるな、と低いバリトンが囁く。それがぞくりと背中に震えを走らせる。

 ジーヴが背中と膝裏に腕を差し込み、あたしを軽々と抱えあげているのだった。まるで婚礼の場で、花婿が花嫁を抱き上げるように。

 そこら中にいる、市井しせいの人々の目が集まるのが分かる。注目を浴びるのはもう嫌だったので、もがいて抵抗しようとした。


「ちょっと、何するんだよ!」

「暴れるなと言っているだろう。道を歩けばその服を汚す。やむを得ない処置だ。このまま大会の会場へ向かうぞ」

「は……? ダンスの練習は?」

「不要だ」


 あんたが要らなくても、あたしは要るんだって。

 手足を動かそうという努力もむなしく、ジーヴの逞しい両腕はびくともしなかった。

 人目を憚ることを知らぬ竜の男は、堂々と往来の真ん中を行き過ぎていく。あたしたちを見て何を勘違いしているのか、お熱いねえ! などと囃し立てる人も出てくる。羞恥以外の何物でもない。この状況で自分ができることと言ったら、手で顔を覆うことくらいだった。



 日が山並みのその向こうへ消えんとしている。

 ジーヴに抱えられて到着した舞踏大会の会場は、街の一角にある劇場だった。煉瓦の壁とレリーフを備えた、瀟洒しょうしゃな造りの建物だ。

 とうとうここまで辿り着いてしまった。

 受付で名札代わりの花のブローチ(二種類の花を組み合わせ、その色が番号札の役目を果たすらしい)を貰い、自分で付けようと奮闘したが片腕では難しく、やれやれと嘆息するジーヴに手を貸してもらう。ドレスの胸にブローチを留める彼の様子を上目で窺うと、平生へいぜいと何ら変わらぬ面持ちがそこにはあった。表情からは何を考えているのか全く分からない。手のかかる旅の連れに、これから恥をかかせてやろうという魂胆なのかもしれない。そうだとしても、ここまで来たからには今さら尻尾を巻いて逃げ出すわけにもいかなかった。

 大きい催しに使われるような広々としたホールに踏みいると、参加者も見物人も一体となっており、場はがやがやと騒がしい。集った人々の溌剌とした頬を、壁に設えられたガス灯が照らしている。会場の隅のひとつには正装した楽団員が陣取り、優雅な生演奏を披露していた。足元はしっかりとした踏み心地の絨毯で、目線を上げれば凝った模様の壁紙が目を引いた。

 あたしは浮き足立っていた。気持ちが落ち着かず、場違いな気分で胸が塞がれる。この舞踏大会に参加する人の中に、野山で野生の動物を追いかけたことのある人なんて、一人もいないに違いない。

 しかもあたしには左腕がない。ひだを寄せた布で隠れてはいるけれど、やはり意識から追い出すことはできなかった。そこをちらちらと気にかけていると、ジーヴから声がかかる。


「ない左腕が気になるか」

「……だって、こんな恵まれてる人たちに囲まれて、気にならないはずないでしょ」

「傷を恥じるな。その傷はお前が一心に生きようとした証なのだ。恥じるな、傷を誇れ」


 何のためらいもなく言い切ったジーヴを、瞠目してまじまじと見つめる。彼の言葉には迷いなど一切なく、直接あたしの心に突き刺さったように感じた。分かったか、という念押しに、深い首肯で答えた。

 やがて司会者の挨拶が済み、観客は会場の端へ、参加者は列になってその前へ並ぶ。こっそりと右隣に立つジーヴを見上げると、撫で付けた髪には一分の乱れもなく、射るような隻眼で会場を見渡している。その堂々たる立ち姿に、緊張が少し和らぐのを感じた。もうどうにでもなれ。足がもつれようが、無様に躓こうが、死ぬわけでもない。旅の恥はかき捨てだ。

 流れる音楽が、それまでのゆったりとした円舞曲ワルツから、どこか哀愁の漂う、キレの伴った旋律に変わる。いよいよ始まるのだ。

 ジーヴの手が、するりとあたしの右手を下から掬い取る。


「行くぞ」


 低くかけられた声に、あたしは頷き返す。

 船乗りが洋々とした大海へ乗り出すように、ドレスの裾をひらめかせて、一歩目を踏み込む。ジーヴの左手はあたしの肩口に添えられている。

 兄と違い、竜の生態に詳しくないあたしには分からないが、ジーヴはこういうことに慣れているのだろうか。涼しい顔で、いとも簡単にステップを拍子に乗せて繰り出していく。あたしはその足捌きに着いていくので精いっぱいだ。やっぱり、無理だ。こんなこと、あたしにはできっこない。後ろ向きな気持ちで心が覆い尽くされ、眼前がすうっと閉ざされかける。

 ふと、ジーヴが小さく囁いた。そのひそやかな声は、真っ白になりかけた頭の内に、不思議とはっきりと響いた。


「力を抜け。俺と呼吸を合わせて、俺に身をゆだねろ」


 落ち着いた声音に、体の奥の方がじんと痺れる。はっとして彼の目を見上げると、そこには自信がみなぎっており、こくりと僅かな頷きが返ってくる。

 言われた通り、ジーヴの呼吸に耳を澄ませた。手と足から力みを抜き、眼前の巨躯に導かれるまま、重心を移ろわせることにする。小難しく考えることを捨て、手足の赴くがままにステップを刻む。

