大変に、興味深い
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作家の値うちというものは、その作家が書いた作品の価値できまるように思う。
では小説の価値というものは、いかにして決まるのであろうか。
そもそも、価値というものは、いかにして決まるのかについて、考えてみよう。
経済学の授業にでれば、多分最初に習うのが、価値には交換価値と使用価値があるということだ。
市場の、需要と供給のバランスによって交換価値(価格)が決定され、それを使用する際にどれほど役立つかということで使用価値が決定される。
そしてもしマルクス経済学の授業なら、労働価値についても教わるだろう。
つまり、その財を生産するための労働が、価値を決めるという考え方だ。
小説にあてはめてみると、どうだろう。
まず、交換価値についてであるが、小説というものは大変に特異な性質を持っている。
再販制度があるため、市場の需給バランスと関係のないところで、本の価値は決定される。
つまり、その本がどれほど多くのひとから求められていても、価格は同じなのだ。
本について、交換価値という概念を当てはめるのは難しい。
では、使用価値はどうだろう。
辞書や辞典、マニュアルには判りやすい使用価値があるが、小説の場合は難しい。
つまりそれは内的なものであり、主観的にならざるおえない。
客観的な評価基準を、成立させにくいところに小説はある。
使用価値についても、小説にあてはめると成立させるのは困難だ。
それならば、労働価値はどうか。
小説は、印税というシステムで成り立つ。
つまり、小説を書くという労働に対する対価は支払われない。
小説を書くのに、10人月かかろうが、100人月かかろうが、人月単金で計算して工数に対する対価は支払われない。
つまり小説については、労働価値は存在しないというべきである。
では、一体小説の価値はどのように決定づけられるのか。
おそらく、格付けというシステムがあるのではないかと思う。
アートの三分類、というものがある。
それを小説にあてはめることも、可能だ。
・トラディッショナルフィクション
・オーソライズドフィクション
・コンテンポラリィフィクション
さて、このうちコンテンポラリィフィクションについてであるが、驚異的なことにわたしたちの暮らすこの極東の島国には、現代小説というものが存在しない。
つまり、バロウズやジョイスというものは、文学の世界においては存在しなかったことになっている。
驚くべきことに、この島国で文学というものが発生して以来、ただのひとりも文学の新しい可能性に向かって実験的な創作を行うということをしてこなかった。
だから、この島国にある文学は全てトラディッショナルフィクションだと言い切っていい。
19世紀末から20世紀初頭に成立した文学形式を愚直に模倣する以外のことは、一切やっていないのだから、トラディッショナルと呼ぶに値する。
そしてこのトラディッショナルフィクションの中から、オーソライズドフィクションがチョイスされる。
この島国に限って言えば、オーソライズドという行為が小説の価値を決めていると言っていいだろう。
では、いかに小説はオーソライズドされるのか。
例えば、文学賞というものがある。
これは、出版社が売りたいと思っている小説を市場にアピールするためのシステムなので、小説の価値とは全く関係ない。
受賞した小説からは単に、出版社の意志が読み取れるだけだ。
では、他に何があるのか。
格付けは結局のところ文壇や作家クラブという互助システムによってなされる。
この互助システムの元締め的なポジションに石原慎太郎さんはいるんだから、評価が高いのは当然だと思う。
福田さんが、自分の思ったとおりの評価を石原さんの小説につけるのは、もの凄くガッツがいると思う。
そりゃあ、高評価つけるしか無いだろう、と思う。