04:Martial law

 ああ。状況は芳しく無いのだな、と。アークは椅子に座り溜息をつく。

 受け取ったシエルの手紙には、あまり悲観的な言葉は並んでいなかったけれど、実際に自分が軍人になった今、ジュード人とペリシテ人の間に燻る火種は、看過できない程度には増大していると身を以て体感していた。


 ――恐怖。おぞましい感情だとアークは身を震わせる。理解できない訳ではない。あの大戦は、それ程までに恐ろしいものだったと信じて止まない。母親が生き残ったアークはまだいい方だろう。だけれど中には、両親を失った者、障害を患った者、それどころか自身の命すら守れなかった者がごまんといる。だから、だからこそ分からぬ訳ではない。いや寧ろ……分かってしまう自分が嫌だ。


 奪われない為に、奪うしかない。極めて単純な絶対の摂理。先の大戦が起きるまでジュード人は自らの国を持たず、さながら流浪の民のように世界中に散らばっていた。そして須らくの国で、疎まれながらも金融で財を成し、科学で功績を上げ、芸術に名を残した。確かに幾ばくかの差別や不当な扱いはあったにせよ、それらは一種の嫉妬であると一蹴できるぐらいには、確固たる社会的地位を築きながら生きてきたのだ。


 だがそれが。僅か独裁者の一声で収容所に送られ、身の毛もよだつ民族浄化に見舞われるとは。連綿と子を生み育んできた土地を捨て、そこまでして逃げ延びる羽目になるとは。あの時アークを含むジュード人の大半が、こう思ったに違いない。――俺たちにも祖国があれば、と。


 


 結果。ジュード人が導き出した答えは至極明瞭。自らの奉じ奉る宗教の聖地に、自分たちだけの国家を築こうと……全てはそこに行き着いた。だがさも聞こえのいいその響きは、裏を返せば先住者たるペリシテ人の放逐を意味するものでもある。事実としてジュード人は、羊の皮を被り世論を操り、札束で政治家の顔を叩いてやってきた。銃を携え、軍隊を率い、聖地を取り戻す為・・・・・にやってきた。


 壁によって此岸と彼岸を分かち、鉄条網で聖地を囲い、武装した兵士たちで周囲を固める。およそ神の御業とは程遠い暴虐と蹂躙。いや、聖書の曰く、神が赦す限りにおいては何もかもが正当化され得るのだから、これもジュードの教義に拠れば十分に正しいのだろう。だが民族として以前に共和国で教育を受けたアークには、いま我々が為す略奪と、かつて我々に為された非道の違いについて、根本では判別ができなかった。


 要するに、我々も同じ穴の狢なのだ。そう結論せざるを得ない現状。無辜の民に銃を向け、既に血に汚れてしまったこの両手。一体シエルに、どう顔を向き合わせればいいのか煩悶とし、アークは先刻から、一向に進まないペンに苛立ちを覚える。なにせジュード人がやってきた事で追い出されたペリシテ人に、戦火を逃れてきたペリシテ人が加わり、聖地の周辺は飽和寸前だった。屋根裏に引きこもるシエルは知らないかもしれないが、先週も難民キャンプに対する銃撃戦があったばかりだ。大陸で見た悲惨な光景を、今度は自らが執行する悪夢。その晩は嘔吐と頭痛で眠る事ができず、シエルに手紙を送るのが随分と遅れてしまった。


 


 ――こんにちは、シエル。

 返事が遅れてしまってごめん。




 既にこの出だしだけで何度も書き直していて、アークはまた手紙を丸めてゴミ箱に捨てる。なにか、なにか明るい話題をと必死で模索するが、脳裏にこびり付いた光景が一向に拭えず、そればかりが思い起こされてしまう。――神の名を叫び、石を投げるペリシテの人々。神の名の下にそれらを裁く、ジュードの兵士。蹂躙された子供たちから向けられる、殺意を帯びた憎悪の眼差し。恐れからか陽気に振る舞い、かと思えば激しく激昂するようになった友人。ペリシテ人を悪と断じ、だから自分は正しいのだと頷いてみせる同僚。響く銃声、流れる血、踏みしだかれる悲鳴、それから……


 そこではっと現実に立ち返ったアークは、これでは善くないと便箋と向き合う。なにせ前の手紙を貰ってからもう二週間だ。流石に返事を返さなければ、シエルに要らぬ心配をかける時分だろう。――そう思い直し、アークは深く息を吸うと、諦めたかのようにペンを走らせた。


 


 ――こんにちは、シエル。

 返事が遅れてしまってごめん。


 陸軍に入隊して一ヶ月が過ぎました。仕事が忙しく、なかなか筆を取る暇がありません。ただ、シエルが元気だと聞いて、とても安心しました。


 ……それと、報告ですが。先日、空軍への転属願いを出しました。やっぱり自分には、地上で銃を撃つ仕事は合わないようです。空……シエル。最近はシエルの事ばかり思い出します。ああ。早くこんな馬鹿げた事が終わればいいのに。ジェード人の俺が言うのは、あまりにふざけた話だと、分かってはいるのだけど……


 逢いたいな……今度。もしシエルさえよければ。

 丘の前の壁の側で。ジュードの週の六日目、帳が下り月が昇る頃。目印にケシェトを。


 ――シエルがいつも元気でありますように。アーク。

 



 随分と支離滅裂な文面だと苦笑を漏らしつつも、アークは手紙を筒に入れ、ケシェトの脚に結わえる。もう既に夜は更けていて、月明かりだけが窓から部屋を照らしていた。


「頼んだぞ、ケシェト」

 アークの声に反応するかの様に飛び立った伝書鳩は、満月に黒点を描き、やがて消えていった。

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