獅子の威を借る

『助けてください!! ライオンです!! ライオンが現れました!!』

 その日も平和に平和に、警察官としての職務を全うしていた私の元に舞い込んだのは、そんな不可解な通報電話であった。

『早くしないと怪我人が出ます!! アパートの住民を避難させてください!!』

「落ち着いてください」

 この手の電話は何も珍しいことではない。

 いい大人の癖に、決定的なモラルの欠如した人間が蔓延るこの現代社会の中で、『ゴキブリがでた!! なんとかして!』『今から留守にするから、ペットを預かっておいてくださらないかしら?』などという、耳を疑うような通報もそう少なくはないのだ。

『落ち着けですって!? 今まさしくこの場にライオンがいるのに!?』

 そんな中で、『ライオンがでた』などという、一発で悪戯だと分かるような大法螺など、もはや職務を妨げるだけの煩わしいものでしかない。

 それでも、百歩譲って万が一にもその『ライオン』が真実のものであったら事である。残念だが警察官として、ギリギリで無下には扱えないレベルの案件のようだ。

「ええ。落ち着いてください。それが重要なのです。ライオンに限らず、野生動物というのは、非常にデリケートな生き物です。あなたの焦りを、動物…特に肉食動物は敏感に読み取ります。冷静さを失って当たっては、それこそあなたの身に危険が降りかかるばかりなんですよ」

 当然口からでまかせだったが、これもこの手の相手に一方的にペースを作らせないための一種の手法なのだ。

『そんなことを今言われても、もう遅いです!! 手遅れなんです!!』

「手遅れとはどういうことでしょうか?まさか、既に怪我人が出ているのですか?」

『いいえ、そういう訳ではありませんが!! ……というか、気性自体はそれほど荒くないようでなのです。メスでしょうか?』

「いや……さあ……?」

 メスはおとなしいという謎の情報のソースは一体どこなのか。

『あ、でもメスは狩りに行くから……って!! 問題はそこではないんです!! 大体、おとなしいからって、ライオンはライオンでしょう!? 危ないに決まってるじゃないですか!!』

「確かにそうです。ちなみに、そのライオンはどこに現れたのですか? どうやら、ご自宅から通報なさっているようですが……。察するに、お住まいのアパートのベランダから見れる位置にいるようですね。詳しい住所などは……」

『いえ!! 外にいるんじゃないんです!!』

「……と、言いますと?」

『部屋です!! 私の部屋の中にいるのです!!!』

「………………」

『お巡りさん!?』

「あー……はい。大丈夫です」

 そ、そうだ……。大丈夫大丈夫……。まだ想定の範囲内じゃないか……。

 反射的に受話器を手放しそうになった手をぐっと抑えて私は話を続けた。

「それで……他には? 家族の方などいらっしゃるのでしょうか?」

『ええ。今はまだ乳幼児の……一人息子が』

「なるほど……あー、ちなみにですね……参考までに聞いておきますが、ライオンというのはリアルなライオンのことを言ってるのですよね? まさか、お子様のお名前が『獅子雄』とか『頼穏』とかで、ライオンのように雄雄しく育って欲しいという暗黙のメッセージがあるとか、あるいは、お子様をライオンと認識しているような事は……」

『お巡りさん!!』

 苛立ちを隠せないといったように、相手はぴしゃりと言い放つ。

『人をそんな風に、精神病患者みたいに言うのは失礼じゃないですか!? 全うな人間で、息子をライオンと間違えたりなんかするヤツがいますか!!!』

「ええ、そうですよね。失礼致しました……」

 全うな人間は室内にライオンを召還したりしないし、こんな寝言は言わない。

 なおも饒舌にライオンの危険性を語り続けるライオタの怒鳴り声を聞きながら、私は思案する。とにかく、どれほど喚こうとこんな悪戯電話に人を向かわせる訳にはいかないのだ。なんとかして相手を納得させなくてはな……。いや、元々ふざけた相手だ。なんとか話の足をすくって黙らせればいい。

