名無しの女

八島清聡

名無しの女

 




 空気がぴんと張りつめた、冷たい夜が降りてきた。

 先日ようやっと戒厳令が解かれた街は、元の賑わいを忘れたかのようにしんと静まり返っていた。

 かつては夕刻ともなれば、屋台や見世物小屋が軒を連ねた中央広場も、今は閑散として人っ子一人なく、痩せた野良犬がふらりと横切ったのみである。


 中央広場の正面に位置する市庁舎は、塀という塀に鉄条網が張り巡らされ、三階建ての灰色の建物は、幾台ものサーチライトに照らされていた。

 武装した憲兵が門の前に立ち、四方に鋭い視線を投げる。

 どこからか、けたたましいサイレンの音が聞こえてきた。


 中の憲兵隊本部には、数人の将官が残っていた。

 責任者として本部を預かるバトラーは、本や書類が積みあがった机の上に両足を乗せ、小刀で鉛筆を削っていた。シャリシャリと小気味いい音をたてながら、黒い芯が露出していく。削りながら、ふわあと大欠伸した。今はすることがなく、暇を持て余していた。今日は事件の起きない平和な日だった。そのこと自体はありがたい。


 机上の木製のラジオから、政府広報のニュースが流れている。

「昨年起きた爆弾テロは過去最多の五十八件を数え、市民の安全は脅かされる一方でした。しかし、先の戦争で獅子奮迅の活躍をした英雄アレックス・バトラー少佐の憲兵隊赴任以来、テロリストの検挙数はうなぎのぼり。街の治安は回復の一途を辿り、反政府組織の壊滅も時間の問題です――」


 コンコンとノックの音がして、少し間を置いてから扉が開いた。

 入ってきたのは、部下のエイネス少尉だった。

 栗色の巻き毛に、眼鏡の奥の怜悧な瞳が部屋の主を探して彷徨さまよう。

 積み上げられた本の林から、行儀悪く組まれた足が覗いている。

 机の前まで行くと、書類を置いた。バトラーは顔を上げた。

「お疲れ様です、少佐。サインは明日でいいですよ」

 バトラーは壁にかかった時計を見た。八時である。

「そうか。他に何もないなら俺は帰るぞ」

 エイネスは目をぱちくりとさせた。仕事一辺倒の上司が、早い時間に帰るのが意外のようだ。

「おや、珍しいですね。日付が変わる前に退出とは」

「……腐れ縁と会う」

 バトラーはどこか面倒くさそうに答え、鉛筆を放りだした。

「それに妻の命日でもある」

 しんみり呟くと、椅子から立ち上がった。

 ニュースを続けていたラジオのスイッチを切った。

「……ひどいもんだ」

 忌ま忌まし気に呟くと、エイネスがすぐに反応した。

「え、何がです?」

「政府広報だ。昨年の首都のテロが五十八件だと? 馬鹿を言う。実際は二百件以上起きている」

「……それは仕方ないでしょう。ある程度は数字を修正しないと、新政府の沽券に関わりますし。それに、いたずらに民心の不安を煽ってもねえ。最も、市民は誰も信じちゃいませんよ。騙せるのは地方だけです」

「お前、公僕の分際でドライだな」

 バトラーが呆れたように笑うと、エイネスはつんと顎を逸らした。

「ええ、まあ。俺は、自分の目で見たものしか信じない主義なので。けれど最近テロが減ってきているのは事実ですし。その点は少佐の敏腕ゆえですね」

「はっ、俺をおだてても何も出ないぞ」

 バトラーは笑いながら上着を引っかけ、真っ直ぐ扉に向かった。本当に約束があった。エイネスは、その逞しい背に向けて恭しく敬礼をした。

 

 

