ミハシラ=アーカイブス (8)


――お前の種だ。半信半疑だったが、まさか本当に植わっていたとは。


――私も信じられませんよ。こんな消しカスのような物を、無傷でほじくり出した神の手が。


――それに依れば、お前も少しは自分自身を学べるかもしらん。


――『学ぶ』。言い得て妙。『思い出す』ではないのね。新たに自分を――過去の自分を学ぶ。面白い。中々独創的ユニークで――痛むわね。


――当たり前だ。生え際の上とはいえ、穴を穿ったのだから。


――ああ印度教ヒンズー湿婆シヴァや仏陀の白毫のような第三の眼が湧き出てこないものかしら! 眼さえあれば、意識することなく情報が入ってくるのに!


――怖いのか? 自分おのれることが。


――怖い? 違うわね! ただ過去を旧き未来を新しきという常識の中に生きている身にとって、急に方向感覚がなくなりそうで迷いそうなだけよ。何せ、今までずっと同じ方向ばかり向いていたんですもの!



     * * *



津山つやま沙世、旧姓大須は伊勢原に住んでいた。


旧い農耕文化とベッドタウン化の狭間に育ち、また都市化に見放されて久しい土地で、山と海と都会の三竦みの引力を等しく受けていた。


環のスポーツカー(自身の服装と釣り合いを取るかのような毒々しい真黄色。流石に死者の許へはそれで向かわない)はその種類の例に漏れず狭苦しく、殆どの日本人よりは上背で大半の白人よりは座高の高い寅吉は、ずっと頭の天辺が摩れる苦行に我慢せざるを得なかった。


環は環で、朝からムッツリと押し黙っていた。


彼女は車も好きでドライヴも好きなのだが、五百六十馬力の愛車に日本の公道をノロノロと走らせる行為を、まるで天皇杯を制したサラブレッドに荷馬車を引かせるが如き冒涜だと信じていた。しかしそれを思い出すのはいつもエンジンを蒸かして三十分が経った頃で、かといってずっとガレージの肥やしとなり埃に塗れて行く様を見るのは、余計に苛々するという困った気質を持っていたので、寅吉は黙って彼女を不機嫌にさせておいた。


もっともこの日に限り、原因はそれだけではないはずだが。


絵に描いたような中産流階級のマンション(オートロックはあってないようなもの)の扉の前。


寅吉が意を決して呼びインターフォンを押してもすぐには返答がなく、気まずさと大山から吹き降ろす寒風が二人を包んだ。


寅吉は言った。


「留守ですかね」


「イヤ今日パートはないはずよ」


環が至って当たり前のように返した。


「もう一回押してごらんなさいな。気配はする」


寅吉が言われるがままにすると、躊躇ったような間をおいてガチャリとドアノブが回った。チェーン向こうに覗いたのは、警戒心の強そうなごくごく平凡な中年女――けれどそのどこか爬虫類か両生類染みた顎のなさが、昨日の遺体とよく似ている。


――間違いない、大須邦明の娘、津山沙世だと寅吉は確信した。


中年女は扉を盾にしたまま、張りのない声を上げた。


「はい。どちらさま」


「突然お邪魔して申し訳ありません。私は平尾寅吉と言いまして、〈ミハシラ葬祭〉と――」


よくある二人組の宣教師と早とちりしたのだろう。「間に合っています」と急に言われ、ゆっくりとはいえいきなりドアを引かれ、寅吉は反射的にブロックのような足を隙間に挟み込んだ。マズいこれじゃ押し売りだ、と思いつつも、努めて平静に続けた。


「待ってください。セールスじゃありません。津山沙世さん――いや、大須沙世さん。私たちは、あなたのお父上――大須邦明さんのご意向でこちらへ参りました」


その名を聞き、寅吉は革靴越しに沙世の僅かな動揺を感じ取ったが、気のせいと言えなくもなかった。


チェーンが外され、亀のような女が甲羅から姿を現した。


「どうぞお入りください」



環と寅吉はその言葉に従った。



     * * *



時は春、


日はあした


あしたは七時、


片岡に露みちて、


揚雲雀あげひばりなのりいで、


蝸牛かたつむり枝に這ひ、


神、そらに知ろしめす。


すべて世は事も無し



          ――ロバート・ブラウニング『春の朝』(上田敏訳『海潮音』所収)



