山羊と手紙 四通目

 午前4時30分、パン屋の勝手口に一匹のオスの黒山羊が入っていく。黒山羊の髭は生えそろっているものの、手入れをおこたっているのか、隣同士の毛がからんでいる部分もあった。さらに、丸く小さいメガネはずり下がり、白いシャツを着た背中は縮こまっていた。お世辞にもハツラツと評することは出来ない。ヨレヨレという表現がぴったり似合うこの黒山羊を、一点だけ褒めるとすれば、それは履いている靴だった。黒山羊のほっそりした足首を支え、さらに蹄全体を柔らかく包んでいるように見える茶色い革靴は、よく手入れされて渋く輝いていた。


 勝手口から入った黒山羊は、すぐ脇にある小さな部屋に入っていった。4畳半ほどの空間に、4つのロッカーと小さな机と椅子、そしてパソコンと電話が置いてある。部屋に入ってすぐ、黒山羊はパソコンの電源を入れた。ヴォォン、というパソコンの起動音が大仰に鳴る。どうやら黒山羊と同じく年代ものらしい。最新機種に比べるとやや時間をかけて起動したパソコンで、黒山羊はメールや天気予報を確認する。画面を見つめて数分、黒山羊は突然思い出したかのように、勢いよく電話の方を向きなおって、留守番電話が入っていないかを確認した。近所にある洋食屋からのいつもの注文、業者からの機械の定期点検についての提案、地域情報紙『白山羊の今月はこれ!』からの取材依頼が入っていた。黒山羊はすべての内容を書きとめて、壁のホワイトボードに貼り付けた。

 

 メールと留守番電話を確認し終えた黒山羊は、一番右端のロッカーを開けて、レストランの料理人が着るような袖のあるエプロンを身につけた。一瞬、息を大きく吸いこんで肩を怒らせ、吐き出しながら「めぇ」と気合を入れた。つづいて、ちょっとした高さのあるコック帽をかぶり、ロッカーに申し訳程度に備わっている小さな鏡で角度を確かめ、今度は満足したように「めぇぇ」と漏らした。そしてもう一度まじまじと鏡を見て、からんでいる髭を発見すると、目の大きさ違う2本の櫛を器用に使い分けて、髭をなでつけていった。

 すべての動作を終えた黒山羊の背中はしゃんとなり、髭はまっすぐに伸び、長いまつげの間から見える黒目がちな大きな瞳が、正しい位置に掛けられた眼鏡の奥でらんらんと光っていた。先ほど勝手口から入ってきた黒山羊が浮浪者ならば、今の黒山羊はさながら一国の王子のようだ。


 部屋から出た黒山羊は短い廊下を進み、つきあたりのドアを開けた。先ほどの部屋の3倍はある空間に、業務用の大きい電気釜戸や、パン生地の保温・熟成機、冷蔵庫、広い調理台があった。また、こまごまとした調理器具もきれいに整頓されて並んでいる。全ての器具は実用的な見た目をしており、かわいらしい模様は描かれていないし、温かいパステルカラーも塗られていない。黒山羊がふきんを濡らして調理台を軽くふきあげると、ぼやっとした焦点の合わない黒山羊の顔が調理台の上にうつりこんだ。そっけないアルミ色の世界で、黒山羊の白いエプロンはふわっと盛り上がった雲のようだった。つづいて、黒山羊が調理台の上に小麦粉を落として薄く広げると、アルミの世界に白い海が広がった。その海の上に熟成機から取り出したパン生地をのせると、まるで島がぽっかり浮かび上がったようだった。黒山羊はパン生地の島を丁寧にこね、しばらくすると、小分けにしてトレイに等間隔に並べていった。パン生地の島は分裂し、美しい楕円に成形され、海からすくいあげられて再びアルミの世界に転がっていった。分裂する島は楕円に限らず、巻き貝のようになったり、クマの顔のような形になったりもした。海が生まれ、島が出来あがり、生き物が形成されたところで、創造主である黒山羊は電気釜の余熱スイッチを押した。アルミ色の電気釜の中で、電熱線の赤々とした光が灯った。光あれ、とでも言うように黒山羊が「めぇえ」と発した。