 醒めた様相の首都でも、歓楽街である五番通りは煌々と明かりが灯り、そこそこの人出があった。

 表の通りは酒場がずらりと並び、裏路地に入れば民家を装った娼館が点在している。

 水商売の常で、売春業と酒屋は密接に繋がっている。酒場でも、それとなくサインを送ればすぐに女を斡旋してくれる。


 そんな色めいた酒場の一角で、私服に着替えたバトラーは黒のカソックを着たアースキンと向かい合って酒を飲んでいた。

 本業は神父であるアースキンの顔は赤かった。

 店に入るやいなや、立て続けにウイスキーを何倍もあおった。

 一時間もしないうちにすっかり酔っ払ってしまい、会話すらあやうくなってきた。

 それでもグラスを離さないので、バトラーはとうとう制止の意味で腕を掴んだ。

「おい、もうその辺にしておけ。飲みすぎだ」

 アースキンは、呂律ろれつの回らない声で吠えた。

「……いいんだ、いいんだよ。放っておいてくれ」

「放っておけるか。今日はフローラの命日だ。だから来たんだぞ。なのに、なんだこの体たらくは。大体、お前は神に仕える身だろう。酒を飲むのは構わんが、溺れるってのはどうなんだ」

「あはは、構わんさ。葡萄酒は神の鮮血だよ」

「お前が飲んでるのはウイスキーだ」

 バトラーは冷静に指摘したが、アースキンは聞いていなかった。

「主の血を飲み干すとは、大層名誉なことじゃないか。え、そうだろ? 英雄くん?」

 掴まれた腕を振り払うと、ふざける様に両手を組んだ。どこか自棄やけの気配があった。

「ああ、天にまします神よ。我は痛切に願います。この血みどろの街に、神のご加護がありますように。信じる者は救われる。救われるのさぁ……わはははは」

 と言って、両手を上げて万歳した。辺りに甲高い笑いが響いた。


 バトラーはひどく苛立った。今日は妻のフローラが亡くなってちょうど一年目の命日である。それなのに誘ってきた本人は故人を悼むわけでもなく、酒に逃げ続ける。妻は冒涜ぼうとくされていると思った。

「……神の加護か。この酔っ払いが。いい加減にしろ」

「ん、何か言ったかコラァ……」

 アースキンがへなへなした拳で殴りかかってくるのを、バトラーはなんなくかわした。

 自分は軍人だ。酔った民間人に殴られたところで屁でもない。

「ああ、言ったとも。俺はいい。神なんて元から信じちゃいないからな。だが、フローラは違う」

「……あ?」

「あいつは、あいつは……神を信じていた。お前の教会にも毎週のように通ってただろうが!」

 バトラーは大きな声をあげ、拳でテーブルを叩いた。

「信じる者は救われる? ふざけるな。だったら、なんであいつはあんな最期を迎えた。木端微塵こっぱみじんになったんだ。買い物へ行っただけなのに、歯一本として残らなかったんだぞ!」

 バトラーは椅子を蹴るように立ち上がった。上着のポケットから皺くちゃの紙幣を取り出すと、卓上に乱暴に叩きつけた。

「お、おい。待てよ。……アレックス!」

 背後からおろおろした声が聞こえたが、振り返らずに酒場を出た。

 

 

 月が出ていた。真白に浮かんだ満月である。

 バトラーは、家路を辿っていた。狭い通りに人影はなく、あちこちに出来た水溜りを蹴りながら歩いた。外の空気を吸ったら、だんだんと頭が冷えてきた。アースキンとは嫌な別れ方をしてしまった。自分も大人げなかったとは思うが、謝るつもりはない。


 バトラーは一人だった。昨日も、今日も、明日もそうだとわかっている。

 家に帰っても待つ人はない。週に数回通いの家政婦がやってくるが、夕方には家事を終えて帰っていく。


 一年前までは違った。

 かつては、仕事以外はどこへ行くにも妻のフローラを伴った。

 休日は、彼女と仲良く腕を組んで通りを歩いたものだった。フローラは口数の少ない優しい女だった。バトラーの仕事を、彼が成すことを正義だと信じていた。信心深く、神の御業みわざを、奇蹟を信じていた。