     * * *



「大したおもてなしもできませんけれど」


そう言って女は、紅茶の入ったティーカップと袋詰めのお茶菓子を差し出した。


「いえいえお気になさらず」


寅吉は温かいものだったら何でも大歓迎な気分だったので、ありがたくそれを両手で受け取ると、他人の家に上がった時の常で部屋をぐるりと見回した。


白黒テレビ・冷蔵庫・洗濯機が三種の神器と崇め奉られていた頃から日本に一貫してあるライフスタイルで、一家四人――それ以上でもそれ以下でもない『四』という単位のために誂えられたような空間だった。


テーブルは四角、二対二で向かい合う。


テレビに面したソファーは二人掛けで、四人が一堂に会すことはほぼない現実を物語っている。内装インテリアは適度に少女趣味で、人形を並べることで微かな女性性の反逆を試みているかのようだった。津山沙世は、二人の男子の母親なのだった。


寅吉は頭をポリポリと掻きながら詫びた。


「急にお尋ねして本当に申し訳ありません。改めて自己紹介させていただくと、私は平尾寅吉で〈ミハシラ葬祭〉という葬儀会社の社員で、こちらが――」


「助手です」


環が電光石火の勢いでそう割り込んだ、寅吉は大いに面喰った。


更に、追い打ちをかけるが如く言い放つ。


「久世環。ただの助手。お付き。下っ端。どうかお構いなく」


寅吉がすがるような視線を送るも、一向に取り付く島もない。理由はよく判らなかったが、完全にヘソを曲げているらしい。


これには津山沙世のほうが気を遣って、話を進めた。


「父――大須邦明さんのことですね。私はずっと大須姓を名乗っていましたが、父に一度も会ったことはありません。親戚同士の交流もなく、ただ一人父のことを知っているであろう母も病気で、もうずっと厚木の方で入院しています。意識が戻らず――まあほぼ植物状態ですね。そりゃ名前ぐらいは知っています。戸籍にありますもの。けれどそれ以外の情報コトは、もう誰も知らない――いや、気にも留めないでしょう」


思いのほか刺々しさを帯び始めた語調に、寅吉は察して言った。


「と仰られますと、お父様についてなにかご存知ですね?」


「私に父はいません」


沙世は断言した。


「産まれる前からずっといなかったんです。母はずっと女手一つで私を育て上げました。母は二言目には必ず――便宜上こう言いますが、『父さんはロクデナシだ』『映画なんかに現を抜かしているだけならまだしも、女癖も悪い無責任極まりない』――と口を酸っぱくして言い続けていました。母は学生時代、父と同じ映画研究会に所属していたみたいで、マニアックでオタッキーながらも真剣な父の姿勢に惹かれたようです。でも母は口ではそう貶めていても内心は父のことを想い続けていたのでしょうね。母にとって父は堪らず憎い反面、どうしようもなく美化された存在でもあったようです。その証拠に、母は籍を抜きませんでしたし――父のことを必ず『父さん』と呼んでいました」


寅吉は頷いた。


環の論理の中で、大須邦明氏が生でも死でもない世界を彷徨っていたのと同様、彼の生きていた頃の痕跡イメージもまた人それぞれな捉え方をされていた。そして同じ視点パースペクティブの中でも認識に表と裏があり、果てはそれらがメビウスの輪的な捩れの様子を呈している。考えてみればそれは不思議でもなんでもなく『嫌い嫌いも好きの内』とか『可愛さ余って憎さ百倍』とか、もっと端的にいえば小学生が気に入っている女の子にわざとイジワルをするような普遍性ことにも表れている。それは謂わば世界の模型ミニチュアで――ニュートンの万有引力がリンゴに適用されるのと同様、世界のあらましは大須邦明氏ニンゲンにも当てはまる。


ところが今――大須邦明氏の存在はうしなわれつつある。


小世界が消えつつある。


寅吉が言う。


「ではお母様の大須佳世さんにはお話し――」


沙世は肩を竦めた。


「できないでしょうね。イヤ私が許す許さないじゃなくって、会っても何もならないということです。娘の顔も判らない――朝も夜もない、生きているか死んでいるかもハッキリしない状態なのですから」