 黒山羊がアルミの世界でせっせと天地創造に励んでいるうちに、どんどん時間が進み、やがて3人のバイトが来た。

 一人目は長身の男で、きりりと真一文字に整えられた眉毛と、浅黒く日焼けした引きしまっている腕をもち、海の家のバイトが似合うような風体だった。実際はパン屋のバイトであるから、黒山羊と同じエプロンを身に着けているのだが、やはり水着の方が似合っていそうだった。20〜30代に見えるこの男は、左近という名前で呼ばれている。

 二人目も長身の男だが、こちらは色白の公家顔をしており、どちらかというとホテルのフロントマンやレストランの給仕が似合いそうな柔和な顔つきをしていた。したがって、控えめに言っても、黒山羊や左近と比べられないほどエプロンがよく似合っている。左近よりは年上に見えるこの男は、右近と呼ばれていた。

 三人目は背の低い女だ。左近や右近と並ぶと、彼らの肩に頭の先が届くかどうかも怪しいくらいである(ちなみに、黒山羊よりもすこし小さい)。黒というより茶色に近い大きい目をくりくりとさせてこの女が笑うと、まわりに黄色い花がぱっと散るようだった。一見すると幼く見えるが、3人のバイトの中で一番の働き者であり、おそらく一番年上でもあった。名前を雛子という。

 左近と右近は黒山羊の作業を手伝い、雛子は調理場を抜けた先にある売り場で開店準備をしていた。黒山羊は作業を続けながら、ときどき3人から発せられる質問に「めぇ」「めぇめぇ」と返事をした。3人は二択の質問を上手に使いながらキビキビと開店準備を進めた。


 開店15分前になった。売り場にはパンが並び、レジも開けられて、すっかり準備が整っているようだったが、黒山羊と3人のバイトたちは調理台の周りを囲むように立っていた。さきほどまで調理台の上に、今日作った全てのパンが試食用に小さく切られて置かれ、バイトの3人がせっせと口に運んでいた。3人はパンを食べるごとに小さい紙に何かを書きつけて、箱に入れていた。

 3人の前で、黒山羊が箱を開ける。小さい紙のそれぞれに、パンの名前が書かれていた。どうやら試食して気に入ったパンの名前を投票していたらしい。一人何票持っているのかは定かではないが、今日のところはクロックムッシュウに入った9票が最多得票だったようだ。つづいてアンパンとクロワッサンに7票ずつ、カレーパンに5票というように、店頭に並ぶ予定の全12品全てに順位が付いた。

 結果に納得がいかなかったのか、黒山羊は「め、めぇぇ」とぎこちなく鳴いた。その様子に気をとめることなく、雛子が順位の数字が書かれた星のマークを、それぞれのパンの値札に貼っていく。また、雛子の名前と顔写真が小さく入ったシールを、カレーパンに貼った。左近と右近も雛子と同じようなシールを持ち、それぞれクロックムッシュウとクロワッサンに貼った。おすすめ、ということらしい。


 本日のおすすめパンに投票が行われている頃には、店の外に早くも客が3人並んでいた。先頭にいるのは白髪の目立つ男性で、持ち歩き用のパイプ椅子に腰掛けて、じっと目をつむっている。この男性のものとは思えないようなかわいらしいカゴのバックが足元に置かれており、どうやら家族から頼まれたおつかいにきているようだった。二番目に並んでいるのは若い女性で、重そうなリュックを背負い、右手に持った文庫本を読みながら立っている。三番目に並んでいるのは、前の二人の年齢のちょうど間くらいの中年の女性だ。ひっきりなしに携帯電話を見ては時間を確認し、そわそわしていた。横にいる若い女性に何度か話しかけようとして、「いいお天気だわねぇ」、「今日も美味しそうな匂いがしているわ」と声に出していたが、一向にあいづちをうたれる様子がなく、そのことに少なからず傷ついているようだった。

 三人が並んでいる店の前には、雛子が丁寧に育てているベゴニアの鉢植えがならんでいた。赤・白・黄色と色違いがそろえられ、店の前の雰囲気を明るくしている。黒山羊のパン屋も軒を連ねている商店街は、秋にベゴニアの品評会があるため、多くの店が店頭にベゴニアを並べていた。そのなかでも、雛子が育てたものは群を抜いてすばらしい。鉢の端までいっぱいに伸び広がった葉と、それらをすべて覆うように、こんもりと咲いている花のバランスが、まるで絵本から抜け出てきたかのようだった。そもそも、飾りレンガで覆われた壁と、真っ赤な折りたたみ式の日除け屋根、そして木製の扉という店構えが、写真映えのしそうな「いかにもパン屋」という雰囲気を醸し出している。そして何より、店長が黒山羊であるということがメルヘンチックであり、パンの美味しさとともに評判を呼んでいた。