 だが、フローラは呆気なく死んだ。神は信仰篤き彼女を救わなかった。

 朝の市場に野菜を買いに出たところでテロリストの自爆に遭い、二十四の若さで散った。

 市場の東西に延びたテントは爆風に吹き飛び、悲鳴と嗚咽ばかりがこだます阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。五十人近い犠牲者が出た。

 自爆犯の近くにいたフローラは、文字通り何一つとして残らなかった。墓は作られたものの、棺桶には家に残された衣類や装身具が詰められた。


 バトラーは妻を殺された怒りと悲しみに我を忘れ、昼も夜も反政府組織の壊滅に奔走した。何度も大規模な掃討作戦を指揮し、政府に仇なすテロリストたちを捕らえた。その成果は出て、最近ではテロは減少傾向にある。

 

 思い出すだに、懐かしい日々が胸をついた。

 叶わないと知りながらも、バトラーはフローラに会いたかった。

 潤み始めた目を情けなく思い、立ち止まった。しばらく月を見上げ、滲み出た涙が乾くのを待った。


 前から人の来る気配がした。

 大きな花籠を持ち、スカーフをすっぽり被った女が音もなく歩いてくる。月明かりに伸びた細い影が、一歩前に進むごとにふわふわと揺れた。

 女はバトラーの前で足を止めると、駕篭かごから一輪の花を取り出した。

 暗くて色はよくわからないが、花びらはハートの形をしていた。

「こんばんは、旦那さん。お花はいかが」

「いや、いい」

 バトラーは素っ気なく手を振り、それからハッとして女の顔をしげしげと見た。

 さして整った容貌ではない。だが、優しく垂れた目もとが妻に似ていた。

 女はふと首を傾げ、意味深に微笑んだ。


 そのまま、花を駕篭に戻して行きかけたのをバトラーは呼び止めた。

 夜遅くに、女が一人で出歩いている時点でかたぎではないだろう。

 流しの娼婦かもしれないが、職業を咎める気はなかった。売春は後ろ暗い商売ではあるが、取締りの対象ではない。

 ただ、身を斬るような深い孤独が、飢えたハイエナのような凶暴さをもって心を圧迫した。

「おい、売っているのは花だけか?」

 試しに聞くと、女はふるりと首を横に振った。

「いいえ」

 女は駕篭を地面に下ろした。

 両手でスカートの裾を持つと、するするとまくってみせた。

 闇に、女の白い足がぼうっと浮かび上がった。

 何を言わずとも女は男の欲望を察し、自らの商品をさらけ出した。

 

 

 合意した二人は連れだって、近くの安宿へ入った。

 部屋に入って灯りをつけると、女は手慣れた風にスカーフを解いた。

 赤茶けた髪にとび色の瞳をしていた。フローラは金髪碧眼であったから、色彩はまるで違う。目もとと華奢な身体つきが似ていた。

「ショートは五百、ロングは千リルゲ」

 と、女は自分の値段を言った。

 バトラーは頷き、財布を取りだすと千リルゲ支払った。別段高くはない。今夜は一人になりたくなかった。女に朝まで傍にいて欲しかった。

 女はするすると服を脱ぎ、裸になった。バトラーを抱きしめてきた。バトラーも抱きしめ返した。女の甘い体臭が鼻孔をくすぐった。遠慮なく柔肌に顔を埋めた。嫌がるかと思い、唇にキスはしなかった。


