05:Wailing Wall

 その日のシエルは、久しぶりに踊る心を隠せずにいた。まさかあのアークが、自分から逢いたいと言ってくるなんて。一着しかない白のワンピースに袖を通し、シエルは自分なりに精一杯のおめかしをして鏡の前に立つ。


 白い肌に淡い金髪。目立つからと切られたそれは、今は散切りのボブカットになって縮くれている。ペリシテの社会はどうしても閉鎖的で、女性に対しての作法がなっていない。大陸の女の子たちは、シエルぐらいの年になれば誰だってオシャレをしているし、それを咎める大人だっていない……らしい。――少なくとも、シエルが読む雑誌にはそう書いてある。だからペリシテの人が嫌いな訳じゃないけれど、私だって羽を伸ばして大空に羽ばたきたいのだと内心で不満を零し、シエルは背伸びをする。


「ふぅ……でも屋根裏でも、息を吸って暮らせるだけ幸せなのかもね」

 シエルはつい先日読み終えたばかりの、少女の日記を思い出して溜息をつく。先の大戦でジュード人の抹殺を掲げた帝国は、各地に住むジュード人を、女子供の区別なく強制収容所へ放り込んだ。主人公の女の子は隠れ家に潜んで暮らしていたのだけど、結局は見つかって命を落としたのだという。あまりに酷い話だと身震いし、ジュードの人たちが祖国を欲しがるのも無理からぬ事だと理性では得心する。ただ問題は、そこがシエルたちの故郷だったという一点だけなのだ。――他人から何かを奪われたからといって、他の誰かから奪っていい理屈にはならない。


「よし。準備おっけー。本の女の子を真似してみました!」

 しかして悲しいかな。部屋に一人でいることが多いシエルの、独り言は否応無しに増えていく。これじゃあまるでおばあちゃんじゃないと自責はしつつも、そうそう簡単にやめられる訳でなし。この前アークから貰った髪飾りを結わえ、シエルはにーと破顔してみせる。なんでもおばあちゃんの形見らしい。オレンジ色のリリーが象られたそれは、時代の割に古めかしくなく、手紙と一緒に転がってきた時は、シエルは嬉しくて飛び上がりそうになったものだ。


 後はその上からヒジャブを纏えば準備は万端。窓から身を乗り出したシエルは、ローブを階下に垂らしゆっくりと降りていく。周囲に耳をそばだてて、物音に留意し、両親たちを起こさないように。




(だ、誰もいない……)

 辺りを見回し愕然とするシエル。戒厳令さながらの夜の街は、驚くほど静まり返っていて、人っ子一人歩いていない。急に怖くなったシエルは裏路地に回ると、果してそこには、ひと目を憚る様に屯するペリシテ人たちが、複数名いるにはいた。彼らはこちらへの興味を示すでもなく煙草を燻らせていて、その表情は疲れ切っているようにだけ見えた。そこで幾分かの憐憫は覚えつつも、下手に声をかけられるよりは遥かにマシだと言い聞かせ、シエルは待ち合わせの場所へと向かっていく。


 最近は人々の疑心暗鬼も極まっているのか、些細な事で口論や喧嘩が絶えない。それは屋根裏部屋まで届く男たちの怒号からも容易に推し量れる。だからシエルはますます外を出歩かないようになり、引きこもりがちになっていた。呑気と言われればそれまでかも知れないが、全てはシエル一人でどうにかできる問題ではないし、ならば本でもなんでも読んで、来たるべく時が来たらそれに従ったほうが建設的なようにも思えたからだ。


 ――やがて見えてくる処刑台の丘。かつて一人の救世主が死に絶えた場所として知られるそこは、たぶんジュード人のアークにとっては複雑な場所に違いない。なにせその救世主を裏切った一族の末裔こそがジュード人とされている訳で、或いはそれこそがジュード人の迫害の、正当なる理由としてしばしば用いられてきたからだ。


