何だか僕らは全てを忘れてしまうね

時おり世界はとても残酷かなと思うときもあるけれど、結局のところ全ては忘れ去られていくのだろう、と。
そういうことを、思う。
そして、それこそが残酷なことなんじゃあないかなあとも、思ったりする。
そういえばボリス・ヴィアンの小説に登場する恋人は水仙じゃあなくて、睡蓮の花を心臓に咲かせて死んだのだっけ。

「百億年前はきっとここは海の底だ。つまらなそうだね、こんな話。もうお終いにするけど、つまりこういうこと。風景や歴史や世界のほうが僕らよりずっと忘れっぽいということ。百年後のこの場所には君もぼくももういない。僕たちは世界に忘れ去られているんだ。それって納得できる?」
岡崎京子『ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね』

だが、どうなんだろう。
人間存在は超越性を希求し、特権的な生の証明を求めたりもする。
それこそが、自意識に生じた亀裂の求めるテロルなんだろう。
僕たちは焼け焦げるような超越的瞬間めがけて決死の跳躍だってするかもしれない。
でも、それらは、忘れ去られる。
それは受け入れるというよりも、どうルサンチマンに決着をつけるかという問題なのかもしれない。
ルサンチマンは過去すら灼熱の感情で溶かし別のものに作り替えるかもしれないだろう。
だとすれば、備忘録は有効ともいえる。


「昔のほうがよかったって本当に思ってるの」
「当たり前だ、たった六百万年前には
このあたりにだって、ティラノサウルスやトリケラトプスが歩きまわっていたんだぜ。考えただけで、ぞくぞくしてくる」

ちなみに地球ができてからまだ、たったの四十五億年だ。