小さな冬の記憶

 私は旅の道連れを一人連れ、山形の無人駅に降り立った。そこには駅員はおろか乗客や清掃員もおらず、本当に文字通り無人駅であると思わずにはいられないほど、荒涼とした場所だった。時刻表は、次の電車の一時間半後に到着することを告げている。私は自販機で缶コーヒーのホットを二本買い、一本を連れに渡した。彼女は礼を言った後に、このままではいられないからと、コーヒーの代金を払うことを申し入れてきた。私は、たかが百円ちょっとだからと辞退したが、向こうが変に強く言ってくるので、根負けして小銭を受け取り、己の財布に捻じ込んだ。曇り空の茫漠たる冬の日であった。

 私はふと、このような冬の日に遭遇した出来事を思い出した。そしてそれが電車を待つ間の暇つぶしには最適だと思ったので、さりげなくそれを語り始めた。


 私が20代前半のことだったかと記憶しています…何しろ昔のことで。私は東北のある大学を卒業したのちに、銀行に勤めていました。仕事は大変でしたが、当時は安定していて、給料も良かったものですから、辞めようという気になったり、首をくくろうかと考えてみたりすることはありあせんでしたよ。

 さて、ある冬、私はまとまった休みがとれたので、気晴らしにスキー場に行こうと思い、近くにあるこじんまりしたスキー場に、友人3人と連れだって行きました。私はスキー初体験なものでしたから、経験のある女性の同僚に手取り足取り教えてもらっていました。あらかじめ言っておくと、彼女は私に惚れていて、私もそれに気が付いてまんざらでもない気持ちを持ちつつ、なかなか一歩を踏み出せない状態にありました。そんなわけだから、この旅行を機に決着をつけてしまおうという心理が働いたのかもしれません。いずれにせよ、我々は余暇を満喫しました。

 その2日目だった。私は1日目のスキーの経験に味を占め、もう少し険しいコースを、一人で滑ってみようと思ったわけです。まあ、これが全ての始まりですね。私は見事に滑落して、気を失いました。

 目が覚めると、そこは木の小屋だった。10畳くらいの1間に私は寝かされ、暖炉の音が、朧げな頭に響く。辺りを見回すと、人影がある。誰だろうと思うと、それは見知らぬ人だったわけですが、大層ごきれいなお嬢さんで。年は当時の私とそう変わらなかったと思います。そうそう、ちょうど貴女くらいでしたよ。雪のように白くてね、しかも心優しくて、目が覚めたばかりの私に、すぐ頭を動かしてはよくないから寝ていなさい、食事は今用意するからと、私のはだけた服を掻き合わせ、布団を直してくれました。私は、彼女の何者たるやを知りませんが、ともかくも悪い人ではなさそうだから、言葉に従いました。そしてやがて、シチューが出されました。頗る美味だったことを覚えています。私は夢中でかっくらった。娘はそれを、嬉しそうにニコニコしながら見ていたから、私は顔を赤くしました。

 数時間もして、私は皆のいるところへ帰ることにしました。彼女は、危ないからと何度も引き止めましたが、私が頑強に首を振ると、諦めたのっか、玄関まで出て見送ってくれました。暫く行ったところで振り返ると、娘さんはまだ手を振っていました。それが周囲の枯れ緑と白銀の海原に、彼女の着ている花柄の服とともによく映えていたので、今でも鮮明に覚えています。

 4日目、私は再び事故を起こして、気を失いました。目を覚ますと、そこは木の小屋の中で、娘が一人、かいがいしくその中で働いている。ああ、あの時の部屋だ、と私がボンヤリと思うと、彼女は駆け寄ってきて、私を強いて寝かせました。私は寝たまま、いろいろなことを尋ねました。娘は、嫌がるそぶりも見せずに答えてくれましたが、それでもいくつかの質問には沈黙を守りました。その横顔が、なんだか寂しげだったから、私も無理には聞けず、彼女の名前や、あの場所は、今でも分かりません。私は彼女と他愛もない雑談を交わしました。そうして、その夜はそこで明かしました。

 翌朝、私は彼女の家事の手伝いをしました。相手は、けが人を働かせるのは気が進まないと言ったが、私は笑顔でそれを一蹴し、彼女の横で、朝ごはんの目玉焼きを作り始めた。彼女は何も言わずに、自分の仕事に戻った。そのとき、気のせいかもしれませんが、彼女の横顔は嬉しそうな表情をしていました。

 私はその日一日中そこに留まり、娘と親しく語らい、時には外に出て雪合戦をしたり、雪だるまを作ったりしました。彼女はとても楽しそうで、見ているこっちを幸せにしてくれる笑顔を見せてくれました。なんでも、誰かと一緒に遊んだのは、久しぶりだったとか。私たちはすっかり親密になり、そこには確かに淡く漠然とした恋が芽生えていました。ですが私は、あえて知らないふりをした。向こうも、それらしいそぶりを見せることはなかった。

 翌日(気を失ってから二日後ですね)、私はそこを辞した。別れる前には、私も彼女も顔に哀惜の表情を浮かべ、固い抱擁をしました。そうして、私は去った。娘は、最初と同じように、いつまでも私を見送ってくれていた。旅館に着くと、仲間たちが出迎えた。私が二日留守にしたことの適当な言い訳と謝罪を述べると、仲間たちはぽかんとして、何言ってるんだよ、まだ我々が来てから四日しか経ってないじゃないかと言う。今度はこっちがあっけにとられる番でした。日付を見ると、確かに我々が来てからまだ四日しか経っていない。私は狐に化かされた気分でした。では、あそこでの出来事は全て夢だったのだろうか。いや、いや、と私はすぐにそれを否定しました。じゃあ、あそこは一体どこだったのか、そして、あの娘も……


 私はそこまで言って、一息ついた。

「結局、その娘さんとは、今日までついに再開していません。私は先述の同僚と結婚し、三人の子をなし、そして先月、めでたく定年退職を遂げました。そうして今になって、ときどきあの出来事を思い出しては、切ないような、不思議なような、嬉しいような、そんな気分を感ずるんです」

 道連れは何も言わなかった。間もなく汽車が来たのである。

 道連れが先に、電車の出入り口に脚をかけた。その横顔を見た私ははっとした。それは、いつぞやの、とある木の小屋で見たあの美しい横顔にそっくりだった。

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