ミハシラ=アーカイブス (4)



鬼頭医師の一喝で議論は収拾し、鬼頭医師がおもむろに世にもグロテスクな作業を再開すると、環もまるで何事もなかったかのように言葉を継いだ。


長い長い無駄話。


けれどただの音の振動という意味では、モーツァルトやヴェルディの鎮魂歌レクイエムに匹敵するものだと、環は固く信じていた。


第一、念仏やお経だって残された聖者のためのものであって、死者のためではない――死人に口無しとは言うけれど、耳だって無いのだから、というのが彼女の弁だった。




――まあ兎にも角にも(以下環の話)、まったく別物だと思われていた二つ以上の概念が永い時を経て大本流に合流するなんてものは、神秘的こそあれど有り得ないことではないわけよ。むしろ私は全ての事象は一つの存在を祖とし、無際限に広がって行くかのように見せかけて、また一つに収束するものだと思っている。


ホラ、宇宙の始まりをビッグバンとするならば、無次元の特異点に収束する終焉をビッグクランチって呼ぶ説があったじゃない。私はその莫大な、気も遠くなるような周期サイクルを以って宇宙は巡っているのだと信じている。


そう、脈拍のようにね。


ホラ、輪廻転生とか互いの尻尾に噛みついた二匹の蛇ウロボロスとか、人間って環状現象ループが大好きなものだと思うのよ。洋の東西問わず、そうした概念は存在しているし。


――で、なんだっけ?


ああそうそう、だからね、昔っから――アダムとイブが林檎食べちゃった時以来かどうかは知らないけれど、おサルさんよりゴチャゴチャと物を考えるようになってからずっと、私たちは散々生と死について考えてきたわけよ。こうかもしれない、いやこっちのほうがずっと説得力があるって議論を交わしてね。結果、世界には沢山の宗教が生まれて、同じくらい沢山死の捉え方が生まれた。


一言に『死』って言っても、その認識は千差万別バッラバラでね。


どこまでを『生』、どこからを『死』とするかという線引きはとても難しい。


従来の医学における『死の三兆候』は即ち呼吸の停止、心拍の停止、そして瞳孔が開くことを意味していた。でも臓器移植の必要性が認め始められると、脳の活動の中止――つまり脳死を要因ファクターと考える一派が出てきた。でもまたこれが不確定ファジーなものでね。終いには『生命活動が不可逆的に止まる事』なんて定義が出てくる始末で。


曖昧模糊フワッフワでしょ?


だけどこうした議論は謂わば兄弟喧嘩みたいなもので、全部「死ってなあに?」という素朴な質問を母としているのよ。ブワァーっと議論が白熱ヒートアップして多角的になったのがビッグバン。対するビッグクランチこそ、議論の終結ね。


で、私は――私たちは何を隠そう、その収束ビッグクランチへ向けての決定的な第一歩を踏み出した立場ポジションにあるわけ。私がいつも口を酸っぱくして言っているようにね。私以外の二人がその重要性インポータンスを理解しているかは、甚だ心許無いのだけれど。


――いい?


協賛者と従業員なら、きちんとそこは肝に銘じておいて欲しいのだけれど――私たちはただの死体を穿る「社会のゴミ」でもなければ「必要悪」でもない。むしろただ生きている連中よりは、生命の根源という深淵なる提題テーマに深く携わっているという意味で、一段も二段も高尚な存在であるべきで、少なくともそう自覚はしておくべきね。自分の真価ぐらいは判っておかないと。


さて何故私たちが――『ミハシラ葬祭』代表取締役社長久世環、同従業員平尾寅吉、そして医師の鬼頭篤太郎先生が特別か、高尚かというと――それは私たちが最も早く、そして三人という考えられる限り最小の単位で『死生観の収束』を体現した模型モデルだと言うことに他ならない。