 朝、ベッドで目を覚ますと女はまだ部屋にいた。

 きちんと身支度を済ませ、窓際の丸椅子に腰かけていた。

 硝子ガラス越しに明けかけた空を見ていた。その横顔に、昨晩の乱れた影は微塵もなかった。職業に似合わず、清廉な空気すら漂わせている。

 見つめていると、視線を感じたのか振り返った。寄ってきて、バトラーの着替えを手伝ってくれた。


 去り際に、あらかじめ用意していたのか、花を一輪と小さなカードを手渡してきた。

 花は、燃えるような赤と激しい黄が混ざっていた。昨夜、売り物として見せられたものと同じようである。

「これはなんだ」

「ベゴニア」

 と言われても、バトラーは花のことはよくわからなかった。

 カードを見ると、電話番号らしき数字が並んでいた。女が薄らと微笑んだ。

「ありがとう。また呼んで」

「この番号にかければいいのか?」

「お母さんが出るから」

 お母さんというが、まさか実母でもあるまい。娼館の女将おかみか何かと思われた。

「わかった。また連絡する。きみの名は?」

 何気なく尋ねると、女は目を伏せた。少しの間を置いて、小さな声で言った。

「……フローラ」

「えっ」

 バトラーは驚いた。死んだ妻の名と同じである。

 珍しい名前ではないが、だからといって信じることはできなかった。妻の命日に出会って買った女が、妻と同じ名を持つなんてあまりに出来すぎている。女は付け加えるように言った。

「……夜の間に、何度も呼んでいたわ」

「ああ、そうか」

 どうやら寝言で妻の名を呼んでいたらしい。途端に羞恥がこみ上げて、顔が熱くなるのを感じた。

「私に名前はないの。その名で呼んで」

 女はそう言うと、花籠を持って静かに部屋を出て行った。

 

 

 その日もバトラーは市庁舎に出勤した。

 仕事はこなしたが、頭の片隅にあの花売りの女がこびりついて離れなかった。彼女に会って、もっと話をしたいと思った。


 退勤した後で、街の公衆電話からカードの番号へ電話をかけた。

 案の定、女将らしき中年女が出てきた。客と知ると急に猫なで声になり、指名する娘の名を聞いてきた。バトラーが「フローラ」と答えるとそれで通じるらしく、時間や待ち合わせ場所のすり合わせをした。

 翌日の晩なら空いているというので早速予約を入れ、昨日の安宿よりは格段に高級なシティホテルで待ち合わせることにした。電話を切った後で、ホテルの予約も入れた。


 翌日、女は時間通りにホテルのロビーに現れた。

 バトラーは、心が浮き立つのを感じた。

 金で買う関係とはいえ、女の視線が自分だけに注がれるのが心地よかった。

 その夜は、勢いで唇にキスをした。女は嫌がらなかった。

 それからというもの、バトラーはちょくちょく女を指名して呼ぶようになった。

 女は毎回時刻通りに現れ、金をもらっては一夜を共にした。

 

 五回目に逢った時のことである。

 うす暗い部屋のベッドの上で、バトラーは女と抱き合っていた。

 官能の嵐が過ぎ去ると、気だるくも幸福の心地がした。

 女は事後の余韻にしばらく浸っていたが、やがて頬を摺り寄せてきた。

「ありがとう、いつも贔屓ひいきにしてくれて」

 バトラーは、大きく息をついた。

「もう会うのも五回目だ。そろそろ本当の名前を教えてくれ」

「……。フローラ」

「またそれか」

 バトラーは落胆した。

 これまでいくら尋ねても、女は何一つとして自分のことを話さなかった。

 名前、生まれたところ、年齢、現在の住所、何を聞いても曖昧に微笑むばかりである。商売女としては当然の対応なのかもしれない。

 バトラーは自分は上客である自信があった。金払いは良いし、女の嫌がることは何一つしない。だが、所詮は大勢いる顧客の一人でしかないとも思った。


 女がぽつりと言った。

「フローラは、大切な人なのね」

「でも死んだ。死んだ人間は決して帰ってこない」

「……そう」

「きみはその……死んだ妻と似ているんだ。顔というよりは雰囲気が」

「そう」

 女は、バトラーの逞しい胸に隠れるように顔を埋めた。それ以上は何も言わなかった。

 

 

