天使のマジック

公的抑圧

天使のマジック

「いやあ、ふつうなら死んでいるところだったんですけどね」

 医者がそう言ってきて、林の体をじろじろと見回した。診察室の中、ベッドの上で横たわっていた。部屋は明るい。白い壁紙に白い蛍光灯、白衣にナース服。全てが白だったので少しうるさかった。診察室も医者が自分の体を見ようとするのも少し不愉快だったのでしかめっ面を見せてやると、医者は少したじろいで、体をじろじろ見るのをやめた。少し優越感を覚えた。仕事柄、ひょうきんな顔をつくるのは得意だ。

「無傷とはねえ、ねえ……」

 吐き出すようにそう言うと、また医者はちらちらと林の体を覗き見た。その度に林はしかめっ面をした。表情と視線のいたちごっこが続いた。根負けしたのは医者だった。医者は林の体を見たい欲求を抑えこむのが難しいようだった。大型トラックに撥ねられて傷一つもないということになれば、被験体をじろじろと見回し、挙句の果てに標本にして、ホルマリン漬けにし、脳みそだけを取り出して死んでも保存し続けたいというのは医者として自然な感情かもしれない。だが、林は見せ物小屋にいる小人ではないというプライドがあった。マジシャンだ。おれは。

「傷がないなら、もういいですか?」

 林はベッドから立ち上がると、あえてぶっきらぼうにそう言うと、黒の上着を取った。商売道具が詰まったトランクも医者から取り返した。医者は困惑している。林が診察室から出ようとすると、いきなり林さん、と呼び止めてきてこう言った。

「あの、何かおかしいところはありませんか?」

「天使が見えました」

 医者は最後まで困惑していた。


 アパートに戻るときに途中、トラックで轢かれたところに寄った。ライブの反応がいまいちだったことに腹を立てていた林は、赤信号であることを無視して横断歩道を突っ切ろうとしたが大型トラックがそこを突っ込み撥ねられた。ふつうなら即死のダメージだったが林はなぜか無傷、軽い脳震盪が見られただけで、病院に運ばれる際にも意識はしっかりとしており一時間ほどベッドで寝たら脳震盪も回復してしまった。奇跡だと何度も言われたし、できれば大学病院に移って精密な検査をした方がいいとも言われた。林はその言葉に「お前を標本にしていじりまわしたい」という意図が透けて見えたので拒否した。

 ようやく安アパートに帰ってきた。あまりにも金がないのでタクシーすら拾えず、一時間歩いて帰ってきた。電車代は今日の半額弁当に変わった。ひもじい思いをした。芸に走る人間はみなこうなるのだろうか。おれが、おれだけが、本当は売れてないだけなのではないか。もしかして俺に芸事をする実力もないのではないか。あの時実家を継げばよかった。今じゃ勘当だものな。弱ったな。さっきコンビニ弁当を買って貯金が後二千円。ライブのギャラが入って来ても一万円になるかどうか。事務所に入ろうかな、そしたら給料制になるのかな。いいや、そんなはずはない。事務所に入ったら俺の才能を使い潰されるだけだ。俺は才能がある。マジシャンとしての才能があると信じたから売れなくても笑われなくても逆に嘲笑われてもマジシャンを続けているんじゃないか。

 林は鳩に餌をやりながらそんなことを考えていた。今年で二十九歳。売れないマジシャンと名乗るのも限界が近づいている。同僚はみんなマジックを諦めた。トリックを生み出すことを諦めてしまった。林は、林だけは唯一売れることを信じてマジックをし続けている。林が自暴自棄な自信を取り戻すと、鳩がくるっくーと鳴いた。首を傾げたまま鳩は「お前にそんな才能があるのか?」と林に問うているように見えた。林は不愉快になって鳩から目を背けると、十年前リサイクルショップで買った電子レンジの音が鳴り、最後まで売れ残っていたまずい半額弁当をかきあげるように食い終わってそのまま寝た。

