井戸の幻想

 少年の家の庭には、古びて久しく使われていない井戸が、蔓にまとわれ、風雨に砕かれ、残っていた。両親は、あの井戸には近づいてはいけないと釘を刺したが、彼は、妹を誘っては、バレないようにこの井戸をよく覗き込んでいた。それというのも、ある晩、彼がトイレに起きて、縁側を渡って行こうとすると、ふと、井戸が光っているのに気が付いた。近づいて、親の日頃の戒めを振り切って覗いてみると、そこには、一つの桃源郷が広がっていた。美しい七色の衣を纏う天女が、名月を描いた扇を手に舞い、紫の衣を着た貴人らが、その場の興に任せ、いずれも甲乙つけがたい歌を吟ずる。童部らは酒を注ぎ女人の髪を梳り、遠くでは鳥が谷中に嘯いている。彼には、そのときの光景が目に焼き付き、また声も管弦の音も、まぎれもなく雅に耳に響いていた。

 彼はうっとりとして、神がかったように井戸のふちに手をかけ、それに見入り、やがてそこに加わりたいと願うようになった。そうしておもむろに井戸に身を乗り出した時に、恐ろしい猿猴の金切り声が辺り一帯に響いた。彼はハッとして周りを見たが、そこには何もいなかった。井戸を再び覗き込むと、そこは平時と変わらぬ、枯れて水のない底面が、月光に照らされて鈍い緑に光り輝いているだけであった。

 爾来彼は、もう一度あの世界を見てみたいと強く願うようになった。それは、幼くして母を亡くしたあの滋幹にも並ぶほどに強い衝動だった。あれから三年が経ったが、いまだに彼は、二度とその光景を見ていなかった。

 ある夕暮れ時に、彼が門の前で退屈そうに石ころをいじっていと、一人の老人が通りかかり、彼の目の前で立ち止まった。優しい微笑みを湛えた、髭の長い顔であった。

「何?」と彼は聞いたが、老人は穏やかに笑っているだけで、何も言わない。彼は放っておくことにした。そうして、そのまま一時間ほど経過したところで、ふいに老人が口を開き、

「今宵は幽湿の道が通じ、そこを生者も亡者も神妖も行き交う。もし念願を叶えたいと思ったから、今夜が最大のチャンスじゃぞ」と言った。

 少年が顔を上げると、そこにはもう誰もいなかった。だが、彼の言い残した言葉は、少年の心に強く刻み付けられた。蕭々たる夕暮れのことである。

 深夜零時を回り、人は眠り、獣が往来するようになる頃、少年はこっそりと飛び起き、件の井戸へ向かった。強く願われ、妹を伴った。

 井戸はあの時のように淡く光り輝いていた。彼は高鳴る鼓動を押さえつけ、そっと井戸を覗いた。そこには、あの時と変わらぬ光景が広がっていた。女は皆美しく、男も皆水際立った美男子ばかりであった。弦の音や、高らかに詠ずる透き通った声、香を炊くかぐわしい霧が、彼の五感を無限に楽しませた。それは妹も同様であった。

「どうだ、いいところだろう」と、彼はまるで、自分がそこの住人であるかのように、得意げに言った。妹は、ただコクコクとうなずき、憑りつかれたように見ていた。

 井戸の中の美しい女が、こちらに向かって手招きをした。それは疑いもなく、彼らをこちらの世界へ招いているのだった。兄妹は、少しの躊躇も見せなかった。彼らは手をとり、互いに顔を見合わせ、そして、井戸へ飛び降りた―――

 兄妹の失踪は、翌朝すぐに知られた。朝起きて二人のいないことが分かると、両親は仰天して家じゅうを隈なく探し回った。そうしてもしやと思い、例の井戸の中を調べていたが、そこには苔があるばかりで、動物の姿は見られなかった。近所総出で探したが、結局彼らは見つからなかった。彼らはその事件を『神隠し』と呼び、それ以上事件にかかわるのを避けた。両親もそうだった。

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