 二人が出会ってから、一ケ月が過ぎた。

 バトラーはホテルのベッドに腰かけ、煙草を吸っていた。

 普段は吸わないのに、今夜は気持ちをしずめるために必要だった。

 遠くから、ウーウーとサイレンの音が聞こえる。

 窓の向こう、川を越えた遠くに火の手が上がっているのが見えた。

 外の火事が気にならないでもないが、エイネスに居場所を伝えてある。事件ならば、ホテルに連絡が来るはずだった。来ないなら、ただの火事だろう。


 女は背を向けて服を着ていた。

 今夜も朝までいてくれるロングを望んだが、他にも予約が入っているとのことだった。指名が入れば、一晩に複数の客を持つのである。

 わかっていたが、彼女がこれから別の男に抱かれると思うと、バトラーはやりきれない気持ちになった。今でははっきりと独占欲が芽生えていた。

 ついつい嫉妬が声となってあふれた。

「きみは、どうしてこの仕事をしている」

 返す女の声は淡々としていた。

「……お金のためよ」

「すまなかった」

 バトラーは素直に詫びた。

 彼女はきっと何か事情があって、娼婦となったに違いなかった。


 女は服を着ると立ち上がり、いつものように窓辺に寄った。

 窓から外を眺めるのが好きなようだった。バトラーと過ごす時間も、暇さえあればそうしている。

 遠くに揺らめく炎をじっと見つめた。闇に浮かぶ金色の光が、恐ろしくも美しい。

 無意識のうちに両手を重ね、胸の前で合わせた。握った手がかすかに震えた。何か葛藤があるのかもしれない。外に向かって祈っているようにも見えた。

「……ここもそうだけど、田舎は仕事がないの」

「そうなのか?」

 女の方から話し出すことは滅多になく、バトラーは驚いた。

 自分に心を開いてくれたようで嬉しくもあった。

 「仕事がない」というのは本当だろうと思った。

 十年近く続いた内戦で、この国は疲弊しきっている。首都はそうでもないが、地方の激戦地は街や村ごと焼かれてしまい、焦土と化したところも多い。ようやく復興が始まったが、雇用を生みだすまでには至らない。若い女性なら尚更だ。


 女は尚も言葉を選びながら続けた。

「地元じゃ人目があるから。持参金が払えない娘は、都会へ出てこうしてお金を稼ぐの」

「……持参金? もしや結婚するために?」

「そう」

 売春を続ける意外な理由に、バトラーは再度驚いた。

 彼女は家族に売られたり、多額の借金に縛られているわけではなかった。

 想像していた悲惨な背景はなく、いかにも田舎の娘らしい平凡な幸せを望んでいた。

 売春は結婚のための、いっときの出稼ぎと割り切っているようである。故郷に帰ってしまえば、都会で何をしていたかはわからない。知られたとしても、さして汚点にはならないのだろう。

「きみも、持参金のために花売りをしているのか」

「ええ。大分お金が貯まってきたから、私ももうすぐくにに帰る」

 帰ると言われて、バトラーは急に寂しくなった。女に逢えなくなると知って惜しくなった。叶うなら、ずっと自分の傍にいて欲しいと思った。

「……別に帰らなくても。この街で相手を探して、結婚すればいいじゃないか」

 女は振り返ってバトラーをじっと見つめた。それから諦めたように微笑んだ。

「……だめ。ここは物騒すぎる」

「確かにな」

 バトラーは苦笑し、咥えていた煙草を灰皿で揉み消した。

 首都の治安は、お世辞にも良いとは言い難い。何せテロが年間二百件以上だ。

 不安に思うのも当然だが、しかし自分を含め憲兵隊の努力で回復してきているのも事実である。そのことをしっかりと説明すれば大丈夫だろうとも思った。

 ここは一旦引き下がるが、諦める気はなかった。

 彼女もあえて自分にこういう話をしたのだ。脈はあると感じた。

 

 