 熱に浮かされるのに似た陶酔の気配がした。

 自分でも信じられなかった。こんなダンスなどしたことがないのに、足が意思を持ったように、自然と次の動作へと移れている。余分な力は霧散し、舞踏のリズムが体の内でどくどくと脈打つように感じられた。二人の呼吸が合い、馴染んでくると、くるくるとターンを決めたりできるようになっていた。

 いつしか、足裏の感覚が消えていた。まるで、雲の上で踊っているかのように。背中に羽が生えたかのように。

 曲が一段と高まりを見せたそのとき、ジーヴに腰を支えられ、あたしは中空に身を躍らせた。瞬間、時が止まったかに思える。あたしたちは静止したように動かず、景色だけがぐるぐると回って、霞む。ジーヴと目が合うと、彼はほんのりと笑んでいた。波が引くように音がすぼまり、この会場に、この世界に、二人だけが取り残された、そんな錯覚が去来した。

 焼き付くような一瞬。

 いつの間にか音楽はやんでいて、土砂降りに似た音が会場を包む。あたしたちは舞踏をやめる。雨の音が万雷の拍手の音だと、数拍遅れて気づく。

 熱病に侵されたような夢見心地で、まだあたしの手を取ったままのジーヴを振り仰いだ。

 彼が満足げににこりと笑う。



 呆然としたまま、宿の一階にある食堂に座っている。右手には、舞踏大会の賞品、螺鈿が施された小箱が乗っていた。

 まだ信じられなかった。驚くべきことに、あたしたちは優勝したのだ。

 順位が発表されていく時の緊張は、つい先刻の出来事のはずなのに、もう昨日のことのようにかすれた記憶になっていた。一位が発表されたあと、集った人々から祝福の言葉を浴び、もみくちゃにされかかったことは覚えている。賞品授与の際に二人の名前が呼ばれ、右手をジーヴ高々と掲げられて気恥ずかしかったことも。

 そう、そして、夕食を一緒にと迫る人々をかい潜り、あの会場からほうほうのていで逃げ出したのだった。

 今、あたしはドレスを脱ぎ、湯を浴びて化粧を綺麗さっぱりと落としている。お伽噺とは違い、かけられた魔法は一夜と持たずに解けるのだと知った。ジーヴから渡されたティアラは貰っていいのか迷ったが、そんなもの俺が持っていてもどうにもならぬだろう、ととりつく島もなく言われ、今は宿の寝床に所在なく置かれている。

 ジーヴはというと、舞踏大会の外見そのままに、あたしの目の前で難しい顔をして腕を組んでいる。彼とあたしで挟まれたテーブルには、たくさんのご馳走――大半はジーヴが頼んだ肉料理――が並んでいた。


「おい、食べないのか」

「あ、うん」


 ぼんやりと生返事をする。舞踏大会で優勝した記念にと、主の厚意で宿代と食事代が無料ただになっていた。いまだに夢の中にいるのではないかと疑ってしまう。

 料理の乗った皿を避け、記念品の小箱をテーブルの上に置く。表面の螺鈿がきらりと輝くと、ジーヴが執着するのも当然の美しさに思えた。


「これ、そんなに欲しかったの?」


 ぽつりと問うと、ジーヴはきょとんとした顔になった。


「何を訳の分からぬことを言っている。欲しがっていたのはお前だろう」

「欲しいなんて一言も言ってないんだけど……」

「あんなに物欲しそうな顔をしていたのにか?」

「も、物欲しそうって……!」


 頭に血が昇りそうになる。息をひとつ吐き、努めて冷静を取り戻す。

 あたしが欲しそうにしていたから、というのが建前でなければ、この人の本心はどこにあるのだろう。だって旅を始める前、この竜の男は言ったのだ。「竜は人を助けない」と。今に至るまで、ジーヴの真意を読みきれずにいた。


「あんたが欲しいわけじゃなかったのなら――どうして大会になんて出たの。しかも、あたしの格好まで整えさせて」


 なじるようなあたしの口調に、しかしジーヴは口の端を引き上げた。

 いかにも楽しげに。いかにも痛快そうに。


「竜は愉快なことが好きな生き物だからな。参加すれば、なかなか楽しめそうだと思っただけよ」

「……それだけ?」

「ああ。それだけだとも」


 もし今立っていたら、脱力して膝を折っていたかもしれない。楽しそうだからというそれだけの理由で、あたしを一日中振り回すなんて。竜の心の底は計り知れず、そして知り尽くしたいとも思わない。

 でもきっと、あたしは今日の出来事を忘れないだろう。

 これから何があろうと。

 どれだけ時が経とうと。

 あの、脳に焼き付いた一瞬のことを。


「お前はそれに何を入れるんだ?」


 不意に問われ、目の前で進行する現在に意識が引き戻される。螺鈿の施された箱。見る者すべてをうっとりさせるような、この子箱。

 この日の思い出に、ジーヴから貰ったティアラを入れるのも一興かもしれない。大きさも厚みもちょうどぴったりだ。

 それをこの竜の男に面と向かって伝えるのも気恥ずかしく、今から考えるとだけ返して、テーブルから服のポケットへ滑り込ませる。

 ジーヴは訊いておいて興味なさげに鼻を鳴らすと、待ちかねた様子でナイフとフォークを取り上げた。


「まあ、勝手にするがよい。さてと、俺は待ちくたびれた。お前が食べないのなら、この俺が食べ尽くすぞ」

「え、ちょっと、待ってよ!」


 言うが早いか、ジーヴはものすごい勢いで肉を食らっていく。それに負けじと、あたしは栄光の味の肉料理にかぶりついた。


(了)

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旅は竜連れ世は情け 冬野瞠 @HARU_fuyuno

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