第三十六回

ダイヤのクイーンはクラブのジャックをアイしてる

【アナフィラキシー】

【強引なサービスシーン】

【夜が朝に変わるまで】

<幸運のお守り>




「知っている? クローバーって、とっても繊細らしいわ」


 爪に載せた赤いマニキュアに息を吹きかけながら、女は言った。

 せっかくサロンに行ったばかりなのにと、不機嫌そうな顔をしていたのは、わずか十分ほど前のことだ。

 今はもう、なんてことはない顔をして爪を乾かしている。


「ちゃあんと三枚の葉をつけるには複雑な仕組みがあって、葉が出る前に傷付けたりすると、四つ葉になったりするんですって」


 答えない俺に気を悪くした風でもなく、女は蓋を閉める。

 そうしてから、ベッドの上の俺を振り返った。


「踏みにじられた結果を、人は喜ぶの。面白いわよね」


 お前にだけは言われたくない。

 言葉に出来ないままで、睨みつける。

 俺のその様子が余計に面白かったようで、女は嬌声にも似た笑い声を上げた。


「イイわ、お前のその目、すごく好きよ」


 ソファから立ち上がった女が、ヒールを鳴らして近付いて来る。

 極々薄い扇情的なネグリジェをまとっただけの女は、窓から漏れる月光に照らされて青白く染まっていく。


 この女でなければ。

 この状態でなければ。

 ベッドへ引きずり込んで、また、月が隠れてしまうまで、飽きることなく貪っただろう。


 ぎ、とベッドが軋む。

 四肢を縛り付けるベルトが、限界まで張った。

 それなのに外れることも、千切れることもない。


 忌々しい。忌々しい忌々しい忌々しい!


「ねぇ、アタシ、人だわ」


 そんな今更なことを言って、女はヒールを履いたまま、ベッドに乗り上げる。

 そして、胸の辺りにまたがった。

 忌々しさと共に息苦しさが俺を苛み、噛まされた布の間から吼える。

 しかし、そうしてもがいてもベッドとベルトが軋むだけで、女は愉悦を滲ませたままそこにあるのだ。


「お前が踏みにじられている姿がね、アタシ、すごく好きみたい。クローバーみたいに、お前は繊細じゃないけれど」


 まただ。

 また、嬌声にも似た笑い声を上げて、そうしてから俺の上から退けて、脇腹の横へ腰掛けた。


 赤いマニキュアを塗った爪で、女は俺の身体をなぞっていく。

 この女と同じ空間にいるだけでも不快だというのに、アレルギーにでもかかったように、酷い吐き気が込み上げてくる。


「でもね、お前が他のヤツに踏みにじられている姿は、大っ嫌いよ」

「ッぐ、う」


 肩から走る、鋭く激しく、それでいて、鈍い痛み。

 ぬち、という粘度のある濡れた音。

 女の赤い爪が、肩の傷を抉っていた。


「あ、あ、イイわ、その顔、すごくイイ」


 恍惚に頬を染めて、女が喘ぐ。

 俺の人生の最大の汚点は、この女を殺すことに失敗したことだと、ずっと思ってきた。

 だが今、塗り替えられた。


 女の殺しに失敗して、逆に俺が追われる立場になって。

 そして受けた銃弾が肩に開けた風穴を、女に犯されていることだ。


「ねぇ、出来損ないの殺し屋さん? 女にここまでさせておいて、自分だけっちゃうなんてこと、ないわよね?」


 弧を描く女の唇を、お望み通りくまで喰い千切ってやろうか――その思いだけをよすがに正気を保つ。


「楽しみましょう? 朝まで……いいえ、もっともっともっと……二人で、果てるまで」


 ――絶対に、殺してやる。


 呻き声に変わったその言葉を、俺の目で悟ったらしい女は、心底楽しそうに、狂った笑みを浮かべていた。

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2.5hours, and I. 相良あざみ @AZM-sgr

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