 女と出会って三ヶ月後の夜――。

 市庁舎の憲兵隊本部で、バトラーはいつものように行儀悪く足を投げ出していた。

 手の中には、もはや皺くちゃになったカードがあった。

 電話番号も暗記してしまっている。今夜も休憩がてら、女のカードを見つめていた。

 コーヒーを運んできたエイネスは部屋に入るなり、上官の背後にこっそりと忍び寄ってカードを覗きこんだ。

「……ああ、これですか。噂は本当だったんだな。少佐も隅に置けませんね」

 突然耳もとで囁かれて、バトラーは飛び上がった。

「うわ、なんだお前」

 エイネスは眼鏡のフレームに指をかけ、にやにやと笑った。

「いやね、ハンスの奴が言うんですよ。少佐が街でスカーフを被った女性と連れだって歩いているのを見たって。随分親しい様子だったと」

「……いや、それは」

「道理で最近、いそいそとお帰りになると思いまして……。納得がいった次第であります」

 バトラーは諦めたように息をついた。

 ここで言い訳してもしょうがない。何を言っても、面白おかしく尾ひれがついて噂されるだけだろう。


 最近では、ますます女にのめり込んでいた。

 彼女の時間を一時間単位で買って、非番の日も共に過ごしていた。

 もはや己の身分や地位を隠さず、軍服のままで逢いに行くこともあった。これは彼女の安全のためでもあった。連れだって行動することで、軍関係者と思われればまず悪い輩は寄って来ない。

 バトラーが憲兵隊長と知っても、女は驚かなかった。

 「新聞で写真を見て知った」と言った。

 自宅へは連れていかなかったが、休日は昼間の早い時間から待ち合わせをして、レストランで食事をしたり一緒に街を歩いたりした。時間を買われた女はバトラーの意向に従順だった。


 バトラーは机上に置いたパンフレットを手に取った。高級住宅地にある軍幹部向けの邸宅を紹介する冊子だった。最近、事務方へ命じて取寄せた。

「あれ、少佐。引っ越しされるんですか」

「……ああ。今、家を探しているところだ。治安の良いところがいい。彼女が不安がっていてね」

 含羞はにかみながら答えると、エイネスは冷やかすように、わあと歓声を上げた。妻を失って以来、仕事の鬼と化していた上官にもようやく春が来たようである。そのことが素直に喜ばしかった。

 バトラーは、フローラとの思い出が詰まった今の家から引っ越すつもりでいた。

 亡き妻を忘れるわけではないが、新たな連れ合いを得、新しい家へ引っ越して、新たな人生を踏み出すつもりでいた。

 

 

 

 出会った時と同じく、満月の夜だった。

 バトラーは女とひとしきりたわむれた後、裸のまま手を繋いでベッドの上に横たわっていた。

 息が落ち着き、汗が引くのを待って、女が言った。

 言葉は少ないが、バトラーと慣れ合ううちに自分から話すようになっていた。

「やっとお金が貯まったの……。明日、田舎に帰るわ」

 予期していた申し出に、バトラーも準備していた言葉を返した。

「そうか……。残念だが、餞別せんべつは弾むよ」

「ありがとう。嬉しい」

「俺も嬉しい。餞別はそっくりそのまま持参金にしてくれ。そうすれば、結局は二人のものだ」

「……えっ」

 女の身体が震えた。戸惑いが肌を通して伝わってきた。

「田舎に決めた人がいるわけじゃないんだろう。だったら俺でもいいじゃないか。とはいっても、きみにも準備や支度があるだろうし、少し日を置いて迎えに行く」

「……」

「この街は確かに物騒だが、安全は金で買える。俺がきみを守るから、安心してこちらで暮らしてくれ」

 決然と言うと、女は黙ってしまった。憂いを帯びた眼でバトラーを見つめてきた。遠回しの求婚であることは理解しているようだ。

「そうだ、明日は非番なんだ。最後に食事でもしないか。商売は抜きで。そこで改めてプロポーズしたい」

 女は大きく息を吐いた。

 バトラーにはそれが「だく」の意味であるように感じられた。

「……わかった。汽車は最終だから、八時に西の時計塔の前で会いましょう」

「時計塔か」

 バトラーは中央エリアの西と東に、対となってそびえる時計塔を思い浮かべた。

 約五百年前に建てられた二十メートルほどの尖塔で、数々の戦火をくぐり抜けてきた歴史的建造物である。東と西共に、全く同じ外観をしており双子塔とも呼ばれている。方角に疎い者は、西東を間違えることも多い。