まず私たちは皆、三者三様の背景バックグラウンドを持つ代表者たちである。


鬼頭センセは純然たる科学信奉の申し子ね。


百十数種類の元素の組み合わせと原子間の物理運動的なやり取りで、全ての事象が表現できると信じている。彼にとって『死』とはさっき言った『死の三兆候』に他ならない。


過去も未来も、そもそも時の概念もなく、ただ今眼の前にある物質的状態から『死』を定義づけする。

『死』は便宜上の概念に過ぎず、色んな徴候シンプトムに代入する記号のようなものかしら。


ほら学生時代、連立やら二次やらの方程式であったでしょ? アレのXとかYみたいなものよ。ただの仮の姿フェイク。無粋の権化のセンセらしい――いやセンセ、そんなコワい顔して睨まなくてもいいわよ。別にセンセの為人ひととなりを言っているのではなくて、そういう立場――世界あるいは次元を代表しているというだけのことだから。兎も角、鬼頭センセは物質世界の観点から『死体』と向き合っているの。


次にトラキチ。


彼には論理的思考ってものがまるでないわ。お勉強ってものがまったくできず、いつも半ベソ掻いていたに違いない。頭で考えることよりも先に納得する分類タイプ。要は先人たちの残した知恵や因習を、噛み砕くことなしにそのまま飲み込んでしまうのね。だからこそ感覚的に物事を捉える。感受性や感性と言えばどっかのギフテッド教育の急先鋒が大喜びしそうだけれど、彼の場合は不特定多数の一般大衆ピーポーと無条件に通じ合える道具ツールとして、ね。イヤ貶しちゃいないわよ。これが良くも悪くも常識や、果ては社会を構築する要素なのだから。人間を人間たらしめている理由とも言える。


だってそうでしょ、物理法則や方程式にだけ従うのだったら、私らが生身である必要性が何もない。電算機コンピュータ絡繰ロボットで良くなってしまうもの。


トラキチは例えるならば物質世界の対義語としての精神世界の代表で、『死』を哀しいものとして捉え様々な民族的背景や宗教に合った葬祭プランを実践する役割があるの。遺体を持ち上げきちんとその宗派の、遺族に粗相のない棺に納める。燃やすもそのまま埋めるも、防腐処理をするもそのまま腐らせるも、人の数だけ異なる常識スタンダードがある。葬儀は基本的に生きている者たちの為のもの。きちんと『死』を現世の了見で捌くには、ちゃんと幽世の存在を信じている、自然科学思想に毒されていない騙され易い人間が適任なわけよ。


――そして最後に、満を持して私なわけだけれど。


まあその前になぜ葬祭様式が、ここまで際限なく多様化してしまったかを要約するとね。


要は活動を中止してしまった人間をどう『処理』するかという極めて物質的な問題に、『死』という極めて主観的であやふやな記号を代入してしまったことに端を発するの――イヤ代入だけだったらそれで良かったのだけれどね。後でまたすり替えれば良いのだから――本来補題でしかなかった筈の『死』が、いつの間にかより大々的な問題になってしまった所為なのよ。ノードが入れ替わってしまったというのかしら。


あるいは精神世界の問題に、物理世界のメスを入れてしまった故に開いてしまったパンドラの箱と言うべきか。


――複素数ってのがあってね。『a+bi』。まあ平たく言うと、実数と虚数が入り混じって複素数は出来ているとしているモノなのだけれど、コレと私たちの仕事ってのは良く似ていてね。鬼頭センセの科学知識――現実に根差したそれが実数、トラキチの因習や感情が剥き出しのモノを虚数とする。この二つは単体では決して交わらない。だけれど『死』っていう複素数を表す上では、両方の観点が合流することが絶対に必要なのよ。


私――久世環の役割。


それは数式の『+《プラス》』以外の何物でもない。物質世界と精神世界を結び付ける継ぎジョイント。それがあるから世界は一繋ぎなわけ。


私の専門は数多くあれど、その中でも数学と文化史という人類と宇宙の根底に深く関わるものに長年携わってきたわ。ううん、私だけじゃない――ご存知の通り父さんは俗世をないがしろにした天才科学者マッドサイエンティスト――二十一世紀以降の情報工学の在り方を根本から変えた工学博士だったし、母さんは人間を深く愛し憎みすぎる、文化宗教土着信仰等ありとあらゆる民俗学的思考の蒐集家コレクターだった。その意味では鬼頭センセやトラキチ以上に交わる筈もない二人だったのにね。何の因果か二人は結ばれ――狭間の私が産まれてしまった。