 翌日は朝からずっとアルバイトだった。スーパーのレジ打ち。世間では売れないマジシャンなどではなく単なるフリーターの扱いを受けている林は、このレジ打ちがうまかった。ピポパポピポパポ、リズミカルなダンスミュージックのようにレジ打ちの電子音がなる。どんな行列でも捌ききる自信があった。つまらない自信だったが、昨日のライブのことを思い出すと、むしろこの程度の自身もないよりはあった方がマシだった。

「おい、あんた今年でいくつになるんだっけ」

 林は四時間も働いて今は喫煙所でロングピースを吸いながら休憩している。マジックのネタを考えるために理科の実験ネタを集めた本を読んでいた。林は頭は悪くなかったが手先が不器用だった。手先が不器用なのになぜマジシャンになろうとしたかといえば、マジックに魅せられたからだとしか言いようが無い。小学生の頃テレビで見たマジック、トリックを見破ろうと何度もビデオテープを巻き戻してじっくり見たが、それでもトリックを見破れなかった。そこからマジックに魅せられた。ずっとマジックのことを考えていた。小学生の頃、朝起きて授業中にも考え、マジックのことを考え、芥川龍之介と答えるところをマジシャンの名前で答えて大爆笑を誘った。やがて自分もマジックを始めた。マジックキットを買って、自分でも簡単ながらトリックを考えてマジックをした。自分でマジックを始めたらすぐにテレビでやっていたマジシャンのネタは分かったが、そんなことはもう問題ではない。マジックをして人を驚かすこと、その魔術に取り憑かれていた。中学校に入ってもマジックを続けた。天才児と呼ばれ、高校に入ってもマジックをしていたが、高校に入るとクラスメイトもみんな無視をした。マジックみたいな子供っぽいことに付き合ってる暇はねえよ、お前も進路のことを考えろ、すみませんねえうちの息子、家に帰っても宿題もせずずっとマジックばっかりでずっと見せてくるんですけど、喜んでいるのはおばあちゃんだけで、そのおばあちゃんも亡くなっちゃったから誰にも見せる相手がいなくなってねえ、すみませんねえ。一度は諦めて地元の私立大学に進学したが、それでもマジックの夢を諦めることができずに大学を中退し、マジシャンとしてデビューした。大学を中退することを伝えた時に実家から勘当を告げられた。

「はい、今年で二十九です。アラサーですね」

 店長に話しかけられたから少し冗談めかして答えた。気に入られたかった。苦労していることを見せると、得があったからだ。今までもそうしてきて廃棄寸前の弁当を貰ったりしていた。だが、この日の店長の態度は違った。

「君さあ」

 店長の声は明らかに激しくなっている。激しく、険しく、誰かを責め立てる声。学生時代、マジックばかり披露していた林を親戚達が叱り飛ばした、あの声色だった。林は反射的に身をこわばらせた。店長の眼光が林の実は臆病な心を貫いた。

「君さ、もう三十にもなるってのにまだマジシャンだの何だの言っているの? いい加減諦めなよ、君さ、向いてないよ。だってもうマジシャン始めて十年でしょ? 十年経ったらふつうは売れるもんなんだよ。それが君はさ、ありがたそうに乞食みたいに弁当を貰って、は、は、は、ってやめてくれよ、君は俺の家来じゃない、君は君でしょ。みっともないよ、正直。雇っているのもしんどいよ。君みたいなどんよりした空気を持ったフリーターなんかいらないよ。なんで君は諦めないわけ? もっと明るくできないの? 君が売れない理由ってのはその雰囲気だよ」