「……ちなみに、既に怪我をしたりしてませんか?いくらおとなしいライオンだとはいえ、さすがに狭い室内で睨み合いとなっていれば……」

 ……が、今回の相手は、どうやらそう簡単には出し抜けそうも無い相手らしかった。

『何を言ってるんですか!? 自傷行為ですよそれは!! いくら凶悪なライオンだとしても、そんな愚かなことはしません!』

 不可解なセリフ。感じる嫌な予感。

「あの……仰られる意味がよく分からないのですが……」

『分からないんですか!? この状況が!!』

 分かるわけがあるまい。

 既に満身創痍の私の気も知らず、電話越しの相手は、うんざりしたように溜息をつくと、とどめの一発を言い放った。



『だから!! ライオンが私に取り憑いているんです!! ライオンの意識というか、幽霊と言うか、そういう物が私の中に入っているんです!! だから私は今、暴れないようにそれを抑えているんですって!! 分かったら早く警察の人たちを呼んでください!!』

「…………」



 気づけば反射的に受話器を置いている私。そして今度こそ完璧に沈黙せざるを得なかった。その想像力の豊かさもさることながら、そんな気の触れたセリフを真剣に言い放てる辺り、ある意味賛美にすら値するレベルである。

『もしも~し!! また聞こえなくなりましたよっ!!』

「は、はい。聞いてますよ? ……聞いてますとも……」

 やっとの思いで持ち上げた受話器。なんだ?なんなんだこの重量感は?電話ってこんなに重いの?

『だからですねえ!! 私は息子を傷つけたりはしないし、自傷行為なんてもっての他なんですよ!!』

「あー……で、では、警察など出動の余地はないのでは……? 取り憑かれているとは言え、どうやら普通に会話が出来るほどの理性もあるようですし……」

『だぁかぁらぁ!!! それでいいの? って言ってんの!! 警察は!! いくら私が抑え込んでいるとはいえ、ライオンはライオンでしょう!?』

 おちついて……。そう申し訳程度になだめる私の声は最早その意味を持たない。荒れ狂う言の葉が受話器から止め処なく溢れては鼓膜を不快に揺らす。

『いいですか!? 私がいつ理性を失ってでもしてねえ……!』

「わかりましたわかりました! 落ち着いて落ち着いて!」

『落ち着けってアンタ…………っ!』

 どうやら状況はかなりまずいことになっているようだ。電話越しの相手は既に完璧に出来上がってしまっている。警察の出る幕じゃあないぞこれは……。

「……お、おっしゃりたいことは分かりました。でもですね、こちらの事情も汲んでいただきたいのですよ?」

 思案の末、なおも頭を抱えながら、私は恐る恐る発言する。不用意に相手を刺激しないよう、なだめるように、だ。

「確かに……もしそれが事実だとしたら由々しき事態です。とても警察数人でなんとかできる事態ではない。機動隊の投入も止むを得ないものでしょう」

『…………ええ……! 全く……その通りですよ!』

 荒ぐ息を抑えながら、彼はようやくそう頷いた。

「しかし、警察だってそう暇ではないのですよ。こうしている間にも処理しなくてはならない事件が山ほど積み重なっていく。そちらにだって人員を割かなくてはならない。人手が足りないくらいなんです」

『……何が言いたいんですか?』

「ですからね……」

 私は呼吸を整えると、ためらいがちにこう言った。

「あなたにライオンが取り憑いたという証拠が欲しいのですよ……。あ、勘違いしないでくださいね? 別に鼻から信じる気がない訳ではないんです」

 彼に束の間の静寂が訪れているのをいいことに、私は喋る隙を与えずに畳み掛けた。

「ただ……このようなケースは前代未聞です。こちらとしても流石に、そんなとんでもない話をすんなりと信じることはやはり難しいんですよ。警察の立場上、軽率な対処もあまり望ましくないですしね」

