山羊と手紙 三通目
「起」
日が昇って間もない頃合いだ。襖の向こうの声が緊張している。
「御館様、白山羊殿からの書状にございます」
「入れ」
揃えた両手で襖を開け、青山羊が畏まりながら入ってきた。適切な距離を保ちながら、腕を真っ直ぐ伸ばし、「黒山羊殿」と書かれた書状を差し出してきた。
「いつ届いた」
「つい先程、使者が持ってきました」
「そいつは今どうしてる」
「返事を持って帰るよう言付けられたと、部屋で待っております」
「会おう。連れて来い」
「はっ」
一礼して下がろうとした青山羊は、襖を閉める寸前で手を止めた。
「御館様、書状の中身はご覧にならないのですか?」
「使者の前で読む」
「かしこまりました」
「承」
使者は平伏して黒山羊の入室を迎えた。黒山羊はドカドカと床を踏み鳴らすようにして部屋の中心に向かい、ドカッとあぐらをかいて座った。浅葱色の着物が、黒山羊の勢いに追いつけずバサバサした音を出す。定位置に納まった黒山羊の背筋は刀を差し込んだように伸び、その表情は朝の井戸水のように冷たい。
「面をあげられよ」
「はっ」
白山羊からの使者はゆっくり、しかし堂々と背中を起こした。成人の印である髭が生えているものの、刻まれた皺はわずかで、まだ若い山羊であることは明白だ。それにもかかわらず、見事な所作であることを認めてか、黒山羊がひょいと片眉をあげて傍らに控える青山羊を見た。青山羊も頷いて答えた。
「して、白山羊殿はなんと」
「恐れながら、我が殿は書状の内容についてはお教えくださいませんでした。わたくしはただ、書状を運び、お返事をいただいて帰ることのみを申し付けられましたゆえ、お答えすることはできません。なにとぞ、書状をお読みくださるようお願いいたします」
「ふむ、余計なことは言わない、か。白山羊も良い山羊を抱えておる」
黒山羊は懐から書状を取り出して「黒山羊殿」という白山羊の字を見た。よく整えられた、読みやすい字だ。主が賢く、竹を割ったような性格の者なら、従う者も忠義が厚くなるのかもしれない。黒山羊には書状の中身におおよその検討がついていただけに、使者に何か一言でもケチを付けて帰らせたいところだった。実際、何度か同じ手を使って追い返したことがあったのだが、それも今回は無理そうである。黒山羊は小首を傾げて中庭を見た。前回の使者が来た時は雪が降っていた。今は紅葉が色づき、地面を覆う草も茶色く精気がない。こんなに季節が進むまで返事を待っている白山羊に、黒山羊は尊敬の念すら覚えてしまうのだった。
「転」
黒山羊は中庭に目を遣ったまま、つぶやくように「分かった、読もう」と言った。
「ありがとうございます!」
使者の山羊は深々と礼をした。重々しく、背筋が伸びたままに下げられた頭が床上拳一つ分の所でぴたりと止まり、再び時間を掛けて元の位置に戻される。その様子からは感謝がよく伝わり、また、白山羊からの期待に応えられた安堵感も滲んでいた。
黒山羊は包み紙を開け、書状の中身を改めた。何の事はない、やはり予想していた通り、白山羊から借りている三国志演義の写本の返却を求める内容だった。黒山羊はもう読み終わっていたものの、手元に置いておきたい写本をさらに写そうとしていたが、一向に筆が進んでいなかった。写す作業を一度は家来に任せようかと思ったものの、自分の修養のためのことに人を使うのは気が引け、何より、「御館様は面倒くさがり」との評判が立つのも避けたい所だった。
「白山羊殿は、なんと」
険しい顔をしたまま書状を睨む黒山羊を心配し、青山羊が律儀に声を掛けた。内容を教えるのも憚られる。黒山羊、万事休す。
しかし、黒山羊はこの混迷極める世の中にあって、十数年もぼんやりしながら一国一城の主をしていたわけではなかった。いつのときも、必ず、抜け道はあるものだ。
「うん、そうだな、うまそうな紙だな」
そう言ってモシャモシャと書状を食べてしまった。呆気にとられている使者の山羊と青山羊が我に返る前に、白山羊の端正な文字が書かれた和紙は、黒山羊の口の中に消える。汁気がないまま一気に食べるのには多少無理があったのか、黒山羊は首を縦に動かしながら書状を飲み込んだ。
「結」
先に口を開いたのは使者の山羊だった。
「く、黒山羊様、何を!」
もはや先ほどまでの態度は微塵も残っておらず、ただただ狼狽するばかりの使者に、黒山羊は落ち着きを払って答えた。
「さすが、白山羊殿は書状にも良い紙をお使いなさる。あまりに旨そうだったので思わず食べてしまいましたわ。困ったことに、何が書いてあったかを覚えておらんのです。その旨、白山羊殿へ返事を書くので、持って帰っていただきたいが、よろしいかな?」
黒山羊の言葉に、青山羊は口元だけで笑い、使者は顔を白くした。
「そ、そんな言い訳が」
「おぬしが受けた命はっ!」
使者の言葉に被せるように、黒山羊は大声で制した。
「書状を届け、返事を持って帰る。それだけであろう。中身について、口を出すことを白山羊殿が望んでいるかどうか、判断出来るのか」
「そ、それは…」
「すぐに返事を書く。ここで待っておられよ」
使者の山羊は何かを言いかける。喉が動き、口が開こうとする。その様子を黒山羊がじっと見つめた。黒山羊の背中はいつの間にか曲がり、右手の中指爪で親指の腹が弾かれている。かしゅっ、かしゅっと爪と皮膚がこすれる音が微かに鳴っている。その音が六度鳴ったところで、使者は「はぁ」と溜息のような声を出しながら頭を下げた。その様子を見届け、黒山羊は立ち上がり、部屋を出て行く。後に続いた青山羊が一言だけ口を聞いた。
「よろしいのですか」
その声にぱたりと止まった黒山羊は、しかし振り返りはせずに答えた。
「貴殿のお手紙ご用事なあに、とでも言ってやるさ」
その口元は片方だけが上げられ、目は三日月の様になり、ついと頭をあげて白山羊の城がある方角へ向けられた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます