ミハシラ=アーカイブス (6)



(詩篇二十三は青表紙のノートに収められた百五十篇の中でも、特に『無垢の追想』の標題を与えられたものである。乱雑に走り書きされたその上部には、二重線で掻き消された『いつまでも主の家に』『死の陰の谷を抜けし罪なき羊』『常冬の終わり』等の没案も記されている)


夜ごと朝ごと惨めに生まれつく人あり。


朝ごと夜ごと幸せと喜びに生まれつく人あり。


朝も夜もなく、明るい白夜、常闇の極夜に生まれつき、


来る日も来る日も冷たく凪いだ檻の中で、


眠りもせず起きもせず無意識に身を任せ、


心の臓は分針のリズムで、


呼吸はページをめくるようにゆっくりと、


ただ只管ひたすら時の流れに身を任せ、


父も母も友人も逝く日を待っている。


待っている。


待っていた。


この白の天蓋が取り除かれん瞬間ときを、


夜の帳が開けるように、懐かしくも新しい世界を待ち望み、


同時に孤独と怖れに身を震わせながら、


羊水が如き安心感と温かさに護られて。


朝ごと夜ごと幸せと喜びに生まれつく人あり。


終わりなき夜――あるいは。



夜とも朝ともつかぬ〈ねじれ〉に生まれつく人もあり




     * * *




閑話休題。


〈ミハシラ葬祭〉の殆どは出張業務である。


ゆえに住所は登記上の名目でしかなく、遺体の回収ついでに委託先の斎場あるいは安置所へ運び込むと、環と寅吉はすぐさま居心地の良さそうな環の生家に引き返し、環は文字通り自分の家だからとだらしなく寛ぎ、寅吉は借りてきた猫のように大人しく隅っこで机仕事デスクワークをするという慣わしになっている。

 

その日も例外ではなく、浮世ならぬ幽世の垢を洗い流すと不謹慎な冗談を飛ばして行水シャワーに向かった環が、濡れ髪にバスローブ姿という出で立ちでフラリフラリと居間へ戻ってみると、大熊のような寅吉がのっそりと言いつけ通りに『大須邦明氏の記録』を〈ミハシラ〉にセットしている最中だった。


〈ミハシラ〉は早い話がモノリスの形をしていて、久世家の敷地の大半を吹き貫き陣取っている。普段寅吉がまみえているのはほんの氷山の一角のようなもので、その実、家の中に〈ミハシラ〉があると言うよりは、屋敷が〈ミハシラ〉をうっすらと包み隠すように建っているらしい。傍目には立派な白い四角四面のモダニズム建築なのだが、その正式な間取りは跡取り娘の環にも判らないという。


千人いた被験者たちにも、天に召される時期の流行り廃りでもあるのだろうか。当初は本当に環の気まぐれで、名前こそ変わったが中身はそのまま〈平尾葬祭〉の四代目としてひっそりとやっていた寅吉も、近頃は〈ミハシラ葬祭〉寄りの業務が軒並み増えている。


環は剥き出しの脚を無作為に肱掛椅子ソファーの上に投げ出し、重いガラス製の灰皿をたぐり寄せながら言った。


「さあ大分あなたもいい加減、その素晴らしき文明の機器の扱い方に慣れてきた頃でしょ? そろそろ私も社長らしくどっしりと構えて、采配を振る立場に専念しようかしらね。今日も今日とで遺体の脚の方持たされ――重労働は性に合わないのよ」


そうペラペラと喋りながらも、環は動作ジェスチャーで寅吉にああしろこうしろと指図していた。それはあたかもテレビの点きが悪いと文句を言う悪妻のようで、艶めかしいと取れなくもない環の無防備な格好もあって、色めきつつも仲睦まじい光景のようにも見える。しかし当の環に如何なる妖艶さも淫靡さもなく、無菌状態にあった環曰くの「凪いだ歳月」が彼女を無垢なまま育て上げていた。幼いころから様々な死体――男の女の老人の子供の事故死自然死殺人と、ありとあらゆる死の匂いをたっぷりと吸い込んできた寅吉にとっては、環はまさに吹き荒ぶ北風だった。新鮮過ぎて、肺が痛む。そしてその鮮烈さに思わず身を竦めひれ伏すのである。


手先の不器用な寅吉がなんとか無事に〈記憶〉を〈ミハシラ〉に繋ぎ、スライド式のスクリーンを引き降ろし準備が万端になったことを伝えると、環はビールの缶を高く揚げて(彼女はワインよりビール派だった)無邪気に叫んだ。


「よぉーし、スタンバイ。さん、にぃ、いーちぃ……」


「チョイと待ってくださいよ。灯りも消さなきゃならないんだから、そんな急に……」


「ゼェーロォ!」


勢いに押し負けた寅吉がなんとか灯りを落とした室内に、大須邦明氏の〈記憶〉――薬箪笥のように小分けになった、死者の記憶の表玄関がピカリと浮かび上がる。


これを〈門扉ポータル〉と言う。


睡眠覚醒等のα波の増減を敏感に感知し、その時点を一段落とする。


環曰く、記録媒体の品質的観点から言うとこんなものは百害あって一利なしのお節介なのらしいのだが、八十年にも及ぶ視覚情報が全部一繋ぎにならないだけマシだと、寅吉は思っていた。


如何に久世家のスクリーンが壁一面を覆い尽くす巨大な幕といえど、サムネイル化した老人の記憶の断片を全部並べるには一千枚分ほど足りなかった。ゆえに新しい方から古い方へ向かって並び替え《ソート》し、一枚スライドにつき三秒ほどという高速ハイスピードで寅吉はキーボードを叩いてゆく。その度に、画面は動画百個分ほど過去へと遡って行くのである。


環がぶっきらぼうに言った。


「随分とぼやけてるわね。画像サムネが」


「そりゃそうですよ。当人の頭もぼや――アレ?」


寅吉は不意に言葉を区切って、その濃く太い眉毛を寄せて画面を睨むと、


「妙ですね。所々妙に鮮明なのがある」


「当たり前じゃない。健常な大人だって寝起きは眠いし、夜遅くもまた眠い。意識の度合い《レヴェル》は一日の間にも高くなったり低くなったりするのだから、斑だってなんの不思議でもない」


「イヤそうなんですがね。その鮮明な一部の映像が、皆パッと見、似ているような――」


百を超える膨大な量のサムネイルを前に、環はクルクルと忙しなく玉虫色の瞳を動かした。


「フゥム、たしかに。なんか人型のものが、同じ背景バックを前にしているわね。試しにどれか再生してみ」


「ヘイヘイ」



寅吉が適当なアイコンを一つクリックすると、部屋は一瞬パッと漆黒の闇に包まれ、場面の転換を告げた。



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