03:Letters from in the Wall
一羽の白い鳩が蒼い空を渡り、羽を散らし舞い降りる。足元に結ばれた筒を見るに、誰かからの手紙を預かる伝書鳩だろう。案の定、その鳩が窓辺に止まるのを待ちわびたかのように、部屋の奥から少女が駆けてくる。
少女の名はシエル。肌の浅黒さを特徴とするペリシテ人にあって、透き通る様な白肌を持つ彼女は、その異質と生来の病弱も相まって、この家の屋根裏部屋に、篭りがちな生活を送っていた。
「おかえり、ケシェト」
虹の名を持つ鳩をそう言って労い、シエルはケシェトの頭を撫でる。ジュード人からの差別が激しい聖地の周辺では、子供の将来を慮って、敢えて外語の名を与える親も少なくない。遠い異国の言葉から「空」の名を賜与されたシエルも、そんな子らの一人だった。――だけれど彼女の置かれた現状は、籠の中の小鳥さながら。だから閉じ込められたこの場所から、憧憬と羨望を込め鳩に虹の名を与えたのも、シエルにとっては当然の帰結と言えた。
「えへへ……今日はどんなお話を聞かせてくれるのかな?」
だがいつもならば溜息をつくだけのシエルも、今日ばかりは違う。なにせ今日は彼から手紙の届く日。徹底的な報道管制が敷かれた、壁の中と外。その彼我を結ぶ唯一の手段であるケシェトの到来を、シエルは心から待ちわびていたのだ。
「――ふむふむ、そっかあ」
はたして独りごちるシエルは、筆の走らされた手紙に見入っている。差出人の名はアーク。壁の向こう、聖地に住まう、ジュード人の若者だった。
やっぱり軍人さんになるしかなかったんだ……と溜息をつき、シエルは窓際に座り、もう一度眼前の聖地に視線を移す。数年前、アークとシエルでアルカンシェルだねなどと笑いあった日々が懐かしく、且つそれでいてやや気恥ずかしい。――最も空を冠するシエルと違い、アークのそれは、虹では無く聖櫃(アーク)を指してはいたのだけれど。
先の大戦で迫害されたアークたちジュード人は、それから逃れるように聖地へとやってきた。幸いにもその後戦争は終わり、非道の首謀者たちは裁判にかけられたのだけど、訪れた平穏の陰では、今度は別の問題が芽吹いていた。
なにせ聖地とは、これまでシエルたちが住んでいた場所でもある。そこに新しくやってきたアークたちを受け入れる余裕なんてある訳もなく、双方が戸惑っていた所に現れたのが、連合国を名乗る世界の警察だった。
世界の警察は言った。「ここにジュード人の国を作るから、あなたたちは出ていきなさい」と。当然の如く反発を示すペリシテの人たちは、だけれど有無を言わさず追い出された。その時は、誰も彼もが慄いていた。だってペリシテの人たちは、約束されていたから。――先の大戦で世界の警察の味方をしたなら、貴方たちの土地は守られるから、と。
だけれど約束は反故にされて、シエルたちは聖地を失った。アークと言葉を交わしたのはその時。空(シエル)の国から来たアークの話に、シエルは興味深く耳を傾けていた。彼の肌も色白で、二人の見た目がさほど変わらなかったというのもあるかもしれない。――共和国。確かそう言ったかな。アルカンシェルの物語を、シエルはただ聞きたくて仕方が無かったのだ。
「元気にしてるといいけどな、アーク」
ぽつりと零すシエル。その灼眼は相変わらず聖地を眺めていて、脳裏には過ぎ去りし日々が朧げなテープのように繰り返されている。そびえ立つ凱旋門。青に映える赤金の塔。いつかは行ってみたいなと思いだけを馳せつつも、アークの話と幾ばくかの書物、それから白黒の映画の中でしか、シエルはその世界を知らなかった。