 これはもはや賭けだった。相手が納得すればそれでよし。しかし、納得しなければ恐らくは……今までにない憤怒の感情を現してしまうことになるだろう。

『つまり……私の中にライオンがいることを証明して見せろ、と?』

「そこまで高圧的に言っている訳ではありませんが、やはり情報がないことには……」

『…………』




 沈黙。




 先程までの威勢はどこに飛んだのか。それこそ、嵐が去ったような……完全な沈黙。


『ライオンは……』

「え。あ、ハイ」


 


『ライオンは…………ネコ科である』

「…………」




「いや、雑学を披露されても……」

『…………』



 雑学レベルですらない一般常識を呟いたのを最後に、いよいよ訪れた……完全な沈黙。




『…………』

「あの……ですね」

 理不尽な発言を怒鳴り散らすでも、発狂するでもないこの沈黙は、彼自身が言いくるめられた事を認めているのを意味している。どうやらこの辺りが引き際らしい。

「あまり、警察職をからかってもらっては困ります」

『……!!』

「こちらだって微力ながら、全力で市民を守ろうと日々奮闘しているのですから。馬鹿にされる謂れはありません。そこはわきまえていただかないと」

 言い訳を考え込むように黙り込む電話先の男。勿論、そんな暇は与えない。

「では、失礼しますよ」

『……待て、ちょっと!!』

「しつこいな……! そんなに言うなら、あなたがライオンである、明確な証拠でも持ってくることですね!!」

 吐き捨てるように言って、早々に受話器を下ろす。



 がちゃっ


 最後は警察らしからぬ発言をしてしまっていたかもしれないが……。受話器を押さえ込むと、そこでようやく私は胸を撫で下ろした。

「先輩!! なんか電話長かったッスねぇ!」

 厭に顔をにやつかせながら、コーヒー片手にこちらへ近寄ってくる青年が一人。私の後輩である。

「なんだ嬉しそうに」

「今日はどんな飛ばし屋だったんスか?」

「いや、なんか……ライオンが出たとか言いだしてね」

「スケールでけえ!!!」

 私は淹れたてのコーヒーを手に取ると、そっと一口啜る。

「で、それを捕獲しろっていうことスか!?」

「いや、それは始めから無理だ。だって、ライオンは本物のライオンなんじゃなくて、あくまでもその電話主に取り憑いてる幽霊らしいからな」

「……? いや、言ってる意味がよく分からないんスけど……」

「私も分からなかった」


 あははははははは


 まあ色々あったが、どうやら今回も軽い笑い話として処理されることになったようだ。

 最後は少々言葉が過ぎたものの、お陰でこれなら、滅多なことでは掛け直してはこないだろう。結果オーライってヤツさ。

 明日からはまた、こんなことを考えている余地すらなくなっているほど忙しい日々が続く。

 この話もいずれ忘れ去られていくのだろう……。


 そんな、いつかの昼下がりに起きた……とある奇妙な出来事であった――――。






 ◆







 ひゅん。

 真っ白な布の塊が宙を舞う。




 地上七階に位置するベランダ。吹き上げる風に前髪を揺らしながら、男はその手すりから覗き込むように顔を出していた。

 遥か下方の灰色の地面に、ぽつりと赤い斑点が浮かび上がったことを確認すると、男はほくそ笑み、開け放たれたサッシを潜って部屋に戻った。



【ライオン】

【ライオン 生態】

【ライオン 特徴】

【ライオン 古語】

【ライオン 言い伝え】


 検索バーの履歴にそう表示されているノートパソコンをそっと閉じると、男は電話の子機を手に取る。

 先程と同じくボタンを三つ押し込むと、空っぽになったベビーベッドに寄りかかるようにしながら待つ。数秒たたずに電話は繋がった。






「がおー」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

どの話から読んでも大丈夫なやつ 毛賀不可思議 @kegafukawa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