二人の長年育んできたものが一挙に流れ出し、渾然一体となり出来上がった、生まれながらにしての調停官モデレータ


これが私の自負するところ。


そんな背景があるから、私が自分のできること――イヤ私しか歩み得ない道を模索したのも当然なわけで。『生と死』という、『宇宙の根源』とか『戦争と平和』に匹敵するミステリなんてものは、まさにお誂え向きの立派な提題テーマだわ。この久世環――久世輪太郎くぜりんたろう旧姓神津民恵こうづたみえの一人娘にとって、まったく相手に不足のない。


この問題に取り掛かるにあたってまず最初に私が意識したのは、物質世界の普遍性と精神世界の言語及び文化への依存性――両者の決定的な違いね。


まあ一言でいうと、見る者の年齢国籍性別等に関わらず、ある事象の法則性が詳らかになるのが物質世界。俗にいう理系のお勉強がこういうタイプかしら。対して精神世界ってのは、考える人間の今まで培ってきた経験、育ってきた環境、喋ってきた言語等の影響を諸に受けるもので、真の意味での相互理解が不可能なものでもある。同じ国の同じ文化の人間だってその心は様々なのだから、言語や文化が違えば余計に理解の度合いは減るわね。


つまり!


――「つまり」よ、トラキチ。話はちゃんと繋がっているのだから、そんなハトが豆鉄砲食らったような顔しないでちょうだい。


つまり、私はこの問題を精神世界側サイドから取り組むために、まず一度己の性質アイデンティティ――日本という島国に生まれ、日本語話者としての久世環であるという事実に立ち返らなければならなかったわけよ。私が『死』をどういう風に捉えているか。私や私の周囲にとって生とは死とはなにか。特定の個体を表す久世環ではない、集団の中の不特定の一つ――『the《ザ》』ではなく『a《ア》』としてね。


まあモチロン一口に日本と言っても沢山の人が住んでいて、異なる思想メカニズムに基づいて生きているのだから、そうそう大それたことは言えないけれど。


でも旧い文献や古代思想、神道や仏教の教義に触れるのは、ざっくばらんにどういう『死』が日本人の性質メンタリティと合致しているのか、大よその概要アイデアを掴むのには役立ったわ。


平田篤胤ひらたあつたねという人がいてね。


江戸時代後期の国学者だったのだけれど、彼は病膏肓とした学問の偏執狂マニアだったの。学問をするうえでもまずは何より、死後の魂の行方はハッキリさせておかなきゃ罷りならんって言ってね。本居宣長発服部中庸経由、篤胤で花開いた神秘思想に『幽冥論』ってのがあってね。その皮切りとなった著作『霊能真柱タマノミハシラ』こそが、何を隠そう〈ミハシラ葬祭〉の名前の由来なのよ。


篤胤の思想は極めて論理的で、古神道のありとあらゆる側面に対する綿密な考証の賜物なわけで、トラキチ――あなたや、まるで異世界の言語のように意味不明チンプンカンプンであると信じて疑わない鬼頭センセ相手に説明できるほど単純シンプルなものではないの。だから割愛するけれど、重要なのは黄泉の国は決して定冠詞付きの死者の国なのではなく、現世とはまるで鋳貨コインの裏表のようにピッタリと寄り添った普遍の存在だということね。要は目に見えない世界〈幽界〉がそこにあるわけで、祭祀を通じて生者と触れ合う。つまりさっきの喩えで言うと現世が実数、幽世が虚数、神社や墓といった憑代は演算子プラスね。そしてなにより天地あまつちのはじまりに神々が生まれ出た場所が高天原であり、ありとあらゆる神を生んだ産霊神ムスビノカミ達もまずそこに降り立ったと。天も地も黄泉も、全部同胞はらからだということ。


