窮地
「世の
魔女なら当然知ってるだろうが、血病の呪書が居るのは「あちら側」だ。大気を満たすエーテルを剥がして奥を覗く必要がある。
……ナイフの力が役に立つ。お前はオレの示した場所に傷を開けろ。その方が、手間が省ける」
「承知しました」
ヨナは静かに目を閉じた。
神経を研ぎ澄ませると、酒場の喧噪が引き潮のように遠ざかっていった。
一歩。二歩。閉眼のまま歩き始める。
空間を満たすのは、化学元素のみではない。
大気に薄く広がり、生体内部に凝縮されて、この世のありとあらゆる場には、霊的な流動物質が満ちている。
魂の素材であり魔女の能力の“糧”にもなるそれを、魔女は“エーテル”と呼んでいる。
“
大気中のエーテルは不均一に分散している。
空気の澱みや生物の動きに影響され、密度に粗密が生じうる。
とりわけ密度の薄い場所を、ヨナは探し求めていた。
薄い場所は、あちらの世界の入り口だ。
ヨナはゆっくり立ち止まり、薄く目を開けた。
ホルスターに右手を伸ばし、腰をやや低く身構える。
うつろなまなざしを宙空に向けた。天井からつり下がったシャンデリアの、すぐ手前だ。
次の瞬間、拳銃を引き抜いて、腰だめのまま引き金を絞った。
ぱん、と乾いた銃声が響く。
放たれた銃弾はシャンデリアには当たらずに、その直前で奇妙に静止していた。
場が一瞬で凍り付く。
男も女も皆一様に、宙に留まった銃弾に奇異の視線を注ぐ。
「切れ」
ヨナが呟いたときにはすでに、保安官は動いていた。椅子に座ったままの姿勢で、静かに十字を切っている。
――ざぐん。
豚の頭を落とすような、胸の悪くなる音がした。
銃弾の止まった場所に、二メートルほどの長さの十字傷が走る。
高く宙空が裂けたのだ。
それは“
ナイフの魔女は、空間を満たすエーテルに不連続面を生み出すことができる――只人の目には「唐突に空間が裂ける」現象として映るはずだ。
十字の傷は、水膨れするように広がっていった。赤黒い割れ目がじくりと覗く。
その傷口の奥で、四角い物が昏く光った。
じくり、どくり、不気味な拍動が聞こえ始める。
それに呼応するかのように、呪われた左腕が、どくり、どくりと大きく拍を打ち始め、少年は忌々しげに舌打ちをした。
思考を止めて凍り付いていた只人たちが、我に返ってざわめき始めた。
一目散に逃げる者。腰を抜かして這いずりながら、出口に向かう者。――お前たちは賢明だ。さっさと逃げろ。逃げ遅れの
ここは今から、オレの狩場だ。
ヨナは銃口を、まっすぐ傷へと向けた。
傷の奥で息を潜める、あの赤黒い呪書へと。
「喰い殺す」
宣言された瞬間に、澱みの奥の呪書がぶるりと震えた。
呪書が殺意を込めて、ヨナを見た。
ぐきゅり。ぐりゅり。
咀嚼音に似た音の直後。
ぶしゃと弾けるようにして、呪書から赤黒い闇が幾千本と噴き出した。
血と闇を練り合わせて触手を形作ったそれは、絡まりあって一直線にヨナを襲う。
少年はわずかな動きでそれをいなし、次々と押し寄せる溢出物をかわし続けた。
粘菌を思わせる触手が、攻撃範囲を広げていく。
空間に刻まれた十字の傷を自ら押し広げるように、さらに大量の触手が溢れて店全体に襲い掛かった。
腹をえぐりぬかれて叫喚する女。
恐慌に陥ってむやみに銃を撃つ男。
只人の殺害を禁じる魔女法だが、呪書破壊の過程で只人が巻き添えになってたとしても咎められない。まさに穴だらけの悪法だ。
天井のシャンデリアが叩き割られ、血煙にガラスの雨を降らせている。
一つしかない出口に人が殺到し、まさに地獄の様相だ。
ヨナはそれを見て眉を寄せ、
