モーニング・アドベンチャー ~風子とパパの日常3~

新樫 樹

モーニング・アドベンチャー

「たいいん、みぎにいけ!」

 信号で止まった瞬間。

 突然言いながら左を指さす風子は、まだ左右がわからない。

「風子隊長、右はお箸を持つ手の方であります」

「おはし」

 左手に茶碗を持つ真似をして、右手をチョキにして食べる真似をする。

 ぱっと丸い顔に明かりがともった。

 まぁいいか。

 このまま左右を選ばせて、冒険にしてやれば。

 適当に切り上げればいいだろう。

「そろそろ信号が変わります。指示をお願いいたします」

「たいいん、みぎにいけ!」

「イェッサー」

 今度はちゃんと右を指したので、僕はウィンカーを出して右にハンドルをきった。

 時間は朝の7時半過ぎ。

 ここは未開のジャングルで、僕の車は探検車だ。

 道が分かれるたびに、隊長の風子の指示に従って車を左右に向ける。

 行く先は風子にも僕にもわからない。



 今日の僕は少し疲れていた。

 原因はわかってて、ちょっとした妻とのいさかいだ。

 どこからどうなったのか、少しは僕のことも考えてくれとつい言ってしまった一言が、妻は妻で溜めていた鬱積の袋を破ってしまったようだった。

 頭では冷静な僕が黙れと言っているのに、売り言葉に買い言葉で出てくるものを抑えることはできなくて、おまけに次第に噛み合わなくなってくる会話にとうとう僕はその場を去った。

 怒りにまかせて洗濯機にタオルをぶちこんでいるとき、玄関のドアが閉まる音がして、続いてトトトと小さな音がこちらに向かってやってくる。

「ふーちゃん、パパのかわりした」

「…そうか、ありがとうな」

 何も言いたくなかったけれど、人一倍敏感な風子に八つ当たりなどとんでもない。そう思うくらいの理性は残っている。夫婦喧嘩だってすべきじゃない。小声の応酬が、夢中で遊んでいた風子にたまたま聞こえなかっただけのことだ。

「ふーちゃん、ようちえん、いきたくない」

 けれど。

 そうだった。また今日もコレが始まるんだった。

 わりあいとうまく受け止められるようになったつもりだったけど、たかだか妻との喧嘩くらいでこんなに余裕がなくなっている自分にがっかりした。

 そして余裕がないと、風子のイヤイヤもうまく受け取れない。

「じゃあ、風子はどこに行きたいんだ?」

 そんなことを聞いてしまったのは、ヤケが半分。

 どこだったら行けるんだよっていう、僕の嫌味な気持ちが言わせたものだった。

「ぼうけん! ふーちゃん、ぼうけんいきたい!」

 けれど、風子はうーんうーんと一生懸命考えたあと、弾けるように答えた。

「冒険?」

「うん、ぼうけん! ふーちゃん、たいちょうね。パパ、たいいんだよ」

 僕の返事を待たず、風子は支度をすると言ってすっ飛んで行った。

 まいったな。

 どこに行けばいいんだ?

 幼稚園はどうするんだ。

 ふうっとため息をついて、顔を上げたら洗面所の小窓から青い空が見えた。

 今日も天気がいい。

 行く気満々の風子を変えるのは難しいのだから、僕が乗っかるしかない。

 こうして風子と二人、「冒険」という名の行き先のわからないドライブに出かけたのだ。



 だんだんと見覚えのない道に入ってゆき、気づけば本当の冒険になりそうな気配がしてくる。

 帰りはナビを使わないと家に着けないかもしれない。

「たいいん、ひだりだ!」

「イェッサー」

 やがて、小さな山の道に久しぶりに分かれ道があらわれた。

 隊長が張り切って指さす左にハンドルを切った瞬間。

「……お」

 突然、緑の世界に飲み込まれたのかと思った。

 思わず呼吸を忘れる。

 道路を挟んで両側は、一面の草原だった。

 青い空を背景になだらかに上り下りしながら、まるでそれはどこまでも果てしなく続いていくように見えた。

「みどりいろ! うみ、うみ!」

 きゃっきゃとチャイルドシートに拘束されたまま、風子がはねる。

 生えているのは雑草のようだったけど、それが風を受けて揺れるたびに白い光の波が走る。

「…ああ、海みたいだな」

 車をとめて見とれていると、隣りでかちゃかちゃと音がし始めた。

 風子がチャイルドシートのベルトをはずそうともがいている。

 少し出てみるか。

 雑草だらけの空き地なら風子が走り回っても迷惑にならないだろうと、小さな手をどけてベルトを外してやる。

「ふーちゃん、およぐ!」

 気を付けて、そういう間もなく弾丸のように走っていく風子の後ろ姿がどんどん遠ざかる。クロールのように腕をぐるぐるまわしながら。

 本当に、緑の海を泳いでいるようだ。

 ざざっと風が髪を払う。

 少しきつくなってきた日差しに手をかざすと、ずいぶんと遠くまで行った風子が手を振っている。

 手を振り返しながら、なかなかの冒険だったかもしれないと思った。

 初めて見た景色なのに懐かしいのは、僕の中の原風景に少し似ているからかもしれない。日が落ちるまで遊んだ草原はこんなに広くはなかったけれど、子供の頃の楽しい思い出はいつもそこから始まっている。

 あいつにも見せたいな。

 ふと思って、今朝の言い合いを思い出す。

 苦いものが込み上げる。

「パパ、おみやげ」

 いつの間にか戻ってきた風子が、小さな両手に大量の草や花を握っていた。

 ぶつぶつとむしってきたらしいそれはきれいな花束とは程遠かったけれど。

 きっと家に着く前にしおれてしまうだろうけれど。

「ママ、おはなすきだよ」

「そうだな」

 頭をなでると、風子は自慢げに笑った。

「さ、帰ろうか」

「ううん」

「え?」

「ふーちゃん、ようちえん」

「風子、これから幼稚園に行くのか?」

「うん」

「…そうか」

 僕はナビの案内先を幼稚園にして、車に乗り込んだ風子のチャイルドシートをセットする。

「ふーちゃん、たいちょうだから、ようちえんいくの」

 握ったままの花がばらばらとシートの下に落ちていく。黒い足元に星のように花弁が散った。車を汚すなとよく風子に言うのだけれど、今はそれがきれいに見えた。なぜか穏やかな気分だった。

 風子はすごい。

 毎日僕に、見たことのないものを見せてくれる。

 そうして、自分もちゃんと大きくなっていく。

 置いて行かれないようにしないといけない。

 僕もちゃんと大きくなっていかないと。


 そんなことを思った、不思議な朝の冒険。

 


 

 

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モーニング・アドベンチャー ~風子とパパの日常3~ 新樫 樹 @arakashi-itsuki

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