口調こそ激しかったが、沙世の顔には紛れもない深い憂いと疲れの色が浮かんでいた。高税金・低保障の世の中。実母――『ただ一人の肉親』の長期入院は、肉体的にも精神的にも金銭的にも相当な重荷になっているに相違なかった。


どこか憑かれたように話していた沙世が、ふと思い出したかのように言った。


「そういえば、さっきからどうして父の話ばかりなさるんです? それに確か〈ミハシラソウサイ〉って――ソウサイってお葬式の葬祭でしょう? まさか――」


そう訳有り気に口を噤む沙世に、寅吉はなるべく真剣そうな表情を取り繕い、重々しく言った。


「はい。これをお伝えしなければならないことは大変心苦しいのですが。お父様――大須邦明さんは、おそらく昨日亡くなりました」


「おそらく?」


衝撃的ショッキングなことを報された人間の常で、沙世は予想だにしていないところに食いついた。


「はい。残念ながらお父様が旅立たれる瞬間に居合わせた人間はなく――ただご安心ください。事件性はなしと判断され、純粋な老衰だったようです。安らかなお顔をされていましたよ」


それから寅吉は粛々と、邦明氏が住んでいたアパートは独居老人のための、保証人も要らない代わりに『有事の際の』積立金を納める式になっていたこと、遺族の存在すらも周囲には知らされていなかったこと、ゆえに連絡が遅れたこと、最も簡素な葬儀形態(と言う名の焼却処分)なら氏の積立金から充分賄えること等を伝えた。


その間、沙世は極めて冷静に――哀しみも怒りもない、対岸の火事をじっと観るような落ち着きを以って話を聴いていた。


寅吉は続けた。


「なぜ私がこうして『今更』津山沙世さんのお宅にお邪魔したかと言いますとね。遺言書といいますか、故人からの伝言メッセージがあるからなのですよ」


「メッセージ?」


「はい」


寅吉がそう言うと、環が無作法一歩手前のガサツな動作でダンとポータブルプレイヤーを置いた。津山沙世きゃくに渡せるよう、遡ってもう少し明瞭な動画ビデオレターを見つけ、昨夜の内に寅吉がディスクに焼いておいたのだ。


沙世は全身を目にし耳にし、己が血流の中に感じつつも遂に巡り合うことのなかった父の姿を認識しようとした。その表情は独特で、なんらかの感情が沸き起こっているのは確かなのだが、それが厳密には何なのか判らない不気味さがあった。まるでうっすらと鱗で秘匿カムフラージュしているかのようで、やはり爬虫類染みた奇怪さがあった。乾いた街の乾いた死のシーンに切り替わってもその印象は一緒で、ピクピクと小刻みに指関節が震えるのは、姿も声も無きカメラマンの姿を探っているのだろうか。


邦明氏のいささか預言者染みた口調が結びの言葉を告げると、死者の思念メッセージを取り囲んでの三人は、得も知れぬ沈黙に包まれた。


寅吉は沙世を、沙世は父の映っていた画面モニターを、環は宙を見つめていた。暫くして沙世はようやく口を開き、その声はそこはかとなく父親を匂わせる、不吉ながらも敢然しっかりとしたものだった。


「その動画――伝文レターではなく、戦場の取材レポートのほうはいつ撮られたものなのですか?」


寅吉は予想外の質問に目を瞬かせた。


「え? そうですねェ、私は世界情勢には疎いモンで、これがいつどこで撮られたものかはちょっと――」


「二〇××年四月八日」


突然横合いから発せられた声に、寅吉は飛び上がった。その声の主は紛うことなく環で、けれどその口調トーンにはいつものどこか茶化すようなところがなく、凍土のように冷え切っていた。


「かつての△△国の国境近くの紛争地帯です。内戦とよく呼ばれましたが、国外からの参戦も多く、政治紛争のみならず宗教戦争あるいは宗派対立の面も色濃く見られ、戦況は著しく泥沼化。多くの難民を生み、他国の武力介入を快く思わなかった過激派は、粛清という名のテロ行為を世界各国あちこちで敢行しました。日本はごく初期に民間人を拉致監禁拷問の挙句に殺害されまして、政府は早々に全面渡航禁止令を敷いたのですが、血の気盛んな平和主義者たちは黙っちゃいなかったんですね。ネットを存分フルに活かし、あの手この手で密入国を果たしては報道ジャーナリズム活動に精を出していた――ようです」