 店長はつばを飛ばしながら一気にまくし立てた。これは本当にヤバイみたいだ、と脳内で警告音がビービーと鳴り響く。林は後ずさりする。煙草がそのまま灰皿にポトリと落ちる。手が震える。汗が流れる。膝ががくがく笑い始める。あんなに人が良かった店長がここまで怒声を上げたことはあっただろうか。今、喫煙所どころか休憩室で待機していた全員が林と店長の方を向いていた。ひょっとしたら休憩室の外まで聞こえているかもしれなかった。

「で、でも……」

 林がなんとか反論しようとすると、店長はすぐさま「あ、休憩時間終わったよ」と告げた。今までと違ってそれはとても冷酷な声だった。お前は今日限りで解雇だ。声色がそう告げていた。

 林は店長のことをにくいと思った。何も大勢の前であんなに激怒する必要はない。恥をかかされた。店長はマジックの魅力をわかっていないんだ。林は激怒した。店長のことを殺そうとも思った。刺す。死ね。

 その夜、店長は自宅で倒れた。勤務時にゴミを拾おうとしてテーブルの角に頭をぶつけたことが原因だった。


 林は完全に意気消沈していた。俺は売れないマジシャンだ。だからといって才能まで否定されることはなかった。店長のことは憎かったが、それにしてももうマジックの努力をする気力も失せていた。圧倒的に立ちふさがる現実になすすべもなく沈み込んだ。

 帰宅して、弁当をまたかきこんだ、完全に解凍されてなかったみたいで随分冷えていた。すぐにでも寝て記憶を消したい気分だったが、そうもいかない、来週のライブに向けてネタを考えなければ……。だからといって、林にはこれといったトリックもなかった。トランプのトリックはライブ向けじゃないし、今更鳩を出してみせたところで面白みもない。大掛かりな物理トリックは難しい。一体どうしようかと悩んでいると数時間が過ぎていた。

 林は一か八かでスプーン曲げをしようと思った。フライパンや鍋を曲げてしまえばインパクトはあるはずだ。さっそくマジック用のスプーンを取り出す。手に握ってじっと集中し、曲げるよう根本をこすり始める。こうして金属疲労を起こして折る、という古典的なトリックだった。ここから鉄板を曲げるトリックのネタを思いつこうとした。だが──

 スプーンが曲がった! 何のトリックもない。金属疲労によって折れるほどまだ力をかけていないはずだ。どういうことだ? 単なる勘違いか、もともと疲労が蓄積していたのか。林は驚いてじっと手元を見ている。何か特別な力でも手に入れたか? いや、そんなはずはないだろう。ただ、これは一体どうして……。

 もう一本、スプーンを取り出した。曲がった。曲がった! 林は驚きに満ちた表情を浮かばずにはいられない。どうやらおれには本物の力が手に入ったらしい! しかし原因は何だ? 一体なぜこんなことになっている? トラックに轢かれたからか? いや、そんなことはどうでもいい……

 フライパンを曲げた。鍋も曲がる。曲げられないものはなかった。試してみるとテレポーテーションのようなものも使えるようだった。折れ曲がったスプーンを手を使わずにテレポーテーションでゴミ箱の中に移動させた。成功した。これはマジックじゃなくて魔術だ! 林は確信した。これで俺も売れる、どうしたってトリックは解けないんだからな。難攻不落のマジシャンだ。

 林は満足して寝た。ネタを考える必要はない。超能力が使えるんだ、ぶっつけ本番でなんとかなるさ。いや、待て。もう超能力が使えるんだからいちいちあんな小さいライブに出るのはやめて直接テレビ局に売り込めばいい。俺は稀代のマジシャンになれるぞ……。

 翌日、林はテレビ局に自分を売り込んでいた。電話で自分はとてつもないマジックを使える。絶対に視聴率が取れる。驚かなければなんでもする。だから一度会ってくれないか、ということを伝えると、テレビ局関係者は嫌がりながらも面会を認めた。電話を始めて二時間が経っていた。林はすぐさまテレビ局に向かった。なけなしの金でタクシーに乗り込んで、大急ぎで向かう。途中、運転手に職業を尋ねられたのでテレビに出る仕事だと伝えると、運転手はテレビはあまり見ないもので、ご存知なくて申し訳ないと自分の不明を詫びた。なに、テレビに出るのはまだ先のことだがね。