 開店間際になると、商店街の他の店で買物をしていた客なども加わって、十数人の列になった。3番目にならんだ中年女性の後ろに、同じような中年女性が並んだことで、世間話に花が咲いていた。左近と右近の容姿を褒める話題、自らが好きなパンの種類について、店員による投票で決められた順位という一風変わった商品紹介について一通り互いの見識を述べたあと、どちらからともなく「そういえば、店長さんのおすすめシールは見たことがない」という気づきを得た。そして口々に言い合う。「店長さんは作っている人だから、全部がおすすめということかしら?」「そうねぇ。でも案外、パンが食べられなくておすすめが出来ないのかもしれないわよ。店長さん、山羊だし」「そうそう、ベゴニアの雑草だって、あの店長さんがいつも食べているから、あんなにきれいに育ってるって言う人もいるものねぇ」 結論が出る見込みのない話し合いに、突然若い女性の声が混じった。


「ばっかじゃないの」


 中年女性たちが声のする方をみると、あいかわらず文庫本に目を落としたままの若い女性が立っている。あまりの突然さと、声を発したと思われる人物が微動だにしていないのを見て、中年女性たちは聞き違いかと首をかしげた。すると今度は、男性の声が降ってきた。


「草を食べる山羊の作ったパンが美味しい、それはそれで結構なこと」


中年女性たちはかしげた首をさらに曲げ、先頭にいる白髪の男性を見た。こちらも、あいかわらず目をつむったまま、持参したパイプ椅子に同じ姿勢で座っている。中年女性たちは気まずくなったのか、顔を見合わせて目配せをした。そして、唐突に最近話題になっている芸能人の不倫について互いの持論を展開し始めた。



 時計の針が10時30分を指した所で、木製のドアがギギギィと音を立てて開けられた。白髪の男性を先頭に、開店を待っていた客は次々と店内に入り、トレイとトングを使いながら目当てのパンを確保していく。ところどころで「今日の雛ちゃんはカレーパンなんだね」とか、「やっぱり左近くんはチーズが好きなんだな」とか、「右近さんはいつでもシンプルなものが好きよね」という声がきかれた。なかにはバイトそれぞれのファンもいるようで、「バイトの◯◯さんがすすめているから」という理由だけで同じパンを2つ買っていく客もいた。そのうち、「あー!雛子ちゃんのカレーパンが少ない!」と露骨にがっかりする客や、左近や右近がすすめるパンを争う客まで出始めた。

 興奮する他の客たちを尻目に、白髪の男性は食パン一斤とアンパンを二つトレイに載せ、素早く会計を済ませていた。また、文庫本を読んでいた若い女性はクロックムッシュウとカレーパンを一つずつ買った。店を出るときに、若い女性は白髪の男性の先に立ってドアを開けた。白髪の男性は「どうも」と言って通り抜ける。若い女性は無言で頷いた。二人とも店を出たところで、白髪の男性は、再び文庫本を見ながら歩いていこうとする若い女性に向けて、声を掛けた。


「人生の先輩に、一言目から『馬鹿』と言うのは失礼になる。今後は気をつけたまえ。まぁ、気持ちはわからんでもなかったがね」


若い女性は文庫本から目を離して白髪の男性をじっと見た。そして緊張した声で


「お気づかい、ありがとうございます」


と言うと、逃げるように歩き出した。その背中を見送りながら、白髪の男性は「やれやれ、本当に分かるのは随分と先になるだろうな」とつぶやき、眉間にしわを寄せて溜息をついた。再び息を吸い込んだときに、食パンの匂いが鼻に入った。その匂いによって家で待つものを思い出したらしく、あとは足早に商店街を抜けていった。

