後編 【2.Amelia;神の御業】
転機
酒場の壁は張り裂けて、湿った夜風が流れ込んでいる。
むせ返るほどの血臭に、不意に甘怠い香りが混じった。
――ちきり。
撃鉄の上がる音が、ヨナの耳朶を打つ。
「動かないで」
背後に響いたのは、女の鋭い声だった。
血病の呪書との戦いで、半壊状態となった酒場。壁は裂け、床板は派手に打ち割られ、十数名の亡骸が倒れ伏している――首を落とされた保安官の姿も、そこにあった。
使い魔はすでに姿を消して、生存者はヨナひとりだ。
ヨナにとっては、少し面倒な状況であった。
かつり。
かつり。
ブーツの音が、一歩一歩と近づいてくる。
拳銃を構えた十代後半の女が、正面に回り込んできた。
「報告を受けて来てみれば……まったく。何なのよ、この惨状は」
栗色の髪を三つ編みにした、勝ち気な美貌の女だった。男物のズボンとシャツを身に纏い、腰にガンベルトを巻いている。
夕刻、駅前に現れたときには、保安官助手と呼ばれていた筈だ。
「“Book”の魔女ヨナ。君のことは、調べ済みよ。妙なマネしたら、撃ち殺すから」
よく切れる刃物のような声でそう警告し、女は慣れた手つきでヨナから拳銃を回収し、腰鞘とブーツからそれぞれナイフを抜き取った。
ヨナは不愉快そうに眉を寄せながらも、女に従うことにした。
そのほうが、結果的には楽に済む。
街中で解呪をすれば、こんなことは日常茶飯事だ。それに今回は、解呪の過程で少々壊し、少々犠牲を出したに過ぎない。血病の呪書を放置していた方が、死者は遙かに多かった筈だ。
女は酒場全体を見回して、整った眉を大きく歪めた。
血だまりに沈む十数名の犠牲者は皆、体を鋭い何かに刺突され、内側から掻き乱されて死んでいた。銃やナイフでは、そんな傷痕は残らない。
「巻き添えね。
女は嘆かわしげにそう呟いた。続いてヨナのナイフを見下ろし、
「……2本とも、血糊がついてないわね」
倒れ伏していた保安官ナサニエル・スウェルの、離ればなれの頭と胴体を交互に見つめ、首を傾げた。
「ずいぶん鮮やかな切り口だけど。
ヨナのナイフを腰のポーチにしまい込み、彼女は保安官の首を拾い上げた。
ぼたりぼたりと血が滴って、
「……ナサニエル。ろくな死に方しないとは思ってたけど。ずいぶん簡単に死んだわね」
恐怖の形相で凍り付いたまま、首は生黒く変色し始めていた。
「ふふ。何よ、怯えた顔しちゃって。あんたにも、怖いモノがあったの?」
女は意地悪くそう囁いて、首から下に繋がるように、頭を床に横たえた。
開いたままだった保安官の瞼を撫でて下ろすと、自分のスカーフをほどいて彼の首の切断痕を覆い隠した。
女が十字を切ろうとした瞬間にヨナは身構えたが、"Knife"の能力が発動されることはなかった。
目を閉じ黙祷を済ませると、女は素早く立ち上がった。
「あとで葬儀屋、呼ばなくちゃ。……あ、ダメだ、葬儀屋も死んじゃってるんだっけ。めんどくさいなぁ、もう」
床に落ちていたヨナの革篭手を拾い上げ、ヨナの左手をじろじろ見ている。
「この革篭手、しばらく預からせてもらうから。“Book”の魔女ヨナ。おとなしく同行なさい」
ヨナは左手を背に隠し、不愉快そうな顔をした。
「なんの咎だ? オレは法を犯してない」
「ナサニエルを殺したんでしょ?」
「その保安官は魔女だった。魔女同士の殺しは罪に問われない」
「魔女だけど、彼は治安職の人間でもあったのよ。保安官殺しは、れっきとした罪だもの。君を縛る法律は魔女法だけじゃないのよ」
屁理屈だ。
疲労に疲労が重なって、ヨナはだんだんと我慢が利かなくなってきていた。
頭の片隅に、ちらりと不穏な思いがよぎる――この女のナイフを奪い、胸に突き立て街を去る。それは造作もないことだ。死体が一つ増えるだけ。ひどく単純な解決方法に思えてきた。
しかし少年の思考を先読みするかのように、