 テレビ局について警備の人間に要件を伝えて入館証を手にし待ち合わせ場所の会議室まで向かうと、中に一人、トリックシステムという番組のディレクターを名乗る男がいた。

「こんにちは、林明雄さんですよね?」

 ディレクターはピンクのカーディガンを首に巻いて白の無地に青のストライプが通ったシャツを着て室内にも関わらずサングラスをかけて帽子をしていた。努めて業界人を装っている風に見えて林にはとても滑稽だった。

「はい、そうです」

 林はトランクを会議室のテーブルに置くと、O字型のテーブルの対面に座り、トランクをテーブルの上に置いた。ディレクターは首を傾げてこういった。

「マジックは見せてくださらないのですか?」

「はあ、マジックと言いましてもいろいろとありまして、わたくしは当意即妙、いろいろなマジックを瞬時にやりますので、これが見たいと言ってくださりましたら、やりますが」

 ディレクターは難しい表情をした。こいつはハッタリをおれにかましてきているのか? 林はそんなディレクターの心情を垣間見て笑いがこみ上げてきた。あれ、でも俺なんで人の心が見えるんだ。

「じゃあ、まず基本的なスプーン曲げからやってもらいましょうかねえ」

「はい、スプーン曲げですね」

 林は立ち上がるとトランクの中からフライパンを取り出した。まだ折っていないフライパンだ。ディレクターは目を丸くした。

「あの、スプーンを……」

「いえ、見ていてください」

 林が両手でフライパンの柄を持つと、瞬時にフライパンが折れ曲がる。ぐにゃぐにゃ。やがて柄から鉄板が離れ、フライパンは二つに分離してしまった。ディレクターは口をあんぐり開けて呆然としている。林は更に驚かせようと自分の座っていた椅子を空中に持ち上げる。ひとりでに宙を浮く椅子とフライパンだったものたち。ディレクターはこの世のものとは思えないものを見る表情でこちらをじっと眺めている。サングラスはもう外していた。

「凄い」

 はっきり言うのではなく思わず息が漏れ出たかのようにそう言うと、ディレクターは立ち上がって拍手した。目は輝き小刻みな腕の運動は止まる気配はない。これはマジックに魅せられた人間の反応だった。林は満足した。更にテレポーテーションを疲労すると、ディレクターはもう腰を抜かしたかのような反応をして心底驚いたようだった。徐々にそのトリックが気になっていくのが林には手に取るように分かる。

「で、トリックはどうなっているんでしょう?」

 ほら、来た。林は得意気な笑みを作り、人差し指を唇の前でチッチッと揺らして、こう言った。あまりにも古典的なしぐさだったが、本物の魔術を見せた林には似合ってもいた。

「企業秘密です」

 翌月、マジックの緊急特別番組が編成された。林はそこで見事にマジックを成功して見せた。フライパンを曲げ。人体切断、トランプマジック、そして最後は自らのテレポーテーション。すべてうまくいった。共演した出演者からも拍手喝采を浴びた。目がキラキラと輝いていた。これぞマジックをやる喜び、これぞ生きる喜び。ある女性共演者などは、最後、林とメールアドレスを交換したほどだった。数時間、テレビ局のスタジオで行われたマジックショーは出演者やスタッフの心を虜にしたばかりか、日本全土にも衝撃を与えることとなった。

 天才マジシャン誕生、ミスターマジックを超えた、ネオマジック、新世代マジシャン登場、スポーツ新聞や週刊誌を始めとしたマスコミに大きく取り扱われた。林はそれを見るたびにニヤついては、鏡の前で付け髭の角度をチェックし、次に服装をチェックし、街に出くわした。自分はもう有名人だ。売れないマジシャンなどではない。