 確か、明日は東西の時計塔の下で祭りが開かれるはずだった。

 戒厳令が敷かれている間は開催が許されなかったが、最近やっと解禁になった。

「東の時計塔ではなくて西よ」

 念を押した後、天井を見つめたまま女は言った。

「ねえ……私、お金以外にも欲しいものがあるの」

「なんだ」

「あなたの軍服のボタンが欲しい」

 それを聞いてバトラーは嬉しくなった。彼女は、軍人としての自分をも受け入れてくれたと思った。

 ボタンなど幾らでも替えがきく。一つくらい失ってもどうということはない。躊躇ためらうことはなかった。

「そんなものでいいのか。きみが物をねだるなんて初めてだな」

 バトラーはベッドから降りると、椅子にかけてあった上着を手に取った。

 ボタンには憲兵隊の紋章である、十字が刻まれていた。上着の一番上の金ボタンを引き千切るとベッドに戻り、女に手渡した。

 女はボタンを手にするとバトラーに抱きつき、唇にそっと口づけた。触れるか触れないかの軽いキスだった。

「いい思い出……。さようなら」

「おいおい。明日会うだろう」

「そうね」

 女は寂しそうに笑い、詫びるようにまた口づけた。今度は少し深かった。

「なあ、明日こそはきみの本当の名を教えてくれ。指輪に彫らなくちゃならない」

 バトラーが囁くと、女は目を閉じて深く頷いた。その顔は女の幸福に満ちていた。



 翌日の夜――。

 西の時計塔の針は、午後の七時五十分を指していた。

 スーツを着たバトラーは花束を持ち、時計塔の下へとやってきた。時計塔のみならず、腕時計をも何度も確認する。


 地方へ出る最終列車は二十二時半である。

 中央駅までは車で行けば五分ほどで、食事をしながら語り合うにも、プロポーズするにも時間は充分にあった。

 女が時間に遅れたことはなかった。あと十分後には会えるはずだった。バトラーは浮かれていた。今日はフローラを失って以来、人生最良の日になるはずだった。


 一方その頃――。

 東の時計塔の狭い階段を、若い男と女が駆け下りていった。

 女はスカーフを目深に被っていた。階段の踊り場で立ち止まり、割れた窓から外を眺めた。

 塔の真正面から十キロほど離れた反対側に、同じ造りの西の時計塔が見える。

 夜ともなれば、祝祭の明かりが数多あまた灯され、天に向かって峻厳しゅんげんそびえたっていた。

 女は胸元から金のボタンを取り出し、ぎゅっと握りしめた。これに触れるだけで安心した。

 階段を降りた男が戻ってきて、鋭い声で言った。

「何をしている、014」

「……行きます」

 女は名残惜し気に窓から離れた。

 子供の頃から、窓を通して外の世界を見るのが好きだった。

 絵画のように美しい田園風景も、迫りくる恐ろしい戦火も、燃える故郷の村も、硝子を通して見れば儚く遠く、むごい現実の全てが夢のように思われた。

 できれば、そうしてずっと遠くから世界を見ていたかった……。


 しかし、もう行かなくてはいけない。

 自分は生きるために生まれてきたのではない。

 人がつくった正義にじゅんじるために、生かされてきたのだから――。

 

 

 西の時計塔が午後八時を打った。

 辺りにボーンボーンと鐘の音が鳴り響いた。バトラーの前に女は現れなかった。

 鐘が鳴り終わると同時に、ドーンと大きな音がした。

 鼓膜を突き破るような轟音だった。ハッとして東の方を見れば、天まで届くような大きな火柱が立っていた。

「きゃああ」

「うわあああああああ!」

 辺りに人々の悲鳴がこだまする。

「これは……」

 バトラーは走り出した。嫌な予感がした。いや、起きてからの予感など無意味だ。あの火の下には地獄が広がっている。これまで戦場で、首都であっても数えきれないほど見てきた地獄だ。