「言っとくけど、あたしは魔女じゃないから。殺さない方が身の為よ」
バラの花弁に似た唇が、ずる賢そうにニヤリと笑った。
頭一つぶん低いところにあるヨナの顔を見つめて、彼女は勝ち気にこう言った。
「あたしは保安官助手のアメリア・カーソン。細かいことはどうでも良いから、ともかく、あたしに付いて来なさい」
***
……留置所に放り込まれるものだと思っていたのだが。
アメリア・カーソンがヨナを連れて行ったのは、居住区西端にある保安官の住居だった。
ガス灯の明かりで夜闇に浮かび上がる白亜の屋敷は美しく、家というより邸宅と呼ぶのがふさわしい。
他人の住居であるはずだが、アメリアは我が物顔で鍵を開け、なぜか台所にヨナを連れて行った。
「座ってて。とりあえず何か飲むでしょう?」
椅子代わりの踏み台にヨナを座らせ、キッチンストーブに石炭を入れながら、アメリア・カーソンはそう言った。
ヨナは彼女を睨みつけ、不信感も露わに黙り込んでいた。
彼女が脅迫じみた態度をとっていたのは、最初のうちだけだ。ヨナに抵抗の意志がないと見ると、たちまち態度が軟化した。
「そんなに警戒しなくていいわ。用事が済んだらちゃんと帰してあげるから」
――この女の腹が読めない。
街で大きな騒ぎを起こせば、治安職の人間が駆けつけてくるのは当然だ。
保安官が殺されたのだから、殺人犯としてヨナを拘束するのも、道理ではある。
だが、それだけではない。この女は何かを企んでいる。
ヨナが思考を巡らせていると、アメリアはいきなり言った。
「君も災難だったわねぇ。どうせあの変態保安官に、犯されそうにでもなったんでしょう?」
何を言い出すのかと思えば。
「ナサニエルはもともと狂ってたけど、魔女ファウラが絡むと余計に歯止めが利かなくなるの。君の可愛い顔と、左手の“遺言書”を見てたらムラムラ来ちゃったんじゃない?」
同情するわ、と口で言いつつ、彼女は好奇心剥き出しの視線を遺言書へと注いでいた。
不愉快な女だ。
こちらの心を乱すような発言ばかり、意図的に繰り返してくる。
――振り回されるな。冷静になれ。
ヨナは自分に言い聞かせた。
気が短いのが、自分の悪癖だ。我を忘れて行動すると、敵に足元を掬われる。先ほども、保安官に殺されかけたばかりではないか。
アメリアは、鼻歌交じりに湯を沸かし、台所で手際よく動き回っている。その背中は無防備に見えるが、実際はそうではないのだろう。
呪書を隠し持っている女が、無防備であるはずがない。
体に纏わりつかせた呪書の香りが、何よりの証拠だ。
独特の甘怠さから、ファウラの編んだ呪書であることは間違いない。おそらくアメリアは、保安官からそれを預かっていたのだろう。
嗅いだことのない香りだが、彼女はどんな
ヨナの瞳に殺意が宿る。
「ねぇ、ヨナ君。只人を殺した魔女は、“封門”だったわよね?」
殺気を肌で感じたらしく、アメリアはにっこり笑って振り向いた。
生まれながらに異常な力を持って生まれた者は、老若男女を問わず魔女と呼ばれる。そうでない者が、
「……証拠が残らなければ、封門は無い」
「バレるわよ、ちゃんと根回ししといたから。あたしが死ぬか行方不明になったら、君のせい。君の情報は連邦当局から“善き魔女”に送られる。そしたら確実に封門ね」
封門。善き魔女。
それらの言葉を聞かされて、ヨナは苦い顔になった。
“善き魔女”は十年前の魔女法制定時に現れた、連邦政府の協力者だとされている。
只人殺しを犯した魔女の情報は、当局経由で彼(あるいは彼女)へ送られる。彼はその情報の真偽を照らし出した後、真実であった場合に限り、罪を犯した魔女を裁く。裁きの手段が、“封門”だ。
「封門って、絞首刑より辛いんでしょう? 餓死だもんね。可哀想なヨナ君……うふふ」
封門――それはすなわち、“
糧を喰わねば、魔女は魔力を枯渇させ、悶絶しながら狂い死ぬ。