 依頼があればすぐさまに飛びついた。様々な依頼を受けた。同じテレビ局の番組・ラジオでもできるマジック・マジックとは直接関係ない企業イベントでも披露したし、自分がレギュラー出演のマジック番組まで始まった。その全てで観客を魅了し、マジックをやる喜びに林の体は埋め尽くされた。特に小中学校でやるマジックは特別だ。観客である小さい子供達には本物の魔術のよう見えて、特に小学生などはマジックのトリックが気になってしかたがないだろう。だが教えてやらんよ。だって俺もよくわかっていないのだから。軽快に鳩を出しながら林はそう思った。間違いなく林の人生の絶頂だった。自殺寸前に追いやられ、二十九歳にもなって売れないマジシャンでいつまでもフリーター生活をし、バイト先の店長から雰囲気が暗いし雇いづらいと事実上の解雇通知を浴びた林の姿はそこにはなかった。そこにいたのはマジシャンだ。林明雄というマジシャンが、自信に満ち溢れ、社会的成功も収めた立派な青年がそこには立っていた。林の胸から、鳩がまた一匹顔を出した。


 一年が過ぎた。

 林はテレビ局に呼び出された。最初の番組を担当してくれたディレクターだ。林はその時付き合っていた彼女とベッドで二人寝ているところだった。ピンク色の壁紙。ラベンダーのにおい。絡まる素足と素足。彼女が抱きつく腕を体から解いてかかってきた電話に応答した。

「はい、もしもし」

「ああ、林さんですか」

「ええ、そうですが。ああ、あなた秋山さんですか」

「はい、そうです。あのちょっと、番組のことで話がありまして、テレビ局に来てもらえませんかね?」

「なんですか? 電話でなく直接会わないと聞けない話ですか? マジックのネタを考えなきゃいかんし、手短に済ませてもらいたいのですがね」

「はい、すぐに済みますので、ぜひ顔を出してください。場所は第四会議室ですから」

 林は舌打ちをしながら通話を打ち切った。会って話すこととはなんだろう。番組のスペシャルか? でもそんなこと、前も電話で伝えていたしな……。林は疑問に思いながら着替えた。いつもの黒い服。付け髭。有名人対策としてサングラスもかけた。変装してマンションを出ると、すぐにタクシーを捕まえた。テレビ局の名前を告げる。タクシー運転手は無言のままだった。林は通行人を眺めながら、窓に自分のサインを指でなぞり続けた。

 テレビ局について第四会議室へ向かうと、そこには番組のディレクターがいた。ディレクターはいつもの格好で林を待ち受けていた。頬杖をついて何か書類を読んでいるようだった。林が入ったのにもしばらく気づかなかったが、声をかけてようやく気付いた。ディレクターは書類から目を離すと、O字型のテーブルの対面に座ることを促した。そこには一枚の書類が置いてある。林はサングラスと付け髭を取りながら、それを眺めた。

「それ、見てもらえませんか」

 ディレクターが挨拶もなしにそう言った。林は近くの椅子に腰掛けて書類を手にとって視線を落とした。その先には「視聴率の遷移」という題名の折れ線グラフがあった。グラフがずっと五に近いあたりを這うように続いている。これが自分の番組の視聴率だということに気づくまで、林の中でラグがあった。しばらくしてから顔を上げると、ディレクターがじっとこっちを見ている。林と目が合うと、ディレクターは演技ではなく、本当に大きな溜息で、こう言った。

「残念ながら、打ち切りです」

 残念ながら、打ち切りです。林はその言葉の意味が一瞬理解できなかった。打ち切り。打ち切りとは何だ……? 番組が終わること。誰の番組? 俺の番組。俺の番組が打ち切りで終わる。