 その間も、中年女性は店のなかで年齢不相応な黄色い声をあげていた。



 開店から3時間ほどで、全てのパンが売り切れた。左近が全てのトレイを回収し、雛子がレジに鍵を掛け、右近が遅めの昼ごはんを用意した。黒山羊とバイト3人が調理場で昼食をとっていると、扉を叩く音が聞こえた。雛子が閉店を告げにいくと、現れたのは客ではなく、留守電に取材依頼を残していた地域情報紙の編集者・白山羊だった。雛子が何度言おうと、白山羊は「ぜひ店長さんに取材を」と引き下がる様子がない。困惑している雛子に代わって、右近が「質問を書面でくれたら折り返しFAXする」と説得しても聞き入れない。それどころか白山羊は「ぜひ生の声が聞きたい、できれば写真も取らせて欲しい」と横柄な態度を見せる。左近が強面で対応しようとするのは、右近が咳払いで止めた。地域情報紙『白山羊の今月はこれ!』の評判はよく、頻繁に広告を載せているだけに、乱暴なことはできないようだ。圧倒的なまでに図々しい白山羊の様子に、3人はただオロオロしていた。

 

 抜き差しならない状況を察して、調理場から黒山羊が出てきた。白山羊に向かって「めぇ、め、めぇ」と数回に分けて鳴いた。意表を付かれたのか、白山羊は動きをピタッと止めた。そして愛想笑いを浮かべて挨拶しようとしたが、先に黒山羊が口を開いた。


「伝統的に、白山羊からの便りに関しては、読まずに食べることになっている」


 恐ろしく嗄れた声が、黒山羊の口から出た。人間の声帯から発せられる音とは質の違った振動が、空間をビリビリ揺らして散っていく。およそメルヘンチックから程遠い、冥府の主のような声だった。バイトの3人は呆然として黒山羊を見た。対して、これまで多くの取材を経験したことで「肝が座っている」と自他ともに認めている白山羊は、動じること無く意図を質した。すると、黒山羊は手近にあった商品紹介兼値札になっている名刺サイズの紙を、パンが並ぶ台から5枚外して同時に口に入れた。


「こういうことだ」


 黒山羊はむしゃむしゃと紙を咀嚼する。あまりに大きく口を動かすために、メガネが少しずつズレていった。鬼が供物を食べているような威圧感を出している黒山羊を、3人のバイトは眉間にシワを寄せて見つめていた。一方の白山羊は、最初こそ「ご冗談を」とヘラヘラ笑っていたが、黒山羊の形相を見て徐々に表情がこわばっていった。そして陸に打ち上げられた魚のように口をパクパクと動かし、震えながら黒山羊を指差した。何か言おうとしても、しかし言葉が出てこない。そのうち腰が抜けたのか、その場に座り込んでしまった。がっくりとうなだれる白山羊を見ながら、黒山羊がゆうゆうと口を動かす。二匹の様子を見て、3人のバイトはそれぞれ溜息をついた。

 やがて、すっかり紙を飲み込んだ黒山羊は、白山羊に手を差し伸べた。手を振り払おうとした白山羊だったが、力がこもっておらず安々と黒山羊に捕まった。ヒッと声をあげて白山羊は目をつむった。喰わないでくれ、喰わないでくれとうわ言のように繰り返す白山羊の腕を黒山羊がそっと持った。ギャッと叫んで暴れようとする白山羊の背中をポンポンと叩くと、意表を突かれたのか白山羊は目を開いて黒山羊を見た。白山羊の視線に気づいた黒山羊は静かに微笑み返し、背中を支えながらゆっくり立たせた。そして驚かせた非礼を詫び、こう付け加えた。


「伝統的に、食べ終わったあと『さっきのお手紙ご用事なあに』と尋ねることになっている。日を改めてまた来て欲しい。今度はしっかり応えるだろう」


 ブリキの人形のように白山羊はカクカク頷き、店から転げ出ていった。白山羊が足をもつれさせつつ逃げていく様子を、気の毒そうに黒山羊は見遣った。その後ろでは、3人のバイトが額を寄せて話し合いをしている。まずは得意先に納品できなくなることを伝えなくては、とか、次のところは調理場が外から見えないようにしよう、とか、ゴソゴソとしたやり取りが聞こえてきた。その様子に気づいた黒山羊は申し訳なさそうに


「めぇ」


と発した。

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黒松きりんの「文章4コマ」 黒松きりん @giraffe

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