保安官は、死角を突かれないよう部屋の隅に移動していた。
自分に向かってくる触手だけを切り防ぎ、顔に喜色を浮かべながらヨナの一挙一動を見つめていた。
「おい、ナイフ! 貴様は保安官だろう。邪魔な只人どもを、さっさと追い出せ」
保安官は「放っておけば良いのに」と言わんばかりの態度で肩をすくめてから、手指を大きく踊らせた。ハリケーンに襲われたかのように酒場側面の壁が派手に裂け、外の空気が吹き込んだ。
逃げ道を得た只人たちが、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
店内に残る生き物は、少年と保安官と呪書だけになった。
襲い来る。
槍の穂先に似た先端が、ヨナの影を刺突した。
影だけを。
ヨナは宙に身を躍らせて、傷口めがけて銃弾を撃ち込んでいた。
呪書が悲鳴を上げる。
子猫のしなやかさでトン、と着地した少年は、振り返りざまにもう一発。
呪書は殺意をほとばしらせた。
天地左右の四方から、濁流の闇が押し寄せる。
跳び
只人を凌駕するその跳躍能力は、まさに魔女のそれだった。
一跳びに三メートルを超えて、ヨナは銃を構えた腕を、十字の闇に突き込んだ。
本体を撃ち抜く。
泡の弾ける音がした。
赤闇色の血病の呪書が、みるみるうちに沸騰していく。
本の形を失って、悲鳴のような突沸音を吐き散らし、呪書は飛沫と化してゆく。
少年はそれを吸い込んだ。
宙を仰いで立ち尽くし、深い呼吸を続けている。
空間の傷から漏れ出す赤黒い霧を、少年はすべて喰い尽した。
鉄臭い、血病の臭いが立ち込めていた。あの女の呪書に特有の、甘怠い香りが混じっている。
――吐き気がする。
力を得たにも関わらず、吐き気で鳥肌が立っていた。
母親の呪書だからだ。
母親の遺した物に触れるたび、ヨナは不快で堪らなくなる。
どくり。どくり。左手の“遺言書”が早鐘を打っている。
鈍い痛みを伴って。
――うるさい、黙れ。
ヨナは自分の左手を睨んだ。
この掌は、開かない。
物心つく前から、一冊の呪書を握ったままだ。
掌に、寄生樹のように不気味な根を刺し張り付いているのだ。
あまりにも醜いので、今では革篭手で呪書ごと腕を覆うことにしている。
これは母にかけられた呪いだ。
今はまだ発動状態にはないようだが。今後どんな災厄をもたらすのか、ヨナは知らない。
ファウラ以外は、誰も知らない。
ヨナの心拍に同調するかのように、“遺言書”は不気味な拍を刻むだけだ。
時限式の爆弾を握らされている気分だった。
――殺したい。
殺したいのに、ファウラはすでに死んでいる。
左手が、理不尽な怒りに震えた。
ヨナは母親への憎しみに気を取られていた。
不意打ちだった。
どぷっ。という音を聞いたとき、ヨナの左腕はすでに切り落とされていた。
肘から血が噴く。
ぽとりと落ちた左腕が、床板を赤く染めている。
「…………くっ」
ヨナはその場にくずおれた。
息ができない。
何が起きたか理解しようと――息が。頭がまともに回らない。
息ができない。
腕が失われたからではない。
心臓が、正しい拍を刻まないからだ。
「っ、ははは。はははははは」
床で這いつくばる少年を見下ろし、堰切るように笑い出す者がいた。
目を見開いて唇をいびつにゆがめ、狂った喜声を挙げている。
「…………テメェ」
憎悪の瞳で、ヨナは保安官を見た。
「ああ……最高の美酒だ。ファウラの香りそのものだ」
保安官――“Knife”の魔女ナサニエル・スウェルは、拾い上げた腕を抱き寄せて、切断面から滴る血を、恍惚の顔で啜っていた。