「東だ、東が燃えているぞ」

「テロだああ、またテロだあああ!」

 叫ぶ市民をかき分けて、近くにあった売店に飛び込んだ。

 悲鳴を聞きつけて外に飛び出そうとする店主の腕を掴み、鼻先に軍隊手帳を突きつける。

「電話はどこだ。早くしろ」

 バトラーの剣幕に、店主はヒイと悲鳴を上げつつも、震える指先でレジの傍の電話機を指差した。

 花束を置き、受話器を引っ掴むとダイヤルを回す。

 憲兵隊本部へ繋がると、ひとしきり指示を出してから店を飛び出した。

 迎えを待っている暇はない。バトラーは東の時計塔へ向かって駆けだした。

 

    

 東の時計塔は、上から下まで炎に包まれていた。

 車が数台燃えており、駆けつけた消防隊が必死に消火活動に当たっている。

 屋台のテントも、地方から出張してきたらしき土産物屋も火の粉をまき散らしながら燃えていた。

「お父さん、お父さーん」

「あなた、あなた……」

「ロミオ、アーサー! 頼む、息子たちを。早く助け出してくれ!」

 家族が爆発に巻き込まれて半狂乱になった人々が、現場に入ろうとして、兵士たちともみ合っている。

 塔から数十メートル離れたところに、かろうじて引っ張り出された黒焦げの遺体が丸太のように並べられていた。全身からプスプスと白い煙を上げている。


 混乱のさなか、軍用のジープが二台、猛スピードで飛び込んできた。

 二台目のジープの後部座席にバトラーが掴まっていた。

 飛び降りると、気づいたエイネスが駆け寄ってくる。

「少佐、非番なのにすみません」

「構わん。……くそっ、ひどい有り様だな。犯人はどうした。逃がしたのか」

「いいえ。応戦してきたので、全員射殺しました。目撃者の話によると、時計塔の前で自爆したのは女のようです。塔の近くにいた市民は、軒並み犠牲になりました。ご丁寧に油まで撒いてくれてましたよ。畜生……」

 エイネスは悔しそうに顔を歪ませ、頭から血を流して倒れている男たちを指さした。うつ伏せで銃を握りしめたまま、全員絶命している。


「そうか。なんてことだ……」

 バトラーは低く呻き、煙が立ち込める中をふらふらと歩き出した。

 時計塔にはしばらく近づけそうにない。

 五百年間、戦火をくぐり抜けた国の文化財ももうこれで終わりだった。

 炎に焼かれ、もろくなった石材が崩れ落ちれば二次災害が起きる。

 崩壊の前に、半径二十メートル以内の市民や関係者を全員退避させねばならない。

 早く動かなくてはならない。早く!


 焦るバトラーの視界の端で、何かがきらりと光った。

 からからに乾いた排水溝の溝に何か落ちている。思わず駆け寄って拾い上げた。

 それは真っ黒に焼け焦げた金ボタンだった。

 憲兵隊の紋章である十字が刻まれていた。火傷をしそうなほどに熱い。ジジジと手の平の皮膚を焦していく。


「ああ……」

 バトラーは息を呑み、呆けたように時計塔を見上げた。

 視界の何もかもが、眩しい金色と赤で満ちている。熱い。赤い。命が燃えている。歴史が燃えている。文化が燃えている。

 それは残酷で、悲愴で、なのにいっそ目を灼いて閉じ込めて欲しいくらいに荘厳に美しかった。

 溜息すらつかせない滅びの美が目前に迫っていた。かつて女が見せた、鮮やかな赤と黄が混ざったベゴニアが思い出された。

 燃え盛る直立の炎に空は真昼のように明るく、人界を越えて煌めく星々が幻想的に照らし出されている。

 

 

 【了】

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