その醜い死に様を、ヨナも実際に見たことがある。
封門という脅威がなければ、大陸中の魔女は誰一人として政府に従わなかっただろう。
一方で、もし政府が自由に封門を行使できたならば、魔女はとっくに滅びている筈だ。
善き魔女は、届いた罪状の真偽をいかに見抜くのか。
どうして政府に協力するのか。
そもそも彼は、何者か。
多くが謎に包まれているが、結論だけは明らかだ。
只人を殺した魔女は、殺される。
「ちッ」
ヨナの唇から、思わず舌打ちがこぼれた。
苛立ちを抑えようとしたが、どうにも難しい。
体が重くて、頭痛がする。遺言書を一度奪われたせいだ。
剥き出しの左腕も、落ち着かない。
二の腕から切断されたため上着もシャツも袖が切れ、遺言書の呪臭を封じる革籠手も、アメリアに回収されたままだ。
左手から吹き出す呪臭に眩暈がする。心臓が早鐘を打ち、それに呼応するように、遺言書の拍動も速まっている。
コーヒーを淹れながら、アメリアはヨナに声をかけた。
「ねぇ、ところで「報酬額で揉めて、保安官ナサニエル・スウェルを斬殺」って書けば良いかしら」
「……何の話だ」
「ヨナ君の罪状。上に提出する報告書よ。そのあたりが無難だと思うんだけど。まぁ、ナサニエルは嫌われ者だったから、結果的にはお咎めなしで受理されると思うわよ。政府も魔女同士の潰し合いは大歓迎だしね」
アメリアは少しだけ遠い目をして、天井を仰いだ。
「……変態のくせに強かったから、街の治安維持には一役買ってるところもあったんだけどね、あいつ」
空色の瞳に浮かんでいた悲しげな色は一瞬で消え失せ、「で、殺害動機はそれで良い?」と、アメリアは再度ヨナに念を押してきた。
「どうせ勝手に書くんだろう。オレに確認する必要があるのか」
「だって……十三歳の子供に無実の罪を着せるのは、あたしも胸が痛むんだもの。本当は、君のお父さんが殺ったんでしょ? 君の持ってたナイフでは、あの殺し方は出来ないわ」
得意げな顔で、アメリアはそう言った。
「……父親?」
「あの黒髪の、綺麗な男の人。駅で一緒にいたでしょう」
「馬鹿かお前は。あれはただの使い魔だ」
父親に見えるというなら、やはりこの女は頭がどうかしている――ヨナは冷たく鼻で笑った。
「使い魔? ……“Book”の魔女の使い魔って、施呪のとき呼ぶ悪魔でしょう? でも君は、呪書を編まない主義だと聞いたわ。使い魔なんて、要らないじゃない」
「奴の思惑なんて知るか。勝手に付き纏ってくるだけだ」
「なんだ、やっぱり保護者じゃないの」
この女は、一言一言、腹が立つ。
淹れ立てのコーヒーを自分で飲みながら、アメリアは言った。
「はい。こっちが君のぶん」
迷子の子猫を見るような目をして、アメリアはヨナにもカップを差し出した。
カップの中で、ミルクがゆったり湯気を昇らせている。
「……馬鹿にしてるつもりか」
頭にカッと血が上り、ヨナはカップを叩き落としていた。
床でカップが砕け散るのと、ヨナの頭にげんこつが落ちるのは同時だった。
「ばか、食べ物を粗末にしないの! おなか減ってると思ったから、わざわざミルクにしてあげたのよ」
「っ、テメェ」
「少しくらい気に入らなくても、貰った物には感謝なさい。それが長生きするコツよ」
完全に、この女のペースだ。
「もういい、下らない小芝居はたくさんだ。テメェの目的を吐け」
ヨナは立ち上がり、声を荒げた。
アメリアは大きな瞳をしばたたかせて、驚いた顔をしていたが、
「……もう少し打ち解けてから頼むつもりだったんだけど。君は単刀直入が好きなのね」
小さなため息を付いて、肩をすくめた。
「あたしが君に頼みたいのは、ナサニエルの遺品整理。あいつが持ってた呪書を一冊、処分してもらいたいのよ」
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