 だがだからと言うべきか、進んでその周囲を哨戒したがる兵士は少ないらしく、警備の隙を見て落ち合おうと今回は相成ったのだ。アークの曰く、兵力の殆どは難民キャンプのある東側に集中していて、市街地側である丘のほうは、パトロールが一キロに一人という、極めて薄い防備だという。




(あ――、ケシェト) 

 暫くすると壁の上に止まるケシェトが見えて、内心で呟きながらシエルの胸は弾む。確かにライトが見えるのは真逆のほうで、この辺りは真っ暗なままだ。ヒジャブが黒い所為で夜闇に溶け込んだシエルは、恐る恐る示された合図を出す。


(アーク、いるかな……)

 それは壁越しに小さな石を投げ入れる事。果たしてコツンと音がした直後、ガサガサと地面の下が蠢いて、壁の下からにゅっと手が飛び出てきた。


「わっ」

 一瞬声が出てしまったシエルは口を塞ぐと、改めて小声で「アーク?」と訊ねる。返事の代わりに親指を立てる手に安堵して、招かれるままシエルは身体をかがめる。


「会えてよかった……シエル」

 穴の向こうから聞こえるのは、紛れもないアークの声。


「アーク!」

「しっ。この下、通れるから潜ってきて。大丈夫、こっちには誰もいない」

 声を潜めるアークに頷いたシエルは、ごそごそとトンネルとなったそこを潜り抜ける。


「……凄い。こんなのあったんだ」

「シエルと逢う為にさ、掘ってたんだ。コツコツと」

 壁の厚さ自体は然程では無い。数十センチの地下探検を終えたシエルは、立ち上がってヒジャブを脱ぐと、そのままアークに抱きついた。


「わわっ!?」

「久しぶり、アーク! 私は元気だよ」

 シエルの目に映るアークは、以前より遥かに逞しく、顔立ちも精悍になっていた。深い青の瞳に、凛々しい眉毛。きりっとした口元が僅かに緩んで、そこから生まれるのは優しい微笑。――ああなんていうかそう、記憶の中の彼より、有り体に言って……格好いい。


「シエルも、元気そうでよかった」

 しかして共和国式なのだろう、なんの躊躇いもなくキスを返すアークに、シエルは頬を赤らめて目を逸らす。こっちは抱きつくだけでも結構大胆だったんだけどなと内心で零すも、どうやらそんな事はアークの国では当然の愛情表現だったらしい。


「アークも。手紙じゃ疲れてるみたいだったから、ちょっと心配だったけど」

 また視線を戻し、ほっとしたよとシエルは微笑む。ここ最近のアークは、手紙の返事も遅いし文面は疲れ切ってるしで、少しばかり不安だったのだ。


「ごめんごめん。でもシエルの顔を見たら元気が出た。そっちはどう? ……大変じゃない?」

 手紙の上での疲労感を感じさせないアークの朗らかさに、シエルはなんだか拍子抜けして言葉を返す。


「なんだ。アークったら全然元気そうじゃない。心配して損した」

「ははは、バレたか。シエルに会いたくて弱ってる演技をしてたんだよ」


 小声で笑うアークに、釣られてシエルも小さく笑う。ああ、こんなに心の奥底から笑ったのって、一体いつぶりだったろう。それが思い出せないくらい灰色の人生が切なくなって、そこでシエルは考えるのをやめた。


「初めて会ったのが、ぜんぜん遠い昔みたい。まさかこんな事になっちゃうなんて」

「ああ。悪いのは俺たちなんだけどさ……ごめんな」


 ボリボリと頭を掻くアーク。短く狩られた髪が月明かりに揺れ、ああ、やっぱりアークは疲れてるんだなと、シエルは思う。昔はこんなに言い淀む事は無かった彼だ。或いは何かを悩んでいるのか。そう慮ったシエルは、口を挟むのを止め、じっとアークの顔を覗き込んでいた。