「打ち切り……?」

「言葉の意味が分かりませんでしたか? 打ち切りというのは、つまり」

「いや、言葉の意味は分かります。でも、打ち切りって、えっ? だって、なんで」

 林は茫然自失とした。手が震えているのか、ガサガサと書類が音を立てている。表面に皺が入った。力強く持ちすぎて端の方から徐々に破けていっている。林は怯えた子供のようにディレクターを見た。反対に、ディレクターの視線は険しい。見る、というよりは睨むに近い。

「なんで、って、書いてあるだろうが!」

 ディレクターは怒鳴り散らした。大きな声だった。会議室中に響いた。林は大げさに驚いて、勢い余って書類がびりびりに破けてしまった。

「視聴率はずっと五パーセント続き。これ、一応ゴールデン番組なんですよ」

「でも、でも、視聴率が低くなる、理由が……」

 ディレクターの顔が怒りの余り朱色から青色に変わっていっている。林はその光景を見て更に恐怖した。不謹慎だが、テレビ局に来る前にトイレを済ませてよかったと思った。林は完全に恐怖していたが、ディレクターはそれにも関わらず怒鳴り散らす。

「あんた、何にもしなかったでしょうが! ずっと同じような超能力ばかり。そりゃ、視聴者も飽きますよ! いいや、視聴者が飽きる前からっずっと飽きていたね、ずっと毎週フライパンのような鉄板を曲げていっているだけ! 力自慢大会じゃないんですよ、れっきとしたマジック番組だ! それに関わらずあなたはマジックを魅せようと言う努力をしなかった! 視聴者が興味をもつようにクイズ番組にしようといった時、あんたなんて言いました? そんな低俗な番組は嫌だって、なんですかあれは! あれでウチのバラエティ班は完全に切れましたよ。低俗な番組って、低俗な番組にせざるを得なかったのはあんたの努力不足じゃないか! あんたがどういう凄いマジックを持ってようが構わんが、なぜ新しいマジックを作れるように努力をしない? あんた、番組のことどうだっていいと思っているのか!」

 林の頬に涙がつーっと下っていった。ディレクターの余りの怒気に圧倒されたからだ。だが、そんな涙を見てもディレクターの口調は厳しくなる一方だった。

「はっ、今頃泣いてどうにかしてもらおうたってそうは行かねえよ。バラエティは甘くねえんだ。あんた、海外ロケだって行きたくない行きたくないとダダをこねやがって、ちょっと人気が出たぐらいなのにたかがマジシャン程度が調子に乗って、尊大な態度を取ってふんぞり返りやがって、ええ、何が稀代のマジシャンだ? あんたみたいに世の中なんでも舐めてるような人間が成功する訳ねえんだよ。さっさと消えてくれ。顔を見るのも鬱陶しい!」

「た、たかがマジシャン程度?」

「ああ、そうじゃねえか、あんたらみたいなたかがマジックができる程度で鼻にかけて自慢気に街を堂々と歩くいやらしい感性の持ち主のくせにマジック以外は何にもできねえような連中が、たかがマジシャンじゃねえか!」

 今度は林の逆鱗に触れた。林は目の前が真っ赤になった。殺す。こいつを殺さねばならない。たかがマジシャン。俺が、俺が二十年も努力してきたものを「たかが」だと? 許さない。こいつだけは絶対に許さないぞ。こいつだけは殺す! こいつだけは!

