夢と現実の物語

黒桐

受胎告知

 大工の妻マリアが処女のまま受胎したという噂は、瞬く間にローマ帝国内に駆け巡った。下々民は日夜そのことに想像力を巡らせて肥し、中流階級や傭兵らも、あるいは憎みあるいは驚き、あるいはまたかかる事件のなぞ解きをしようと躍起になった。時のヘロデ王は、その出来事を嘲笑で一蹴しながらも、自分がすでに漠然たる不安感に犯されていることを感じていた。

 大工ヨセフは悲しみに暮れた。自分はまだ妻と閨を共にしたことはない。彼女は確かに自らを処女だと認めていた。そして、またその貞操の純潔に、彼が惹かれたのも事実である。

 いったい誰が彼女を孕ませたのか? 寝ぼけた自分か? いや、そんなことはあるまい。自分は神の僕である。慎みは今の今まで保ってこれた自信がある。では、天使ライラが間違えて精子を入れたのであろうか? しかし、光り輝く天使が間違えるはずはない。やはり妻の不義であろうか? 悩みは彼をむしばみ、仕事も手につかぬようになっていった。

 一方マリアも、自分の子を宿したことの分かった日から一週間、ずっと思い悩んでいた。迷信深いガリラヤの民は、おそらく自分が何を言っても聞き入れてくれはしないだろう。そもそも証拠がない。はっきりとそれを否定する証拠さえあればいい。が、それがない。もしや、自分は本当に夫以外の男に抱かれたのか? どうもそう思える。自分の今の状態を鑑みれば、情人と交わったとしか思えぬ。では、この子の父は分からないということだ。それでは子があまりかわいそうだ。いっそ堕胎してしまおうか。 そんな時に、彼女の夢に天使ガブリエルが、百合の花を携えて現れたのである。

 天使は高い丘の上にいた。マリアはその下の花畑にたたずみ、じっと上を見つめている。彼女は叫ぶ。

「私は罪の子なのでしょうか?」

「人は誰もが罪の子です」と、天使は穏やかな声で答えた。それは不可視の抱擁で彼女を包み、赤子のようになだめた。

「この子は誰の子なのですか?」と、いつの間にか天使に抱かれたまま彼女が聞いた。「夫の子ではないのですか?」

「神は人を、その限りない愛のもとに赦します。貴女もまた、赦される存在なのです。貴女は今、崇高な役目を果たそうとしています。神に選ばれた貴方は、いまから77日後、光り輝く子をお産みになられるでしょう」

「それは、誰の子なのですか」

「貴女の中におられるのは、他でもない神の子です」

「ああ、神の子!」と絶叫すると、マリアは天使の腕の中を離れ、花畑の上に膝から崩れ落ち、涙を幾粒も落とした。

「私は大工の妻です。そして、汚らわしい人の子の一人にすぎません。それなのに、神の子なんて! ああ、恐ろしいですわ。聖なるものが、私の血でけがされるなんて。今すぐ堕ろさねばなりませんわ。ああ、畏れ多い……」

「泣かないでください、母よ」と、天使は言い、彼女の腕をとり、涙をぬぐい、その手に愛情あふれる接吻をした。

「神はすべてを神妙に取図られます。貴女が聖母とはいえ、人の子の宿命たる罪を幾許か背負われているのも事実。ですから、それからお守りになるために、全能なる神は、その不可知の力を使われ、貴女の中に一人の赤子を宿し、その子の中に神の子をお入れになったのです」

「ああ、そんなことが! 全能で、しかも慈しみ深く、また始まりから終わりまで、ブリテンから極東においてまで正しいお方!」

 彼女は感極まって、そこにひざまずいて号泣しながら、手を組んで、祈りを一心に捧げた。天使もまた、その隣で彼女の思いが全能の父に届くよう、ともに祈りを捧げた。

 かくして77日後、マリアは一人の赤子を産み、そしてそこから神の子キリストが誕生した。人は後者をよく知っているようだが、前者については衆目には秘されているようである。かの子イエスの兄弟にして父、子にして姉妹なる者は、現在では『不死』と言われている。

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