ミハシラ=アーカイブス
岩橋のり輔
ミハシラ=アーカイブス (1)
『真木柱 太心者 有之香杼 此吾心 鎮目金津毛』
(訓読――真木柱太き心はありしかどこの我が心鎮めかねつも)
――『皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首』第廿首
* * *
「生と死は人類不変の――いや、あまねく自然界に一貫する
瓦解し掛かったあばら屋から這い出て、ようやく吸い込んだ寒空の空気は堪らなくウマかった。
死に目には誰かがそっと寄り添って、惜しまれつつ逝きたいと言うのは当事者の弁。
『死人に口なし』とは暴言だが、赤の他人――それも骸から小銭を漁るが如しの業者から言わせて貰うと、ご遺体はひっそりしていればしているほど良い。
死を認識できず棺の中の父親を揺り起こそうとする幼児、介護に倦み疲れ達成感と喪失感が綯交ぜになった視線を向ける老人、浅ましくも保険会社への連絡が待ちきれない様子の未亡人。
「人の死を食い物にするクズ」だの「足元見てぼったくりやがって」だの、そうした直接的な誹謗中傷を除けば、それらの声は皆等しく
その点、今日のご遺体――今もこの六畳一間が八つばかり並ぶ殺風景なオンボロアパート(トイレは共用)の一室に押し込められているそれは、理想的なご遺体の良き
住処に似合いの小汚い老人で、生者の無粋なざわめきとは全くといっていいほど無縁――惜しむ声も嗚咽も憐憫の下に潜む快哉も響くことなく、ひっそりとした
現世の如何なるしがらみとも早々に別れを告げたと見え、ただその黄土色に変色した萎びた皮膚だけが、小舟を桟に括り付ける古縄のように――あるいは母体と胎児とを繋ぐへその緒のように、彼が「かつて生きていた」と申し訳程度の自己主張をしていた。
俗にいう孤独死というやつで、真冬のこのカラッとした寒さ故か、ビックリするほど清潔なままだった。
虫にも猫にも食われていない独居老人の死体というのは、そうそう拝みたくても拝めるものではない。
この業界に足を踏み入れて十数年。数多もの死体を弔ってきた寅吉――駆け出しの頃、夏場の猫屋敷の老女の遺体に胃の中をすっかり空にしたこともある寅吉にとっては、大いなる神の恵みと胸に刻まんべき僥倖といえた。
葬祭業界というのはこの上なく封建的で閉鎖的である。
その中にあって、環と寅吉のような小世帯が糊口を凌げるというのも時代の変化の賜物か。
それを再三知らしめんがために、今日も今日とで環は長口上を惜しまなかった。
「古来、日本は神仏混交だったり八百万の神だったり、死生観に関してはこの上なくデタラメ――いや、融通の利く
環はその派手なマニキュアに飾られた細く長い指をグイと突き出し、
「貴方と私。肉体と精神。魂と魄。言い方はどうであれ、ことこの日本に生きとし生ける者すべてが折り合える共通の着地点を、日本は見出したのです。我々は特にその最も高度に簡略化された形態――『
そう言うと一人で悦に入り、ひとしきりキャハハと笑い声を上げた。
環は寅吉よりも、身長と体重そしてそれに裏付けされし肉体的体力の他はすべてを上回っている。
頭脳、収入、育ち。
二人世帯の会社ではどちらか一方が代表取締役で、もう片方は従業員だ。
〈ミハシラ葬祭〉においては久世環が前者で、年齢も寅吉よりは上――の筈である。
ただその童顔と時折発揮する痛々しいまでの小児性ゆえに、寅吉は歯に衣着せぬ物言いで応戦せざるを得ず、またその無作法が鉄の不文律として成り立っていた。
「御託もヘタな洒落もどうでもいいんですがね」
寅吉は、環に勧められた煙草(メンソールの、チューインガムの味がする、寅吉曰く『女子供の煙草』)を受け取りながら非難がましく言った。
「にしてもド派手な格好ですねェ。人が死んだっつうよりは、パチンコ屋の新装開店みたいだ。めでたやな。毎度のことで恐縮ですが、どうにかならんモンですかね? TPP? いやTPO的にあまりよろしくないって言うか――ねェ?」
煌びやかなだけなのならまだ良いのだが、環の装いには南国の有毒生物を思わせる、危険信号染みたところがある。密林の宝石ヤドクガエルに通ずる警戒色だ。死が――純然たる死がその体内を巡り迸っている点において、両者は兄たり難く弟たり難い。