「ぎゃ、ぐ、げご」

 気がつけば、林は念力でディレクターの首を締め上げていた。ぎゅっぎゅっぎゅっ、林は自分の手で輪っかを作り、それを徐々に狭めていくと、ディレクターの首もぎゅっぎゅっぎゅっとおとを立てて締められていく。声にもならない声を上げながら、まるで溺れたダイバーのようにその場をもがきながら、ディレクターはしかし最終的には息絶えた。ざまあ見ろ、俺のことを、マジックのことを馬鹿にするからそうなるんだ。お前だけはゆるさねえ。殺してやった。どうせバレねえ。なんてたって俺は超能力者だ……ふふ、ふふふふ……。

 その時だった。

 林の周りが明るく光り始めた。白く発光する場に林は「な、なんだこれは」と困惑すると、天井を通り抜けるようにして、空から、天使達が舞い降りてきた。林を取り囲むように、微笑を浮かべながら、ぐるぐる回っている。

 それは天使としか形容のしようがなかった。赤子ほどの肉体に西洋風の顔立ち。背中には翼が生え、金色にくるっとパーマしている髪の毛の上には光輪がしっかりとあった。

「殺したな」

 天使がそう言った。ソプラノの声だった。ウィーン少年合唱団のような、美しく、どこまで澄み渡るかのような声だ。林は事態についていくことができない。どういうことだ? これは

「お前はお前の能力を使って人を殺めたんだ」

 今度は別の天使が言った。だけどどの天使だろう。すべての天使が同じ顔をして同じほほ笑みを浮かべている。よく見ると、全員同じ姿形をしているし、声まで同じだ。

「答えろ、殺したんだな」

 林はようやく答えた。何か、そうさせるような強制力があった。林は徐々に弁明する気分になっていた。事態はよくわからないが、よく考えればここは裁判所みたいなものだ。ここで俺の無実を証明するのだ。

「あ、ああ、殺したさ。でも何が悪い? まずあいつが、俺の、俺のマジックとマジシャン人生を否定したのが悪いんじゃないか! 俺の何が悪いんだ! 答えてみろ!」

「お前に答える義務はあるが質問する権利はない」

 今度もおそらく別の天使だろう。いや、この天使は俺の幻覚なのか? 実はこれは俺の心による問答なのか? 林は徐々に錯乱していた。自分の立っている場がどこだか分からなくなってきていた。俺は誰だ? 誰も答えられない。場がサイケデリックな色合いに包まれる。赤と青と黄が複雑に配色されそれが回転している。林は涙を流している。なんだ? これは? 薬物中毒者が見る夢のようじゃないか。

「お前はその能力を使って人を殺した。これは重大な違反である」

「罰則を」

「そうだ、罰則を。罰則を」

「やめてくれ、やめてくれ!」

 ソプラノの声が林の周りで再生される。ぐるぐると輪唱のようになり気持ちが悪い。林はその場で嘔吐した。

「人を殺めたからねばそれと同じ罰を受けねばならぬ」

「だが、我々が手を下すわけにはいかぬ」

「だから、お前の能力を奪う」

「さらば、林明雄、なかなか楽しい一生だった」

「あの夢の通りにやっていればよかったものを」

 輪唱するソプラノの声が消えてなくなった。サイケデリックな色合いも消えて、ここは第四会議室、俺は林明雄だ。だけど、今のはなんだ? 何が起きた? 能力を奪う? どういうことだ?

 林は試しに手のひらを泡を吹いて死んでいるディレクターにかざした。そして、念力でディレクターを持ち上げようとした。だが、浮かばない。浮かばないのだ! 能力が奪われた! あの天使達に能力を奪われた! 林はまた錯乱状態に至りながら、ほぼ泣き叫んで他の超能力を試した。テレポーテーションは? 人体切断は? 精神感応は? すべてダメだった。何にも通用しない。俺の能力は? 俺の能力はどこだ? 俺の人生は? 今までのマジシャン生活は?

 返してくれ! 天使よ、俺のマジックを返してくれよ!

 林はディレクターの横でうずくまり、泣き続けていた。


「続いてのニュースです。先日、人気マジシャンとして活躍していた林明雄容疑者が、日興テレビのディレクターの秋山俊さんを殺害した事件についてです。新たな供述が入って来ました。林容疑者は天使が見えた、天使が見えたんだ、と泣き叫びながら供述をしていることが分かりました。警視庁前から中継です。大葉アナ──」

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