魔術に取り憑かれた男の最期。

 まず特筆すべきは徹底した一人称小説であること。マジシャンを目指す「俺」の独白体小説であり、場面の仔細な描写に多くの文が割かれていることによって、思わず作品の世界へ没入させられてしまう。そして一人称小説はまた、交通事故で死にかけるも奇跡的に生還して特殊能力を身につけるという今やベタベタのベタに成り下がった舞台装置との相性も大変いい。
 読者は自然に、特殊能力で「俺」がいい目を見るのだなと想像するだろうが、この物語における「俺」はまったく幸せになれていないということもまた印象的であろう。そして読後に残ったもっとも強い印象もまたここにあるのだ。自分に与えられた魔術に気付く前の「俺」がバイト先の店長に怒られるシーンがある。ここはこの作品の中で最も描写に力を入れられたシーンのひとつであり、また筆者の経験に依るであろう強いリアリティがあって、「俺」の絶望感や反発、怒りなどがフツフツと目の前に感じられた。そして「俺」が特殊能力に目覚めたあと、金銭を得て名声を得て女を得て幸福になったはずの「俺」が、今度はテレビ局のディレクターに怒られるシーン。これは言うまでもなくバイト先の店長に怒られていたシーンとの対比であり、つまりは特殊能力を手に入れようが「俺」は以前の取り柄もなく冴えないマジシャン志望のフリーターと何も変わっていなかったのだということを示しているのだ。特殊能力を手に入れようがダメな自分は変えられない、という筆者の深い諦念に満ちた人生観のようなものが滲み出るような結末だ。そして怒りのままに「俺」はディレクターを殺してしまう。筆者の漠然とした怒り、ままならない社会生活への反発が最も現れているシーンだろう。そして「俺」は最期に天使を幻視して(これはこの作品において本当に天使というものが存在するのか後に述べるが)彼らから罰を受けることになる。おそらく筆者は、自分を取り巻くままならない現実に怒りを叩きつけたいと日々思い悩みながらも、そうしてはいけないという強い倫理観や必罰主義を精神の根底に持っているのだろう。だからこそ「俺」はエゴのままにディレクターを殺害したことを許されなかったし能力を奪われるという罰を与えられることになる。ストーリーから読み取れることは以上の通りである。
 では次に本作に含まれるSF的、ファンタジー的要素について書いておきたい。天使のマジックの題の通り、「俺」は天使から能力を与えられたのであろう。最初のシーンで医者に対して「天使を見た」と話していることから、事故の瞬間に天使かあるいはそれらしいものを見たのは確かなのだろう。しかし「俺」は天使を見、尚且つ臨死体験さえしているというのに、その後の生活では淡々としたものなのだ。あるいは生活感がもともと希薄だったのか、夢を見たような気持ちになって忘れてしまったのかはわからないが、ここにこそ「俺」の根本的な性分というか、性質を見るべきだと思う。普通の人間ならばこのような奇妙な体験をすれば多少なりとも騒いだりするものだが、「俺」はその後もマジックのことばかり考えて天使と能力のことは特殊能力に気がつくまで忘れてさえいる。ここまで無意識にマジックというものの魔力に取り憑かれているのだから、人生が狂ったのも頷けるというものだろう。そして、肝心の特殊能力についてだが、私はあえて存在しなかったのだという説を考えてみたいと思う。交通事故にあって脳震盪になるが辛くも生き残った「俺」は、それをきっかけに天使の幻覚を見て、天才的なマジックの才能を得る。物理的に不可能なマジックは妄想の中でしか起き得ないが、「俺」には幼少期から研究し続けてきた数々のトリックに関する知識があるので、無意識においても(というか無意識であるほうが手先の器用さに任せて)マジックを行えてしまうだろう。そして、自分が特殊能力を得ても変わらずダメな男のままであることをはっきり突きつけられたショックと、怒りのままディレクターを殺害してしまったショックとで、彼の中にかかっていた事故以来の暗示が不意に解ける。彼はできるはずもない空中浮遊の能力を使おうとするが、当然妄想はもう働かないので死体は浮かず、彼は正気に戻る。残ったのは人を殺してしまった罪だけであると。本作を安易に天使に能力を与えられた男の物語として読むのは簡単だが、こうして考えてみると解釈の余地はまだまだあるように思う。読む人それぞれに考えを巡らせて欲しい。当レビューの評価が星二つなのは、最も整合性の高い答えを作者として用意されていないらしい(私が読めなかっただけかもしれないが)ことであるが、しかし本作の面白いところはまた、解釈の余地が残されているところであろう。
 魔術に取り憑かれ、エゴで人を殺してしまった男の狂気を、ぜひご一読されたい。