あの国
「あの国は、無知が支配している」
あそこで腐っていくことに耐えられなかった。思考を止められるのがひどく嫌だった。
あの国に残った連中は、自分たちの価値観を、道徳を、正義を、一切疑わない。
あの国を疑えば、それだけで人権を否定される。
小学校の時から、俺にはそれがひどく気味の悪いものに思われた。
どの国もそうなのだろうか。
この気味悪さはこの世界で俺だけが持つものなのだろうか。
知りたくて仕方がなかった。でもあの国にいる限り、その答えは絶対に見つからない。
あの国では、先生の言うこと以外を知ろうとしてはいけないから。
生まれる前にあの国から消えた大学は、海外にはまだあると聞いた。俺はどうしてもそこに行きたかった。
両親にそう伝えると
「そんなところに行かなくてもこの国では生きていけるのにどうして海外になんか行こうとするのか。こんな素晴らしい国は他にない」
と言った。
「お前の好きにするといい。だが家族の恥であることに違いはない。支援はしない」
とも言われた。想定通りだった。
海外の社会を知りたい、そして俺の持つ気味悪さを明らかにしたい。その一心で海外の大学に手当たり次第連絡をした。しかしどの大学も「君を受け入れても何の得にもならない」と、門前払いだった。これも想定通りだった。
1校だけ、俺の受験を認めてくれる大学があった。
「直接話がしたい。渡航費はこちらが出すから、お金のことは気にせず来て欲しい」
メールには教授の署名つきで、そう書いてあった。
俺はすぐに荷物をまとめてあの国を飛び出した。
「よく来てくれた」
空港まで迎えに来てくれた教授はそう俺に言ってくれた。その言葉だけでも肩の荷が下りたような気がした。
教授は初老の男性だった。温和な雰囲気の中に、確かに教授らしい威厳があった。
その時のことはよく覚えている。空港から大学までの道筋で「あそこのベーグルが美味しい」とか、「あの肉屋の店員はおしゃべりが好きなんだ。君の国に行ったらきっとすぐクビになっちゃうだろうね」とか、何気ない話をしてくれた。今思えば俺の緊張をほぐすためだったのかもしれない。
「ここが大学だよ」
教授の指差す先には、あの国にはない光景があった。レンガの建物に、丁寧に整備された中庭。小さいころ絵本で見た、古い図書館のような雰囲気だった。俺はこの雰囲気が好きで、よく散歩をしている。
教授の部屋に案内されると、助手がコーヒーを入れてくれた。彼女は俺のことを怪訝な表情で見つめていたことを覚えている。
今その話をすると、
「だってあんな国からわざわざ来るような人間ですもの、どんな突拍子もないことを言いいだすのか気が気じゃなかったわよ」
と彼女は笑う。
「今の君の国では、君のような考えを持つような人は現れないように思っていたんだ。だから君から連絡をもらったときに、興味を持った。他の大学の知り合いからも、君のことを聞いていたからね。もし私のところに連絡が来たら、とりあえずこちらへ招待しようと思っていたんだ。」
教授は俺にわかりやすく伝えるために、あえてゆっくりとした声で話をした。
「……それで、君はなぜ外に出たかったんだい?」
俺は外に出たかった理由を、覚えたての外国語で必死に伝えた。言葉で表現しづらいときは紙とペンで図も描いた。ここで追い返されてたまるかと思った。
教授は俺の話を静かに聞き、静かに口を開いた。
「あの国での教育を受けてきたとは思えない。素晴らしい。ここの入学を認めてもらうよう手配するよ」
その言葉を聞いた瞬間、ひどく安心して、情けなくもその場で泣き出してしまった。
「まさか泣くほど嬉しかったとはね」
教授は今でもそう言って俺をからかう。でも間違いではない。泣くほど嬉しかった。
「はっきり言おう。君の国は異常だ。目先のことしか、いや、今はもう先のことすらもはっきり見えていないのだろう。あの国は、無知に支配されているのかもしれない。あの国以外の国では、『知る』ことを権利として捉えているんだが……」
「あの国では、教育指導要領を越える知識を得ようとするだけで怒られます。俺以外にも海外の大学進学を目指す人はいます。大学で知識を得た時点で、あの国での人権を剥奪されます。それを知らずに海外で学位を得て戻った人が警察に捕まる事件はよくあります。」
「国際機関は、そのことについて『人権侵害である』と抗議しているが、あの国は『解決に向けて努力している』という答弁以外得られていない……」
一息ついて、教授は俺にこう問うた。
「君の言いたいことは分かった。改めて聞くよ。この大学で、君は何を知りたいんだい?それを知るために、帰れなくなる覚悟はあるかい?」
俺は即答した。
「社会を。あの国の異常さを知るために、社会を知りたいです。そのためなら、あんな国に帰れないことくらい、何の苦でもない」
教授は笑いながら俺に一式の書類を渡した。
「この大学へ入るために必要な書類だ。きっと君のご両親は君の選択を快く思ってはいないのだろう。経済支援についての書類もあるから、もれなく記入すること。わからないことがあったらあそこにいる助手や私に聞きなさい」
こうして俺はなんとかあの国から逃れ、大学へ入ることができた。
大学での勉強は大変だった。外国語の本を大量に読む必要があった。それでも、教授は俺が理解するまで説明をしてくれたし、何より新しいことを知る度に嬉しかった。
同時に、あの国の異常さがより鮮明に理解できるようになった。
「ああ、君。君の国から手紙が来ているよ。友達かね?」
ある日教授は俺に封筒を渡した。高校時代のクラスメイトからだった。
「高校の時の友だちです。確か働いているはずですが……」
「あの国の規範に従って?」
「はい。あいつはあの国の規範を疑おうとしませんでしたから」
働いてから異常性に気づいたのだろうか。もしそうで、海外へ逃れたいと思っているなら、助けなければ。
――そんな考えは、封筒を開けてから一気に吹き飛んだ。
無知の国 きぬいと @0u0-1u1
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