聖地は確かに重要なのだろうが、それは多分、もっともっと上の世代の人たちにとってはなんだと思う。そもそも肌の色からして皆と違うシエルは、生まれてからずっと奇異の目で見られてきたし、どちらかと言えば疎外感のほうが強かった。特に聖地を追い出されてからは、やれスパイの子だ、やれ裏切り者だと、聞こえるように陰口を叩かれる事も珍しくは無かった。それを不憫に思った母親が、療養を名目にシエルをこの部屋に――、よく言えば守り、悪く言えば隔離した。もちろんヒジャブ(顔を隠す黒い布)を被れば、誰が誰かなんて分かりもしないから、こっそり外を出歩く分には大丈夫だけど、素顔は流石に無理だった。
そんなシエルと唯一、対等に言葉を交わしてくれたのがアークで、彼は祖国の共和国を「自由の国」だと胸を張って自慢していた。学校にも通わず、孤独に頁を捲りながら外の世界を知るシエルにとって、今やアークだけが胸襟を開き話せる、たった一人の友人だった。
だから他のペリシテ人のように燃え上がるような憎悪はシエルの中にはあまりなく、早く目の前の壁が消え去って、アークと一緒に共和国に行きたいなあ、ぐらいしか、今のところは諸心も無かったのだ。
「ん、早くお返事書いちゃおう。それにしてもアーク、壁の中にずっといて、退屈じゃないのかなあ……」
机に戻り便箋を取り出すシエル。この屋根裏部屋が鳥籠だとするなら、聖地を囲む壁は巨大な牢獄にも見えた。あんな所に閉じこもって銃を構えて、もうとっくに戦争は終わったのに。彼らは何を恐れているんだろう。理屈は分かるが、いまいち実感が湧かないとシエルは首を傾げ、次にはアークに返す返事の為に、筆を走らせる。
――親愛なるアークへ。
こちらは変わりありません。街の人たちは殺気だっているようですが、私はずっと屋根裏に篭りきり。ママからは「ヒジャブを被らずに、外へは決してでないように」と頻りに言われます。もちろん私だって馬鹿じゃないので、言いつけは守っています。戦争ではありませんが、嫌な空気です。早く元の生活が戻って、アークと楽しく過ごせればいいなと思います。アークが悪い訳ではないのだけど……この空にもやがて虹の架かる時は訪れるものでしょうか? 最近は収容所に送られたジュード人の本を読んでいます。アークたちがこんな経験をしていたのだと思うと、胸が痛いです。――シエルより。
書く事があまりないなあと溜息をつき、シエルは便箋を封筒に入れる。なにせほぼ戒厳令に等しい状況だ。せいぜい窓から見た街の空気と、読んだ本の感想ぐらいしかしたためる内容がない。それにしてもジュードの人たちは、こんなに苦しい思いをしたというのに、なぜ同じような事を別の人々にもするのだろうと不可思議で仕方がない。人の痛みを知った者は、優しくなれるものだとシエルは教わって育った。だけれどジュードの人たちがやっている事といえば、他人の住処に土足で上がり、銃で脅して奪い取るという、戦争のまがい物そのものだ。シエルたちが何をした訳でもない。彼らを殴った訳でもなければ、大戦の片棒を担いだ訳でもない。にも関わらず一方的に何もかもをも奪われるというのは、傍から見れば公平な話なんかではありえない。郊外に家のあったシエルたちはまだいい。聖地そのものに住んでいた人たちは、今じゃ鉄条網の側でテント暮らし。ここに大戦を逃げ延びたペリシテ人も加わるから、本当はアークに書いた返事以上に、この界隈の治安は宜しくない状況に陥りつつあった。
だけれどアークに心配をかけたくなかったシエルは、精一杯取り繕った文章で末筆を結ぶと、封筒に入れたソレを、ずっと窓際で待っていてくれたケシェトの脚に結わえてあげた。
「行ってらっしゃい、ケシェト」
そうして飛んでいく伝書鳩を遠目に、シエルは手を振って見送る。たぶん次の返事が来るのは、安息日明けの日曜日。アークの立場も考えたら、これからは文通の頻度も減らさざるを得ないんだろうなと肩を落とし、シエルはまた本の世界に沈んでいった。――今日もまた、遠くでは銃声が響いている。
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