つまり原始すべては一緒で、突き詰めれば分けて考えること自体が絶対ではないということなのよ。


そう――だから私は考えた。


死と生を分け隔ててしまっている要因ファクターはなにかと。メビウスの輪における捻り、幽冥論における産霊神――そのような突破口はないかと、私は見回したわけ。


――そしたらあったのよ、目の前にね。


ずっと近くにあったから気づかなかったソレ。


父の久世輪太郎博士は、特に超小型・超大容量・超安価な生物工学バイオテクノロジーとの親和性を活かした超小型記憶装置マイクロメモリの開発及び普及で知られていたわけだけれど、黎明期にさる政府高官の強烈な後押しで、首都圏の一部の大病院の新生児たちに破片チップを埋め込むことを許可した――と言うか、何も判っちゃいなかっただけだと知っているけれどね。父さん、浮世離れのド変人だったから。倫理とか道徳とかどっかに置いてきちゃった類の。


まあ兎も角、結構な額の承諾金と口止め料と引き換えに、そこそこの数の両親が実験プロジェクトに参加したんじゃなかったかしら。と言ってもせいぜい千人程度のはずよ。日本の人口からしたら、その中の千人なんて沙漠の中の砂粒みたいなものでしょ?


勿論、役人先生は利権目当てに計画プロジェクトを推し進めたわけだけれど、米粒より小さい機器マイクロメモリの取り扱いなんて知る筈もなくってね。


けれど父さんに取っては、どの程度五感と媒体メディア同調シンクロしていて、どのくらいの量をどれだけ安全に保管できるかの検査チェックだったから、そこはきちんと手を打っていたわ――『死の三兆候』と連動させて、もし生命活動つまり動力エネルギーの供給が部品メモリへ渡らなくなり内蔵の予備電池バッテリーに切り替わったとき、我が家にあるマザーコンピュータへ位置情報を通知するようにしていた。そして外科的措置で回収して初めて、研究成果メモリの確実性・安全性が立証されると考えていたのね。まあこの初期版モデルは輪太郎二十代の時の作だったからねェ。


後にもっと扱いやすい廉価版みたいなのが余所で開発されて、すっかり政府との連携も断ち切れになったわけだけれど――父さんが死んで二十数年。ふとピーピーピーと鳴った、あの時の新生児の一人が初めて天寿を全うする音を聴いた時、私は閃いたのね。


祖先の御霊が黄泉の国に渡り、陰ながらにして現世の子息たちに干渉するというのが精神世界の定石スタンダードだと言うのなら、手始めに『死』を物質世界に具現化して定着させられないか。つまり人間が人間たらしめている人間性あるいは記憶を、そっくりそのまま冷凍保存されたマンモスのように保存できるんじゃないか。こうすれば人類の過去を顧みるのに必要な情報データはすべて一ヶ所に集結することとなる。歴史上のありとあらゆる出来事を善や悪と断定するではなく、ありのままの姿で展示する巨大書庫データベース。こうして蓄えられた知識は、触れる者の糧となってまた後世へと紡がれる。


私たちは、科学がいかに進歩しようとも、記憶の体系メカニズムを自然の摂理――そう、自然科学でいう『食物循環』――生産者・消費者・分解者のサイクルに一切近づけさせようとしなかった。



――それもあの日あの時まで。


この久世環が思い立ったがその日。偶々父さんの葬式をやったときの業者の名刺が転がり出てきて、何の気なしにダイヤルを回してみたら、代替わりしてすっかり廃業寸前のトラキチが実に景気の悪そうな口ぶりで電話口に出て――それぞれが〈ミハシラ〉の許に集いて、〈ミハシラ葬祭〉の礎となったのです。


そう、〈ミハシラ〉とは生者の記憶が集まりしあのマザーコンピュータのこと。



勿論名付け親は私で、父の代にはアルファベットと数字だけの温かみのない名前が付いていたけれど、これは前世の不確かな記録に過ぎず、創世の前の虚空のようなもので――


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