「ヨナ。君はファウラの生き写しだ。殺すのは惜しい。――だが、」
しびれた声で、そっと囁く。
「私はファウラの子供より、彼女の最後の書が欲しい」
胸を掻きむしって喘ぎながら、ヨナは理解した。
――ありふれた血病の呪書を餌にして、この男はオレをおびき寄せたのだ。
オレから
スウェルは、篭手の留め具をすべて外した。
血の気のない剥き出しの細腕と、その掌に癒合している深紅の呪書が露わになる。
根を張るように、呪書から伸び出した血管が掌に食い込んでいる。呪書は乱れた拍動を続けていた。
「美しい。これがファウラの“遺言書”、最後に綴った呪書なのか。まさかこの手に抱く日が来るとは」
興奮した顔で、スウェルは少年に語り掛けていた。
「あのファウラが自分の命を代償にして、君に与えた呪いとは? それが如何なる物なのか。他者にも転用可能な物か。当代の多くの魔女は、“遺言書”の正体を知りたがっている。
見たところ寄生型・
ファウラが何の目的でどんな呪いを構築したのか。――この書には、その答えがある」
スウェルは“遺言書”を開こうとしたが、表紙に食い込んだヨナの五指が邪魔だった。“Knife”の能力で、すぐさま指を切り落とす。
掌に癒着するだけの状態になった呪書の表紙を嬉々としてめくる。
スウェルは目を見開いた。
表紙の内側は、本と呼ぶべき代物ではなかった。
鮮血の色をした
……文字ではない。本物の血管だ。
心臓に張り巡らされる大小さまざまの血管を想起させる、読解不能な構造物。
生体の心組織のように、すべてのページは連動しながら奇怪に脈を打っている。
スウェルは恐怖に似た困惑を覚えた。
――これは、何を為すための呪いだ?
“Knife”の魔女とて、呪書は読める。読んで概要を理解する程度のことなら、通常はできる。
だがこれは何だ。
心臓そのものをただ書物の形に押し込めたようにしか見えない。これではまるで、ア――
ごろり。
スウェルの頭が落ちた。
首から下の胴体が、力を失いぐらりと傾く。
“遺言書”とヨナの左腕も、床に打たれた。
その左腕を拾う者あり。
シルクハットから靴先までのすべてが黒の、紳士然とした青年だ。
優雅な所作で腕を拾うと、瞠目して這いつくばる少年に、かつりかつりと歩み寄る。
『心臓を手放すな。あの程度の魔女に奪われるとは。だから貴様は、未熟なのだ』
カラスは唇にいつもの笑みを浮かべながら、静かに左腕を差し出した。
少年はそれを引っ掴み、切断面に押しつけた。
切り離された腕から新生血管が伸び出して、肩から先の腕に吸い付き、たちまちひと繋がりになった。
呪書の不揃いな拍動が、少年の心音に同調していく。
床に落ちていた五本の指も、血管にからめ取られて再生した。
「………………うるせぇ……使い魔の、分際で」
絶え絶えの息でののしりながら、ヨナは呪書を睨んでいた。
――この“遺言書”を手放せば、オレの心臓は止まる。
初めてそう知ったのは、数年前。
醜さと恐ろしさに堪えきれず、荷馬車にひかせて腕を切断しようとした。
結果、やはり死にかけた。
切り離したくてたまらなかったこの左腕を、息絶え絶えに求めてすがりついてしまった。
なんという屈辱か。絶望か。
「……畜生」
なぜオレばかりがこんな目に遭う。
なぜ母親に、得体の知らない呪いを掛けられなければならない。
「畜生!」
そんな少年に寄り添って、ともに泣いてくれる者など居ない。
カラスは静かに見下ろして、三日月の笑みを浮かべるだけだ。
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