「母さんがさ、再婚したんだ……」

 それから暫くの沈黙を経て、ぼそりと呟くアークは、逡巡とするように遠くを見つめる。常闇に二人以外の吐息は聞こえず、不意にシエルは、心臓の鼓動が高鳴りだすのを感じた。もしかすると、結婚という言葉に反応してしまったのかも知れない。


「俺さ、今まで、母さんがいるから、この国は抜け出せないってずっと思ってた。だけど、母さんが一人じゃなくなったって言うんなら……それは」

 本だけはこれでもかと読んできたシエルだ。この先に続くであろうアークの言葉を、幾つか妄想して期待半分。そして少しだけ気恥ずかしくなる。或いは、その言葉は――、もしかすると。


「俺、この国を出てもいいと思ってるんだ。ジュードの皆の想いは正しい。でもこの行動は、どこかがきっと……間違っている」

 出ていくだけ? それだけ? 内心で問うシエル。もうひと押し、もうひと押しの言葉があれば、きっと私が飛んで喜ぶのにと反芻する。そして果たして、どうやら想いは通じたらしい。アークの口から紡がれた言葉は、シエルの望んだソレだった。


「一緒に行かないか、シエル。俺の本当の故郷――、共和国に」

 待ってました、その言葉を。告白? 駆け落ち? それって何だか映画みたいとシエルは言祝ぎつつ、そう言えばこの状況も中々にドラマティックだと今更ながら思い返す。まるで運命によって引き裂かれ、それでもなお互いに求め合う。――そんな歌劇そのものだ、と。


「うん、いいよ。パパとママには反対されそうだけど……私ほら、こんな見た目でしょ。最近あんまり居心地がよく無いっていうか。こんな状況だからさ、いなくなっちゃったほうがいいんじゃないかって」

 

 それは考えすぎだろうと否定するアークを遮って、シエルは「とにかく、私はオッケーだから」と返す。まあその辺はどうにでもなるだろう。こんな時だけは、向こうの見た目が役に立つと、シエルは自分を幾らか褒めた。


「まあ何ていうか……以前に自慢してた程、いい国じゃあ無いんだ。共和国は。だけどさ。ここでこうして、シエルたちに銃を向けたまま暮らすぐらいなら、俺は戻りたい。ろくな思い出の無い故郷だけど、楽しい記憶はこれから作ればいいから」


 アークの曰く、一度は帝国に制圧された共和国は、傀儡政権の下、ジュード人狩りに協力を申し出たらしい。予てから市井に渦巻いていた不満もあったのだろう。やがて隣家の密告によって、アークの家族は強制収容所に送られたのだという。――最も既の所で逃げ切って、今はここに居る訳だけど。


「自由、平等、博愛って文言だけは素晴らしいけどさ。色々あるんだ。色んな民族が暮らしてる訳だから。――でもこんな風に、隣人に銃を向けるなんて真似だけは、あの国では許されなかった」


 どうやらアークの悩みの大半が、二人を取り巻くこの環境だと分かった時、シエルはやっと得心したように頷く事ができた。


「じゃあそうしよ、アーク。いつでも私は待ってるから」

 ただし、持参金だけは用意してねとシエルは笑って、アークを小突く。


「そうだな。郷に入りては何とやら。シエルを連れ出すなら、然るべくお金は置いてかないと」

 ペリシテ人には、夫となる男が信頼の証として持参金を納める風習がある。待って待って、それに頷かれたって事はもうプロポーズなんですけどとシエルは今更慌てふためき、しかしてその表情を隠したまま平然を装う。


「そ、それ……意味わかって言ってる? 持参金って、つまり……」

「プロポーズだろ。愛してる、シエル。結婚しよう」

 



 ぼふっと頭から何かが出た気がして、そこから先の記憶を、シエルはろくに覚えていなかった。ただ翌朝自室のベッドで目を覚ませた事実だけを慮るに、何とか自力で帰宅は出来たのだろう。ポケットには、アークから手渡された銀色の指輪が光っていた。

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アルフライラの歌 - Alf Laylah A War Era - 糾縄カフク @238undieu

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