環は、真っ赤なコートの上の蒼白い顔面に描かれた真っ青な瞼を忙しなく瞬かせた。
「随分古い言葉を持ち出すものね――TPPって! 環太平洋――なんだっけ、今もあるのかしらね? でもね、TPOね、アレって
そう高らかに言うと、まるでステージの上でスポットライトを浴びているが如く、錆びた踊り場の真ん中でくるりと回った。
俺が居るし、第一多少は近所の眼だってあるだろう――と喉元まで出掛かった言葉を、寅吉は寸でのところで押し留めた。
旧い漫画のフランケンシュタインのようだと評される寅吉と、安宝石の巡回セールスレディーにしか見えない環。
ただでさえ人目を惹く二人組、それが狭い業界で生きているのである。
下手な騒ぎを起こして同業者の顰蹙を買うような真似だけは避けたいと願っているのは寅吉ただ一人。
世間一般でいう「大人な振舞い」というのは、環の中では常に「しみったれた小者の態度」と変換され、忌み嫌われていた。
いつもの一方通行な会話に、寅吉がほとほとうんざりした溜息を吐くと、それに呼応するかのようにクラクションが鳴った。
金色のゴテゴテとした霊柩車が
それでも環や寅吉の乗ってきた黒塗りのリムジンは、葬儀屋かあるいはヤクザのものだとハッキリ分かるようになっている。
その後ろにちっぽけな軽がコバエのように停まった。
節という節を組み立てるかのようにして這い出てきたのは、並外れて長身の、入定したての苦行僧そのものな印象を与える男だった。
古風なインバネスの下に、チベット仏教を思わせるオレンジ色のセーターやらダウンジャケットやらマフラーをこれでもかというほど着込んでいる。
パッと見「弔われる側」と勘違いしそうだが、紛うことなく彼は生者で「弔う側」の人間だった。同族を見つけた時の常で、環は腕を千切れんばかりに振ってけたたましい声を上げる。
「あ、鬼頭センセ、こっちこっち!」
「ヨォ――相ッ変わらずウッルせェなァ、ケバケバしいなァ、エ? 仏さんはどんな具合だ、こン中か?」
そう言って、まるで眩しくて堪らないという風に曇天を見た。
ピョコピョコと握手をしに歩み寄る環を尻目に、寅吉は苦笑した。
「心外ですね、鬼頭先生。ウルサいのはたった一人ですよ。俺は葬儀屋然とした慎ましやかな態度で――ご遺体はこの中ですよ。二階の端の部屋。キレイなモンです」
「綺麗? きちんと死んでいるんだろうな」
「そりゃもう。アジの開きのようにしっかりと。冷え切ってコチコチのパサパサですよ。うちの社長がバタバタするモンだから、叩き起こしちまうんじゃないかと気が気ではなかったですけどね。幸いにしてそんなことはなく――ちゃんと彼岸の住人のままですよ」
「そりゃよかった」
鬼頭は不謹慎にも言った。
「以前、一時的な脳死に陥った患者の検案に呼ばれたことがあったがね。何かの弾みで急に息を吹き返して――ありゃたまげたな」
鬼頭篤太郎は医者だった。
けれどその情熱がメスの切先を通じて生ある者に向けられることはほぼなかった。
彼はかつてこの県の検視官で、引退後の今はある条件に合致した死体だけを診ていた。
寅吉も環も鬼頭も、三人は死者の取り持つ縁によって繋がっていた。
この場合の『死者』というのは、ある特定の一個体を示すものではなく、不特定多数の、謂わばかつて魂の宿っていた抜け殻の総称だった。死なくして、この三人の運命はけっして交わらなかったであろう。けれど一度知り合ったが最後、三人はキリスト教でいう三位一体の盾のように、『EST《である》』と『NON EST《ではない》』の似て非なる因果性で、寄り添って生き続けることを余儀なくされていたのである。
それは謂わば『運命の黒い糸』で――一服を終え、連れ立って吹き晒しの外階段を昇ってゆく後姿にも、不可視ながら存在していた。
「でもホントにキレイな死体なのよ」
環のはしゃぎ声が辻風と共に舞った。
「さぞかし活きの良い新鮮な『魂』が手に入ると踏んでいるのだけれど――それは開けてのお楽しみ!」
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