環はふと取り繕うかのようにそう言い添えると、物哀しい表情かおをした。


「なぜ厳密な日付が判ったかって言いますとね、書庫アーカイブにあったんですよ。ネットで画像検索をかけると色合いや画素ピクセルを分析して類似画像を提示するように、動画も謂わば音声付きの連続した画像の集合ですからね、高度な算法アルゴリズムを用いれば不可能じゃないんです。うちの蔵書データベースはまだまだ見本サンプル数が少なく信頼度は低いんですが、ヒットしたんですよ――動画編集を掛けられたその動画を、ニュースで観た赤の他人が。記憶の片隅に、幾千もの叢書に埋もれて忘れ去られていたんです。そしてお父様の記憶フォルダの奥底にもそれはありました――民間のアマチュア戦場カメラマンからそれを買い入れ、民放用にモザイク掛けをしている光景シーンが。つまりですね。お父様はけっして戦地の映像を撮るために、あなたやお母様の許を去ったのではないというわけです」


一同は声もなく、環の語る突拍子もない真実に耳を傾けていた。寅吉は事実に驚いた。沙世は恐らく、答えよりもそれを弾き出した過程に戸惑いを覚えての失語だった。


やがて、漠然ながらも自分自身に納得の行く筋道ロジックを見つけた沙世は、ポツリと言った。


「やはりそうなのですね」


環は何も言わなかった。


沙世は、絶対無の表情で更に続けた。


「あなたは、もっと何か知っているわね」


無言。


倦み疲れた嘆息――判り切っていた当然の結末を、改めて目の前に突き付けられたかのような、ほとほとウンザリした長く静かな溜息が、三人の間を隙間風のように通り抜けた。


「これだけは教えて頂戴。あなたは――父の、〈記憶〉を観たのね?」


「はい」


環は素直に、ただそうとだけ呟いた。


「判りました」


沙世はガタリと椅子を鳴らして立ち上がり、感情も温度もまるでない、生も死も定かではないような表情を浮かべた。


それはどんな生者よりも死人染みていて、けれど死人程の虚ろささえも希薄なもので、その両方を同じくらい見てきた寅吉にとっても馴染みがなく、恐怖も戦慄も一歩手前の薄気味悪さを催させた。


そして沙世はこう続けた――


「判っていました」


「はい?」


寅吉が反射的にそう言うと、沙世から僅かながら苛立ちのようなものが見え隠れした。「判っていたんです。父がそんな正義感の強く、ストイックな修道者マニアではなかったことなんて、端から判っていたんです。今から二十年くらい前、私が高校生だった頃に、一度女のひとが訪ねてきたんです。母はその日も夜遅くまで仕事で、私一人しか家にいませんでした。安手のケバケバしい服装に身を包んだ、いかにも商売風のひとで――」


このとき彼女は意図せず派手な色合いの環を見やったのだが、気付くはずもなかった。


「お金の無心に来たんです。うちにズケズケと上がり込んできて、自分は父の映画の被写体モデルだった、妻帯者だとは知らずに誑かされ、駆け落ち同然で同棲したも、またある日突然フラッと家を出て行方知れずだと。子供もいるからあのひとには養育費を払う義務があるだなんて言ってましたけれど、それは眉唾ですね。お子さんの年齢を訊いたら口を濁していましたし。事実を織り交ぜていても、全部が全部真実ではなかったのでしょう。うちが母子家庭で経済的に余裕がないことを見て取ったら、夜の仕事があるだのどうの言って帰って――それっきりです」


身の丈二メートル近い寅吉にとって、見下ろされるという経験はほぼない。けれどその時、寅吉は座り沙世は立っていて、最後通告のような冷然たる言葉が氷雨のように降ってきた。


「お引き取りください。お判りでしょう、私には父なんて最初から存在しなかった。母の記憶の中だけで生きることのできたそれすらも喪われたのです。大須邦明氏の形跡はもうこの世にはなく――ただ一つの記録すらも、偽物だったわけじゃないですか。もう私には関係ないこと、最初の最初から全く無関係なことだったんです。法的な支払い義務等がないのでしたら、どうかお引き取りください。無意味で――時間の無駄です」



環はゆっくりと頷いて、思念の入ったプレイヤーを閉じた。


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